鞭声粛々夜過河

忘月忘日 信州東部町で研究会が開かれたついでに、あちこち訪ねてみようと思う。10時過ぎに走り出したが、日差しが強く既に気温は30度位になっていてかなり暑い。東部町の滋野に雷電為右衛門の生家があるので訪ねてみようと思う。浅間サンラインの「別府」という交差点にあるコンビニエンスストアに寄って飲み物を買うついでに雷電の生家の場所を聞いた。頼りなさそうな女の子が教えてくれた場所は研究会の会場の方向だから通りすがりに気が付かなかった筈はないと思ったが、取り敢えずその通りに行ってみることにした。随分上まで登ったがそれらしいものは見当たらない、やはり違うようだ。仕方がないのでその辺りにいたおばさんに聞いてみたら、実に具体的に道順を教えてくれた。まるで逆の方向で、坂を下って「別府」の交差点を通り過ぎた先の細い道を入った田圃の中にあるかなり立派な家がそれだった。「どうぞ御自由にご覧下さい」と書かれていて管理人はいない。春日野の「心技体」の扁額はなかなかの達筆だったが、それに比べると式守伊之助の方は見劣りがした。土間には土俵がある。
 「別府」の交差点まで戻り、「千光」という蕎麦屋に入って昼を食べた。前日も研究会の面々とこの「千光」に来て昼を食べ大好評だったので、連日の登楼となった。
 「東部嬬恋線」の急な坂道を登り始めた最初の信号が「新張」と書かれていて「みはり」と仮名が振ってある。この街道には「百体観音」が祀られていて、下から順に番号が付けられている。登り切ったところが県境の地蔵峠でその先は湯の丸高原、鹿沢温泉、新鹿沢温泉と続く。新鹿沢温泉には「鹿沢館」という旅館がある。古いけれど天皇が泊まったというだけあって流石に立派である。国道144号線に入り、キャベツ畑の中を走り、やがて長野原線沿いに走る国道145号線に入って、“恵ちゃん”の故郷中之条町へ向かった。嬬恋村の役場には「祝 総理大臣就任 小渕恵三先生」の大きな垂れ幕がかけられていた。
 中之条町の通りには日の丸の小旗や「祝小渕総理誕生」の小旗が並んでいるし、役場に行ってみると「祝 総理大臣就任 小渕恵三先生」の大きな横断幕が出されている。役場の中に入って町長室の前まで行って見たら、町長室には「不在」の札が出て灯りが消えていた。電話帳で町長小渕光平氏宅の住所を調べたら「伊勢町910番地」となっているので、そちらへ行ってみることにした。途中で歴史民族資料館に寄ってみたが休館日だった。ここは昨年一度寄っているので休館ならそれでも構わない。
 先に郊外にある吾妻神社とその近くにある桃瀬の水牢を見学して、伊勢町に戻り、群馬銀行に車を停めて“銀座通”を歩いてみた。昨年通った時より心なしか道幅が広く感じられるし、町が発展したように見えないこともない。「光山ビル」に「小渕恵三事務所」があり、「御礼 内閣総理大臣就任 小渕恵三」と書かれた垂れ幕がかけられている。ここは「光山倉庫」の看板がかけられていて煉瓦造りの古い倉庫が並んでいる。100m程離れた所にもう一つ「小渕恵三事務所」があり、こちらは「光山社」「光山電気工業」の看板がかけられていて、奥が工場になっているが、町工場に毛の生えた程度のものである。恵三先生の父上は光平氏、兄上で現町長も光平氏だから「光山」というのはいかにもそれらしい名前だが、去年泊まった尻焼温泉の旅館は「光山荘」で偶然同じ名前だった。番地表示がないのでどこが「910番地」かはっきりしないが、どちらも町長宅に相応しい豪邸ではない。光山倉庫の方には居宅はなさそうだったが、光山社、光山電気工業の方は敷地内に入り込んで玄関の表札を見たら「小渕光平」「小渕恵三」と書かれているではないか。何とここが町長邸らしい。帰りかけたところへ「尻焼温泉光山荘」と書かれたバスが入って来た。ということは、あの光山荘も小渕コンツェルンの経営だったのだ。数日後に行われた閣僚資産公開で、小渕首相は光山電気工業、光山社、光山倉庫の株をそれぞれ160738株、11472株、6000株所有していることが分かった。
 「夕食が6時ですからそれまでに着くように来て下さい」と言われているので、そろそろ今夜の宿、六合村の湯の平温泉松仙閣に向かうことにしよう。先程来た道を引き返すのは芸がないから、暮坂峠を越える道を通ることにしよう。昨年反下温泉に泊まった時に通った道であるが、若山牧水に縁のある峠道でなかなかよかったという印象が残っている。峠道は思ったより長く意外に時間がかかり、峠に着いた時には5時半を過ぎていたが、折角だから車を停めて牧水先生に敬意を表した。
 急いで峠を下りて六合村の銀座通りを少し北上した所に「湯の平温泉松仙閣」の看板があった。「駐車場に車を停めてインターホーンで連絡し吊り橋を渡って玄関に辿り着く」と説明されていたが、道路からは急坂になっていて駐車場が見当たらない。斥候が先に坂を下りて偵察しに行って、この急坂の下に駐車場があることが分かった。恐る恐る坂を下りて車を停めて、インターホーンで連絡したら「遅かったですね」といわれた。6時直前だった。随分長い坂道を下りたところに吊り橋があり、橋を渡って坂を登ったところに松仙閣があった。道沿いのあちこちに牧水の歌を書いた板が立てられていた。松仙閣の主人は余程の牧水信奉者らしい。夕食に鯉の洗い、ささげ、凍豆腐、野沢菜漬等は信州の食べ物が出されたところをみると、この辺りはかつての真田の文化が根付いているのかも知れない。

 朝食を食べながら見ると、食堂の外には、何を建てる積もりだったのか分からないが、頑丈な鉄骨が途中まで組まれたまま放置されている。会計を済まして、荷物をリフトに乗せて手ぶらで駐車場まで歩いた。「従業員用駐車場」と書かれたところに数台の車が停められているところを見ると、松仙閣に通じる道路はこれ以外にはないのかも知れないが、そうだとすればあの大きな鉄骨等はどうやって運んだのだろうか。
 少し北上した所にある「荷付場道祖神」を見に行った。草津方面と尻焼方面との分岐点からほんの少し尻焼方面に入ったところの脇道に鎮座しているこの道祖神はコアラ方式で抱き合っている。像は想像していたよりかなり小さかった。
   六合村にコアラの如き道祖神
 国道292号線を下って脇道に入り、赤岩集落に寄ってみた。木曾義仲の残党といわれる湯本家は高野長英をかくまったことで知られている。実にのどかな集落であるが、体育館等があり意外に豊からしい。
 国道に戻って南下し昨日の国道144号線を逆に走って嬬恋村を抜け、菅平に入った。国道406号線を下って須坂市に入り、田中本家の前を通って「本日休館」を確認して、市営駐車場に車を停め、須坂クラシック美術館へ行き、岡信孝コレクションを見た。随分大きな図柄の着物が沢山展示されていた。この美術館は呉服商牧家の母屋と土蔵をそのまま使っている。
 次に笠鉾会館に行って須坂の祇園祭の笠鉾と屋台を見学したが、流石に京都のものとは規模がまるで違う。街並みを見て回っているうちに餓になってきたので、当地一流と思われる菓子屋「盛進堂」に寄ってアイスクリームを食べ、餅入りドラ焼きを買った。
 教科書によれば勝善寺に芭蕉の句碑があることになっているので、県立病院に車を停めて行ってみたら、寺は倒産していて句碑らしきものはあったが磨り減っていて字が読めなかった。階を登って障子の穴から本堂の中を覗いてみたら、小さな仏像があるだけで、伽藍としている。木魚まで売ってしまったらしいが、鐘楼の鐘は残っていた。
 一人が教科書を見ていて「雨宮の渡跡に鞭声粛々・・・の碑がある」というので行ってみることにした。国道18号線に入って暫く行くと“水澄まし”で有名なMウエーブが見えてきた。オリンピックのお陰でこの辺りは随分立派になった。「待てよ、川中島の古戦場はこの近くではないか」と思った次の信号が「古戦場入口」だったので、迷わず寄ってみた。三太刀七太刀の像を見ると一人が落ちている木の枝を拾って来て、禿親父が信玄、私が謙信になったつもりで像の前で写真を撮った。ここには芭蕉の句碑
   十六夜もまた更科の郡かな
があった。川中島の合戦といえば「やかん」の語源を思い出す。湯が煮えたぎっている“水沸かし”を兜の代わりに被って敵の夜襲に応じたところ、矢が飛んで来て「カーン」矢が来てカーン矢カーン矢カンとなり、陣に戻って水沸かしの兜を脱いでみたら湯気で蒸れたために毛がすっかり抜けてしまったので禿頭を「やかん頭」というようになった。更に、驚くべきことには、その一部始終を見ていた紅毛人がいて「オー、毛取る」といったのがkettleの語源である。「やかん」と「kettle」が同じ語源をもつとは何たる奇遇であろうか。
 松代の町を通って雨宮の渡へ行き、頼山陽の大きな詩碑
   鞭声粛々夜過河 暁看千兵擁大牙 遺恨十年磨一剣 流星光底逸長蛇
を見た。
 再び国道18号線に戻って、屋代、戸倉を通って坂城町の格致学校を訪ねた。図書館に隣接していて、図書館の職員でこの学校で勉強したというおばさんが鍵を開けて親切に説明してくれた。明治10年の建築で昭和37年まで使われた建物を昭和58年にこの場所に移築したそうである。小さな坂城町がこのような事業を実現できるのは工業が盛んであるためだと説明してくれた。
 上田・菅平から上信越道に入ると間もなく雨が降り出し、東部・湯ノ丸で食事をしている間に本降りの雷雨になった。時々稲妻が光る土砂降りの中を走り、群馬県に出た頃には雨を追い越していたが、後でニュースを聞いたら大雨で高崎・安中榛名間で長野新幹線が一時運転を見合わせたそうである。