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医学生つながり

ちょっと面白いご縁のあった大昔の医学生の方々。

えにちという名 遠い飛鳥の物語
ヤギのおじさん 遠い昭和の物語

えにちという名
私の名前は、恵日(えにち)です。まず同名の人に会うことはありません。もっとも、これは経典から とったものなので、お坊さんにはそういう名の人もいるかも知れません。

そんな私が初めて自分と同じ名を持つ人を偶然目にしたのは、歴史の本でした。医 恵日(くすしのえにち/ ”薬師”とも書く)遣唐使の一号船の副使として唐に渡った、日本初の医学留学生でした。この偶然は 物心付いた頃から医学、生物の面白さに取り付かれて育ってきた私には何とも嬉しく、晴れがましく、 心浮き立つ発見でした。しかしそれは医学部をあきらめた頃でもあったので、その事は同時にとても切なく、 言葉にならない胸一杯の思いを抱かせました。

それから数年後、将来の伴侶であり、また私を再び医学を志す道に進ませるキーマンとなった家人と出会い ました。彼は鹿児島県の沖永良部島の出身ですが、ひょんなことから、私がそれまで全く存在すら知らなかった 家人の故郷の島の洞窟を、実は子供の頃から見ていることが分かりました。

その洞窟は覚えているどころではなく、頭にくっきりこびりついていました。それはそれは怖かったので・・。 子供の頃大ヒットした横溝正史の「八墓村」という怖い映画の予告編のCMで、いつもおびえながら見ていた 白い鍾乳洞。それは沖永良部のみごとな鍾乳洞でのロケだったのです。

初めて島に行ったとき、その大きな鍾乳洞を案内してもらうと、中には映画さながら何やらいわくありげな 古い祠(ほこら)が祀ってありました。それは、そこで発見された、高貴な身分を示す曲玉の首飾りをかけた 2体の古い白骨を祀ったもので、恐らく難破した遣唐使船に乗っていた貴人であろうとのことでした。

医の恵日が遭難したという記録は見たことがないし、随分沢山の遣唐使船が波間に消えたのでしょうから、 その白骨と恵日は別人でしょうが、かの恵日にいくらかは近しい人達がかつてここにいたんだなぁと 感慨深いものがありました。しかも自分はそれと知らずに、ここをずっと前から知っており、おまけに この地に縁を持つようになったのですから、ちょっとした巡り合わせを感じてしまいました。

再受験も終盤にかかった頃、インターネットを通じてもう一人の「えに」さんと出会いました。 その人は恵日という名ではなく、名前の読みが「えに」と読めるのでそういうニックネームになっている だけですが、一生、自分以外の生きている「えにちゃん」に出会う事はないだろうと思っていた私は、 とても嬉しく思いました。

しかも聞けば年は近く、医学部ではないけど薬学部の再受験者の女性で、教育学部から就職して再受験を 志し、まず始めの様子見の試験で落ち、次に宅浪で失敗、更に予備校に行きその後合格、結婚もしている という、名ばかりでなく経歴もあきれるほど似ている人でした。 お互いに、世の中には似た人がいるとは言うけれど・・・、と呆れたほどです。

昔の医者「薬師/くすし」は医者であり、同時に薬学者でもあるわけですが、ここに医学、薬学の えにが揃ったわけです。何とも楽しい偶然の巡り合わせです。

ヤギのおじさん
ヤギのおじさんは明治生まれの私の祖母の兄です。私が生まれる前に他界したので会ったことはありません。 生涯独身で、診療所勤めの傍ら研究をし、お金や出世にはとんと無頓着な人であったそうです。

彼の家は熊本の大きな寺でした。良くあることですが、跡取り息子であるヤギのおじさんは勉強好きで、 他の道を望みました。もちろんそんな意見は通らず、彼は京都の仏教系の大学に押し込まれました。 しかしどうしてもイヤでたまらなかったので、同じくいやいや同じ大学に押し込まれていた親戚の青年と一緒に 東京へ逃げました。そこでヤギのおじさんは東大の経済学部に入り、勉強が嫌いだった親戚の青年は、 とりあえず入れてくれる私大に入りました。

めでたく卒業し、もう実家もあきらめたろうと就職しようとした彼は、それが甘かったことを知りました。 地元の名士、議員等のあらゆるネットワークは東京にもしっかり張り巡らされており、あらゆる就職先に 圧力がかかって行くところがなかったのです。

失意の元に帰郷したものの、やはり寺になじめなかった叔父は逃げ場は学校しかないと、今度は東大の 医学部に入りました。叔父曰く「その頃は誰でも入れた」。確かにその時代、大学進学者はほんの一握りの 人に限られてはいましたが、やはり勉強家ではあったのでしょう。

帰省の度に家の仕事はやっていたようですが、口べたな方だったのか、お説教なども得意ではなかったよう です。「しんぽちさん(若住職)のお説教はドイツ語だけん、いっちょん(さっぱり)分からん」と檀家の 人達は苦笑しました。結局、ついに家の人達もあきらめ、弟が跡を継ぎました。

叔父はそれからは診療所勤めの傍ら、こつこつと好きな研究だけに打ち込んで暮らしました。周りがいくら 縁談を持ち込んでも、「妻子がいると研究が出来ん」と独身を通しました。何しろそのころの東大出なので 「こんなお給料がこの世にあるのか」と当時高校生だった私の母が思ったという様な条件で、大きな病院に 招かれても「遠いから研究に差し障る」と動かなかったそうです。周りの人はひどくもどかしがっては、 「研究研究って、あんたがせんでも、他の優秀な人がいくらでもするっ!」と言い聞かせたそうですが、 もう叔父は自分の好きなようにしかやらないと決めたようでした。

ある日家で飼っていたヤギが死にました。叔父は全く無邪気な研究者としての気持ちだったのでしょう。 じゃあ調べてあげよう、と庭先で解剖を始めたので、家中の人が逃げ出しました。「ありゃー、きちぎゃー (気違い)たい!」その話から、私達は彼をヤギのおじさんと呼ぶようになりました。

そんなペースで世の中のしきたりめいたことにも一切重きを置かなかったエピソードがもう一つあります。 私の母が高校生の時、進学をどうしようかと親たちが考えていると、叔父が「成績がいいなら、東京の 医学部へやれば。」と言ったもので親戚中は目を剥きました。まだ四年制の大学に進む女性すら、少な かった頃です。「なーんば言うか!、これは女の子たい!」叔父は不思議そうに答えたそうです。 「男も女もあるかい、行けるもんが、行けばいいが。十年もすれば一人前になる。」ますます親戚中が 目を剥いたのは言うまでもありません。「ありゃー世の中を、なぁんも分かっとらん。バカたい」

もっとも成績は良くても、特に勉強が好きというわけでもなく、医学にも興味のなかった常識的な母も 「じょーだんじゃないわよ」と思ったそうなので、おじさんの意見が却下されても誰も困らなかったわけ ですが。

その後叔父は静かに生涯を閉じました。遺品の中に沢山のドイツ語(英語?)の論文の束があったそう ですが、誰も興味がなかったので「いらんいらん」と焼き捨てられたそうです。ヤギのおじさんは何に 興味を持ち、どんな研究をしていたのか私は見たかった。出来れば話しもしたかった。残念です。

ところで、若かりし頃、ヤギのおじさんと京都の大学から一緒に東京に逃げた親戚の青年はどうしたでしょう。 彼は入った私大でもろくに出席せずにぶらぶらして周りを心配させ、はずみで大部屋俳優になりました。 物静かな上、不器用な質であったにもかかわらず、なんと、かの巨匠、小津監督に見込まれ、彼の映画に なくてはならない、日本を代表する俳優の一人となりました。その青年の名は、笠 智衆です。


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