神ぞ知る磐井の墓か月かなし

 我が国では古代史学が全く未成熟、というより「学」の体をなしていないというべきである。歴史を科学的に解明しようという姿勢が見られない。「天皇は万世一系である」や「正史『日本書紀』の記述は史実である」を当然のあるいは暗黙の前提としたり、逆に「『古事記』や『日本書紀』の記述は創作である」や「中国の文献には間違いが多い」を当然の前提にして古文書の記述を都合の良いように自由自在に「修正」したり、・・・、凡そ科学とは相容れない手法を駆使して憚らない学者モドキが蔓延っている。「史実」は一つであり、史実を科学的に解明することが歴史学の第一の使命である。「評価」や「願望」が先にあって、それに合わせるように「史実」を創作してもらっては困るのである。
 というわけで、倭国の史跡を探訪する計画を立てた。最初の訪問地は福岡県桂川町にある王塚装飾古墳である。王塚古墳は、昭和9年に発見され、多数の馬具・武器・鏡・装飾品・土器等を出土している。墳形は前方後円墳で、前方部は半分ほど削られているが、復元すると約80mほどの大きさである。墳丘はきれいに芝が植えられているが、中にはいることは出来ない。その代わりに隣に建てられている円形の王塚装飾古墳館の中に横穴式石室が復元され、出土品が展示されている。石室には石屋形や石枕・灯明台などがあり、石室の壁面には、赤・黄・緑・黒・白の顔料で彩られた靫・盾・騎馬・星・双脚輪状文・蕨手文・三角文などの文様がいたるところに描かれている。その豪華絢爛さは我が国における装飾古墳の白眉として、昭和27年国の特別史跡に指定されている。
 この古墳は「前方後円墳」といわれているが、石室の入り口が円部と方部のつなぎ目に位置している。通常は入り口のある方を正面と考えるから、円部と方部が前後ではなく左右に並んでいるのである。従って「左円右方墳」といわなければならない。
 装飾古墳は九州に多いが、出雲や関東、東北にも多数分布している。このことは、九州と出雲、関東、東北が密接な関係を持っていたことを意味する。『常陸国風土記』には「倭武天皇」巡幸の記述などが十数カ所ある。これは『宋書』に「・・・東の毛人を征すること五十五国・・・」の上表文が記載されている倭王武のことではないか。そうだとすれば、鹿島神宮の由来や防人の出身地なども容易に説明が付く。倭武天皇即ち倭王武の事績が『記紀』では「ヤマトタケル」の東国遠征譚として記述されているのではないだろうか。
 「今日中に太宰府を見ておけば明日が楽になる」と思って、太宰府政庁跡へ急ぐことにした。途中先日の大雨で大分川が氾濫して道路が決壊している箇所があって焦ったが、明るい中に辿り着くことが出来た。教科書によれば「太宰府」は大和政権の九州支庁であり、元は博多の那の津にあったが、白村江の敗戦(663年)後大陸からの侵攻に備えてこの地に移し、その防衛のために2つの朝鮮式山城大野城と基肄城を築き、平野部には水城を構築したという。しかし、太宰府には「都督府古趾」があり、「大裏」や「紫宸殿」という地名がある。地元では「太宰府政庁」などとはいわず、「都府楼」と呼び習わされている。「都督府」は「都督」のいた役所であり、『宋書』によれば、「倭の五王」の「済」と「武」は中国の天子から「都督」の称号を与えられている。「都督府」があり「大裏」や「紫宸殿」があったということは、ここがその時期の我が国の代表政権の所在地だったということである。あの有名な上表文で知られる倭王武が大和政権の雄略天皇であるなどという荒唐無稽な「史偽」がいまだに教科書に載っていることが不思議でならない。倭王武がこの地から南朝劉宋の順帝に使を遣わして上表文を送ったと思うと、血湧き肉躍る感慨を覚えずにはいられない。
   梅ヶ香や倭王讃珍済興武
   都府楼の春風今に倭の五王
 丸い礎石が整然と並んでいるが、これらは勿論後の時代の物である。広大な政庁跡で模型飛行機を飛ばしているオジサン達がいた。
 隣にある観世音寺は『源氏物語』にも登場する古刹で、斉明天皇追悼のために天智天皇の発願によって建てられたといわれている。完成は奈良時代。古くは九州の寺院の中心的存在で、たくさんの堂が立ち並んでいたが、現在は江戸時代初めに再建された講堂と金堂(県指定文化財)の二堂があるのみである。『源氏物語』の原型は九州にあった、という可能性があるらしいが、どうやらこの寺にも改竄された「正史」が語り伝えられている可能性が高い。「法隆寺は観世音寺が移築された」という説もあるらしい。有名な「日出づる処の天子書を日没する処の天子に致す。恙無きや。・・・」の国書の発信者が聖徳太子ではなく九州王朝の多利思北孤であることは疑う余地がないが、観世音寺が法隆寺に移築されたとなれば、法隆寺は多利思北孤を祀る寺ということになるのではないだろうか。「移築」かどうかはともかくとして、少なくとも釈迦三尊像の光背に刻まれている銘が聖徳太子ではなく多利思北孤に関する記述であることは間違いない。更なる研究の進展が待ち遠しい。往時の大きさを偲ばせる日本最古の梵鐘(国宝)や、平安時代から鎌倉時代にかけての仏像(全て重要文化財)が数多く残っているらしいが、暗くなってきたので、境内の脇の民家の軒先にある僧正玄肪(正しくは日偏)の墓に敬意を表してお茶を濁した。
 折角だから天神様にも敬意を表していくことにした。卑弥呼や倭王武に比べれば天神様などはついこの間の人に思える。撫で牛を撫で、「東風吹かば・・・」の歌碑を見て、本殿に参拝したら、祢宜がこぼれた賽銭を拾い集めて賽銭箱に入れているところだった。太宰府天満宮は官幣中社である。
 筑紫野市の二日市温泉にある大丸別荘は慶応元年の創業である。現在、大正7年築の「大正亭」に6室、昭和45年築の「昭和亭」に6室、平成元年築の「平安亭」に24室があり、客室は全て2部屋または3部屋から成る。予約した「大正亭」は一番奥にあり、迷路のような廊下を案内されて辿り着いた。通された「雲井の間」は2階にあり、12畳と10畳の2部屋で、何と!昭和24年に天皇が大牟田巡幸の折りに2泊した部屋だというではないか! 但し、当時のママ残っているのは10畳間の床の間だけらしい。それでも、12畳間には几帳や古い桐タンスなどが置いてあり、それらしい雰囲気を醸し出している。

 朝起きてみると、和式旅館には珍しく、部屋に新聞が届けられていた。「西日本新聞」である。6千坪の敷地に3千坪の庭園はとても町中とは思えない。九州は紅葉が少なかったが、ここの庭は紅葉がきれいだった。
 館内を見物して出発しようとしたが、玄関がどちらにあるのか分からなくなってしまいうろうろしているところに女中が来合わせて遭難せずに済んだ。それにしても迷路である。館内のあちこちに色紙が飾られていた。西条八十、吉田正、高木東六、遠藤実、霧島昇、前畑秀子、小金馬、スパイダーズ、・・・。勿論天皇の色紙はない。
 九州自動車道と平行して大丸別荘の前を通っている県道31号線を北上して春日市にある須久岡本遺跡に向かった。途中右手に大野城のあった山を見ながら走っていると、建物の間から一直線に木が植えられている「水城」の名残が見えた。巨大な朝鮮式山城大野城がつくられたきっかけは、663年の白村江の敗戦であり、唐・新羅軍の来襲に備えた防衛体制整備の一環として、665年に佐賀県基山町にある基肄城とともに造営されたといわれている。このとき整備された防衛施設の配置状況を見れば、九州北部と山口県に限定されている。このことから守るべき中心が大和ではなく太宰府であったことが明らかである。また、水城は長さ1.2km、幅は80m、高さ13m の土塁で、664年に造られたといわれていた。しかし、最近の発掘調査で、水城の土塁の内部にもっと古い時期に造られた「本来の水城」が見つかり、放射性炭素による年代測定の結果5世紀中頃の構築であることが明らかになった。
 国指定史跡須久岡本遺跡は春日市の住宅地の中にあり、奴国の丘歴史公園として整備され、奴国の丘歴史資料館が建てられている。この地域には多数の遺跡が集中していることから、ここが一つの国の中心であったことは間違いないけれど、『魏志倭人伝』の記述に従えば、奴国をここに特定することには大いに疑問がある。資料館は入場無料である。元教員と思しき2人のオジサンがいた。一人が「どちらからおいでですか」などと声を掛けてきて、親切に説明してくれた。この遺跡は弥生中期のもので、100基を超える甕棺のほか土壙墓・木棺墓9基が発掘され、銅鏡、銅剣、銅矛、銅戈、土器、石器、勾玉などの装飾品に加えて銅鏃鋳型などが出土し、青銅器や鉄器、ガラス製品を製造していた工房跡が発見されている。出土している鋳型から銅鏃などが効率的且つ大量に生産されていたことが想像される。きれいな青色のガラスの首飾りが見事だった。この遺跡からは中国製の絹が出土していることも注目に値する。丘の上には王墓の上石と天文台のようなドーム屋根に覆われた共同甕棺墓地が2基あり、様々なサイズの甕が展示されている。
 県道49号線を西に向かい、福岡大学の脇を通り、瓊瓊杵尊の墓ではないかといわれる吉武高木遺跡の近くを通って日向峠を目指した。日向峠の北には高千穂峰がありクシフル峰(高祖山)が続いている。つまり天孫降臨の地である可能性が高い。明治維新の直後に薩長政権は天孫降臨直後の神代三代即ち、初代瓊瓊杵尊、二代彦火火出見尊、三代ウガヤ葺不合尊の墓を宮崎県つまり日向の高千穂峰に近い鹿児島県内の川内市、溝辺町、吾平町に「公定」した。しかし、これには全く歴史学的根拠がない。出雲族の勢力圏だった九州北部を、海人国(壱岐か対馬)が侵略し(「国譲り」)、占領軍総司令官乃至総督として瓊瓊杵尊が送り込まれたのであろう。それが天孫降臨であり、GHQが置かれたのが日向地域だったと推定される。吉武地区の遺跡群はこの地域が一つの国の中心であったことを物語っている。
   天照に譲りし国の春霞
 ウガヤ葺不合尊の息子である神武天皇が東に向けて発進した日向はまさにこの地であろう。その日向峠に立ってみようと思ったが、生憎道路工事中で車を停めることが出来なかった。「日向峠」と書かれた大きな石碑が建っているのを眺めながら通過した。
 高祖山の西斜面には怡土城址がある。怡土城は758年から768年にかけて吉備真備らによって築城された中国式山城である。城域内に彦火火出見尊、玉依姫(神武天皇の母)、気長足姫(神功皇后)を祀る高祖神社がある。
 三雲遺跡、平原遺跡、井原遺跡など伊都国の遺跡が集中している地区にある伊都国歴史資料館を訪ねた。玄関脇に前原市出身の郷土史家で当館名誉館長原田大六氏の銅像が建っている。非科学的な古代史学者が幅を利かしている中にあって原田氏の業績は特筆に値する。この地区の遺跡群からも剣、鏡、勾玉が大量に出土している。特に直径が46.5cmの内行花文八葉鏡(八咫鏡)は巨大である。日本最大の鏡が出土していることから、伊都国が大きな勢力を持っていたことは間違いない。現在の資料館の裏に大きな新館が建てられているが、開館は来年の秋になるという。資料館の隣を流れている川の堤防には『魏志倭人伝』の一部が掲示されている。資料館の前庭からクシフル峰が目の前に見える。
 近くにある細石神社に寄ってみた。元は佐々禮石神社といったらしい。祭神は磐長姫と木花開耶姫の姉妹である。2人は大山祇神の娘で姉磐長姫は醜く、妹木花開耶姫は美人で瓊瓊杵尊の妃である。
   花開耶伊都国佐々禮石の宮
 糸島半島の船越にある桜谷(若宮)神社の祭神も磐長姫と木花開耶姫であるが、磐長姫は別名を「古計牟須姫」というと記されているという。志賀島の志賀海神社に伝わる「山嘗祭」の神事によれば「君が代」は阿曇族が「我が君」を讃える歌であり、「千代」は福岡県庁所在地近辺に現在もある地名である。話が出来過ぎているように思うが、面白くなくもない。
 7−11に寄ってパン、おにぎり、団子などを買って昼食をとりながら、唐津へ向かった。虹の松原を端から端まで走ってみたが、実に見事なものである。かつて鏡山から眺めたことがあったが、中を走ってみて全く違った感激を味わうことが出来た。雨が降り始めたが、菜畑遺跡の末廬館へ行った。1979年に発見された菜畑遺跡には、今から2500〜2600年前の縄文時代晩期に稲作が行われたことを証明する炭化米、稲穂をつみとる石包丁・木製の諸手鍬・エブリ・サラエなどの農具とともに水田跡も発掘されている。また、水稲だけではなく、アワ・ソバ・ダイズ・ムギなどの五穀をはじめ、メロン・ゴボウ・クリ・モモなどの果実や根菜も栽培していたらしい。平成元年には家畜としてブタも飼育していた事実が確認された。菜畑は「日本農業の原点」である。
 東松浦半島の鎮西町にある名護屋城址へ急いだ。1590年に天下統一を果たした豊臣秀吉は、朝鮮半島へ出兵するための前進基地として名護屋の地に、大阪城に次ぐ壮大な城をわずか5ヶ月で完成させたという。「一夜城」の実績を持つ豊臣築城会社にとってはさしたる難事業ではなかったかも知れない。当時城下には、本丸の周囲約3km以内に160余の諸大名の陣屋が配置され、人口10万を超えていたといわれている。入場は無料であるが、清掃協力費として100円徴収された。曇っていたが、本丸跡に立てば壱岐、対馬が見える。青木月斗の句碑
   太閤が睨みし海の霞かな
が立っている。佐賀県立名護屋城博物館には日本列島と朝鮮半島の交流史を主題とした展示が常設されている。現地に来て改めて交流史を辿ってみれば、まず400年前後における倭国による高句麗への攻撃と敗戦(好太王碑)である。次が663年の白村江の大敗であり、教科書には「大和朝廷による出兵」と記述されているが、『百済本紀』によれば出兵したのは倭国即ち九州政権であり、この敗戦によって九州政権が急速に衰退し大和政権に主役の座を奪われることになったのである。その次が秀吉の侵攻失敗であり、これによって豊臣家は滅亡へと向かうことになった。我が国はこのように少なくとも3度同じ失敗を繰り返しているにも拘わらず、学習効果がなかった。閉館時間の17時になって外に出ると雨が降り出していた。
 雨の中を唐津に戻り、先程寄った末廬館の前を通り、国道203号線を南下して相知町の肥前久保駅へ向かった。既に真っ暗であり雨が降っていたが、折角だから幡随院長兵衛に敬意を表していこうと思う。彼はこの地で生まれ、幼い頃、松浦党一族の家臣だった父伊織と一緒に江戸へ行き、当初浅草神吉町にあった幡随院(現在は小金井市に移転)前の長屋に住んでいたことに因んでこの名前が付けられたという。着いてみると無人の小さな駅である。勿論駅前商店街などいうものはない。幸い車で帰ってきた人がいたので聞いてみたら直ぐに分かった。街灯もなく真っ暗だったが暫くすると目が慣れてきた。「長兵衛公園」と書かれた看板が出ている階段を登ったところにとんでもなく大きな碑が建っていた。相知町のホームページには「記念碑は昭和5年に完成。除幕式は昭和14年11月、角界史に不朽の名を残す大横綱双葉山がその綱を引いて行われ、久保の刈田のあとで角力興行が催されました。題字は唐津藩主の正統を受け継ぐ子爵小笠原長生公によります。クレーンなどない当時のこと、この槍石を台石に乗せる工事は大変なものであったと思われます。なお、セメントなどは一切用いていないが、微動だにせず今日に至っています」と紹介されている。江戸の町奴の頭領幡随院長兵衛がこの地の出身というのは驚きである。
 すっかり遅くなってしまったが、雨の中を武雄に急ぎ、19時に御船山観光ホテルに着いた。通された特別室「老松の間」は鍋島藩11代藩主直大公が大正5年から5年間かけて建てた佐賀別邸の居間を移築したものであり、隣の「桔梗の間」と「白菊の間」は奥方達の居間を移築したものである。移築する前に昭和天皇が来臨したというから、昨夜に続いて天皇の間に泊まることになる。直大公は國學院大学長を務めている。広い玄関と2畳半の上り框の奥に12畳半と10畳の2間が続き、畳敷きの廊下が鍵の手になっている。四方柾目の床柱、千本格子の欄間、折上格天井など鍋島藩御用林から伐り出された最高級の用材は見事なまでに美しく、豪華である。床の間には幕末三舟即ち勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の遺墨掛軸と「大吉堂」と書かれた副島種臣の書額が掛けられている。三舟は達筆であるが、副島種臣は拙筆である。

 幸いなことに雨は上がっている。折角武雄に来たから武雄神社に寄っていくことにした。「肥前鳥居」といわれる独特な形の鳥居があり、武内宿禰、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、武雄心命を祀っている。本来は武雄心命を祀る神社であったが、この地域に九州王朝の勢力が及んで以降主座を明け渡して末座に遜っているのであろう。武雄温泉の楼門と新館を見て、武雄北から長崎自動車道に入った。
 九州自動車道の広川で下りて八女市の岩戸山古墳に向かった。最初に古墳の前にある岩戸山歴史資料館に寄った。八女丘陵には大小300ほどの古墳があり、そのほぼ中央に位置する岩戸山古墳は九州最大級の前方後円墳である。中年の女性学芸員が丁寧に説明してくれた。
学芸員女史「これは継体天皇に反乱した筑紫君磐井さんの墓といわれています」
私「『日本書紀』にはそう書かれているが、大陸の資料によればその当時日本を代表する政権は大和ではなく九州の磐井だった。だから反乱というのはおかしい」
女史「古田さんの説ですね」
私「『百済本紀』には531年に日本の天皇と太子、皇子がともに死んだと書かれている。しかし、継体天皇にはそれに相当する事件はなかった。『百済本紀』の記述も展示すべきです。九州の人達は近畿や関東より先に文化が開け日本を代表していたことを誇りに思わなければいけません」
女史「お客様は皇国史観ではないのですね」
私「歴史は事実を正しく解明しなければなりません」
・ ・・
学芸員女史は非常によく勉強していて、何を訊いても明快に答えてくれた。この資料館の展示物は全て本物であるという。実に見事な半島製の装飾品の数々が展示されている。百済から日本の天皇と認められていた磐井が528年に何者かによって滅ぼされたことは間違いないが、その後も九州の政権が日本を代表する時代が続いていたことから、528年の事件は九州内部の反乱乃至は磐井一族の内輪もめだった可能性が高い。この地域の古墳からは埴輪とともに阿蘇凝灰岩でつくられた多量の石像が出土している。石製の人物や動物はほぼ等身大であるが、殆どの石像が破壊されている。『筑紫国風土記』には、豊前方面へ逃亡した磐井が見つからないのに腹を立てた官軍の兵士たちによって、この石人や石馬が破壊されたと記されている。埴輪や土器を壊すのは簡単だが、石人や石馬を破壊するのは大変である。磐井は余程激しく恨まれたのだろうか。
 古墳の上に登ってみた。大神宮旧跡と小さな神社がある。
   神ぞ知る磐井の墓か月かなし
 この古墳の被葬者と思われる人物は、『日本書紀』や『筑紫国風土記』には「磐井」、『古事記』には「石井」と書かれているから、「イワイ」と呼ばれたことは確かだろう。「倭」は「ワ」と読まれているが、実際には「ヰ」が正しいと思われる。「イワイ」は「倭讃」「倭武」などと同じく倭国の王「ワイ」即ち「倭ワイ」だったのではないだろうか。『百済本紀』などに名前の記述がないのが残念である。
 優秀な学芸員の説明に聞き惚れて随分時間を使ったので、先を急ぐことにした。成田山久留米分院の高さ62mの白亜の観音像を右手に見ながら走り、かなり坂を登って高良大社に辿り着いた。創建は古く400年頃といわれ、祭神は高良玉垂命という『記紀』に登場しない神様である。国幣大社で筑後一の宮であった。境内から久留米市が一望できる。登ってきた坂の途中や本殿裏に神籠石がある。神籠石と朝鮮式山城は白村江の敗戦の直後に築いたといわれているが、実際にはもっと古い可能性が高い。『肥前風土記』に見える景行天皇(大足彦オオタラシヒコ)の「高羅行宮」の伝承は注目に値する。社伝によれば、仲哀天皇の死後神功皇后は高良玉垂命と再婚して5人の子供をもうけたという。玉垂命が倭王即ち九州の天皇だった可能性が高い。久留米ツツジの原木が生い茂っているのが見事である。「高良山神鶏」といわれる鶏が4羽飼われているが、一見したところ何の変哲もないただの鶏である。「やくおとし」と称するカステラ菓子を500円で買って昼の代わりに走りながら食べることにした。坂を下りる途中に金色の竹林があるので車を停めてみたら、天然記念物「金明竹」であった。
 国道210号線を東に走り、白壁土蔵の吉井町を通って、浮羽町にある浮羽島御所跡を訪ねた。景行天皇の行在所として有名であるにも拘わらず、物の本にもホームページにも場所が明記されていないので、探すのに苦労するのではないかと不安だったが、国道を走っていたら小さな案内板が目に付いたので、簡単に辿り着くことが出来た。『日本書紀』によれば景行天皇が九州巡幸の途中この地で「盞(うき)を忘れてきたことを残念がった」ことから「浮羽」と呼ばれるようになったという。景行天皇の九州一円遠征譚は『古事記』には全く記述がないことから、大和天皇家の事績ではなく、九州内における史実を大和天皇家に「移植」したものに違いない。しかし、九州一円を統一して日本を代表する政権を確立した人物に縁の地として見逃すことは出来ない。田圃の中に「浮羽島」と書かれた石碑が建っている。広大な筑後平野の東端に位置するこの辺りは、古代から豊かな地であったに違いない。遠い昔に思いを馳せながら感慨一入であった。
   景行を偲ぶ浮羽の秋の風
 隣にある家の防風林が立派だった。
 筑後川を渡って朝倉町の三連水車を見に行った。冬場は回していないので白く乾いている。近くの山肌が赤く色付いているので何だろうと思ったら、柿だった。そういえば日本一の柿の産地である杷木町は直ぐ隣である。山の斜面が柿畑になっていて、今が収穫の時期である。九州の山は常緑樹が多いらしく、殆ど紅葉が見られなかったが、柿畑は実に見事である。
 次の訪問地は「筑前の小京都」といわれる甘木市の秋月である。年間約50万人もの観光客が訪れるという秋月は、古処山の麓にひっそりと佇む城下町で、全国で唯一、城下町全体が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。城跡の「桜の馬場」と称されるに通りを歩いたが、余りの人出に驚いた。紅葉が素晴らしかった。春は花見客で一杯になることだろう。通りに沿って食べ物屋や土産物屋が並んでいる。
 次は三輪町の大己貴神社である。江戸時代には参勤交代の大名行列も通った秋月街道沿いにあり、地元では「おんが様」と呼ばれているこの神社はかつて「大神神社」と呼ばれていたことから、「三輪」という町名の由来になったとされる。祭神は大己貴命、天照大神、春日大明神である。社伝によれば、神功皇后が新羅征伐の戦勝を祈願して創建したという。奈良県桜井市三輪には三輪町とよく似た地名が多く、大己貴神社と同名の神社もある。この不思議な一致に着目した安本美典は、卑弥呼と天照大神が同一人物ではないかと説き、三輪町付近にあった邪馬台国が大和まで東遷したと主張している。鳥居には「神威輝八紘 聖徳洽四海」と書かれている。何故か芭蕉の句碑
   川上とこの川下や月の友
があるが、これは深川で詠んだ句である。記帳しようとしたら紙の間にカメムシが2匹潜んでいたので止めにした。
 まだ日が沈むまでには間があるから大野城跡に行ってみようと思ったが、太宰府の渋滞を抜けるのに手間取ったので諦めて宇美町の宇美八幡へ直行した。「応神天皇御降誕地」と刻まれた大きな碑が建っている。『古事記』に「その御子生みたまえる地を、宇美とぞ謂ける」とあるように、神功皇后が新羅からの帰国途中この地で応神天皇を無事出産したという伝説に由来して、この2人を祀る安産信仰の神社である。境内には国の天然記念物に指定されている大樟「湯蓋の森」「衣掛の森」や、県の天然記念物の「蚊田の森」(大樟25本)などがそびえ立っている。特に「湯蓋の森」「衣掛の森」は神功皇后の時代からあったと信ずるに足る巨木である。
   大樟が語る応神宇美の宮
 安産祈願の石積み「子安の石」や「子安の木」「産湯の水」などがある。神功皇后は気長足姫、その夫である仲哀天皇は足仲彦であり、更に孝安天皇は日本足彦、景行天皇は大足彦、成務天皇は稚足彦、舒明天皇は息長足日、皇極(斉明)天皇は重日足姫と「足(タラシ)」の付く名前が並ぶ。高良大社の祭神「玉垂(タマタラシ)命」と関わりがありそうである。また、景行天皇、仲哀天皇、神功皇后などに九州での活動が目立つということは、彼等が大和の天皇ではなく九州の天皇だったということではないか。『記紀』に登場する天皇が実際に大和の天皇であるのは何代目辺りからであろうか。まだまだ古代史の研究は課題が多い。
 自分の国の歴史を正しく理解することは極めて重要である。今回多くの史跡を回ってみて、古代史が科学的に解明されていないことを身をもって実感した。教科書や史跡の説明板の記述が改訂される日が一日も早いことを願って已まない。