道の辺の木槿は馬に食はれけり

忘月忘日 今回は静岡を探訪してみようと思う。厚木から東名に入った。高速道路は快調だが、残念ながら富士山が見えない。
   お富士さん雲の衣を脱がしゃんせ雪の肌が見たうござんす
海を眺めながら由比の海岸を走っている時、仏教関係と思われる車を追い越したら「先導車」と書いた紙が貼られているのが目についたが、どう見ても仲間らしき車は見当たらない。「地獄へ先導されたら大変だ」と思いながら速度を落としてその車に追い越させて見たが、どういう関係の車だかよく分からないし後続車もいないらしい。
 ナビゲーターの指示に従って焼津で下りて、国道1号線藤枝バイパスに入った。小夜の中山に行って川島ちとせ婆さんの安否を確かめたい。今年の3月に訪れた時には元気だったが、何といっても明治30年11月16日生まれの100歳であるから気がかりである。前回は日坂宿の方向から峠に登ったが、今回は手前の金谷宿の側から登ってみることにした。ものすごい急坂の細道を登って、茶畑の中を抜けて辿り着くと、玄関が開いていて2枚のシャッターが半分程上げられている。玄関を入って見ると中でゴソゴソと動く気配がするが「今日は」と声をかけてみたが返事がないので、中まで入って覗いて見たら、昼食を食べているところだった。茶碗にしっかりとご飯が盛られている。「子育て飴」を2個持っていって「これを下さい」というと「2400円です」としっかりした声が返ってきた。この分では当分は安泰だろう。「今日は雨が降ったので・・・」といっていたが、この辺りは午前中雨が降ったらしい。立ち葵や木槿等が咲いている。芭蕉が
   道の辺の木槿は馬に食はれけり
と詠んだのはこの辺りだったかも知れない。
 峠を下りて国道に戻り日坂宿の事任八幡宮を過ぎるとその先は未踏の地である。ナビゲーターを掛川城にセットしてあるが、掛川市に入って城が見えているのに通り越して駅の近くに行くように指示しているではないか。どうやら「掛川城」という名前の旅館か商店に向かっているらしい。「大手門駐車場」という道路標識があちこちに出ているのでそれに従って進んで車を停めて、城まで歩いた。掛川城といえば山内一豊と思っていたが、山内氏が城主だったのは10年間程で、石川氏、松平氏、本多氏、井伊氏、小笠原氏、太田氏等多数の城主によって治められたことが分かった。
 最近復元された天守閣は“古く見せる”ことを一切せずに新築同様であるが、「東海の名城」と謳われたというにしては余りにも小さい。掛川藩の藩庁であり藩主の公邸であった掛川城御殿は江戸時代の建物がそのまま残されている。
 掛川城の天守閣に登った時に、すぐ隣にある古い建物は「二宮尊徳先生の教えを伝える大日本報徳社」と説明されていたので寄ってみることにした。市立図書館の駐車場に車を停めて入ってみた。正面にある仰徳記念館は明治17年の建築で元有栖川宮邸だったものをここに移築したというだけあって古くて重々しい。建物の中には入れなかったが、庭に忍び込んで鍬を捧げ持つ二宮尊徳先生の銅像の前で尊徳先生と同じ格好をして写真を撮った。二宮尊徳先生の銅像といえば薪を背負って本を読んでいるものと相場が決まっているが、あれは尊徳先生御幼少の砌の姿であり、ここにある銅像は功成り名遂げた尊徳先生の姿である。敷地内にある報徳図書館は昭和2年に建てられた掛川市最古の洋風建築とのことである。
 袋井市久能にある「可睡斎」という寺に行ってみることにした。曹洞宗の寺で秋葉信仰の総本山でもあるが、11代住職の仙麟等膳和尚が徳川家康の前で居眠りをして「可睡和尚」と愛称されたためにこの名前が付けられたという。我が社には天皇の前で高鼾で居眠りをした社長がいたが、宮内庁は家康公のように寛容ではなかったために、きついおとがめを受ける仕儀になった。
 境内の一角には「身体堅固、家内安全、・・・」と書かれた幟がぎっしりと並んでいる。1本2000円払えば自分の名前を書いて立ててもらえる。拝観料を払って七堂伽藍を見学した。驚いたことには百体以上もある円空仏が実に無造作に並べられていて、その気になれば簡単に持ち出せそうである。ここの圧巻は「日本一の東司」である。要するに便所であるが、壁に沿って個室が10室、小便器が10個程並んでいる大きな部屋の真ん中には鳥枢沙摩明王の大きな像が安置されていて「健康を守護される佛様に礼拝して用便しませう」と書かれている。何故か洋式の部屋は和式の2倍の大きさである。小便器の上の壁には鏡が付いていて自分自身を観察できるようになっている。「観察はできるが飛沫はかからない」という微妙な高さにセットされているのに感心させられた。この鏡は「摩羅鏡」というのだろうか。
   可睡斎日本一の東司にて鏡に写る摩羅を眺めて
いつまでも“身体堅固”でありたいものである。別棟になっている瑞龍閣の2階には、天井に花の絵が一面に描かれている50畳敷きの部屋が2つ並んでいる。50畳の部屋の真ん中で昼寝をすれば、モンゴルの大草原には及ばないものの雄大な気分だろうと思う。
 5時を過ぎたので、今日の宿泊地である御前崎に向かうことにした。大須賀町を通り、浜岡を過ぎれば間もなく御前崎である。浜岡では「砂丘」「原子力発電所」等興味をそそられる看板が目に付くが、遅くなるといけないので宿へ直行することにした。

 目が覚めたのが4時半過ぎだったので日の出が見られるかなと思ったが、東の空に雲がかかっていたのであきらめて寝直した。ホテルの前の海岸は遠浅の岩礁で、朝早くから遊んでいる人々がいる。すぐ近くにある御前崎灯台へ行ってみた。御前崎灯台は海上保安庁の所管で、正式には「御前崎航路標識事務所」という。急な階段を登って上まで行ってみたが「地球が丸く見える」ことを実感するのは難しい。敷地内には寛永年間に作られたという日本初の行灯灯台「尾見火燈明堂」の復原模型が展示されていて興味深い。道鏡行灯であるが、風に飛ばされないように台座の部分に石を詰めてある。
 昨日の道を戻って浜岡の砂丘を見に行くことにした。「浜岡砂丘」とセットして行ったが、案内された所は砂丘の一角ではあるが見学するような場所ではなさそうである。この辺りは一面の砂地で農地に利用している所も多い。昨日走った時に「砂丘公園」という看板があったのを思い出して少し走ってみたらすぐに分かった。この砂丘は天竜川が運んだ砂によってできたそうだから、信州産の砂丘である。砂の上を海岸まで歩いてみた。ここは映画「砂の女」の撮影が行われた場所である。波はたいして高くないが、サーフィンを楽しんでいる若者達がかなりいた。
 砂丘公園の前に「ねむの木学園」の壊れかかった古い校舎があり、現在は数百メートル離れた国道沿いに移転している。寄ってみようと思ったが残念ながら日曜日で門が閉まっていた。
 昨日通ったときに浜岡原子力発電所が目に付いたので寄ってみようと思う。「原子力館」という標識に従って進むと、道路から見えた高い建物に辿り着いた。何故か入り口に風力発電の大きな風車があり唸りを立てて回っている。きれいな建物で入場無料である。館内には分かり易い模型が設置されているが、一般家庭の半年分の電力が1cm角もない小さな燃料ペレットでまかなえるというのには驚いた。展望ラウンジから見た発電所は想像していたものよりこじんまりとしていたが、原子力で湯を沸かして蒸気タービンを回して発電するというのはいかにも原始的な感じがする。
 田沼意次の城下町相良へ行ってみることにして、城跡にある博物館に向かった。「けち」を売り物にした松平定信の城下町白河が冴えないのは仕方がないとしても、田沼の城下町相良は白河より一層冴えないのはどうしたことか。然し、町役場に着いてみると、望月町の役場には遠く及ばないもののまあまあ立派であったが、隣にある博物館は日曜日は休館日である。已んぬる哉、諦めて駿府城跡へ行くことにした。
 静岡市に向かって走り始めて間もなく、「庄屋大鐘家」という看板が目に付いたので寄ってみた。昔は家の前を相良と藤枝を結ぶ田沼街道が通っていたと書かれている。大鐘家の当主はなかなかの知恵者とみえて、先祖の残した土地と建物を利用して花園、料理、大鐘餅等上手に商売をして、今でも大金持ちらしい。
 やがて榛原町に入った。榛原高校の生徒が貸し切りバスで出かけるのに会った。きっと高校野球の県大会の応援だろう。翌日の新聞を見たら「榛原高校5−0横須賀高校」と出ていた。横須賀高校は昨日通った大須賀町にある。
 国道150号線を順調に走って大井川にさしかかった時「この前に見られなかった大井川の渡し場を見に行こう」と思い、川を渡った所で左折して土手沿いに北上した。すぐそこだと思ったのは間違いで、10km程土手を走ったところに島田の渡し場があった。博物館に車を停めて、保存されている川越遺跡の町並みを見て歩いた。博物館の庭に芭蕉の句碑が2つあり、街道には芭蕉、蕪村、一茶、其角、許六等多数の句碑板が立てられている。
   五月雨の空吹き落とせ大井川
   馬方は知らじ時雨の大井川
・・・。
 川会所に上がり込んで、蓮台に座ってみた。当時の街並みがよく保存されている。既に空き家になっている家もあるが、住居として使われている家もある。空き家になっている家には昔の道具類等が展示されている。町並みを見て歩いていると、車椅子に乗った二番宿のお爺さんが空き家になっている十番宿のことを一所懸命に説明してくれた。歯が抜けているせいか大変に聞き取り難かったが大体は理解できた。言語不明瞭意味明瞭であった。
 国道1号線を静岡に向かって走って行くと、岡部の宿にさしかかった。岡部は宇津谷峠の西側の宿場である。折角だから宇津谷に寄っていこうと思い、旧道に入った。3月初めに来たときには随分見物客がいて、家の前に店を出して十団子等の土産物を売っているおばさん達がいたけれど、今回は殆ど観光客はいなかったし、土産物を売る店も出ていない。ゆっくりと町並みを見物した。
 再び国道に戻って駿府城公園に直行した。地下駐車場に車を停めて、公園を歩いてみた。城の建物は全く残っていないが、流石に権現様が造っただけあって、掛川城等とは桁違いに広い。家康公の銅像に敬意を表した。明日のラジオ体操記念日の行事のために会場が設営され、スピーカーのテストが大音響を轟かせていた。
 静岡に来たからには、一風変わった鰻屋「石橋」に寄ってみたい。予め調べてきたので、念のため電話して休業日でないことを確かめた。ナビゲーターに電話番号を入力すると「うなぎの石橋」の位置を表示してくれた。10分程で着いたが、店の中は満席で、入り口に何人か待っている。紙に名前を書いて順番を待つことにした。ここの店の特徴はメニューがないこと、即ち、料理が一種類しかないからメニューが要らないのである。壁に「鰻の稚魚が入荷し難くなったので50円値上げさせて下さい」と書いた紙が貼ってあり、2450円と書かれている。壁に柳家小さん、永六輔、藤村俊二の名札が掛かっている。30分以上待って名前を呼ばれ、カウンターに座ることができた。座った位置から鰻を裂く様子がよく見える。小林亜星に似た小太りで丸顔にちょび髭を蓄えたお兄さんが実に手際よく裂いている。“待合室”から掴み出した鰻の頭を包丁でちょんと叩いて切れ目を入れて骨を切り、目に釘を刺して固定して、背中を裂き臓物を取り出して骨を外して捨てる。鰻は全て同じ大きさで、しかも非常に大きい。道鏡鰻という種類があったかしら。裂かれた鰻は3匹ずつ6本の串に刺して焼かれる。壁に掛けてある証明書の記述からするとこのお兄さんは石橋耕二氏で40才である。何十匹か裂かれるのを見ているうちにお新香と御飯が出され、やがて鰻とお吸物が出された。鰻が大き過ぎて皿に乗り切らず尻尾がはみ出していて実に豪勢である。蜀山人の
   あな鰻何処の山の妹と背を裂かれて後に身をこがすとは
を復習しながら道鏡鰻の味を楽しんだ。