Asmara Letters



Subject: アスマラ便り13
Date: Tue, 22 Dec 1998 19:38:57 +0300
From: 佐藤 寛
To:  宇田川学

「どっちが先?」

 悦夫君と恵理ちゃんは孤児院「梨花園」に暮らす兄妹です。悦夫君は体も大きくて、ガキ大将的な存在、恵理ちゃんはちっちゃいけれど利発な子で、孤児院の先生たちからはちょっと注目される存在ですが、思っていることをずけずけ言うのでお友達の間での評判はいまいちです。
 二人は喧嘩もするけど仲良く暮らしていました。ところがある日悦夫君がとっても興奮して園長先生のところに言いつけに来たのです。「恵理が僕のカーディガンのボタンをむしり取った!」と言いながらボタンをとられたあとの糸がついたままのカーディガンを先生に見せました。「あらまあ」とおどろいた園長先生は二人を職員室に呼んで恵理ちゃんに「悦夫君からとったボタンを返しなさい」と言いました。すると恵理ちゃんは大声で泣きながら「イヤだ!これはあたしのボタンだもん」と言うではありませんか。「でも悦夫君はあなたが取ったと言っているよ」「違うもん、あのボタンは一週間前にお兄ちゃんがあたしから取り上げて自分でつけたんだもん。でもそのときあたしは先生に言いつけたりしなかっただけだもん」
 先生方は二人の喧嘩を仲直りさせようといろいろ説得するのですが、二人とも頑固でいっこうに仲直りしません。そればかりか悦夫君は「恵理がボタンを返さないと、ぶつぞ」と握り拳をいつも振り上げるのです。
 恵理ちゃんの理屈はこうです。「このボタンはおかあさんが死んだときに、私にってくれたんだもん。それをとっちゃうなんてずるい」。悦夫君はこの「お母さんの形見」につていは一切ふれず「このボタンは僕のカーディガンに似合うんだから、僕のものなの」と言って聞きません。恵理ちゃんは「ボタンを園長先生に預けるのならいい」「でもお母さんの遺言だってことをちゃんと調べないうちにお兄ちゃんにこのボタンを渡しちゃうなら絶対あげない」とボタンを堅く握りしめたままなのです。
 先生たちはお母さんの遺言問題にまで首を突っ込むのはめんどくさいので、なんとか恵理ちゃんを説得しようとするのですが恵理ちゃんは「お兄ちゃんが先に手を出したってことを認めてくれなきゃ仲直りしない」とがんばっています。筋は通っているのですが、困った子、恵理ちゃんに先生方は困り顔。なかには日之元先生のように恵理ちゃんを「問題児」と見なして、ほかの子に恵理ちゃんと一緒に遊ばないように注意する先生も出てきました。さて、みなさんならどうします?

 今回のエリトリア・エチオピア紛争の発生原因に関する双方の主張は全く食い違っています。
 エチオピア側は今回の紛争の端緒を「5月6日に武装したエリトリア兵がエチオピア領内(北西部ティグライ州)に侵入し小競り合いが発生した。その後5月12日にエリトリア軍の大規模な侵攻があってバドメが占拠された」としています。その主張のニュアンスは「エリトリアが一方的に、突然攻めてきた」というものです。これに対してエリトリアは「バドメ地区はもともとエリトリア領であったが、97年7月にエチオピア軍が侵攻して地域住民を追い出し、エチオピアの行政組織を設置した」「これと並行してエチオピア政府は従来の(植民地時代に確定した)国境線を変更してバドメ周辺地区をエチオピア領とする地図を作製した」「このためエリトリアはエチオピア政府の意図に危惧を抱き、国境画定委員会による解決を求めてきた」したがって「今回の衝突は97年7月に発生したバドメ地区を巡る一連の小競り合いの一つにすぎず、エチオピアが今回の衝突だけを突然国際的に吹聴し始めたことは不可解である」ということになります。
 実際に両国間の「国境画定委員会」は5月7,8日にもアジスアベバで開催された模様で(エリトリア側の代表がアジスアベバに赴いたものの会合を拒否されたという情報もあのます。また10日にはアスマラで会合があったとも言われています)、この時点までは両国とも話し合いによる解決が可能と考えていたと思われます。
 しかし12日のバドメでの衝突を受け、翌13日エチオピアは「領土保全のために必要なあらゆる措置をとる」という閣議声明を発してしまいました。これは国際的には「戦争宣言」と受け止められており、エリトリア側はこの声明は「事実に反し」「攻撃的にすぎる」と反発しましたが、国際社会の注目が集まるなかでこれ以降両者の直接的な対話は打ち切られてしまった模様です。
 その後バドメを巡る戦闘に並行して、両者の非難合戦がエスカレートしていきます。エチオピア航空がエリトリア線を休止するなどエリトリア封じ込め政策を立て続けに取ったことはすでにお知らせしたとおりです。
 またエチオピアは「エリトリアがアッサブ、マッサワからエチオピア船を閉め出した」とクレームしていますが、エリトリアはこれに対しても「エチオピア海運公社は5月12日付けの回状でエチオピア向けの貨物の荷主に対して同日よりアッサブ、マッサワを使わずにジブチを使うよう要請した」「た「5月16日付けでEthiopian Shipping Linesのマネージャーは全ての保有船舶に対して「ジブチ以外に寄港するな」という指示を出した」と証拠書類を提示して、エリトリアがエチオピアをボイコットしているのではなく、エチオピアがエリトリアの港をボイコットしているのである、と反論しています。
 子供の喧嘩も戦争も、結局「どっちが先に手を出したのか」という水掛け論に帰着してしまうのですね。ただ紛争発生当初から双方とも「平和的解決」への意志は表明しており、「問題は相手側が好戦的な態度をとっていることだ」と非難しています。これまでにも様々な調停努力が、ジブチなど周辺国やOAU(アフリカ統一機構)、欧米諸国などによって行われてきました。その中でももっとも注目された調停案は米・ルワンダ調停案(6月2日)で、エチオピアは同案の受諾を表明したましたが、エリトリアが拒否したために暗礁に乗り上げてしましました。チオピア側はこれをもって「エリトリアには平和的解決の意志がない」と主張していますが、エリトリアにも言い分があります。それは「同調停案にはバドメからのエリトリア軍の撤退と同時に「5月6日以前のエチオピア行政の復活」が含まれており、これはエチオピア側の事実認識に基づいたものであって中立的とはいえない」というものです。エチオピアは今回の紛争の起点を5月6日としたいのですが、すでに述べたようにエリトリアはこれより一年さかのぼる97年7月のエチオピア行政の同地域への拡張を紛争の起点としているので、「エチオピア行政の復活」は当然のことながら「不公平」な措置であってとても承伏できないわけです。
 もっともエリトリア側も「軍の撤退」には合意していて、だだその後には「第三者による監視団」が入るべきであると主張しているのです。
 エリトリア側の最大の不満は、エチオピア政府が公式地図によって明確に「国境拡張」の意志表示をしているにも関わらず、国際社会がこれを容認しているかのように振る舞っていることにあります。エチオピア側は同地域の「従来からの実効支配」をその根拠としていますが、もともとエリトリア全域はエチオピアの支配下にあった以上、そうした主張を受け入れればエリトリア全土が再びエチオピアに併合されてしまうロジックにつながります。また植民地時代の国境線の明確な変更をOAUが許容するならば、現在のアフリカ国家の国境線(そのほとんどが植民地時代に人為的に引かれたものですから)をめぐって異なる主張が瞬く間に百出することは確実で、それは「パンドラの箱」を開けアフリカの安定にとって重大な脅威となる、とエリトリア側は主張しているのです。
 11月にはOAUの主催による元首級調停会議がブルキナファソで開催されましたが、双方が主張を譲らず、何らの解決策も生み出せませんでした。そればかりかこの調停メンバーにジブチが含まれていたため、問題が発生しました。すでにお知らせしたとおり、ジブチは最近エチオピアの圧力をうけて徐々に「エチオピア寄り」になっているとエリトリアが見なしており、そんなジブチには調停資格がないと主張したため、この調停会議自体が機能しなくなってしまったのです(その後ジブチをのぞいた調停団の再構成が行われたようです)。ただ、エリトリアはこの会議でOAUが「紛争の開始は98年5月ではなく、97年7〜8月にさかのぼる」との認識を示したことは大きな前進と評価しています。
 エチオピアはすでに問題は単にバドメ地域の国境紛争ではなく、「全面戦争」に近づいている、と繰り返し警告しています。実際に戦線は西部のバドメ地区から、5月31日にはより東の国境地域ザル・アンバサ周辺に飛び火し(この地域についても双方が自国領と主張しています)、6月3日にはさらに東のアジスアベバ=アッサブ道路沿いのAmbeseteGelebaにも広がって現在に至っており、主要戦線は3カ所です。さらに前回お知らせしたように、エリトリアは「エチオピアはアッサブ港を狙ってジブチ国内に展開している」として、第四の戦線がジブチ・エリトリア国境に展開することを懸念しています。各前線への戦力の配置はエチオピア側では日に日に増強されていると言うことです。

 振り上げた拳を納めるところがなくなってしまえば、悦夫君は、恵理ちゃんを殴るしかなくなってしまうのでしょうか。日之元先生は、仲直りのために何とかできないものなのでしょうか。新生エリトリアの試練は続きます。


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Last updated 3.Jan.1999