教科書によれば「太宰府」は大和政権の九州支庁であり、元は博多の那の津にあったが、白村江の敗戦(663年)後大陸からの侵攻に備えてこの地に移し、その防衛のために2つの朝鮮式山城大野城と基肄城を築き、平野部には水城を構築したという。しかし、太宰府には「都督府古趾」があり、「大裏」や「紫宸殿」という地名がある。地元では「太宰府政庁」などとはいわず、「都府楼」と呼び習わされている。「都督府」は「都督」のいた役所であり、『宋書』によれば、「倭の五王」の「済」と「武」は中国の天子から「都督」の称号を与えられている。「都督府」があり「大裏」や「紫宸殿」があったということは、ここがその時期の我が国の代表政権の所在地だったということである。あの有名な上表文で知られる倭王武が大和政権の雄略天皇であるなどという荒唐無稽な「史偽」がいまだに教科書に載っていることが不思議でならない。