一家に遊女も寝たり萩と月

忘月忘日 初秋の信越路を訪ねてみることにした。生憎天気が悪そうである。7時過ぎに出発して国立府中から中央道に入った。最初の目的地を「大王わさび農場」に設定して、渋滞もなく順調に走ったが、豊科で高速道路を下りる瞬間に「折角だから我が母校を皆に見せよう」と閃いた。先日、訪問先の相談をしたときに、不覚にも我が母校即ち長野県松本深志高等学校のことは頭に浮かばなかった。しかし、ここまで来て母校に寄らないわけにはいかない。予めその積もりになっていれば一つ手前の松本で下りれば良かったのであるが、少し位引き返すに吝かでない。ナビゲーターは「運転手乱心!」と思って必死に諭す努力をしていたが、勝手知ったる道を走って迷うことなく母校に辿り着いた。敷地の周りを一回りしてから、「長野県松本深志高等学校」と書かれた正門や初代校長小林有也先生の銅像の前で写真を撮った。殆どの人は「長野県立松本深志高等学校」と思うらしいが、そんな名前の学校は存在しない。強いて言えば「長野県立長野県松本深志高等学校」である。昨今殆どの都道府県では「○○県立△△高等学校」と命名しているようであるが、長野県と宮城県と北海道ではこの由緒正しい命名法を堅持している。1935年に建てられた校舎は十分に風格があり、その背後には昨年完成したばかりの新校舎が建っている。皆は、直ぐ近くの丘の下にある蟻ヶ崎高校の校舎が余りにも老朽化しているのに驚いていた。
 母校の近くに「奥州一宮 塩竈神社」があるのを見て東北出身の御仁が喜んでいた。かなり大きな神社があることは知っていたが、塩竈神社であることは気が付かなかった。
 さあ、急いで「大王わさび農場」へ行こう。ナビゲーターの指示に従って国道147号線即ち糸魚川街道を走っていくと、「立石」で左折して中萱駅を通る道に誘導された。「おかしいな、これでは加助神社に行くではないか」と思ったが、ナビゲーターが気を利かしてくれたに違いない、それならば先祖に敬意を表していこう。加助神社、即ち貞享義民社は前回訪れたときと変わっていないし
   二斗五升語り伝へよ稲の波
の碑も健在である。宮本屋で「加助最中」と「義民の里」を買って、当初の目的地である「大王わさび農場」へ向かったが、ナビゲーターの指示する方向がどうもおかしい。誘導されて着いたところは「常念」という有名な蕎麦屋の近くだった。わさび畑があるのは川沿いであり、このような山寄りの場所ではない。改めてナビゲーターをセットし直してみると、「大王わさび農場」が2箇所ある。電話番号でセットしたのであるが、何故か一方は本物の「大王わさび農場」であり、他方はここである。どう考えても分からないが、もしかすると、ここは社長宅かも知れない。とにかく先を急ごう。ここから「大王わさび農場」へ行くには途中で碌山美術館に寄るのが道順であるから、先ず美術館に行くことにした。もうすぐ美術館というところに穂高神社があったので寄った。少し雨が降っていたので傘をさして参拝した。便所に「善男お手洗い」「善女お手洗い」と書かれているのが可笑しい。
 碌山美術館は大糸線沿いの林の中にあり、煉瓦造りのこぢんまりした建物が有名である。同行者の中に美術に造詣の深い者はいないし、入館料は700円と高いので、外観を鑑賞して満足した。雨はいつの間にか止んで、かんかん照りの日差しが暑かった。
 折角だから「鐘の鳴る丘」にも寄っていこう。今日は実によく予定を変更する。「緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 ・・・」で知られるNHKの連続放送劇「鐘の鳴る丘」の舞台になった建物は今も健在であったが、とんがり帽子の時計台の修復工事をしていた。この建物は国の青少年更正施設「有明高原寮」であったが、1980年に穂高町が譲り受けてこの地に移転復元したものである。戦前は温泉旅館だったという。また少し雨が降ってきた。
 さあ、今度こそ「大王わさび農場」へ行こう。川沿いにある方を選んでセットした。やれやれである。着いてみると再びかんかん照りである。観光バスが何台も来ている。ここ「御法田大王わさび農場」は日本一の規模というだけあって流石に広大である。わさびソフトクリームを食べてみたが、色はともかくわさびの味は殆どしなかった。道祖神が幾つも並んでいるが、どうやら新作らしい。しかも造りが皆よく似ているところを見ると同じ作者ではないだろうか。黒澤明が「夢」を撮影したという水車がそのまま保存されている。とにかく水が豊富できれいである。わさびの畑には全て黒い日除けの布が掛けられている。広い畑を歩いているうちに一天俄にかき曇ってきて、土砂降りの雨になってしまった。暫く雨宿りしていて、小降りになった隙をみて車に駆け込んだ。
 この辺りは県歌「信濃の国」に歌われている「松本平」であり、その中の南安曇郡と北安曇郡の部分は「安曇平」と呼ばれていたが、昨今は「安曇野」という呼称が定着している。臼井吉見の同名の小説に由来するのであるが、我々地元の者にとっては実に苦々しい。母校の先輩ではあるが、許し難い。安曇平は信州の米倉であり、断じて「野」ではない。
 雨の中を豊科から更埴まで走り、稲荷山の「更埴ふる里漫画館」に車を停め、傘をさして土蔵の街を見て歩いた。この漫画館は当地出身の漫画家近藤日出造に因むものである。
 姨捨の棚田に行ってみた。雨は殆ど止んでいた。「48枚田」は畳1畳から数畳程度の広さの田圃が並んでいる。「棚田貸します制度」によりそれぞれに不在地主(不在耕作者?)が決まっているらしい。それにしても小さい。「一枚足りないと思ったら笠の下にあった」という話が実感できる。駄句碑がやたらと多い。長楽寺の前にある楽月庵に入って蕎麦を食べた。営業時間が11時から15時となっている。我々が入ったのが14時40分頃だったから、我々は本日最後の客だった。盛蕎麦を食べ、蕎麦ボーロを買った。姨捨駅に登る急な坂道を途中まで登ってみた。一人はここは曽遊の地だといい「前に来たときにはこの家で布団を干していた」などと本質的でないことをよく覚えている。ここからは善光寺平の眺めが素晴らしい。
   信濃では月と仏と俺が蕎麦
の句碑があり「作者不詳」となっている。これは一茶の句ではなかったのかしら。帰ってから一茶の句集を紐解いてみたが、確かにこの名句は載っていない。
 姨捨山放光院長楽寺には芭蕉翁面影塚がある。
   おもかげや姥ひとりなく月の友
の句碑である。日本三塚の一つと言われているらしいが、他の一つが陸前松崎の「松島やああ松島や松島や」ということらしいから、何をか言わんやである。寺の境内にも駄句や駄歌の碑が沢山あるが、名歌
   わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て
の歌碑が見当たらないのは何としたことだろうか。
 さあ、次は戸隠神社に行こう。走っている途中で一人が「信州大学教育学部に寄っていこう」と言い出した。今日は予定変更には慣れているから驚かない。しかも全くの通り道である。もうすぐ信州大学というところに長野県庁があった。「田中知事の部屋を見ていこう」という。予定変更の上塗りである。県庁の駐車場に車を停めて、庁舎に入ってみた。1階にある県民ホールの一郭にガラス張りの知事執務室がある。絵や縫いぐるみなどが多く雑然としている。康公は東京に出張していて不在であった。この執務室は居心地が良くないので、出張が多いのではないだろうか。夜のニュースで見たら、田中知事が出席した会議のことが報じられていた。
 裁判所、検察庁、合同庁舎などが並ぶ“霞ヶ関”の坂を登った先が信州大学教育学部である。ここに「信濃の国」の作詞者浅井洌の頌徳碑があるはずである。それらしいものは見当たらないので、図書館によって聞いてみたが、どうやら附属学校が移転した先にあるらしいがはっきりしない。担当副学長に確認して後日改めて訪れることにしよう。
 大分予定外の訪問が続いたが、最後に戸隠神社に寄って行こうと思い、最終目的地である今夜の宿をセットしてみて驚いた。何と2時間以上かかるではないか。これは大変だ、戸隠神社に寄り道してはいられない。神社は次回にして、戸隠村、鬼無里村経由で、今夜の宿である小谷村の姫川温泉に向かうことにした。
 長野市内を出ると間もなく国道406号線は裾花川沿いの山道に入り、「これが国道?」といいながら走ったが、殆どが狭い道であり、しかもかなり濃い霧に包まれて心細い思いでひた走った。大変な山村である。白馬で国道148号線に出てホッとした。予め「18時半頃に着く」と言ってあったので宿に電話した。「今白馬です」「それなら30分位で着きます」ということだった。並行して姫川沿いに走っている大糸線は南小谷までは電化されていて特急が走っているが、それより北は1両編成のディーゼルカーである。北小谷駅を過ぎて少し行くと新潟県に入った。「おかしいな、今夜の宿は長野県だけれど」と思っていると、トンネルを出た先の信号で右折して姫川に架かっている狭い吊橋を渡った所に姫川温泉「白馬荘」があった。この辺りは川が県境になっていて、今夜の宿は辛うじて長野県にある。丁度19時に着くことが出来た。着く前から玄関に出て待っていてくれたが、今夜の泊まり客は2組だけだった。
 遅くなったので早速食事にしてもらった。食事は別室に用意されていた。この宿は健康増進に気を遣っていると見えて、あちこちに“健康器具”が置いてある。部屋にも車輪付きの小さな器具が2つあった。試してみたが、くすぐったくて力が抜けた。仲居さんに「ここは長野県ですが、直ぐ隣は新潟県ですね。気分は長野県ですか、新潟県ですか」と聞いたら「気分は新潟県です」という。秋山郷と同じで、新潟県を通らなければ村役場に行けないだろう。

 風呂に入り、ぐっすり寝て7時頃に目を覚まし、露天風呂に入った。姫川沿いの別棟に造られた本物の露天風呂である。姫川の対岸は新潟県である。
   姫川を目の前にして露天風呂
   越後路を目の前にして湯浴むなり
 目の前の大糸線を1両編成のディーゼルカーが往き来している。昨夜と同じ部屋で朝食を食べた。
 9時に出発した。148号線を姫川沿いに糸魚川まで走ったが、隧道と洞門が多い。隧道はTunnelであり、洞門はShelterである。どちらも建設省の公式用語らしいが、「洞門」は要するに「木曽の桟」の現代版である。この区間には長い洞門が多い。糸魚川で給油して北陸道に入り、親不知まで走った。この辺りの北陸道はトンネルが多い。国道8号線に出て西に向かい、天険断崖の展望台に寄って親不知の景観を目の当たりにした。断崖が海に落ちていて全く「浜」がない。潮が引いたときには渡ることが出来るのだろうが、潮が満ちていれば全く通行不可能である。断崖が海に落ちる角度は89度である。平清盛の弟頼盛の夫人がここで子供を波にさらわれ
   親不知子はこの浦の波枕越路の磯の泡と消えゆく
という歌を残した。数百年の後、禿頭の友人を伴って此の地を訪れた歌人天和は、夕日に照り映える頭を見て
   親不知子はこの通り禿頭越路の海の波に輝く
と詠んだ。
 親不知から国道を少し西に行くと普通の海岸に出る。市振である。集落の東の端に大きな松の木があり、「青海八景 海道の松」と書かれている。山と海の間の僅かな隙間を海岸通、旧街道、国道8号線が並行して通っている。旧街道の海道の松の近くに「弘法の井戸」があり、その少し先に、「奥の細道市振の宿桔梗屋跡」の標柱がある。
   一家に遊女もねたり萩と月
はここで作られたという。現在は和泉氏宅になっている。停めておいた車の上にきれいな緑色の馬追が止まった。
   自動車の上に馬追ねまるなり
   面白や車の上のきりぎりす
 更に少し西に行くと、市振関所跡がある。現在は市振小学校になっていて、校庭の真ん中に関所榎の巨木が立っている。弘法の井戸の近くまで戻り、国道をくぐって長円寺を訪れた。境内に郷土の文豪相馬御風書の句碑
   一つ家に遊女も寝たり萩と月
がある。
 北陸道はトンネルばかりで面白くないので、帰りは国道8号線を走った。こちらは洞門続きである。峻険な海岸は約13km続いているというが、昔は大変な難所だったに違いない。ここに道路を造るのはさぞかし難工事だったことであろう。
 今日も又予定を変更して、糸魚川の美山公園にあるフォッサマグナミュージアムに寄った。フォッサマグナに関する展示は僅かで、様々な岩石や鉱物に関するものが大部分ではあったが、フォッサマグナと中央構造線の相違点が非常に良く分かった。要するに、フォッサマグナは一旦陥没してその後に出来たものであり、単なる断層ではないのである。岩石や鉱物の展示物がたくさんある中で特に珍しいと思ったのはスペイン産の立方体の黄鉄鉱である。
 北陸道を通って上越市に行き、先ず上杉謙信の墓がある林泉寺を訪ねた。宝物館には謙信直筆の書が沢山あり、頼山陽直筆の屏風もある。この屏風が気に入ったが、買って帰ると部屋が狭くなる恐れがあるので断念した。謙信の墓(供養塔)は古い物の後に大正6年に作られたという新しい大きな物が立てられているが、それでもせいぜい身長程度であり、意外に小さいという感じである。
 隣の春日山城趾には謙信を祀る春日山神社がある。東郷平八郎書の「春日山神社」の大きな碑が建っている。この神社は意外にも新しく、1901年に小川澄晴(小川未明の父)が建てたもので、9月13日に100年記念祭が催されたという。2日違いで参列できず残念だった。神社の隣には謙信の大きな銅像が立っている。「コシヒカリソフトクリーム」を食べてみた。米粒入りで大変美味しく、わさびソフトクリームよりずっと良かった。
 小丸山別院(本願寺別院)に寄ってみた。ここは親鸞上人新婚の家であった。親鸞は念仏弾圧により越後の国府に流されて、7年間をこの地で過ごした。境内には大きな銀杏の木があるが、「親鸞上人袈裟掛けの松」は虫害のために1991年に伐採されたという。一人のおじさんが親鸞像に敬礼して本堂に参拝していた。境内にある古代の竪穴住居のようなものは一体何だろう。
 五智国分寺にも寄ってみた。高さ25.85mの三重の塔があり、1770年に建てられた
   薬欄にいづれの花を草枕
の句碑がある。
   古池や蛙飛こ無水の於當
の句碑もあり、人造の古池がある。親鸞上人御配所草庵の中には親鸞の座像があり、外には大きな立像がある。老人ホームの遠足の一行が来ていた。
 越後に流された親鸞が上陸した居多ケ浜は「親鸞上陸の地」として、居多ケ浜記念堂や見真堂があり、「念仏発祥の地」の碑が建っている。百日紅がきれいだった。
 関川河口にある琴平神社には
   文月や六日も常の夜には似ず
の句碑がある。うっかりすると見逃しそうな小さい神社であるが、参道の両側には松の苗が10本植えられていて、「2000年の森 琴平の森 荒川町内会」と書かれている。しかし、既に半分は枯れていた。
   琴平の森は木になる前に枯れ
 神社の隣に「安寿姫と厨子王丸の供養塔」がある。白と紫の萩が咲いていた。直ぐ近くに風力発電の風車が見える。新潟ではあちこちで風力発電が行われているらしく、幾つも目に付いた。
 国道18号線を南下して高田に行き、前島密記念館に駆けつけた。閉館が16時で、その1分前に飛び込み、辛うじて本館だけ見ることが出来た。ここには本館、別館の他に前島記念池部郵便局があり、全て同じ明るい色の煉瓦造りである。店仕舞いして出てきた館長代理らしきおじさんが「多摩ナンバーだと東京からおいてですか」といって、前島密の偉大さに始まって、この記念館は国営であること、早稲田の奥島総長が来館したこと等々いろいろと話してくれた。おかげで別館に入館しなくても大方の理解が出来たのではないだろうか。
 市内の医王寺に芭蕉の句碑があるはずだから行って見ようとナビゲーターをセットして行って見ると、寺はあったが華園寺であり医王寺ではない。さては倒産して身売りしたかも知れないと思っていたら、親子3人が出てきたので聞いてみた。「ここも私共の寺ですが、医王寺はここではなく金谷にあります。その句碑は医王寺の前にある対米館にあります」と教えてくれた。医王寺の坊主が系列の華園寺に出向していて帰るところだったらしい。いいタイミングだった。早速金谷に行ってみると、何とここは私にとっては曽遊の地だった。去年の12月に錦君達と来た場所ではないか。その時は「日本におけるスキー発祥の地」として知られる場所ということで案内された。まさかその同じ場所に芭蕉の句碑があろうとは、その時案内してくれた県立看護短大の人も知らなかったに違いない。対米館の裏に草に埋もれそうになった句碑があった。
   薬欄にいづれの花をくさ枕
1806年に立てられたもので、五智国分寺のものより新しい。丘の上には1911年1月に日本に初めてスキーを紹介したオーストリアのレルヒ少佐の大きな像が建っている。1961年の建立である。この辺りには対米館をはじめ何軒も割烹旅館が並んでいる。高田の赤坂かしら。
 帰り道をセットしたら何故か「中郷」から上信越道に入れという。国道18号線が空いていたのを幸に景色を眺めながら県境まで走り、信濃町から上信越道に入った。姨捨SAに寄って一休みし、干し杏と林檎を買った。善光寺平の夜景がきれいだった。中央道は全く渋滞もなく22時前に帰り着いた。今日は雨にも降られなかった。
 今回は予定変更の連続であったが、結果的には随分中身の濃い旅になった。