雲折々人を休る月見かな

忘月忘日 遅くなってしまったが初詣に行こうと思い立った。今年は大山詣をしようと思い、8時半に出発した。快晴の空の下を渋滞もなく快走し、9時半過ぎに伊勢原市下糟屋にある法雨山大慈寺に着いた。ここには太田道灌の墓があり、俗に「首塚」と言われている。寺の前の道から小川沿いに少し入ったところに「太田道灌公墳墓之地」と書かれた石柱と「太田道灌公霊地」と書かれた看板が立っている。川には大きな鯉がたくさん泳いでいる。「放し飼い」らしい。道灌公の戒名は大慈寺殿心円道灌大居士である。ここは伊勢原市指定史跡で、説明板には
 太田道灌は永亨四年(1432)相模に生れ、幼名は鶴千代、元服して資長と名乗った。剃髪して道灌と称した。幼少より父道真(資清)の薫陶を受け、文武の両道でその才能を発揮した。康正元年(1455)家督を嗣いだ。長禄元年(1457)には弱冠26歳で江戸城を築いた。のち上杉一族の山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立が深まるにつれ、扇谷上杉氏の家宰として主家をよく盛り立て、弱小であった扇谷上杉氏が宗家にあたる山内上杉氏を越える勢いになった。これが山内上杉顕定の陰謀により、主君扇谷上杉定正に討たれる主因となった。
 文明十八年(1486)七月二十六日、上杉定正の糟屋館で非業の最期を遂げた。この墓を首塚といい、市内上粕屋洞昌院には胴塚と呼ばれる墓がある。
    平成元年3月  伊勢原市教育委員会

と書かれている。教育委員会ともあろう者が「弱冠26歳」とは何事ですか! 「弱冠」は20歳と決っているので、ここは「26歳の若さで」とすべきである。道灌は上杉定正に騙し討ちにあったとき「当方滅亡!」と叫んだというが、予言通り扇谷上杉は21年後に滅んでしまった。この場所は少し低くなっていて、雨が降ると水に浸かることがあるらしい。大慈寺の掲示板に墓地が水に浸かっている写真が貼ってあった。寺の門前には「太田道灌公菩提寺」と書かれた真新しい石柱が立っている。裏を見たら「平成十四年十二月建之」となっている。先月建てられたばかりである。門も新しい。小さな本堂の軒先には小さな釣鐘が吊り下げられている。庭にある大きな松の木が2002年10月の台風で倒れ、頑丈な支柱を立てて起こされていた。この寺には常駐の坊主はいないらしい。
 太田道灌像を表敬訪問しに伊勢原市役所へ行くと、着飾った若者達が成人式に参加するために大勢集まっている。父兄のような顔をして駐車場に車を停め、太田道灌像に敬意を表した。かつて有楽町の都庁前に颯爽と立っていたのと同じく弓を持った道灌公の像である。
 次に「胴塚」と言われているもう一つの道灌公の墓がある幡龍山洞昌院を訪ねた。「首塚」と同じくここも道灌公の墓は寺の墓地ではなく道を隔てた所に位置している。「太田道灌公之墓」と書かれた石柱が立っていて、墓石は屋根に覆われている。墓の前に枯れた巨木の根が2本残っている。こちらでは道灌公の戒名は洞昌院殿心円道灌大居士である。墓地内に心敬僧都の句碑
   雲もなほさだめある世のしぐれ哉
がある。心敬僧都は宗祇の師匠である。また道灌公の歌碑
   いそがずばぬれざらましを旅人の後より晴るる野路のむら雨
が立っている。道灌公は文武両道に秀でていたことで知られているが、この他にも
   我が庵は松原続き海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る
   露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原
   年ふれど我まだ知らぬ都鳥すみだ河原に宿はあれども
など多くの名歌を残している。兼明親王の歌
   七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき
を知らなかったために少女に不覚をとった話は余りにも有名であるが、実は道灌は歌道に明るく
   遠くなり近くなるみの浜千鳥鳴く音に潮の満ち干をぞ知る
   そこひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波は立て
などの古歌を作戦に活かしたという逸話も残されている。歴史上の武人の中で道灌ほど「文武両道に秀でていた」と絶賛されている人物は他に例がなさそうである。
 この寺は曹洞宗だが門前にあるはずの「不許葷酒入山門」の石柱が見当たらない。おかしいと思ってよくよく見たら、石柱の前に榊を植えて字が見えないようにしてあった。大慈寺に比べて随分経営状態が良さそうなこの寺では葷酒も自由に入山しているに違いない。階段に「車止」の立て札が置いてあるのが可笑しかった。庭の蝋梅がきれいに咲き、香気を漂わせていた。
 直ぐ近くにある上行寺に宝井其角の墓があるというので寄ってみることにした。道が分からなかったので洞昌院に車をおいて日蓮宗富士山上行寺まで歩いた。せいぜい500m位である。この寺は、小田原、江戸桜田、八丁堀、芝伊皿子、芝二本榎などを転々した後この地に落ち着いたという。現在は鉄筋コンクリート造りの四角な建物が本堂になっている。ここには宝井其角を始め、蘭学者桂川甫周、初代将棋名人大橋宗桂、丸橋忠弥などの墓がある。「当山歴代諸上人」と書かれた碑には初代から37代までの住職の一覧が記されているが、何故か8、16、17、22、26、27、28、29が空欄になっている。何か不始末をしでかしたのであろうか。広い境内には吉原から移した「遊女嘆きの蘇鉄」などもある。
 いよいよ今回の主目的である大山詣に向かうことにした。春風亭柳橋の「大山詣」のテープを聴きながら走り、ほぼ正午に参道の急な坂道に着いてみると、渋滞の長い列ができていて全く動いていない。上の方にある駐車場から出てきた数だけが入る、ということになっているらしいのだが、出てくる車は数分に一台程度しかないから、さっぱり前に進まない。道沿いにある個人経営の駐車場は全て満杯になっている。「作戦を間違えた。こちらに最初に来るべきだった」と悔やんだが、後の祭りである。道灌公のように古歌に通じていればこんなことにはならずに済んだかも知れない。注意してみていると、時々列を離れて上っていく車がある。不思議に思っていると、バイクに乗った小太りのをぢさんが近付いてきて「民間の駐車場が一台空いた。1000円だがよかったらついて来い」という。列を離れてついて行って停めることが出来た。やれやれであるが、かれこれ50分ばかりかかってしまった。因みに市営駐車場は600円である。
 ケーブルカーの駅まではまだかなり歩かなければならないが、土産物屋などを覗きながら急な坂を登っていくうちに「餓」になってきたので「山ゆり」という店に登楼して昼食を食べることにした。2000円の豆腐定食は湯豆腐、あんかけ豆腐、胡麻豆腐と湯葉、おから、凍豆腐と油揚と椎茸の煮付け、漬物、味噌汁、御飯と盛り沢山で飽極了になった。長い参道には土産物屋、旅館、坊などが並んでいるが、「先導師 旅館」という看板が多く目に付いた。海抜1251mの独立峰である大山は古くから信仰の山として崇められ、真言密教の修験道場として栄えた。江戸時代に幕府の寺院法度により修験者が山から下って中腹に定住し、「御師」(おし)となった。それが明治6年神仏分離令によって「先導師」と呼ばれるようになり、各地に赴いて大山信仰を伝え、自分の担当する「講」の参拝客が大山詣でに来たときは自宅(宿坊)に泊め、大山へ送り出すなど「講中」の一切の世話をしてきたという。現在では50軒程になったが、明治時代には120もあったらしい。
 追分駅に辿り着き13時40分発のケーブルカーに乗った。片道450円、往復850円であるが、帰りは途中の大山寺まで歩いて下りようと思って片道切符を買った。不動前駅で上り下りが交換し、所要時間6分で下社駅に着いた。標高685mは流石に眺めが素晴らしく、相模灘や江ノ島が眼下に一望できる。茅の輪をくぐって真新しい神殿に参拝した。大山阿夫利神社の主祭神は、オオヤマズミの神、タカオガミの神、オオイカヅチの神である。国学の祖権田直助の像に敬意を表して、半地下になっている大山名水「神泉」に潜り込んだ。持参したペットボトルに名水を汲んで来て、お茶を入れて飲んでみたら実に美味しかった。神官達が「近頃水道代が嵩むようになってきたから神泉を有料にしたらどうか」と検討しているのではないかと半信半疑だったが、そんなことはなく正真正銘の名水である。
 帰りは歩いて不動様まで下りるつもりだったが、坂が急で結構距離があるので、14時30分発のケーブルカーに乗って「不動前」で途中下車した。菊川橋を渡って雨降山大山寺に参拝した。755年に良弁僧正によって開山され、明治初年に阿夫利神社下社の位置からこの地に移ったという。本尊は国の重要文化財に指定されている鉄造不動明王とセイタカ童子、コンガラ童子の3体である。本堂で大きな護摩札を買って外に出てみると、芭蕉の句碑があるが読めないので、戻って坊主に訊いてみたら「私達も読めないんです」という。何たる不勉強! こんな坊主では有り難くも何ともない。帰宅後、断片的に読めた字を頼りに調べたら
   雲折々人を休る月見かな
であることが分かった。
 再びケーブルカーに乗って下山した。もう駐車場は混雑していない。我々が来た時間が最悪だったらしい。これで大山詣は完了であるが、折角だから近くにある三之宮比々多神社に寄っていこう。途中に比々多神社があったが、目指す三之宮比々多神社はこれではない。式内社である三之宮比々多神社は豊国主尊を主祭神としている。風格のある女性が神殿に出入りしているので訊いたみたら宮司だった。本殿前のテントで御神酒とお札を戴き、永井治子宮司と暫し歓談した。国学院を出てから宮司であった父の跡を継いで28年になるという。女性の宮司は珍しいと思ったが、全国で宮司の資格を持っている25000人の中に女性が1割程度はいるという。この神社の歴史、祭神のこと、近くにある比々多神社はこの神社の額を借りて名前を語っていることなどなどを話してもらい、一緒に写真を撮った。本殿の正面に鈴が5本掛けられているのが面白いと思ったら、宮司のアイデアで、初詣の時などに大勢が殺到しても渋滞しないようにという配慮である。今日まで初詣で賑わっていて、アルバイトの巫女が15人ほどいたが16時に帰したところだという。帰りがけに見たら、玉垣の一番手前に「宮司 永井治子」と書かれていた。大山詣のついでに寄った神社で女性宮司に巡り会えたことは望外の大収穫だった。
 最後に宝城坊日向薬師に寄った。時既に16時50分で薄暗くなっていたが、境内には何人かの人影があった。カス坊主達が本堂の扉を閉めながら掃除をしていたが「どうぞ」というので入って参拝した。無数に並んでいる水子供養の金色の小さな像がきれいだった。ここの本堂と鐘楼は茅葺き屋根である。鐘楼の茅葺き屋根は珍しいと思うが、4本柱がそれぞれ3本ずつ、つまり12本、というのも珍しい。鐘楼の前には「かながわ名木100選」に選ばれている「足利基氏幡掛けの杉」という推定樹齢800年の二本杉の巨木がある。この寺は716年に行基が開山したと伝えられ、かつては日向山霊山寺といわれ12の坊を持つ大寺院だったというが、現在は宝城坊を残すのみとなり、「宝城坊」「日向薬師」などと呼ばれている。
 「日暮れに来ても日向薬師とはこれ如何に」であるが、すっかり暗くなった日向薬師を後に、帰路についた。