鉄剣が語る大王斯鬼宮

 1968年に埼玉の稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれていた文字の解釈を巡って、大きく2つに見解が分かれている。「西暦471年には雄略天皇の勢力が関東まで及んでいた」とするのが学会の「主流」であり、「この地域に大王がいた」とするのが古田武彦氏を中心とする在野の研究者達である。私は勿論後者の見解を支持するが、百聞は一見に如かず、現場と現物を見ることが先決である。
 というわけで、忘月忘日、埼玉方面へ出かけた。8時45分に出発して、高速道路を使わずに走り、10時40分に大宮の氷川神社に辿り着いた。神社は大宮公園の中にあるが、生憎公園の一角で開催されている競輪に集まる人で周辺はかなり混雑していた。出雲系の3神須佐之男命、稲田姫命、大己貴命を祀るこの神社は式内社であり武蔵一之宮であり官幣大社である。長い参道があり、朱塗りの門をくぐると本殿との間に能舞台があり、巨木とはいえない楠が5本聳えている。出雲系の神社だから、二礼四拍手一礼で参拝した。日本では各地に神社が存在する。それらは元々はそれぞれのムラやクニの先祖神を祀っていた筈であるが、中央の勢力に征服されて、出雲系や天照系の神に主座を譲ったものと思われる。塩竃神社などはその様子がはっきりと分かる典型であるが、それ以外の神社でも祭神を見れば、著名な神の後に無名の神が名を連ねていることが多い。そのような場合は、「無名の神」が本来の祭神であろう。然るに、この神社では「無名の神」が祭神に名を連ねていない。ということは、この神社は、中央政権によって造られたものであるか又は元々祀られていた地元の神が抹殺されたかの何れかであろう。
 次の訪問地は、「埼玉県」の県名発祥の地行田市埼玉(さきたま)にある埼玉古墳群である。ここには5世紀の終わりから7世紀の初めにかけて作られたと推定される9基の古墳が群集し、国の史跡に指定されている。約30万m2が「さきたま風土記の丘」としてきれいに整備され、市民の公園になっている。餓になったので駐車場の隣にある「さかもと」という土産物屋に寄って「ゼリーフライ」を食べた。「衣の付いていないコロッケ」といった風情のゼリーフライは、おからにジャガイモや野菜を細かく切ったものを混ぜて油で揚げ、ソースで味付けしたもの。日露戦争の時、中国から伝わった野菜まんじゅうがそのルーツといわれている。形が銭型をしているので「銭フライ」と呼んでいたのが訛ってゼリーフライになったのだといわれ「銭富来」の字を宛てることもある。この店には埴輪などの他に懐かしい駄菓子や「ゴールデンバット」や「しんせい」などの懐かしいタバコなども売っている。かるめ焼きとシソ煎餅を買った。
 まず埼玉県さきたま資料館に入ってみた。入館料は50円である。古墳から出土した埴輪、鉄剣、太刀、鉄矛、鉄鏃、鉄製の挂甲(うちかけ鎧)、馬具、帯金具、鏡、勾玉などが数多く展示され、その多くが国宝に指定されている。中でも金錯銘鉄剣がハイライトである。鉄剣の表裏に記されている115文字を「西暦471年に記す。・・・私は雄略天皇に仕え、天下を治めるのを補佐した。・・・」と解読するのが学会の「主流」になっている。この主張の根拠をなす論法は、
 ・ 日本列島の政権担当者は近畿天皇家以外にない
 ・ 西暦471年当時の天皇は雄略である
 ・ 故に、大王といえば雄略である
である。日本古代史学の「主流派」が常用するこの論法の問題点は「日本列島の政権担当者は近畿天皇家以外にない」を暗黙かつ当然の前提としている点である。この鉄剣に記されている大王の名前と雄略天皇の名前「大泊瀬幼武」は、2つの音が共通であるとはいえるが、決して同じではない。更に、大王がいたのは「斯鬼宮」であり、雄略天皇の「朝倉宮」とは異なる。ごく素直にこの115文字を読めば、この鉄剣の持主は斯鬼宮の大王に仕えたのであり、「斯鬼宮」は「大和之斯鬼宮」「筑紫之斯鬼宮」などと書かれていないので「地元の」斯鬼宮ということになる。つまり、この地域の大王である。
   鉄剣が語る大王斯鬼宮
   関東に大王おはす梅の花
大和に雄略「大王」がいた時代に、九州や関東や東北にも大王がいたと考える方が自然である。現に、九州には「倭の五王」が存在し国際的にも認知されていた。「主流派」はこれすらも上記の論法によって強引に近畿の天皇に比定しているが、全く論理の体をなしていない。雄略天皇の国際交流に関する記録は国内外共に全く存在しないのである。
 日本最大の円墳といわれる丸墓山古墳に登ってみた。直径102m、高さ18.9mである。稲荷山古墳、将軍山古墳、二子山古墳などが見渡せる。古墳の間のきれいに整備された芝生では、大勢の市民が雲一つなく晴れて穏やかな休日を楽しんでいた。金錯銘鉄剣が出土した稲荷山古墳はこの地域では最も古い古墳で、いわゆる「前方後円墳」であったが、1937年に沼地埋め立て工事のために「方」の部分が削られてしまったという。現在「方」の部分を復元する工事が行われていた。いわゆる「前方後円墳」は「円」部と「方」部のつなぎ目に入り口があるから、「円」部と「方」部は前後ではなく左右に並んでいることになる。従って「前方後円墳」ではなく「左円右方墳」などと呼ぶべきである。稲荷山古墳には2人の被葬者がいる。粘土槨と礫槨である。粘土槨は5世紀末、礫槨は6世紀初頭らしい。粘土槨は盗掘されていて、金錯銘鉄剣などが出土したのは礫槨の方である。古墳の頂上には礫槨と粘土槨の模型が作られている。遠くから見ると、将軍山古墳には茶色の大きな石が点々と並べられているように見えたが、近付いてみたら埴輪だった。石室の内部が見学できる展示館が設置されている。
 帰りにもう一度「さかもと」土産物店に寄って埴輪と足袋せんべいを買った。因みに、行田は足袋の産地である。
 太田市別所の台源氏館跡にある新田義貞卿誕生地之碑を見に行った。以前は堀が廻らされていたらしいが、現在は住宅地になっている。この辺りは12世紀の中頃に源義国の子新田義重が荘園を開いたことによって発展した。
 300mほど西に円福寺がある。境内には茶臼山古墳があり、「国良親王御陵」と書かれた石柱が立っている。国良親王は伊那に縁のある宗良親王の子、従って後醍醐天皇の孫であるが、あの時代にこんな古墳を造ったかしら。「円」部の上には十二所神社が鎮座し、「方」部の麓には新田氏累代の墓と伝えられる20基余りの凝灰岩製の石層塔や五輪塔が一列に並んでいる。神仏習合のみならず、古墳まで一体化されている。
 2kmほど西へ行った新田町反町に反町薬師(照明寺)があり、境内に大きな「左中将新田公城址之碑」が建っている。かつてここに新田義貞の館があったといわれている。本堂には新田氏の家紋である大中黒を描いた幕が掛けられている。境内にある面白い木が目に付いた。
 北へ1.5kmほど行ったところに生品神社がある。ここは新田義貞旗挙げの地と伝えられている。境内には旗挙塚址、床几塚などがあり、旗挙げの時に軍旗を掲げたと伝えられるクヌギの大木の枯れた根元が安置されている。刀を押し戴いている義貞公の銅像の前でポーズをとって写真を写した。徳川家達書の「新田公挙兵六百年記念碑」、中曽根康弘書の「新田義貞公挙兵六百五十年記念」の碑、福田赳夫書の「新田義貞公並一門挙兵之地」の碑が建っているが、徳川氏は達筆、他は拙筆である。ここでも本堂の扉に命名札が貼られていた。この辺りの習慣らしい。
 この地域は「新田荘」「新田の里」といわれて新田義貞関連の史跡が多いが、忠臣の誉れが高く立派な神社や銅像が建てられ名歌に歌われた楠木正成に比べると影が薄い。