おだまき流す白糸の滝

 「日本三大仇討」の中、「忠臣蔵」は得意科目であり、「伊賀越え」は先年現地視察をしたが、「曾我兄弟」に関しては不勉強であった。その反省の意味を込めて曾我兄弟に縁の史跡を訪ねて富士山を一回りしてみることにした。
 忘月忘日 8時半に出発して厚木に向かったが、珍しく渋滞に遭わずに小田原厚木道路に入ることが出来た。順調に小田原東まで走り、梅で有名な曾我の里に向かった。最初に訪れた宗我神社は曾我兄弟の養父曾我祐信が再興したと伝えられる旧曾我郷の総鎮守であり、祭神は曾我氏の祖先である宗我都比古命、宗我都比女命である。本殿に参拝すれば、目の前にある丸い鏡に自分の顔が映るようになっている。
 次に、曾我氏縁の城前寺に行った。兄弟が育った曾我城の前にあるのでこの名前が付けられたという。「曾我兄弟之旧跡」と書かれた石碑が建っている。この寺の裏には曾我兄弟と母満江及び養父で曾我城主である祐信、それに十郎の愛妾虎御前の墓がある。戒名は
 兄十郎  高宗院殿峯岩良雪大禅定門
 弟五郎  鷹嶽院殿士山良富大居士
 養父祐信 祐信院殿曾我城主長運徹真大居士
 母満江  陽春院浄誉故心大姉
 虎御前  崇清院浄岩高恩大姉
である。曾我兄弟発願之像と並んで、誰の作だか知らないが
   宗我神社曾我村役場梅の中
という駄句碑がある。境内には十郎が虎御前を忍んで腰を掛け笛を鳴らしたと伝えられる「忍石」がある。坊主一家が本堂の掃除をしていたので、色々聞いてみたら親切に教えてくれた。この寺は大きな保育園を併設している。
 寺の直ぐそばに「五郎の沓石」がある。かなりの高さだが、足をかけてみた。
 この地域で曾我兄弟とともに有名な歴史上の人物は二宮金次郎尊徳である。先ず尊徳の墓参りに栢山駅の近くにある善栄寺を訪れた。この寺は1215年に巴御前が創建したと伝えられていて、境内に御前の墓があり、墓地には尊徳の墓もある。真新しい「二宮総本家」の石塔の隣に苔生した尊徳の石塔があり、誠明院功誉報徳中正居士と刻まれている。墓地内には金次郎の父がかかった医師村田道仙の墓や、北条氏康夫人の墓などもある。北条氏康夫人の戒名は瑞渓院殿光室宗照大姉である。この墓地には「・・軒・・居士」「・・軒・・大師」という戒名が多い。境内には金次郎少年勉学の像があり、台座に「積小為大」と書かれている。尊徳の曾孫二宮四郎氏の揮毫になる歌碑
   おともなく香もなくつねに天地は書かざる経をくりかへしつつ
がある。この寺も「報徳保育園」という大きな保育園を併設している。
 直ぐ近くに「二宮尊徳誕生之地」がある。復元された生家の前には「回村の像」が立っている。「貧富訓の碑」もある。隣にある尊徳記念館に入ってみた。尊徳の生涯と事績が様々な展示資料やビデオなどによって分かり易く説明されている。尊徳のキーワードは「勤労」「倹約」「分度」「推譲」である。「分度」は「自己の社会的・経済的実力を知り、それに応じて生活の限度を定めること」、「推譲」は「将来や子孫のための蓄え、人や社会への寄付」を意味する。尊徳の偉大さを改めて認識することが出来た。尊徳の道歌
   飯と汁木綿着物は身を助くその余は我をせむるのミ那里
は分かり易い。尊徳が使った茶碗や草鞋、手紙や遺髪なども展示されている。尊徳は身長182cm、体重94kgと推定されるという! 入場料200円は安い。その昔、薪を背負いながら読書に励む二宮金次郎の銅像が全国の学校に立てられていた。そのミニチュアを売っていたので、大中小ある中から「中」を買った。
 飯泉山勝福寺、通称飯泉観音に寄ってみた。弓削道鏡の創建といわれ、阪東33観音の5番札所である。曾我兄弟が仇討ち祈願に日参し、二宮金次郎少年が観音経を聞いて一念発起したと伝えられている。境内に大銀杏がある。
 小田原を抜けて石橋山の古戦場を訪れた。1180年に挙兵した源頼朝は石橋山の合戦で大庭景親と伊東祐親に敗北を喫した。頼朝方の佐奈田与一義忠は敵将の俣野五郎景久を組み伏せたが、与一の刀は血糊がこびりついて抜けず、その間に敵の長尾新六に討ち取られたという。その与一の遺骸を葬ったのが与一塚で、その傍らには佐奈田霊社が建っている。この霊社は、与一が景久と組み討ち中、味方からの問いかけに対し「たん」がからんで声が出ず、そうこうしているうちに、敵に討たれてしまったという伝承に因んで、たん、咳、ぜんそく、声に霊験があるといわれ、「佐奈田飴」が売られている。一袋500円だった。与一が景久を組み伏せた畑では、戦の後作物がねじれてしまったということから「ねじり畑」といわれるようになったという。
 早川まで戻って石垣山一夜城跡に登ってみた。1590年、北条氏を討伐するため、水陸15万の大軍を率いて小田原城を包囲した豊臣秀吉は、小田原城を見下ろす海抜261.5mの笠懸山に城を築いた。石垣山の名は、この山頂に広大な石垣積みの城が築かれたことによる。秀吉は一夜にして城を完成させたように見せかけるため、築城後夜陰に乗じて周辺の樹木を切り払い小田原城から見えるようにしたため、夜が明けたとき、小田原城中の将兵は忽然と現れた白亜の城をみて驚き、志気を失ったといわれている。このことから、この城は「太閤の一夜城」といわれている。現在はその石垣の一部や井戸曲輪などが残り、歴史公園として整備されている。物見台に立って「連れション」の気分を想像した。
 箱根湯本に行き、正眼寺を訪れた。境内に
   山路来てなにやらゆかし菫草
の句碑がある。この他境内には曾我堂、曾我五郎鏃突石、曾我兄弟の供養塔などがある。
 少し戻って早雲寺に寄った。臨済宗大徳寺派の古刹である。北条早雲の菩提寺として、二代目北条氏綱によって創建された。天正18年豊臣秀吉は早雲寺を小田原攻めの本陣としたが、石垣山一夜城が完成すると伽藍に火を放ち、関東屈指の禅刹は灰燼に帰した。現在の本堂は1790年頃に再建されたものである。北条五代の墓がある。
 早雲 早雲寺殿天岳瑞公大居士
 氏綱 春松院殿前左京兆快翁活公大居士
 氏康 大聖寺殿前左京兆東陽岱公大居士
 氏政 慈雲院殿前左京兆勝岩傑公大居士
 氏直 松厳院殿前左京兆天圓徹公大居士
飯尾宗祇の墓と句碑
   世に帰るハ更にしぐれのやどり可奈
がある。宗祇は旅の途中、箱根湯本で客死した。
 あちこち見学している中に遅くなり、塔ノ沢の環翠楼に着いたのは17時15分だった。環翠楼は塔ノ沢の元湯で、慶長19(1614)年の創業、水戸光圀、静寛院宮(和宮)、伊藤博文、島崎藤村などが訪れた宿である。現在の建物は大正8(1919)年築の4階建数寄屋造である。大旦那、若旦那、女中衆達の出迎えを受けた。木造4階建てであるが、道路側から見ると3階建てで、玄関は2階にある。1階の「清流の間」に案内された。直ぐ前を早川が流れていて、静寛院宮五十年忌辰記念碑と歌碑がある。歌碑は、明治初期に当館の経営をしていた中田暢平が当館に静養に来ていた静寛院宮のために詠んだ
   月影のかゝるはしともしらすしてよをいとやすくゆく人やたれ
を勝海舟が揮毫したものである。静寛院宮は当館滞在中に薨去された。石段を上がると離れ「洗心亭」があり、その先に露天風呂がある。露天風呂の前に小さな滝があり、鏑木清方によって「あるはずの滝」と命名されたと説明がある。
 「清流の間」には「環翠廬」と下手な字で書かれた額が掛けられていたが、45号室には長三洲筆の「環翠楼」の額が掛けられている。こちらは達筆である。玄関には同じ書を寄せ木にした額が掛けられている。当館は明治初年まで「元湯」と呼ばれていたが、伊藤博文が登楼した折に作った詩によって「環翠楼」と呼ばれるようになったという。4階の大広間には和宮の遺品が展示されている。玄関には高さが2m以上もある大きな金庫が置かれている。その他、古い家具調度が数多く残されている。所々の窓に「さざ波模様」の大きなガラスが残っているのが珍しかった。「ルービンリキ」と書かれた鏡もある。

 環翠楼から国道1号線を登って行き、小涌谷を過ぎ、芦の湯を過ぎた先の二子山の麓に曾我兄弟と虎御前の供養塔がある。高さ3mほどの五輪の塔である。1295年建立というから随分古いが、殆ど忘れられそうになっているらしい。バイクに乗った若いカップルが立ち寄った。感心な若者である。
 箱根神社へ行って、先ず宝物殿に入った。宝物殿は大抵省略することにしているが、節を曲げて300円払って入館した。親鸞上人自作像、曾我物語、大石内蔵助金銀請払帖、静御前の笛(中国製の白磁)、豊臣秀吉禁制状、織田信長朱印状など様々な宝物が展示されている。伊賀上野の伊賀越資料館と兄たり難く弟たり難い。箱根神社は瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、木花咲耶姫命が祭神である。境内に朱塗りの曾我神社がある。曾我五郎は箱根権現の稚児だったという。本殿には平成4年と平成10年に天皇・皇后から神饌幣帛料が下賜されたことが記されている。菊の紋章を掲げている神社に対して何年か毎に神饌幣帛料を下賜しているらしい。一回一万円かしら。たくさんの絵馬が奉納されている中に中国語で書かれたものが何枚かあったが、何れも簡体字ではないから本土者ではなく台湾者だろう。国指定重要文化財の湯釜と浴堂釜が安置されている。どちらも直径が1m以上ある。
 旧街道の杉並木を見ながら走り、箱根関所資料館に行った。入館料300円であるが、勿来関文学歴史館と比べて兄たり難く弟たり難い。「箱根八里」の歌碑を見て、関所まで歩いた。復元された関所には当時の様子を表わす人形が飾られていて、ジイサマ、バアサマが説明役を務めている。80歳近いと思われるバアサマは、関所で「出女」の取り調べに当たった「人見女」の人形が生き返ったような風体に似合わず、にこにこと愛想良く名調子だった。箱根関所は小田原藩が管理を任され、20人ほどの役人が勤務していたという。今で言えば出入国管理局箱根支所長にあたる「番頭」は1500石だったというから家老級ということか。隣に鉄骨造りの鞘堂付きの関所が建設中だった。
 国道1号線を走り、三島を抜け、曽遊の柿田川湧水を左に見ながら東名沼津の入り口へ向かった。富士まで東名を走り、西富士道路に入って浅間神社を目指した。ナビゲーターで浅間神社をセットしようとしたが、富士宮市の浅間神社が登録されていない。「そんなはずはない」と苦労して探し当てたら浅間神社ではなく浅間大社だった。祭神は浅間大神と木花之佐久夜毘売命であり、ついでに姫の旦那である瓊々杵尊と父親の大山祇神も祀られている。境内にある湧玉池は国指定の特別天然記念物であり、富士の高嶺の白雪が解けて流れる真清水が溶岩の間から湧き出るもので湧水量3.6kl/sec、水温13度であるという。平兼盛の歌
   つかふべき数にをとらむ浅間なる御手洗川のそこにわくたま
がある。この池で身を清めて六根清浄を唱えながら霊峰に登るのが習わしだという。ここから富士五合目に行くバスが出ている。五合目まで登ろうと思ったが、昨日からお富士さんは全く雲の衣を脱いでくれない。
   三国一の富士の山甲斐で見るより駿河よい
といわれているが、全くその姿を拝むことが出来ない。この分では折角登っても何も見えないだろうし、雨が降っているかも知れないので、次回の楽しみに残すことにした。境内には重さ100kgの火山弾や当地出身の南極観測船「ふじ」乗組員赤池稔氏奉納の「南極の石」が無造作に置かれている。盗まれる心配はないのかしら。門前には富士山御神火祭の御輿が10基ほど並べられてあった。
 国道139号線を北上して大石寺へ向かった。随分昔に一度訪れたことがあったが、そのときに比べてキャンパスが随分拡大されているように思われた。三門には「日蓮正宗総本山」と書かれた看板が掛けられている。三門の南の広大な敷地には数棟の大きな坊が建てられている。昔は無かったと思う。三門の前に「清貫洞」と書かれた地下道らしきものがあるが、気味悪いので入らなかった。後で調べてみたら、三門前の公道を横切らずに南側の坊に行くための地下道らしい。三門から北に続く長い参道は以前来たときと同じくきれいに整備されていて、両側に坊が並んでいる。前回もそうだったが今回も殆ど人の姿が見られないのが不思議である。昨日まで第1回法華講夏期講習会が行われていたらしいが、それにしてもこれほど人がいないのは不気味である。オバサンが一人旅行鞄を引きずりながら一つの坊から他の坊に移動するのに出会っただけである。本堂(御影堂)の裏には巨大な奉安堂が立っているが、周囲を塀と忍び返し付きの鉄柵で厳重に包囲している。かつてここには白亜の巨大な正本堂が建っていたが、これほど閉鎖的、排他的ではなかった。この閉鎖的・排他的な雰囲気は何としたことだろう。まるでサティアンである。宗派創立750周年を記念して昨年10月に落成したというが、日蓮正宗と創価学会とのケンカの結果、創価学会が建てた正本堂を壊して新しい建物を建てたということらしい。この他に客殿も建て直したらしい。要するに、創価学会の息のかかったものは抹殺するということだろう。所詮は内輪もめに過ぎないが、それにしても創価学会と絶縁してなおかつ随分資金が豊富なのに驚く。あのサティアンの中で偽金作りでもしているのではないかしら。キャンパスの外周を一回りして、白糸の滝へ向かった。
 昨日から全く姿を見せなかったお富士さんが、突然雲の衣を脱いで偉容を現した。間近に見る富士は流石に高い。白糸の滝は、高さ20m、幅200mほどの玉すだれのような滝である。源頼朝はこの滝を見て
   この上にいかなる姫やおはすらんおだまき流す白糸の滝
と詠んだという。ここにはもう一つ音止の滝がある。こちらは高さ25m、幅5mほどであるが、かなり大きな音がしている。曾我兄弟が仇討ちの相談をしようとしたが滝の音がうるさく密談しにくいのを嘆いたところ、滝の音が止んだという。実際は、密談するのには格好な音ではなかろうかと思うのだが・・・。直ぐ近くに曾我の隠れ岩と工藤祐経の墓がある。何故か祐経の墓には鳥居がある。ともあれ、曾我兄弟はこの地でめでたく本懐を遂げたのである。祐経の墓では紫陽花が満開だった。土産物屋の店先で桃娘ならぬ桃オバサンが勧めるのにつられて桃を買った。帰って食べてみたが、店先で試食したほどではなかったがまあまあの味だった。