このわたをうるかと宗祇戻し橋

忘月忘日 7時前に出発して、稲城から中央道に入り、首都高速、外環と多少の渋滞はあったけれども順調に東北自動車道に乗ることができた。最初の目的地は栃木市の大神(おおみわ)神社にある「室の八島」である。9時30分頃に到着した。まだ早いせいか、参拝者は誰もいない。入口の石柱に「県社大神神社」とあるが、「県社」の2文字がセメントで埋められている。更に「下野総社」「延喜式内 下野国一之宮」とあるけれども、「宇都宮」は「一之宮」が訛ったというからここが一之宮というのはおかしいのではないか。下野の神社ナンバーワン争いはひとまずおくとして、この大神神社は大和の大三輪神社の分霊を祀っているという。境内には水琴窟があり、音を聞くための竹筒が立てられている。「室の八島」は芭蕉の『奥の細道』で知られているが、古くから「けぶりたつ室の八島」として知られた歌枕であり、
  煙たつ室の八島にあらぬ身はこがれしことぞくやしかりける 大江匡房
  くるる夜は衛士の焚く火をそれと見よ室の八島も都ならねば 藤原定家
  ながむれば淋しくもあるか煙立つ室の八島の雪の下もえ   源実朝
  東路の室の八島の秋の色それとも分からぬ夕けぶりかな   宗長
等多くの歌人による歌が残されている。社殿の傍らに藤原実方の歌
  いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の烟ならでは
と清少納言の歌
  志もつけや室の八嶋に立煙思ひありとも今こそは志れ
を背中合わせにした歌碑がある。親密な関係にあった2人の歌が1つの碑に刻まれているのは珍しいという。
  あの世では背中合はせの寒さかな
芭蕉がこの地を訪れて詠んだ
  糸遊に結びつきたるけぶりかな
の句碑がある。芭蕉はここで
  入りかかる日も糸遊の名残かな
という句も作っているが、どちらも『奥の細道』には入っていない。因みに「糸遊」は陽炎の意で春の季語である。湧き水のきれいな池には8つの島があり、橋で結ばれている。それぞれの島には小さな祠があり、筑波神社、天満宮、鹿島神社、雷電神社、浅間神社、熊野神社、二荒山神社、香取神社の支社が祀られている。つまりは“エイリアス”であるが、何故か浅間神社だけが大きい。一通り敬意を表して回った。池には鯉が泳いでいたが、冷たい湧き水との温度差のためか靄のようなものが発生しているらしく、水面がなんとなく白く見えた。境内は杉をはじめとする樹木で小暗く神寂びていた。お茶を買おうとしたら自動販売機のガラスに雨蛙がしがみついていたのが可笑しかった。
  ガラス戸にへばりつきたる蛙かな
 次に、壬生町にある紫雲山壬生寺を訪ねた。住宅の間の細い路地を入ったところにあり、併設している保育園では子供達が水遊びをしていた。ここは慈覚大師円仁生誕の地である。円仁が794年にこの地で誕生したときに使った産湯の井戸が残っている。水道水ではないかと半信半疑ではあったが、作法通り“井戸水”を飲んだ。推定樹齢350年という大銀杏が境内を覆っている。
 道鏡塚のある龍興寺はここからは近いので、再訪してみることにした。以前参拝した御利益があったとは思えないが、異常に大きな音がする水琴窟が珍しく、もう一度聞いてみたかった。着いてみると、山門の工事をしていた。コンクリートの山門を造るらしい。水琴窟には以前とは違って音を聞くための竹筒が立てられている。おかしいなと思って聞いてみると、ごく普通の音が聞こえるではないか。以前訪れたときに、余りに大きな音がするので「マイクロホンとスピーカーを埋設してあるに違いない」と疑っていたが、今回の再訪でそれが確認できた。小さいものを無理に大きく見せるようなことをしてはいけない。大きな白樫の木はそのままだった。
 宇都宮のど真ん中にあるカトリック松が峰教会は大谷石で造られているという。寄ってみたが、残念ながら改修工事中で覆いがかけられていて、殆ど見ることができなかった。
 そういうことであれば、大谷石の産地へ行ってみるに如くはない。先ず、大谷観音を訪れた。坂東19番札所であり日本最古の石仏であるという。石の崖に千手観音が彫られている。「千手」とはいうけれど実際には42本である。
  四十二を千と数える観世音
観音様の他に、釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊が彫られている。宝物館にはこの地で発掘された約11000年前の人骨等が展示されていた。
 直ぐ近くにある大谷資料館へ行ってみた。玄関では、親蛙の背中に5匹の子蛙が乗っている大谷石の彫刻が歓迎してくれた。「六蛙(むかえる)」と書かれている。ここは大谷石の採掘場であるが、既に採掘が終わった空間を一般に公開している。空間の容積は約300000m3で、約1000万本採掘したというが、説明板には300000m2と書かれている。東京ドーム程の空間であるということらしい。見学できるのは地下30m辺り迄であるが、現在は地下40mで採掘が行われているという。既に採掘が終了した空間は、戦時中は軍需工場に使われたこともあるそうだが、最近では政府米等の貯蔵庫に使われたり、コンサート、美術展、演劇、ファッションショー等の催しにも使われているという。坑内の気温は夏でも13度、冬は2度である。
 大谷石は学名を流紋岩質角礫凝灰岩といい、火山灰や砂礫が海底に沈殿して凝固したものであるという。奈良時代に下野国国分寺を建設したときから利用されているらしい。以前は手堀りであったが、1960年頃から機械堀りに変わったという。この辺り一帯は「大谷石文化圏」であり、門柱、塀は殆ど例外なく大谷石が使われている。大谷石造りの立派な蔵も多く見られる。
 国道293号線を北上する途中で「かつ饗」というレストランに寄って昼食を食べた。かなり大きな豚カツですっかり飽になった。湯津上村にある法輪寺を訪ねるために、上河内、氏家、喜連川と進み、小川町から国道294号線に入った。この辺りも大谷石文化圏である。約1100年前に慈覚大師が開山した法輪寺は曽遊の地であるが、西行桜が見たくて再訪した。前回は北から来たけれど、今回は南から来たので勝手が違った。駐車場は鮮明に覚えていたが、寺そのものは記憶と全く違っていた。漠然とした記憶より随分大きな寺である。石段を登ったところにある茅葺きの山門には「正覚山」と書かれている。山門を入ってみるとだんだんに前回の記憶が蘇ってきた。鐘楼の脇に大きな枝垂れ桜があり、
  盛りにはなどか若葉の今とても心ひかるる糸桜かな
という西行の歌の説明がある。これは如何にも西行らしい名歌だと思うけれども、文献には集録されていない。由緒を教えてもらおうと思って庫裡に寄ってみた。大黒だか下女だか分からないオバサンが出てきて、さも面倒くさそうに説明書きを出してくれたが、外の説明板に書かれている以上のことは何も書かれていなかった。「西行桜」を売り物にしている寺としては何ともお粗末である。この寺にはもう一つ売り物がある。「日本一大きな天狗の面」である。前回確かに見たのだが、今回はどこにあるのか分からない。おかしいと思って探したら、下の段の駐車場の直ぐ前の建物が天狗堂だった。大、中、小と3個の天狗の面が飾られているが、数は勿論大きさでも迦葉山には負けているのではないかと思われる。西行桜と天狗堂は直ぐそばにあったように記憶していたが、当てにならないものである。説明板を見ると「光丸山及び正覚山実相院法輪寺」となっているから、天狗堂のある光丸山と西行桜のある法輪寺は一応は別会社らしい。
 国道294号線を北上して黒羽町役場から国道461号線に入り、雲厳寺に向かった。雲厳寺は奥の細道の途次芭蕉が仏頂和尚の山居を訪ねたことで知られている。4時閉門となっているので、急いで駆けつけた。朱塗りの太鼓橋を渡り、長い石段を登った上に立派な山門がある。境内には芭蕉の句
  木啄も庵はやぶらず夏木立
と仏頂和尚の歌
  たて横の五尺に足らぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば
が一つの碑に刻まれている。境内の掃除をしている中学生達がいて、通りかかると「こんにちわ」と元気よく挨拶をする。聞いてみると、この直ぐ下にある須賀川中学の3年生達で、一泊の林間学校に来ているという。今朝8時に来て座禅を2時間やり、しっかり活を入れられ、今は庭の掃除と夕食の準備をしているところだという。皆実に礼儀正しく、良く躾られている。須賀川中学では素晴らしい教育をしているに違いない。この中学生達を見ている限り、日本の将来は安泰である。通りかかったカス坊主に「仏頂和尚の山居跡は何処ですか」と尋ねたら「この上ですが、藪の中です」と仏頂面で誠に素っ気ない。中学生達と比べると雲泥万里の違いである。こんな坊主に活を入れられては、折角の爽やかな中学生達が汚染されるのではないかと心配になった。山門の前で仏頂面をして写真を写して、雲厳寺を後にした。
 黒羽町の銀座に戻り、常念寺に寄って
  野を横に馬牽きむけよほととぎす
の句碑を見た。この句は「短冊得させよ」と願う馬子に与えたものということであるが、その馬子の子孫はその短冊を家宝として大切に保存してあるだろうか。
 修験光明寺跡は田圃の畦に真新しい小さな標識が出ていたので、車を停めて辺りを見回したがそれらしきものは見つからない。標識の指し示す方向の30m程先の家の前に白いシャツ(下着)を着て坐っていたオバサンがいたので聞こうと思って近付いていったら慌てて家の中に入り、グレーのTシャツを着て出てきた。
「光明寺跡は何処ですか」
「今お宅が車を停めたところの前です」
 戻ってよく見ると、田圃の畦を渡った直ぐ目と鼻の先の林の中に
  夏山に足駄を拝む首途哉
の句碑があった。先程の標識と句碑に登る数段の階段は私の来訪に備えて昨日新設されたばかりらしいが、標識の向きが90度ずれていたためにオバサンを慌てさせることになった。
 西教寺には曽良の句碑
  かさねとは八重なでしこの名なるべし
がある。檀家総代会議が終わってぞろぞろとオジサン達が出てきた。
 篠原玉藻稲荷神社に辿り着くのには苦労した。案内書の説明図に従って車幅より狭いのではないかと思われる田圃道に入ったが稲荷らしきものは見当たらない。農家のオジサンに聞いたら、この田圃道を抜けたところにあるという。バスで来ることを前提に作られた案内図だったので苦労したが、車で来る場合は一筋違う通りを来れば何のことはなかったのだった。たくさんの蛙に歓迎されながら参道を歩いた。玉藻稲荷神社は、玉藻の前(九尾の狐)の神霊を祀る神社である。玉藻の前は、絶世の美女に姿を変えて中国、インドで王に仕え、日本に渡って鳥羽上皇に仕え悪事を尽くしたという伝説の妖狐で、謡曲「殺生石」で知られる。九尾の狐は、宮廷で鳥羽院を殺すことに失敗し、那須野に逃げ、この地で蝉に化けて桜の木に止まっていたが、狐の姿が池に映ったので、これが三浦介義明の軍勢に見つかってあえなく殺されてしまう。その池が、神社の境内の「鏡が池」であるという。殺された狐は「殺生石」に姿を変えたと伝えられる。
  秣おふ人を枝折の夏野かな
の句碑と実朝の歌碑
  武士の矢並みつくらふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原
がある。
 6時を過ぎていたが折角だから那須町の芦野にある遊行柳に寄っていくことにして、国道294号線を北上した。ここも曽遊の地である。遊行庵に車を停めて歩いていった。入口の標識が新しくなっている。前回来たときは丁度田植え時だったが、今は稲の穂が出揃っている。国道の柳並木は前回の時より大きくなっているように思われた。
 我が老朋友の母校である那須農業高等学校黒田原分校即ち現在の那須高校や那須町役場等のある黒田原を通って一路那須湯本へ向かって急いだ。宿の辺りはかなり濃い霧に包まれていた。早速風呂に入った。湯は白濁していて硫化水素の臭いがする。湯船は木であるが、大きなガラス窓の外は直ぐ庭になっているので、露天風呂のような気分である。風呂から上がって直ぐに食堂へ行き、遅めの夕食を始めた。食事を始めた頃から夕立が降り始め、食事が終わる頃には上がっていた。

 朝風呂に入った。風呂の外は庭から山に続いていて、人工物は一切目に入らない。
   山も庭も動き入るるや那須の風呂
 ここは海抜860mあるそうだが、既にだいぶ暑くなってきた。この宿は別荘地の中にあり、周囲には建物は見当たらない。昨夜登ってきた道を下り始めたが、登り方向は大渋滞である。何か特別な催しでもあるのかも知れないが、東北自動車道まで渋滞が続いていた。殆どが他県ナンバーの車である。
 渋滞を尻目に山を下りて、高久の高野山地蔵院高福寺に寄った。高久は『奥の細道』では省略されているが、『曽良旅日記』に記されている。この寺には芭蕉と曽良の句碑
  落来るやたかくの宿のほととぎす
  一と間をしのぐミじか夜の雨
がある。寺から800m程北へ行ったところにある高久家は芭蕉達が宿泊した高久覚左衛門の子孫であり、家の前の道端に「芭蕉二宿の地」の碑がある。隣には芭蕉翁塚「杜鵑の墓」と「芭蕉庵桃青君碑」がある。「芭蕉庵桃青君碑」の左側面には句が刻されている筈であるが残念ながら磨り減っていて読めなかった。
 国道4号線から東に入って昨日来た道を戻った。芦野で国道294号線に入ると直ぐに「遊行柳」がある。「遊行柳」を訪れるのはこれで3度目ということになるが、今までの2回は夕方だったので、真昼間は初めてである。車を停めて写真を撮った。
 境の明神を目指して国道294号線を北上した。既に大谷石文化圏からは外れたらしい。栃木県那須町と福島県白河市との境に神社が2社ある。神社の表示によれば、栃木側が境の明神(玉津島神社)、福島県側が境明神社であるが、境明神社の説明書きには「岩城が玉津島神社、那須が住吉神社」となっている。物の本によれば、奈良、平安の頃は、国境の明神に男女二神を祭るのが通例で、ここの明神二社もこの様式で祭られており、内は女神(玉津島明神)が守り、外に対しては男神(住吉明神)が守るという考えから、自分の側が「玉津島神社」、相手側が「住吉神社」であるということらしい。ここは曽遊の地であるが、前回は国道を挟んで神社の向かい側にある「白河二所関址」の大きな碑を見なかったので、今回はそれもしっかりと見学した。
 白河市の町中にある「宗祇戻し橋」を見に行った。ここも『奥の細道』では省略されているが、『曽良旅日記』に記されている。車を置くところがないので近くの
「TSUTAYA」に停めて歩いた。白河は暑かった。三叉路の小さな三角地に「宗祇戻し」の碑、「右たなくら 左いしかハ」と書かれた道標、
  早苗にも我色くろき日数かな
の句碑、東北川柳五花村の句碑
  鮎の歌宗祇を戻す面白さ
と石の地蔵が所狭しと並んでいる。宗祇は白河に立ち寄ったときに綿を背負った少女に出会い、戯れに「この綿は売るか」と尋ねると、少女は
  阿武隈の川瀬にすめる鮎にこそうるかといへるわたはありけれ
と歌で答えた。その歌の巧みさに、宗祇は舌を巻いて旅の途中で京に戻ってしまったという。「このわた」は海鼠の腸、「うるか」は鮎の腸である。
  このわたをうるかと宗祇戻し橋
隣の大谷菓子店に寄ってみたが、当店自慢の「銘菓 宗祇戻し」も「芭蕉まんじゅう」も無かったので、「宗祇戻し」の字が書かれている塩羊羹を買った。前回来たときにも感じたが、今回も又白河は松平定信の倹約の教えを今に伝える町であることを実感した。
  倹約の教を今に関の町
 国道4号線に出て須賀川を目指して北上しながら、前回ラーメンを食べた店が健在であることを確認することができた。須賀川では市役所に車を停めて「本町軒の栗通り」を歩いた。各店の前には句を書いた小さな四角い提灯が掛けられている。須賀川は芭蕉を大切にしていることが分かる。通りから少し入ったところに「軒の栗(可伸庵跡)」があり、
  世の人のみつけぬ花や軒の栗
の句碑がある。30坪程の敷地に4代目の栗の木が2本ありたくさんの実を付けている。「本町軒の栗通り」と交差している大きな通りが「本町通」であり、かつて芭蕉が逗留した相楽等躬宅は、現在この通りに面して建っているNTT東日本須賀川営業所や伊藤薬局がある辺りから可伸庵跡に至る広大な一角にあったという。本町通にも俳句提灯が掛けられている。市役所の敷地内にある「芭蕉記念館」に寄った。前回「軒の栗」を見なかったことが悔やまれたが、これで須賀川は完璧である。須賀川も暑かった。
 須賀川の南東にあり阿武隈川にかかる「乙字の滝」を見に行った。幅は50m程あるが、落差は3m位しかない。それでも水量が多いので大きな音がしている。
  五月雨の滝降うつむ水かさ哉
の句碑がある。
 今回最後の訪問地勿来の関へ向かって走り出した。ナビゲーターを「勿来の関文学歴史館」にセットして、5時の閉館時間に間に合うようにと一目散に走った。実に順調に走って4時半前に到着することができた。祝着至極である。ところが、豈図らんや、弟又然らんや! 「改修工事のため2000年6月1日より2001年3月31日まで閉館」となっているではないか。已んぬる哉。入れないものは致し方ない、今回は外を見ることにしよう。山道に沿ってたくさんの歌碑がある。
  吹く風を勿来の関と思へども道もせに散る山桜かな       源義家
  風流の者しめや於久能田植う多                芭蕉
  名古曽世になこその関は行かふと人もとがめず名のみなりけり  源信明
  みるめ刈る海女の往来の湊路に勿来の関をわれすえなくに    小野小町
  名古曽とは誰かは言ひしいわねども心に壽うる関とこそ三連   和泉式部
  東路はなこその関もあるものをいかでか春の越えて来つらん   源師賢
・・・等、全部で17程あった。ここは30年以上前に訪れたことがある曽遊の地であり、その時から義家の歌碑と芭蕉の句碑があったことは間違いないけれど、当時の記憶に結びつかない。多くの碑がその時以降に立てられたものであることは記されている建立年月日から分かるが、それにしても全く記憶が蘇らない。抑もこんな山の上ではなかったように思うのだが・・・。源義家の大きな銅像もできている。義家弓掛けの松、鞍掛の松という松の大木が2本あるが、1本は枯れて根元から2m程が残っているだけである。
 海岸に下りてみると、益々「何故当時の街道が海岸沿いでなく、わざわざ山道を選んだのか」が理解できない。今後の研究課題にしよう。「いわき勿来」から常磐自動車道に入り、薄雲を通してきれいに見える真っ赤な太陽を右手に見ながら走った。流石に餓になってきたので、中郷SAに寄っておにぎりとソフトクリームで腹ごしらえをし、車にも燃料を補給した。「七つの子」を初め野口雨情の歌碑が幾つかある。
 今回の訪問は芭蕉尽くしで曽遊の地が多かったが、実に中身が濃く有意義であった。今や、『奥の細道』の栃木と福島は完璧といっていいだろう。大した渋滞もなく帰り着くことができた。