目が覚めたのが4時半過ぎだったので日の出が見られるかなと思ったが、東の空に雲がかかっていたのであきらめて寝直した。ホテルの前の海岸は遠浅の岩礁で、朝早くから遊んでいる人々がいる。すぐ近くにある御前崎灯台へ行ってみた。御前崎灯台は海上保安庁の所管で、正式には「御前崎航路標識事務所」という。急な階段を登って上まで行ってみたが「地球が丸く見える」ことを実感するのは難しい。敷地内には寛永年間に作られたという日本初の行灯灯台「尾見火燈明堂」の復原模型が展示されていて興味深い。道鏡行灯であるが、風に飛ばされないように台座の部分に石を詰めてある。
昨日の道を戻って浜岡の砂丘を見に行くことにした。「浜岡砂丘」とセットして行ったが、案内された所は砂丘の一角ではあるが見学するような場所ではなさそうである。この辺りは一面の砂地で農地に利用している所も多い。昨日走った時に「砂丘公園」という看板があったのを思い出して少し走ってみたらすぐに分かった。この砂丘は天竜川が運んだ砂によってできたそうだから、信州産の砂丘である。砂の上を海岸まで歩いてみた。ここは映画「砂の女」の撮影が行われた場所である。波はたいして高くないが、サーフィンを楽しんでいる若者達がかなりいた。
砂丘公園の前に「ねむの木学園」の壊れかかった古い校舎があり、現在は数百メートル離れた国道沿いに移転している。寄ってみようと思ったが残念ながら日曜日で門が閉まっていた。
昨日通ったときに浜岡原子力発電所が目に付いたので寄ってみようと思う。「原子力館」という標識に従って進むと、道路から見えた高い建物に辿り着いた。何故か入り口に風力発電の大きな風車があり唸りを立てて回っている。きれいな建物で入場無料である。館内には分かり易い模型が設置されているが、一般家庭の半年分の電力が1cm角もない小さな燃料ペレットでまかなえるというのには驚いた。展望ラウンジから見た発電所は想像していたものよりこじんまりとしていたが、原子力で湯を沸かして蒸気タービンを回して発電するというのはいかにも原始的な感じがする。
田沼意次の城下町相良へ行ってみることにして、城跡にある博物館に向かった。「けち」を売り物にした松平定信の城下町白河が冴えないのは仕方がないとしても、田沼の城下町相良は白河より一層冴えないのはどうしたことか。然し、町役場に着いてみると、望月町の役場には遠く及ばないもののまあまあ立派であったが、隣にある博物館は日曜日は休館日である。已んぬる哉、諦めて駿府城跡へ行くことにした。
静岡市に向かって走り始めて間もなく、「庄屋大鐘家」という看板が目に付いたので寄ってみた。昔は家の前を相良と藤枝を結ぶ田沼街道が通っていたと書かれている。大鐘家の当主はなかなかの知恵者とみえて、先祖の残した土地と建物を利用して花園、料理、大鐘餅等上手に商売をして、今でも大金持ちらしい。
やがて榛原町に入った。榛原高校の生徒が貸し切りバスで出かけるのに会った。きっと高校野球の県大会の応援だろう。翌日の新聞を見たら「榛原高校5−0横須賀高校」と出ていた。横須賀高校は昨日通った大須賀町にある。
国道150号線を順調に走って大井川にさしかかった時「この前に見られなかった大井川の渡し場を見に行こう」と思い、川を渡った所で左折して土手沿いに北上した。すぐそこだと思ったのは間違いで、10km程土手を走ったところに島田の渡し場があった。博物館に車を停めて、保存されている川越遺跡の町並みを見て歩いた。博物館の庭に芭蕉の句碑が2つあり、街道には芭蕉、蕪村、一茶、其角、許六等多数の句碑板が立てられている。
五月雨の空吹き落とせ大井川
馬方は知らじ時雨の大井川
・・・。
川会所に上がり込んで、蓮台に座ってみた。当時の街並みがよく保存されている。既に空き家になっている家もあるが、住居として使われている家もある。空き家になっている家には昔の道具類等が展示されている。町並みを見て歩いていると、車椅子に乗った二番宿のお爺さんが空き家になっている十番宿のことを一所懸命に説明してくれた。歯が抜けているせいか大変に聞き取り難かったが大体は理解できた。言語不明瞭意味明瞭であった。
国道1号線を静岡に向かって走って行くと、岡部の宿にさしかかった。岡部は宇津谷峠の西側の宿場である。折角だから宇津谷に寄っていこうと思い、旧道に入った。3月初めに来たときには随分見物客がいて、家の前に店を出して十団子等の土産物を売っているおばさん達がいたけれど、今回は殆ど観光客はいなかったし、土産物を売る店も出ていない。ゆっくりと町並みを見物した。
再び国道に戻って駿府城公園に直行した。地下駐車場に車を停めて、公園を歩いてみた。城の建物は全く残っていないが、流石に権現様が造っただけあって、掛川城等とは桁違いに広い。家康公の銅像に敬意を表した。明日のラジオ体操記念日の行事のために会場が設営され、スピーカーのテストが大音響を轟かせていた。
静岡に来たからには、一風変わった鰻屋「石橋」に寄ってみたい。予め調べてきたので、念のため電話して休業日でないことを確かめた。ナビゲーターに電話番号を入力すると「うなぎの石橋」の位置を表示してくれた。10分程で着いたが、店の中は満席で、入り口に何人か待っている。紙に名前を書いて順番を待つことにした。ここの店の特徴はメニューがないこと、即ち、料理が一種類しかないからメニューが要らないのである。壁に「鰻の稚魚が入荷し難くなったので50円値上げさせて下さい」と書いた紙が貼ってあり、2450円と書かれている。壁に柳家小さん、永六輔、藤村俊二の名札が掛かっている。30分以上待って名前を呼ばれ、カウンターに座ることができた。座った位置から鰻を裂く様子がよく見える。小林亜星に似た小太りで丸顔にちょび髭を蓄えたお兄さんが実に手際よく裂いている。“待合室”から掴み出した鰻の頭を包丁でちょんと叩いて切れ目を入れて骨を切り、目に釘を刺して固定して、背中を裂き臓物を取り出して骨を外して捨てる。鰻は全て同じ大きさで、しかも非常に大きい。道鏡鰻という種類があったかしら。裂かれた鰻は3匹ずつ6本の串に刺して焼かれる。壁に掛けてある証明書の記述からするとこのお兄さんは石橋耕二氏で40才である。何十匹か裂かれるのを見ているうちにお新香と御飯が出され、やがて鰻とお吸物が出された。鰻が大き過ぎて皿に乗り切らず尻尾がはみ出していて実に豪勢である。蜀山人の
あな鰻何処の山の妹と背を裂かれて後に身をこがすとは
を復習しながら道鏡鰻の味を楽しんだ。