唐崎の松は花よりおぼろにて

忘月忘日 大阪で開かれた学会に参加したついでに近江路を探索してみようと計画を立てた。吹田から名神高速に入るところが複雑で間違えたが、何とか京都方面に向かって走り出すことが出来た。
  ♪昔ながらの山桜
   匂ふところや志賀の里
   都のあとは知らねども
   逢坂山はそのままに
逢坂山の辺りでさっと霧雨が通り過ぎた。今日の最初の訪問地は義仲寺である。
   義仲寺へ急ぎ候初時雨  一茶
大津市に入って義仲寺には簡単に辿り着くことが出来たが、駐車場がない。仕方がないので直ぐ近くのCASAに停めた。狭い敷地に朝日堂、翁堂、無名庵等幾つかの建物があり、中央に義仲公の墓と芭蕉翁の墓が並んでいる。義仲公の戒名は徳音院殿義山宣公大居士である。芭蕉の木が何本かあり、句碑が
   行春をあふミの人とおしみける  芭蕉
   古池や蛙飛びこむ水の音     芭蕉
   旅に病で夢は枯野をかけ廻る   芭蕉
   木曾殿と背中合せの寒さかな   又玄
等全部で19ある。俳聖かるた、芭蕉真筆の色紙、絵馬を買い、芭蕉翁の墓と木曾殿の墓に線香を手向けて義仲寺を後にし、三井寺に向かった。
 三井寺は天台寺門宗の総本山で園城寺というのが正式な名前で、広大な寺域を有している。餓になったので門前にある「風月」という店に入って蕎麦を食べた。教科書にも載っている有名な店らしいが蕎麦の味は論評の対象にはならない。しかし、これが京風の味かも知れない。蕎麦だけでは飽にならなかったので、葛切りを食べた。葛切りは大きな氷の上にほんの少し乗っているだけだった。これも京風であろう。
 国宝の金堂、重要文化財の三重の塔や仁王門等は流石に風格があるし、左甚五郎の作と伝えられる龍の彫り物がある閼伽井屋は天智・天武・持統3天皇の産湯の井戸といわれていて今でもボコボコと音を立てて水が湧き出している。近江八景の一つとして有名な三井の晩鐘を撞いてみた。1602年に鋳造されたこの鐘は一撞き300円だが、実に立派な音色である。俵藤太秀郷が百足退治をしたお礼にもらって三井寺に寄付した鐘を弁慶が比叡山まで引摺って行ったという伝説のある「弁慶の引摺り鐘」もあり、面白い説明のテープがかけられていた。
   花散りて又しづかなり園城寺   鬼貫
 比叡おろしの時雨がさっと通り過ぎる中を唐崎の松を見に行こうと思って唐崎公園に車を停めたが、それらしき松が見当たらない。作業をしていたおばさんに聞いてみたが「何処やろか」と要領を得ず、おじさんが「直ぐその先や」と教えてくれた。唐崎神社の境内にある現在の松は天正19年に植えられた2代目とのことだが、既に3代目、4代目、5代目、・・・、と跡継ぎの候補がたくさん育っている。特に、3代目は随分大きくなっているが2代目が丈夫でなかなか順番が回ってこないようだ。期せずして皆で「○○○○みたいだ」と叫んだ。
   ささなみの志賀の唐崎さきくあれど大宮人の船まちかねつ  柿本人麻呂
   唐崎の松は扇の要にて漕ぎゆく船は墨絵なりけり      紀貫之
の歌碑と
   唐崎の松は花よりおぼろにて   芭蕉
の句碑が建っている。
 更に北上して、堅田の浮御堂を見に行った。臨済宗大徳寺派の寺で海門山満月寺である。竜宮城の入口のような門をくぐると湖上に浮かぶ浮御堂が目の前に見える。岸辺に
   鎖あけて月さし入れよ浮御堂  芭蕉
等の句碑があり
   湖もこの辺にして鳥渡る  虚子
は水中に立っている。
 直ぐ隣に大山祇命を祀った伊豆神社がある。小さな神社であるが、本殿の扉の前に一対の狛犬が置かれているのが珍しい。左側の犬の頭には角が一本ある。
 堅田の町を歩いてみた。軒先に燕の巣が多いのが目に付いた。「落雁元祖 久保菓舗」という看板が出ている小さな店で落雁を買って食べながら歩いた。一休和尚修養地と大書された臨済宗大徳寺派の祥瑞寺には句碑
   朝茶飲む僧静かなり菊の花  芭蕉
がある。
 真宗大谷派の光徳寺には蓮如上人に帰依した堅田源兵衛の墓と堅田源兵衛父子殉教之像があり源兵衛の首もあると書かれている。堅田源兵衛は三井寺に預けた御真影を返してもらうのと引き替えに自分と息子の生首を差し出したという。首を見たいと思ったが生憎坊主が不在だった。来年が蓮如の500回忌に当たるとのことでその主旨の看板やポスターがあちこちに見られた。
 裏通りを歩いていたら其角邸跡(其角の父竹内東順の出生地)があった。夕陽山本福寺は応仁の乱の時蓮如が親鸞上人の御影像をもってきた寺だという。真新しい本堂にはジジババの団体が次々と訪れて坊主はその応対に忙しそうだった。芭蕉はここで病気になり
   病雁の夜寒に落ちて旅寝かな
と詠んでいる。その句碑は寺の裏手にあり、表には芭蕉の真筆を句碑にしたという
   唐崎の松は花よりおぼろにて
があり、坊主は「真筆はこれだけです、よそのは真筆ではありません」と強調していた。
  ♪堅田におつる雁がねの
   たえまに響く三井の鐘
   夕暮れ寒き唐崎の
   松にや雨のかかるらん
 坂本に戻って先ず明智光秀の墓がある天台真盛宗の総本山西教寺へ行ってみた。由緒書きには「聖徳太子の創建と伝えられ1486年に延暦寺の僧真盛が復興した云々」と書かれているが、真盛は当山に入山5年後に比叡山に修行に出され雌伏20年の後当山に戻って乗っ取りに成功した、と読めば実に分かり易い。
 光秀の戒名は秀岳宗光大禅定門、光秀夫人で細川ガラシャの母熈子の戒名は福月真祐大姉である。謀反人とはいえ些か寂しい気がする。墓の隣に句碑
   月さびよ明智が妻のはなしせむ  芭蕉
がある。蚊が多くて大変である。
 次に滋賀院門跡へ行ってみた。「慈眼大師南光坊天海が後陽成天皇から下賜された京都北白川の法勝寺をここに移築し、後に後水尾天皇から滋賀院の号を賜わった。江戸時代末まで天台座主となった皇族代々の居所であったため高い格式を誇り、滋賀院門跡と呼ばれ、延暦寺の本坊らしい堂々とした外構えを見せている」と物の本にある。天海の廟である慈眼堂があり、外には新田義貞、後水尾天皇、東照大権現、桓武天皇、後陽成天皇、清少納言、和泉式部、紫式部等の供養塔が並んでいる。句碑
   叡慮にて賑ふ民や庭かまど  芭蕉
がある。鉄筋コンクリート建ての新しい建物の中から勤行の声が漏れていた。
 直ぐ近くに官幣大社日吉神社があり、その少し下には伝教大師の生誕地生源寺があったが閉門後だった。境内には伝教大師産湯の井戸があり水が掘割を流れ落ちていた。暮れかかった参道を比叡山高校の生徒達が連れ立って帰って行った。
 宿へ向かう途中で「折角だから近江牛を食べよう」ということになり、教科書で「かど萬」という店があることが分かったので、ナビゲーターをセットして少し引き返し、牛刺しとすき焼きを食べた。
 今夜泊まる「ニューびわこホテル」は新しいのでナビゲーターが知らないが、国道1号線沿いで瀬田駅から3分という説明で簡単に見つけられた。経営の合理化のせいで値段は安いが部屋はなかなかに快適である。

 朝目が覚めて軽く朝食を済ませて出発した。素晴らしい晴天である。先ず瀬田の唐橋へ行き、滋賀県青年会館に車を停めて橋を渡ってみた。東詰には俵藤太秀郷を祀る勢多橋龍宮がある。
   むかで射し昔語りを旅人のいひつき渡る瀬田の長橋  大江匡房
   五月雨にかくれぬものや瀬田の橋  芭蕉
「急がば回れ」の語源である
   もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋  宗長
の歌碑がないかと聞いてみたが分からなかった。物の本によれば「当時、京都へ向かうには、矢橋から琵琶湖を横断する海路の方が瀬田の唐橋経由の陸路よりも近くて速いのだが、比叡山から吹き下ろされる突風(比叡おろし)により危険な航路だった」という。
 石山寺へ行って公営駐車場が600円であることに先ず驚いた。見れば不必要に管理人が大勢いる。これぞ福祉の典型である。門外に句碑
   石山の石にたばしる霰かな  芭蕉
がある。池に巨大な鯉がいた。これ以上大きくなれば池の中で向きを変えることが出来なくなるのではないかと思われる程大きい。本堂に「紫式部の間」があるが、狭くて薄暗い部屋である。句碑
   あけぼのはまだ紫にほととぎす  芭蕉
がある。紫式部がここで源氏物語を執筆したといわれているが、昔は寺は女人禁制ではなかったのかしら。又、こともあろうに寺でぽルノ小説を書いたというのは本当かしら。1194年の建立という日本最古の多宝塔は1階が正方形、2階が円形である。
  ♪瀬田の長橋右に見て
   ゆけば石山観世音
   紫式部が筆のあと
   残すはここよ月の夜に
 芭蕉が滞在したという幻住庵を訪ねてみようと思いナビゲーターをセットして辿り着いたところは住宅地の真ん中だった。“幻住庵”を洒落た積もりかも知れない。外にいた若いお母さんが丁寧に道を教えてくれたので本当の幻住庵に行き着くことが出来た。石山寺の近くだった。駐車場からの長い石段の参道には芭蕉の句碑がたくさんある。途中に「とくとくの清水」があり
   我宿は蚊のちひさきを馳走かな  芭蕉
の句が書かれている。芭蕉は元禄3年4月にここに入庵したという。当時の幻住庵跡に句碑
   先ずたのむ椎の木もあり夏木立  芭蕉
がある。大津市観光協会主催の「芭蕉を訪ねて 俳句コンクール」が10、11の2ヶ月間開催されていて、本福寺、浮御堂、西教寺、唐崎神社、円満寺、三井寺、義仲寺、幻住庵、石山寺、岩間寺に投句ポストが置いてある。
 近江八景は「の瀬田唐崎は粟津堅田の駕籠比良石山矢橋つけて三井」であり、瀬田、唐崎、堅田、石山、三井の5景を訪れた。粟津は特に「ここが粟津の青嵐」という場所があるわけではなく石山駅周辺にある粟津、青嵐の一帯を指すらしい。そこは石山寺や幻住庵への行き帰りに通ったから、訪れたことにしていいだろう。とすれば、今回は6景を訪れたことになる。残りの2景は次回の楽しみにしよう。
 国道1号線を近江八幡へ向かう途中、草津で「元祖 うばがもちや」の看板が目に付いたので寄って姥が餅と月見団子を買った。
  ♪彦根に立てる井伊の城
   草津にひさぐ姥が餅
   かはる名所も名物も
   旅の徒然のうさはらし
鉄道唱歌に登場する名物は姥が餅だけであるから、さぞかし美味しいに違いない。
 豊臣秀次の城下町近江八幡へ行き、昔の警察署を転用した郷土資料館、歴史民俗資料館を見学し、隣にある西川家住宅に寄ってみた。資料館はかなり混雑していたし、西川家では着物の展覧会が開かれていて賑やかだった。日牟礼八幡神社前の八幡堀を歩いてみた。この堀は秀次が八幡城築城と同時に構築したもので、城の内堀であると同時に琵琶湖を往来する商船が八幡に寄港し近江商人の活動に貢献したという。堀沿いに古い家並みが残っていて、堀端で絵を描いている人が何人もいた。
 滋賀県立安土城考古博物館には安土城に関する資料が多数展示されており、隣にある信長の館には1992年のセビリア万博に出品した安土城天守閣5、6階の実物大模型が展示されている。敷地内に明治9年に建築された柳原学校校舎が移築されている。
 安土城趾に行き羽柴秀吉の屋敷跡と推定されている場所を見た。前田利家や徳川家康の屋敷跡はまだ発掘調査がされていないらしい。
 暗くなりかけた道を彦根に向かった。今夜の宿は彦根藩のゲストハウス八景亭である。ナビゲーターの指示に従って彦根城の中に入り木々の間を縫ってどんどん奥まった方へ進んで行く。まるで“殿の招きの月見の宴”に行くような気分である。行き止まりになったところに八景亭があった。木々と池に囲まれた平屋造りで、通された部屋は池に浮かぶ10畳間と3畳間である。天井は葦簀張りで、大きな金屏風に色紙がたくさん貼ってある。今夜は夕食の客は何組かあったが、泊まり客は我々だけである。威勢のいい御老女様から「冷めるといけないから先にお食事を召し上がって下さい」といわれそれに従った。芋満月・飛龍頭・白魚の前菜、鯉の洗いと水前寺海苔、松茸の吸物、里芋・きぬざやの煮物、海老・茄子・ししとうの天麩羅、鮎の塩焼き、鴨のロースト・さわらの照焼・茄子の田楽・アスパラガス、松茸と三つ葉のお浸し、柳川、漬物、柿と葡萄。鮎の塩焼きは「焼きたてですから」と御老女が鮮やかな手つきで骨抜きをしてくれたが、酢をかけたのには驚いた。
 今夜は池の向こう岸でフルートコンサートが開催されている。前半が終わったところで雅楽の楽隊を乗せた船が漕ぎ出されてきた。先ず我々の部屋の前まで来て歓待してくれてからおもむろにコンサートの方へ進んでいき、暫く停泊して優雅な楽を奏で拍手に送られて再び我々の部屋の前を通って帰っていった。池には白鳥が2羽優雅に泳いでいた。
 今日は陰暦では8月13日、十三夜である。隈無く晴れて、池に映る月が素晴らしい。従7位上の身ではあるが殿様の気分で庭園を散歩してみようと思う。至る所に「彦根城 観月の宴 虫の音を聞く会」と書かれた大小の灯籠がある。「虫の音を聞く会」は先週だったとのこと。通路に30本程杭があると思ったら竹筒で中に蝋燭が灯されていた。池に架けられた橋の上に先程の雅楽の楽士がいたので一緒に写真を撮った。池越しに見る山上に彦根城の天守閣が浮き上がっている。
 「名月や池を巡りて夜もすがら」というわけにもいかないので、一回りして帰ったら、布団が敷かれていた。これが滅多に見られないような煎餅布団である。「殿の招きの煎餅布団」というべきか。かつて殿の招きの賓客達はこういう布団に寝たのかしら。草津で買ってきた月見団子を食べて2日早い中秋の名月を祝ってから風呂に入った。風呂や便所はタイル張りであるが、どうせ現代風に改造するならもっと使い良くすればいいのにと思うのだが。風呂からあがって、煎餅布団の上で壮大な気分で寝た。

 朝目が覚めて、カーテンを全て開けたら、庭園が実に素晴らしい。昨夜からいる2羽の白鳥の他に青鷺が数羽庭石や松の木にとまっている。「朝食は8時半」といっていた御老女が7時40分に登場した。そういうこともあろうと万全の備えをしていたので慌てることはない。武士たる者油断があってはいけない。御老女が用意してくれたパンの耳を投げてやると白鳥が喜んで食べる。「一度に2つづつやって下さい、喧嘩しないように」といわれたのでそのようにした。鯉や亀も餌にありつこうと近寄ってくるが白鳥につつかれて退散する。
 着替えて庭に出て池を一回りした。従7位上の身でこんな立派な庭園を散歩できるなど夢のようである。池越しに見る八景亭と天守閣の眺めは素晴らしい。八景亭の隣には井伊直弼が生まれた欅御殿がある。一般には楽々園と呼ばれていて、地震の時に逃げ込む「地震の間」、壁に蚊帳を塗り込めてある「雷の間」、楽々の間等がある。数年前までは八景亭と同様に営業していたとのことであるが、現在は庭から中を見学するだけになっている。
   世の中をよそに見つつも埋木の埋もれておらむ心なき身は  井伊直弼
   君がこの今日の出まし待ち得てぞ萩の錦も映えまさりけり  長野主膳
   あふみの海磯うつ浪のいく度か御代に心をくだきぬるかな  井伊直弼
等の色紙が飾られている。
 戻って朝食を食べた。彦根城の庭園を眺めながらの朝食はさながら殿様気分である。
 勘定書を見て驚いた。奉仕料が2割加算されている。流石に御老女の奉仕料は高い!!!!!!!
 八景亭に車をおいたまま、彦根城を見に行った。裏門から入ると「車椅子で彦根城を見る会」の人達が大勢いる。この石段を車椅子では大変だろうと思ったが、大勢で押したり担いだりして登るらしい。天守閣自身はそれ程大きくはないが、流石に城域は広大である。残念ながら松本城は足元にも及ばない。表門から出て馬舎を抜けて埋木舎に行ってみた。ここは直弼が17才から32才まで住んでいた所である。庭に柳の木があり
   むっとして戻れば庭に柳かな
の句碑がある。直弼は
   世の中に澄むと濁るのあともなくこの池水のいさぎよきかな
という歌も詠んでいるが「・・・刷毛に毛があり禿に毛がなし」はこのパロディーかも知れない。「茶・歌・鼓(ポン)」といわれているだけあってなかなかの歌人である。それにしても14男の直弼が何故藩主になれたのだろうか。直弼の墓は世田谷の豪徳寺にあり、戒名は宗観院殿柳暁覚翁大居士である。
 公園に直弼の像がある。正4位左近衛中将に敬意を表して写真を撮り、八景亭に戻った。流石に彦根城は広い。彦根は観光に力を入れているらしく、城内には観光協会の法被を着た人達がやたらと多かった。
 会津と長州はいまだに犬猿の仲らしいが、水戸と彦根は和睦が成立して「親善都市 水戸の梅」が植えられていた。
 長浜へ行き城跡の豊公園に寄ろうと思ったが駐車場が一杯で入れないので、諦めて大通寺へ行ってみた。こちらも人が多くて近付けそうにないので、近くのセブンイレブンに車を停めた。大通寺は真宗大谷派の別院で「長浜御坊」の名で親しまれている。参道は全て歩行者天国になり「楽市楽座」と称する出店が並んでいて大変な人出である。寺は如何にも真宗の寺らしい造りである。境内に、横超院師と加賀千代尼応答連歌之碑があり
   手をあげよおなじながれにすむ蛙
       日かげのわらび腰をのしかね

と書かれている。黒壁スクエアも物凄い人出で歩くのが大変である。ここは北国街道沿いの古い街並みが保存(復原?)されていて「壹夜門」というそれらしい門があるが、この門は市内一帯で開催された「北近江秀吉博覧会」に合わせて1996年4月に建てられたものであり、全く問題にすべき門ではない。銀座4丁目と思しき街角に秀吉に肖って出世街道の旅人になれるという「金の草履」がある。
 ここまで来たからには浅井の小谷城趾へ行ってみようということになり、更に国道8号線を北上した。伊吹山が随分近くに見える。途中で姉川を渡った辺りに「酢」という交差点があった。浅井長政は姉川の合戦で織田・徳川の連合軍に敗れたが、お市の方の娘は秀吉と秀忠に嫁し、秀忠夫人となった於江の方は家光の母であり後水尾天皇の中宮東福門院の母でもある。豊臣は完全に滅びてしまったが、織田と浅井は徳川に合流して長年に亘って天下に君臨した。小谷城趾に着いてみると「小谷城ふるさと祭り」が開催されていて大変な人出であったが、城趾を見物に来ている者は少なく、城趾入口に車を停めることが出来た。小谷城も安土城と同様に山城であり登るのは大変である。浅井長政に敬意を表しつつ、先程セブンイレブンで買ってきた団子やヨーグルト等を食べて城趾を後にした。
    近江では歌と仏と芭蕉の句
近江は気候が温暖で京都に近く、ここに都が置かれたこともあるが、古くから栄えた文化を今でも大切にしている。寺が多いこと、歌碑が多いことが印象的だが、何といっても芭蕉の偉大さが目立っている。これ程芭蕉に愛され、芭蕉を大切にしている所は他にはないだろう。
 長浜まで戻って北陸道に入り、名神を順調に走った。「まだ早いから園原に寄っていこう」ということになり小牧から中央道に入った。東名と違って山の中を通るし交通量が少ないから空気がきれいで清々しい。8650mの恵那山トンネルを抜けた所が園原の出口である。先に武田信玄終焉の地である長岳寺に行く積もりでいたが、出てみると「園原の里」と書かれているので方針を変えてそちらへ向かった。園原は枕草子に「原は たか原、みかの原、あしたの原、その原、萩原、あはづの原、・・・」とあり、源氏物語の箒木の巻で知られ、数多くの歌に詠まれた歌枕であり、県歌「信濃の国」に「尋ねまほしき園原や」と歌われている。山道を登って行くと長者屋敷跡があり歌碑
   園原や伏屋におふる箒木のありとはみえてあはぬ君かな  坂上是則
があった。その先にある月見堂は伝教大師が建てた広拯院の跡地といわれている。815年関東に教えを広めるためにこの峠を通った伝教大師はその険しさと宿がないことを知り、峠をはさんで中津川側に広済院、阿智側に広拯院という宿を設けたという。少し登ったところに義経が奥州下向の折り駒を繋いだという伝承のある「義経駒つなぎの桜」という巨木があった。案内に従って更に登って行くと「箒木まで160m」という案内があった。木々の間の道とはいえないようなかすかな道を登ったところに「箒木」があった。箒のように見えたところから「箒木」といわれ、遠くから見るとあるように見え、近く寄って見ると形が見えないという伝説の木である。檜の巨木であったが立ち枯れてしまい、途中から「2代目」が2本伸びている。側に歌碑
   箒木の心をしらで園原の道にあやなくまどひぬるかな     光源氏
   数ならぬ伏屋に生ふる名のうさにあるにもあらず消ゆる箒木  空蝉
がある。“大通り”に戻って、谷の反対側にある暮白の滝を眺めた。今昔物語の「受領は倒るる所に土をつかめ」で知られる藤原陳忠の碑があり、歌碑
   まれに待つ都のつても絶えねとや木曾の神坂を雪埋むなり  宗良親王
がある。他にも園原を詠んだ歌がたくさん知られている。このような山深い所が源氏物語や枕草子に取り上げられたり今昔物語に登場したり、歌枕になっていたりするのは不思議な気がするが、ここはその昔東山道が通っていたので当時は中央の文化に直結していたのある。園原の人々は東山道の史跡と文化を大切にしているように見受けられた。もしかすると、園原には日本武尊や伝教大師の子孫がいるかも知れない。
 対照的に現代的な「恵那山トンネル(二期線)開通記念」の碑がありトンネルの排気口がある。このような山中に高速道路の出入り口を作り「園原」の名を冠したのはその当時道路公団に教養のある理事がいたからに違いない。開通記念碑の前には
   うつせみの世のちりはかで園原の伏屋にひとりおふるははき木
の歌碑がある。この歌の作者有賀光彦は天保12年に上伊那郡南箕輪村南殿に生まれ江戸に出て勉学の後伊那に帰り産業・教育に尽力した人である。著名人の歌碑がたくさんある中でこの歌の印象が薄かったためにきちんとメモしてこなかったので、帰ってから気になり阿智村役場にe-mailで問い合わせて確かめた。更に登れば「日本武尊の腰掛石」等がある神坂峠があるが、暗くなって藤原陳忠のように谷底に落ちるといけないので次回の楽しみにしよう。
 暮れかかった園原を後にして、国道153号線を飯田まで走り、中央道に入って帰ってきた。天気が良かったせいで車が多く途中かなり渋滞があった。