ホマラニスモ(人類人主義)

ザメンホフは単に“言葉遊び”のために エスペラントを 考案したのではありません。 彼はこの言語に,お互いに言語や宗教の違う人々の間から その違いを原因とする不和や憎悪を解消したい という希望を託しました。 そして,そのために 民族の枠を超えた「人類人」(ホマラーノ:homarano) という概念を作り出し, 自らを人類人と規定してそのあるべき姿10ヶ条の綱領にして公表しました。
ザメンホフは, 「ホマラニスモ(人類人主義)についての宣言」と 題するこの綱領について 「あくまでも私個人のものである」と強調していますが, その中に彼のエスペランチストとしての理想がうかがえます。

そこで,以下にその全文を訳出してみました。
ただし,原文は エスペラント文としてはやや難解であり, またヨーロッパ人の宗教的な意識を背景にしたと思われる部分があって, 彼らとは宗教的背景を異にする日本人には解りづらい 言い回しが見受けられます。 そのようなわけで,ここに掲載した訳文が完全に正しいという 保証はありませんので,悪しからずご容赦ください。


まえがき

 ここに掲げる宣言は, 私の政治・宗教上の信条を述べたものである。
 私がエスペラントの著者であるがゆえに, 多くの人々はホマラニスモ(Homaranismo)エスペラントと, あるいは,いわゆるエスペラントの内在的理念 (インテルナ・イデーオ:interna ideo)≠ニ同一視するかもしれない。 しかし,それは誤りである。 エスペラントの本質は完全なる中立性にあり, エスペラント主義思想(エスペランティスモ:Esperantismo)が 表わすのは非限定の,兄弟としての感情や希望のみである。 それらは 中立な言語の土台(ネウトラーラ・リングヴァ・フンダメント: neutrala lingva fundamento) の上での交流から自然に生まれるものであり, それらをすべてのエスペランチストが 自分の好きなように論評する完全な権利を持つだけでなく, それらが広く受け入れられるか否かまでもが彼らにかかっている。 一方で,ホマラニスモは私の純粋に個人的な信条を表わした 特別で全く限定的な政治・宗教上の綱領であって, 他のエスペランチストには全く関係のないものである。
 以下のことは,きわめて明白に予見できることがらである。 すなわち,エスペラントに敵対する人々は ホマラニスモについての私の宣言を エスペラントに対する攻撃材料とし, 私の全く個人的な原則をすべてのエスペランチストが 従わなければならない原則であるかのように 世界中に触れてまわることだろう。 私が非常に長い間,私の信条を全く公表しようとせず, 公表するにしても匿名とした理由はそこにある。 しかし私はそのような意図を放棄した。 それが許されざる臆病さであることに気づいたからである。 ただ,私の個人的な政治・宗教上の確信へのいかなる怪しげな連帯からも エスペランチストたちを完全に解放するために, 第8回エスペラント世界大会の期間中に 私はエスペラント事業におけるあらゆる公的な役割から退いた。
 宣伝という目的のために私は今,自分の信条を公表するのではない。 私がただ希望しているのは,私の友人たちに自分の信条を知っていただき, それによって他の政治的な,あるいは宗教上の問題に対する 私の姿勢に驚くことないようにすること, そして私と同じ原則を持っている人々には 私たちが原則を同じくする同志であることを 知ってほしいということなのである。

     ワルシャワにて 1913年5月   L.L.ザメンホフ


ホマラニスモ(人類人主義)についての宣言

 私は人類人(ホマラーノ:homarano)である。 すなわち,私は自分自身をその人生において 以下の原則に基づいて導いていくものである。

1: 私は人間である。 そして全人類を私は1つの家族であるとみなす。 人類がお互いに敵対する様々な民族や宗教上の集団に分断されていることを 私は最も不幸なことの1つであると考える。 その不幸はやがて解消されるべきものであり, 私は全力でその解消を早めねばならない。

2: 私はあらゆる人を人としてのみ見る。 私はあらゆる人を彼個人の人としての価値と行動とによってのみ評価する。 彼が自分とは違う民族や言語,宗教, あるいは社会的階級に属しているがゆえの非礼や圧迫を 私は野蛮なことと考える。

3: 私は,いかなる国もある特定の民族に属するものでなく, いかなる出自や言語,宗教,社会的な役割を持つと仮定されるものであれ, その国の住民すべてに平等の権利をもって属するものであると考える。 国の利害をある特定の民族や宗教の利害と同一視したり, ある種の歴史的な権利であるという口実で 国内のある民族が他の民族を支配し, 他の民族が自分たちの母国で持つべき最も基本的で当然の権利を 拒絶したりすることを私は, 拳と剣の権利のみが存在していた野蛮な時代からの遺物であるとみなす。

4: 私は,すべての国や地方が中立的で地理的な呼称を持つべきであり, ある民族や言語,宗教による名称で呼ばれるべきでないと考える。 なぜなら,古い国の多くがいまだに持っている民族名による呼称が, ある特定の出自を持つ住民が自分たちを 他の出自を持つ住民の上に立つ主人であるかのように思い込む 主たる原因となるからである。 それらの国々が中立的な呼称を受け入れるまで, 私は少なくとも私の同志たちとの会話の中では それらの国々をその首都名に国=iレグノ:regno)地方=iプロヴィンツォ:provinco)などという単語を つけて呼ぶことにする。

5: 私は,いかなる人もその人個人の生活の中では 彼にとって最も快い言語や方言を話し, 自分を最も満足させることのできる宗教への信仰を告白する 完全で議論の余地のない権利を持つが, 他の言語や宗教を持つ人々と交渉する場面では努めて中立的な言語を用い, 中立的な倫理や風習にしたがって行動するべきだと考える。 同じ国や都市に住む人々にとって, そこに住む住民の多数派の話す地域語や文化言語が 中立的な言語の役割を果たしているが, それは少数派の多数派に対するとりあえずの譲歩と みなすべきであって, 被支配民族が支配民族に対して負うべき卑屈な貢ぎ物と思ってはならない。 さまざまな民族間に争いのある地域では 中立人の言語=iリングヴォ・ネウトラレホーマ:lingvo neutrale-homa)が 公的機関で用いられるべきであり, あるいは少なくとも民族語についての文化機関以外に 中立人の言語についての特別な学校や文化機関が設けられ, 希望するならば誰もが拝外主義的な感情とは無縁の 中立人としての精神=iスピリート・ネウトラレホーマ:spirito neutrale-homa)の 中で文化に触れ,自らの子供たちを教育することが できるようにしなければならない。

6: 私は,人々が「民族」(ポポーロ:popolo)という枠組みを越えた 「人間」(ホーモ:homo)という枠組み の上にいつでも立つようにならない限りは 人々の間の不和は決して止むことがなく, 「…人」というあまりに不明確な単語が しばしば民族的な拝外主義や口論あるいは悪用の原因となり, しばしば同じ国,さらには同じ民族に生まれた息子たち≠も 憎しみで分け隔てていると考えるがゆえに, 私が自分を「何国人」と考えているのかという質問に対して 私は「人類人=iホマラーノ:homarano)である」と答える。 私の属する国や地方,言語,出身または宗教について 特に尋ねられた場合にのみ, それについて詳しく答えることとする。

7: 私が祖国=iパトロランド:patrolando)と呼ぶのは, 私の生まれた国である。 私がわが国=iヘイモランド:hejmolando)と呼ぶのは, 私が常に定住している国である。 しかし,国=iランド:lando)という単語の意味が 不明確なために祖国わが国という単語が不正確で しばしば口論や不和の原因となり, 同じ地上の一角にいる息子たち≠憎しみで分け隔ててしまう。 それゆえに, 疑わしい場合には常に私はそれらの不正確な単語を用いるのを避け, 代わりに父祖の国=iパトルーヤ・レグノ:patruja regno)父祖の地方=iパトルーヤ・レギオーノ:patruja regiono)父祖の街=iパトルーヤ・ウルボ:patruja urbo)わが国=iヘイマ・レグノ:hejma regno)わが地方=iヘイマ・レギオーノ:hejma regiono)わが街=iヘイマ・ウルボ:hejma urbo)などと呼ぶこととする。

8: 私が愛国心=iパトリオティスモ:patriotismo)と呼ぶのは, その出自や言語,宗教あるいは社会的役割にかかわらず 私の同国人すべての福利を守ろうとする感情のことである。 ある民族の利害を取りたてて守ろうとする感情や, 他国の人への憎悪を私は決して愛国心≠ニは呼ばない。 私は,自らの祖国や故郷に対する深い愛情が すべての人にとって全く自然で共通のものであり, 異常な外的環境のみがその真に自然な感情を麻痺させるのだと考える。 したがって,もし私の故郷におけるあらゆる行動が 特定の民族の利便や名誉のために悪用され, そのために社会的な行動に対する私の熱中心が麻痺し, 他の国について私が夢想するようになったとしたら, 絶望してはならないが,私はこう信じて自分を慰めなければならない。 すなわち,私の故郷におけるこの異常な状態もやがては去り, 同国人の不正義によって私には麻痺させられていた強固な熱中心を 私の息子か孫が完全に享受することになるであろう,と。

9: 私は,言語が人間にとって目的ではなくて手段に過ぎず, 人々を分け隔てるのではなくて統一するための 道具でなくてはならないと考える。 また,言語的拝外主義が 人々の間の憎悪の主たる原因の1つであると考える。 したがって私は,民族語や方言をいかに私が愛していようとも それを神聖なものとみなしたり, 私にとっての軍旗としたりすることは決してしない。 人が私に取りたてて私の母語を尋ねる場合には, 私は拝外主義を排して, 私が子供であった頃に私の両親と話していた 言語や方言を母語と答える。 人が私に取りたてて私個人が用いている言語を尋ねる場合には, 私はいかなる拝外主義的な思考に引きずられることなく, 私にとって何よりも自分自身のものだと思うことができ, 何よりも喜んで用いている言語をそれであると答える。 しかし私の母語や使用言語が何であれ, 私は中立人の言語を持たなくてはならない。 それは,民族を超えた交わりの中で用いられるべき言語であり, 私とは違う言語を用いている人々に 私の言語を強要する過ちを犯さないために, またその人々が私に彼らの言語を強要することのないことを希望する 道徳的な権利を私が保有するために, そして拝外主義を排除した基盤の上で 中立人の文化に奉仕することができるように, 私と同じ時代に生きる人々に用いられるべき言語である。

10. 私は,宗教があくまでも誠実な信仰に発するものであって, 民族を分け隔てるための祖先から受け継がれた道具として 機能するものではないと考える。 したがって私は,私が実際に信仰する宗教, あるいは宗教に代わる信仰体系のみを私の宗教と呼ぶ。 しかし私の宗教がいかなるものであれ, 私は以下にあげる中立人 すなわち人類人としての原則にそって自らの信仰を告白する。
a) この世界における物質的な,あるいは精神的なあらゆるものの 根本的な原因である理解不能な,私にとって最も崇高なを 私はまたはそれに代わる名前で呼ぶことができる。 しかしそのの本質はすべて, それが持つ良識や精神,またはその教会の教えが示すように 存在する権利を持つことができる。 私が誰かを,彼が私とは違う神を信仰していることを理由に 憎悪したり迫害したりは決してしてはならない。
b) 私は,真に宗教的な命令の本質はあらゆる人の心の中に 良心という形で存在すると考える。 そしてあらゆる人々にとって何よりもまず従わなければならない それらの命令についての原則とは, 自分と違う信仰持つ人々とともに行動するには 彼らが自分とともに行動したいと望むようにすることであると考える。 すなわち,宗教における他のあらゆるものを私は, いかなる人も自分の信仰にそって, 彼にとって従わねばならないの言葉として, あるいはさまざまな民族に属する偉大な人類の先達たちが 伝説と交じり合いながらも私たちに与えてくれた解釈として, または人々によって打ち建てられその実現いかんが 私たちの意志にかかっている道徳としてみなすことのできるような 付言であると考える。
c) もし私が実際に存在する啓示された宗教のいずれも信仰しないのであれば, 私は,ただ民族的な動機から私が私の確信について人々を誤らせつづけ, 民族間の分離を子々孫々まで伝えさせつづけることによって それらの宗教のうちのいずれかを残したままにしてはならない。 そして私は,私の属する国の法律が許すのであれば, 包み隠さず公の場で自分自身を自由信仰人と呼ぶ。 ただし自由信仰とは,特に無神論と同一なものなのではなく, 私自身の信仰について完全な自由を留保するということである。 私の居住地に,共有された合意の下に取り決められ完全な形で組織された, 同一民族からなり教義を持たぬ自由信仰人の共同体が存在し, 私の良心と私の心が必要とするものとを完全に満足させながら その共同体に私が加わることができるなら, 私自身の宗教上の中立性を強固かつ厳格に固め, 私の後に続く人々が綱領を持たず, そのために民族的・宗教的な拝外主義に立ち戻ってしまうことの ないようにするために, 私はその自由信仰人の共同体に全く公式かつ相続可能なものとして加わり, その共同体による中立的な呼称や その共同体によって手配されたもの, その共同体の非強制的な中立人としての祭式や慣習, その共同体での中立人暦などといったものを 受け入れなければならない。 その時までは私は公の場で, 私が生まれたときに属していた宗教へ所属していることができるが, 私は常にその宗教の名前に自由信仰という語を付け加えて, 私がその宗教に属しているのが単に 仮の,慣習にそった,そして事務上のことに過ぎない ということを示さなくてはならない。


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1998. 6. 7
ISIDA Satosi

ishato@tt.rim.or.jp