葛飾北斎エピソード集。

北斎という名。

北斎は春朗、宗理、北斎、戴斗、為一、卍とことあるごとに画号を変えた。少しだけ使った細かいものまで数にいれると、画号の数は20にも30にもなると言われている。使わなくなった画号は弟子に譲ったりしているので、未だに北斎の真筆か分からない作品も多い。

ちなみに北斎という画号は、日蓮宗の妙見(北斗七星)信仰に基づいている。当時、北斗七星は北辰と呼ばれ、北斎も当初は「北斎辰政」と名乗っていた。北斎という画号は実際は5年程しか用いていないが「北斎改め戴斗」「北斎改め為一」など後々まで部分的に使っていたため、この呼び名が一番定着したようである。

引越し92回。

北斎は引越しを92回もしている。借金取りから逃げるため、部屋を掃除をする代わりに引っ越したため、方位学のようなものに凝っていたため、などいろいろな説があるが、単に気分転換と考える方が自然であろう。

北斎は90歳まで生きたので一年に1〜2回引越しをしたと考えがちだが、84歳の時、今までの引越し回数60回と記録にあるので、最晩年の6年間の間に30回以上も引越しをした計算になる。元気なじいさんである

北斎の家族。

北斎は2回結婚しており、それぞれとの間に一男二女をもうけ、計6人も子供がいる。

先妻との間にできた、長女のお美与は北斎の弟子の柳川重信に嫁ぎ、一男をもうけ、後に離縁している。長男の富之助は北斎の代わりに中島伊勢の家督をついで早くに亡くなっている。次女のお辰は画才があったが早くに嫁いで、病気で亡くなっている。

後妻との間にできた、三女のお栄は一度は嫁いだが、離縁して、北斎が死ぬまで一緒に絵を描いている。次男の崎十郎はなぜか武士の家に養子になり、御家人になっている。四女のお猶は生まれつき盲目で、尼寺にひきとられていたが、体を悪くしてからは母と一緒に暮らしていたようだ。

なぜか画才の方は娘ばかりに受け継がれたようだ。長女のお美与も次女のお辰も幼いころから絵を描き、三女のお栄にいたっては絵師に嫁いだが夫の方が絵が下手で離縁したという話まで残っている。お栄は特に北斎の画才を受け継いだようで、北斎の代筆を手がけ、北斎が「おーい」と呼んでいたことから応為という画号まで持っている。

北斎が死んだときには家族もほとんど死んでおり、生き残っているのはお栄と崎十郎だけであった。お栄は北斎の死んだ6年後、「長野で頼まれた絵があるから、」と言い残して消息を絶っているので、現在、長野の小布施の岩松院に残されている天井画の大鳳凰図は北斎の下絵を元にお栄が彩色したという説もある。

滝沢馬琴との仲。

北斎は「南総里見八犬伝」で有名な滝沢(曲亭)馬琴の家に居候していたこともある。この2人仲が良かったのかというとそうでもなくて、しょっちゅう喧嘩していたようである。

「三七全伝南柯夢」では馬琴が書いた話に関係なく北斎が勝手に狐の絵を描くので、これじゃあ狐にだまされてるみたいだ、と馬琴が怒ったり、馬琴が草履を口にくわえた絵を描いてくれというと、そんな汚ねえ絵がかけるか、だったらてめえでくわえてみやがれ、と北斎が怒ったりしている。

しかし、お互いに相手のいないところでは相手の絵や文章をほめているところをみると、仕事相手としてはお互いに尊敬していたのではないだろうか。また、馬琴の文章は中国の文学の影響が強く、北斎の絵も漢画の影響が大きいところをみると、似た者同士という気がする。