鴫立沢の秋の夕暮

忘月忘日 梅雨の晴れ間に大磯の鴫立沢を訪ねてみようと思って走り出した。前日の雨が嘘のように晴れ上がって30度を超える暑さである。国道129号線を南下し、国道1号線に入って暫く走り「花水橋」という風邪を引いたような名前の橋を渡って大磯町に入った。幾つ目かの交差点に「長者町」と書かれている。ここにも長者町があるが、長者町といえば
   貧乏をしても下谷の長者町上野の鐘のうなるのを聞く
というのがある。
 大磯駅の入り口を通過し「鴫立沢」という信号があったが、「鴫立庵」らしいものは見当たらないまま通り過ぎた。直ぐに町役場があったが門が閉まっていて入れないので、少し先まで行って引き返して「鴫立沢」の信号を曲がって海側の横道に入ってみたら、役場の裏門があり来庁者用の駐車場が空いていた。目の前に「鴫立庵」らしきものがあり小さな門があるが閉まっていて入れない。国道に出てみたら表門があった。
 「鴫立沢」といえば西行の名歌
   こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮
で知られていて、歌の雰囲気からすればこんな海辺ではなく山寄りの地を連想するが、『広辞苑』によれば
  鴫:チドリ目シギ科の鳥の総称。嘴・脚・趾などいずれも長く、水辺にすみ、水棲の小動物を食う。翼が細長く飛翔力が強く、長距離の渡りを行い、旅鳥として夏から秋にかけてわが国を通過するものが多い。タシギ・イソシギ・ヤマシギ・アオシギなど種類が多い。
となっているから、海辺でおかしくはないらしい。「鴫立庵」の入り口の看板には「西行法師がこの辺りの海岸を吟遊して名歌を残した・・・」と書かれているし、『広辞苑』には
  鴫立沢:神奈川県大磯町の西端にある地。西行の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」の和歌で有名。大淀三千風が庵住した鴫立庵がある。
と記述されているから“史実”として認知されている。入り口に「旧跡鴫立沢」の碑があり沢が流れている。その沢に覆い被さるようにして西行が見たかも知れないと思われる榎の巨木が立っている。入場料を払って入ってみると、十数人が句会をやっている。見れば超高齢者が多い。ここは西行縁の地であるにも拘わらず「鴫立庵」は俳諧道場である。17世紀の中頃に小田原の崇雪という人が五智如来の石仏を運んできて草庵を結び「鴫立沢」の碑を立てたのが始まりで、その後1765年に俳諧師大淀三千風が入庵して俳諧道場となり、現在は二十一世庵主が在庵しているという。敷地内には本屋の他に西行を祀る「円位堂」、虎御前を祀る「法虎堂」、観音堂、茶室等幾つかの建物と数え切れない程の歌碑、句碑、墓碑等がある。中でも佐佐木信綱筆の西行歌碑が目を引くが、小さな松の木に「西行笠掛けの松」と書かれているのは可笑しい。ゆっくり見て回っている中に句会が終わって俳諧師達が杖を突きながら帰っていった。「鴫立庵」の敷地内は落ち着いた雰囲気であるが、一歩外に出れば
   こころある身にもあはれは知られざる鴫立沢の秋の夕暮
というのが現在の実景である。川柳に
   鴫がたたぬとへんてつもない所
   苫屋より槇より鴫は人が知り
   鴫立つた跡にさびしき塚も立
   鴫立てば行脚もしばし立ち止まり
等というのがある。
 庵の外にある説明板に、「湘南」という地名は崇雪の「著盡湘南清絶地」に由ると書かれている。「鴫立庵」から国道1号線を西に向かえば直ぐに松並木である。街道には松並木が似合う。松並木の間に伊藤博文公縁の「滄浪閣」があり、現在は王子飯店の別館でレストランになっているが、ソーロー閣というのは語呂が良くない。『広辞苑』には
  滄浪:あおあおとした浪
  蒼浪:あおあおとした浪/老衰して髪などの乱れるさま
となっているから「滄浪閣」は「老人ホーム」と間違えられる恐れもありそうだ。
 松並木の終わる辺りが旧吉田茂邸である。吉田茂邸の入り口を探しながら邸に沿って海に出る道に入ってみると、海に遊びに来ている人達がかなりいる。西湘バイパスの側に入り口があったが「10時から15時まで」と書かれていて既に閉まっている。それにしても実に広大な敷地である。
 隣の二宮に徳富蘇峰の記念館があるので寄ってみることにした。看板に従って進んで行くとだんだんに道が狭くなりベンツは通れそうもない道で、線路をくぐり更に細い道を進んだ先の住宅の中にあった。まだ4時前だから大丈夫だろうと入ってみたが普通の住宅があるだけで記念館らしきものは見当たらない。庭仕事をしていたおばさんが親切に「今日は休みの日だけれど頼んであげる」といって一軒の家の玄関に行ってくれたが生憎留守だった。敷地内にある建物の一つが蘇峰館で、その家が管理をしているらしいが、週に3日だけ開館することになっている。
   博文は滄浪徳富は蘇峰なり
 諦めて帰ることにしたが、道が狭い上に一方通行や行き止まりがあり苦労して国道に戻った。こういう所に入り込めばナビゲーターは全く役に立たない。「島崎藤村旧邸」に寄ってみようと思い、地図を頼りに松並木を走ってみたがそれらしき家が見当たらない。線路沿いの道に入り込んだらだんだん狭くなり、とうとう車と両側の塀との間隔が5cmずつしかないようなことになり、ミラーを畳んで辛うじて通り抜けた。最後の所では通りすがりのお兄さんが誘導してくれて助かった。大磯は国道以外は酷道であり、ベンツどころか軽自動車すら通れない道が多い。仕方がないので滄浪閣に車を置いて歩いて探すことにした。古そうな家があったので近付いて見たが全く違う。幸い家の庭で車をいじっていたお兄さんがいたので聞いたら直ぐに分かったが、教科書の地図とかなり違うようだ。表に案内板があり「島崎」の表札がかかっていて、無料で開放している。建物には入れないが母屋を外から見ることができるし、パンフレットが置いてある。離れには人が住んでいるが、広大な吉田茂邸と比べて実にこじんまりしている。直ぐそばにお寺があるので「藤村のお墓がある寺に違いない」と思ったが入り口がない。ぐるぐる回って国道に出たところにある山門に辿り着いてみたら別な寺だった。国道を少し東に走ったところに「新島襄終焉の地」がある。
 国道を東進して相模川を渡って少し行ったところに小出川という小さな川があり、これが頼朝が馬から落ちて落馬したことで知られる昔の馬入川だったらしい。