自然に目が覚めて腹ごしらえをしてから、佐倉へ行ってみることにして9時41分の京成電車に乗った。車窓から見る田圃は殆ど稲刈りが済んでいる。途中に「宗吾参道」という駅があった。加助様は完敗である。
佐倉の近くまで来たら線路沿いの道をぞろぞろと歩いている人が何百人もいる。車内からそれを見て「もう歩き始めている」等と話している一団がいて佐倉で下りた。駅前に日本歩け歩け協会と朝日新聞主催の「私鉄沿線リレーウォーク」の受付が設置されていて大勢が群がっていた。
佐倉城趾公園にある国立歴史民俗博物館へ行ってみた。1981年に設立された大学共同利用機関であり、2層に配置され年代を追って展示されている5つの展示室と企画展示室から成っているが、とにかく立派である。展示資料の他にビデオによる説明もあり、必要に応じてコピーが取り出せる簡単な資料が43箇所に設置されている。「沖の島」のビデオを見ていたら「発掘調査によって発見された豪華な品々からこの地には大和政権の支配が及んでいたことが分かる」という説明が出てきて咄嗟に井上光貞先生の顔を思い出した。そうだ、彼がここの初代館長だった。「倭の五王」の比定に代表されるように、古代日本を全て大和朝廷を中心に理解しようとする井上学説がいまだに健在であることが分かった。何故「これ程豪華な品々が使われていたということは沖の島は政治や文化の中心だったのではないか」とか「沖の島でこれだけの文化が栄えていたということは、沖の島に近い九州には政治や文化の一大中心があったのではないか」というように素直な発想をしないのだろうか。井上光貞先生からは学生の時に単位をもらっているが、あの「大和一元的古代史」は到底容認できない。
館内の食堂で焼き魚定食を食べて、武家屋敷まで歩いた。河原家、但馬家、武居家と3軒並んで保存されている。河原家は300石以上の大屋敷、但馬家は100石以上の中屋敷と説明されている。
次に、町の東にある佐倉順天堂記念館まで歩いた。順天堂は蘭医佐藤泰然が1843年に佐倉に蘭医学塾を開いたことに始まり、2代目の佐藤尚中が東京に開いた順天堂が現在の順天堂大学の前身である。
大急ぎでJRの佐倉駅に駆けつけてみたが、次の電車は14時56分である。単線だから待ち合わせが多くて佐原に着いたのが15時55分であった。伊能忠敬旧宅も記念館も16時30分までだというので、小野川縁を急いだ。町中のあちこちに「伊能忠敬」の名前が見られ、小野川に架かっている橋が忠敬橋であり、佐原が伊能忠敬を誇りにしていることがよく分かる。先ず旧宅を見た。裏庭に「この一歩から 測量の日」と書かれた碑がある。記念館は以前は旧宅の敷地に建っていたが、今年の5月22日に小野川の対岸に新築移転したばかりである。伊能忠敬の地図が非常に正確であるのに改めて感心した。
一休みした後、小野川の両岸に並ぶ古い街並みを見て歩いた。栃木市に似ているが、こちらの方がずっと整然としている。川沿いの柳並木も美しい。下流に向かって歩いていくと線路の近くに「大利根月夜」の歌碑が建っているではないか。今年の6月に建てられたと書かれていて真新しい。佐原はなかなか良い町だと思ったが、これを見て益々その感を強くした。歌碑の前には小さな円形のステージが用意されている。歌碑の裏には「大木亨」という名前が刻まれているが、どうやらユーカリが丘ニュータウンを開発している会社の取締役らしい。きっと「大利根月夜」のファンに違いない。
夕食後、『飯岡助五郎正伝』とNHKの『歴史への招待』にある「実録天保水滸伝」を読んで翌日の予定を立てた。
チェックアウトして外に出てみると素晴らしい日本晴れである。最初に平手造酒の墓があるという神崎町松崎の心光寺に行ってみようと思う。ナビゲーターには載っていないが地図にはあるので簡単に分かると思ったが、近くまで来てから苦労した。やっとそれらしい場所に辿り着いたが、墓地はあるが寺は見当たらない。「実録天保水滸伝」には写真入りで「戒名は 儀刀信忠居士、天保十五年甲辰八月六日 平田三亀之墓、となっている」と書かれている。並んでいる石塔を具に調べてみたが見つからなかった。道端で仕事をしていたおばさんに「心光寺は何処ですか」と聞いたら「この辺りには寺はありません」ときっぱりした答えが返ってきた。
諦めて香取神宮に行くことにした。門前の土産物屋で団子を食べて、長い玉砂利の参道を歩いた。ここの祭神は経津主神であるが、門が朱塗りで本殿が黒塗りというのは一寸珍しい。何故か今日はお宮参りの赤ちゃんが多い。
利根川を渡って千葉県立大利根博物館へ行ってみた。見渡す限り平らな水郷のど真ん中、十二橋の近くに位置している。菖蒲の咲く頃に来たらもっと素晴らしいだろうと思われる。博物館は入場無料であるが、県の予算削減の対象になっているらしく、寂れかかっていて、佐倉の国立歴史民俗博物館とは雲泥万里の違いである。隣には佐原市立水生植物園があるが、こちらも季節外れのせいか広大な駐車場はガラガラで殆ど人が来ていない。植物園の前庭の一角に「おんな船頭唄」の歌碑が建っていて、台座に埋め込まれたスピーカーから三橋美智也の唄が流れている。小野川河畔の「大利根月夜」の歌碑と同じく今年の6月の建立である。佐原市では6月に幾つか歌碑を建てたらしい。この分では「船頭小唄」等の歌碑も建っているかも知れない。
鹿島神宮に行く途中潮来町にある長勝寺に芭蕉の句碑があるというので寄ってみようと思って脇道に入ったら、梅龍山西円寺が目に付いた。覗いてみると入口に大木があり「天然記念物 潮来の大イチョウ」と書かれている。「遊女の墓」「一茶の句」という看板があるので探してみたが「一茶の句」は見つからなかった。直ぐ隣に長勝寺があり、菩提樹の下に芭蕉の『鹿島紀行』の句碑
塒せよわらほす宿の友すゞめ 自準
あきをこめたるくねの指杉 桃青
月見んと汐引きのぼる船とめて 曾良
があった。木の下は藪蚊が多く集中攻撃を受けた。
北浦に架かる神宮橋を渡った先が鹿島神宮である。鹿島神宮は「鹿島立ち」で知られ、建御雷神を祀る大変古い神社である。入口に大舎人部千文の歌碑
霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍にわれは来にしを
が建っている。香取神宮と同じくここも朱塗りの門と黒塗りの本殿である。本殿から奥が広大で、大木が繁っていて如何にも神域然としている。鹿が飼われていて「鹿島の鹿を奈良の春日大社まで連れていって云々」と説明がある。奥宮の前には
此松の実生せし代や神の秋
要石の前には
枯枝に鴉のとまりけり秋の暮
という芭蕉の句碑がある。餓になったので土産物屋で落花生の甘納豆を買って車の中で食べた。
笹川に向かって少し走ったところで、塚原卜伝の墓がこの近くにあることを思い出して引き返し、JR鹿島線を通り過ぎて地図を頼りに北浦の近くまで行ってみたがそれらしいものは見つからない。手近な家に寄って聞いたら直ぐに分かった。墓は田圃の外れにあった。
鹿島臨海工業地帯を左手に見ながら鹿島町、神栖町を南下して再び利根川を渡って東庄町に入り、町役場に車を停めた。役場の隣にある諏訪神社には、野見宿禰の碑が建っている。天保水滸伝によれば「笹川の花会」はこの碑を建てるために十一屋で開かれ、信夫の常吉、大前田英五郎、国定忠治、清水次郎長等各地の親分達が集まったという。碑の脇には天保水滸伝保存会による解説があり、碑の前には土俵が造られている。東庄町のホームページを見ると
奉納相撲(諏訪神社秋季大祭)
天保13年7月27日、諏訪神社の境内で笹川繁蔵が奉納相撲を名目として、農民救済のため開いた花会が始まり。
国定忠治や清水次郎長らも参加し、盛大なものだったと言われている。また、当日は山車や御輿も繰り出し一日中賑わう。
毎年7月27日に開催される。問い合わせ先 東庄町観光協会
と書かれている。野見宿禰の碑と並んで三波春夫が書いた碑が建っている。
神社の裏手にある延命時には笹川繁蔵之碑、勢力富五郎之碑、平手造酒之墓が並んでいる。平手造酒の墓には小さな徳利が何本も供えられていた。役場の前に「暴力団いないよい町よい郷土」と書かれた看板が立てられているのが可笑しかった。
すっかり暗くなったので帰宅することにして、玉川勝太郎の天保水滸伝のテープを聞きながら走り出した。ナビゲーターは佐原・香取から東関東自動車道に入るように指示しているので、佐原市を通ることになる。それなら佐原で夕食を食べていこうと思う。
利根の川風袂に入れて 月に棹さす高瀬舟 ・・・
佐原といえば鰻だろう。浜松にも鰻はあるという話だが鰻は利根川に限る。特に当てはなかったが適当に歩いていると「うなぎ 割烹 山田」という看板が目に付いたので入ってみた。後で調べたら当地一流の店だった。鰻と御飯が別になっている「鰻重」と鰻を御飯の上に乗せた「じか重」とがあり、上じか重を注文した。鰻は皮が固めに焼かれていた。今回は成田の「川豊」、佐原の「山田」と図らずも当地一流の鰻を賞味することが出来た。
佐原・香取から東関東自動車道に入り、湾岸道路でかなり渋滞があったが、レインボーブリッジから見る夜景が素晴らしかった。