エスペラント Esperanto は,1887年にポーランドの眼科医 ザメンホフ L.L.Zamenhof によって考案・発表された人工の国際共通語です。
ザメンホフは1859年,当時帝政ロシアの支配下にあった
ポーランド領リトアニアのビャウィストクという町で
ユダヤ人の家庭に生まれました。
彼の周囲ではユダヤ人やポーランド人,ロシア人,ドイツ人,
ベラルーシ(白ロシア)人,リトアニア人などが
それぞれの言葉を話しながら暮らしていましたが,
しばしばそれらの人々が激しく反目しあうことも珍しくありませんでした。
幼い頃からこうした光景を目にしていた彼は,
このような「民族」どうしの反目の原因を言葉が通じず,
そのせいでお互いに理解しあえないことに求めました。
そして,その矛盾を解決する手段として彼が見つけ出したのが
あらゆる人類に共通な言葉とそれによる相互理解
という解答だったのです。
ザメンホフには語学的な才能がありました。
彼は頭の中で考えた機械的な′セ葉ではなくて,
現実に話され,彼の知っているヨーロッパのいくつかの言語をもとにして,
文法の簡単な学びやすい′セ語を再構築する道を選びました。
何度もの実験と改良の末,
エスペラント博士 D-ro Esperanto というペンネームで発表された
「国際語」La Internacia Lingvo が現在,
エスペラントと呼ばれている言語です。
エスペラント Esperanto とは 「希望する人」という意味です。 何をザメンホフが希望したのか? それは,現在世界中のエスペランチスト, つまりエスペラントの理想≠ノ共鳴した人々が聖歌として歌っている 彼の次の詩,「ラ・エスペーロ」(希望)に明らかです。
わずか16ヶ条の文法規則と 基礎語彙集,そしていくつかの例文を載せた40ページ足らずの ロシア語パンフレット から始まったこの言葉は,やがてそれに共鳴する多くの仲間を獲得し, 世界中に広まって行きました。 ザメンホフ自身を含む多くの人がこの言葉で話し合い, この言葉でさまざまな文章を書き記すことを繰り返すことで, エスペラントはいかなる場面でも 実用に耐え得る言葉に成長して行きました。 日常の会話を交わすことも,技術的な文章も,法律も, そして文学作品を著述することもすべてこの言語でできるのです。
エスペラントの前にも後にも,
多くの「世界共通語」案が発表されました。
中には一定の支持者を得たものもあります。
しかし,それらの中で現在まで生き残り,
世界中に多くの仲間を持っているのは
エスペラントだけと言ってよいでしょう。
それは,こうした多くの人々による実用経験の蓄積によるもの,
そして何よりザメンホフがこの言葉に託した
大きな希望が多くの人々をひきつけているからかもしれません。
エスペラントが発表された当初からのザメンホフの協力者の
1人であるポーランド人エスペランチスト,
グラボフスキ A. Grabowski が
エスペラントとその考案者であるザメンホフを
たたえて作った詩,
「ラ・タギージョ」(夜明け)には
そんなエスペランチストたちの気持ちが歌われています。
ザメンホフはエスペランチストとして
どのような人間でありたいと思ったのか?
それは,1913年に彼が公表した
「ホマラニスモについての宣言」
の中に語られています。
緑色の星 verda stelo は,
エスペラントのシンボルとしてエスペランチストの間で用いられています。
エスペラントの世界
(国際語教育協議会:Rondo Harmonia)
イッシーのホームページ´a Hejmpagho de ISSIE
エスペラント・バージョン は
こちら
* エスペラント・ページでの表記法については
こちら をご覧ください。
1998. 5.12
ISIDA Satosi