葛飾北斎(1760〜1849)
役者絵も美人画も春画も描いているが、錦絵での代表作が「富嶽三十六景」しかないため、教科書では風景画家という変な扱いを受けている人。

本所割下水生まれ。幼名、時太郎。本名は鉄蔵。自称「葛飾の百姓の倅」だそうだが、武士の子だという説もある。御用鏡師の中島伊勢の養子となり、本姓は中島姓を名乗る。養子縁組を破談にした後も、中島姓を名乗っているので、中島伊勢の実子(妾腹の子)という説もある。

19歳の時、勝川春章に弟子入りして、20歳の時、勝川春朗の号で役者絵を描き始める。30歳頃、勝川派を破門され、琳派に弟子入りして俵屋宗理の号を40歳頃まで用いる。その後、葛飾北斎の号を用いるようになり、肉筆画、刷物、合巻や読本の挿絵などに独自の画風で多くの傑作を残した。

特に壮年期は滝沢馬琴の読本の挿絵を多く手がけ、晩年は専ら肉筆画を描いた。ハタチから90歳で死ぬ直前まで描いているので作品数は2万点にも及ぶ。

文化9(1812)年頃から、弟子達の絵手本のために「北斎漫画」の下絵を描き始める。この「北斎漫画」は人気があったためか、北斎の死後弟子たちの手によるものまで加えて全15編まで出版された。春朗、宗理、北斎の他に、戴斗、為一、卍など何度も画号を変えた。「富嶽三十六景」は為一の画号を用いている72歳の時に描かれている。

臨終にさいして「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」と言い残したという話が伝わっている。

北斎エピソード集。