樺太市町村変遷表

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千島列島地名対照表

樺太の領有について

北海道(旧称:蝦夷ヶ島)とロシア沿海州との間に位置するサハリン(樺太)は,長い間東アジア諸国の「辺境」として,中国大陸・朝鮮半島・日本列島のいずれの政権の実効支配も受けてこなかった地域でした(ただし,中国では東北地方から沿海州にかけての地域を支配した女真(満洲族)などの諸勢力の影響下ないしは支配下にあったと理解しているようです)。
この地域が“近代国家”の概念の下での領土として周辺諸国の支配に組み込まれるようになるのは18世紀末から19世紀に入る頃からのことです。北からはシベリアを東進しオホーツク海に到達したロシア人が,南からは本州から北へ支配を広げてきた日本人が,それぞれこの島に到達し直に接するようになりました。
19世紀半ばに至り,いわゆる鎖国政策を放棄した江戸幕府ロシアとの国境画定交渉を開始しました。根室の北東に伸びるクリル諸島(後に日本で千島列島と呼ばれることになる)については,エトロフ(択捉・イトゥルップ)ウルップ(得撫)との間に国境を引くことで合意が成立しましたが,サガレンなどと呼ばれていたこの島については合意が成立せず,とりあえず日本とロシアの両国に帰属し,両国人の混住地域とするという形で,1867(慶応3)年に両国間の国境を画定する仮条約が締結されました。
江戸幕府(徳川政権)に替わって権力を掌握した明治政府は,「樺太」をこの島の呼称として採用し,開拓使の下(1870〜71年は樺太開拓使として独立)で北海道とともに開拓事業に着手しました。
しかし,当時の国力では樺太にまで本格的な殖民・開拓事業を行うのには無理があったこと,また現地で日露両国民間の紛争が頻発したことなどから,正式な国境画定条約を締結するにあたって日本は樺太の領有権を放棄することに合意し,かわりに千島列島全島をロシアから割譲されるという形で,1875(明治8)年いわゆる樺太・千島交換条約が締結されました。その後,サハリンへはロシアによる殖民事業が行われることとなります。
ところが,1905(明治38)年,日露戦争の末期に日本軍はサハリンへ侵攻して占領,戦争終結にあたって締結されたポーツマス条約によって,南半部の北緯50度以南日本領とされました。こうして,今度は日本領となった南樺太で日本による本格的な殖民・開拓事業が進められることになりました。
第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年8月,ソ連軍は同年4月の破棄通告後もまだ有効期間内であった日ソ中立条約に反して南半部に侵攻,占領下に置きました。その後,ソ連はサハリン南半部を,同じく占領下に置いた歯舞・色丹・国後・択捉を含むクリル諸島(千島列島)とともに,以前からの領土であった北サハリンと統合してサハリン州として統治を続けています。
日本政府は,戦後,1951(昭和26)年に連合国との間に締結したサンフランシスコ平和条約において南樺太(南サハリン)および千島列島の領有権を放棄しました。しかし,この講和会議にはソ連は参加しておらず条約に調印もしていないことから,この地域がソ連(およびそれを継承したロシア連邦)に帰属するわけではなく,その帰属は未定であるという立場をとっています。

樺太の行政区画

ポーツマス条約に基づき日本領となった樺太には樺太民政署が設置され,1907(明治40)年に樺太庁に改められて,以後1943(昭和18)年まで樺太の植民地統治の機関とされました。当初,樺太庁はコルサコフ(1908年大泊と改称)に,ついで豊原(旧称:ウラジミロフカ,現:ユジノサハリンスク)に置かれ,豊原は樺太の中心都市として札幌をモデルとする都市作りがなされました。さらに域内各地に樺太庁の支庁および出張所が設置され,それぞれの地域の開拓の拠点とされました。当初,3支庁6出張所が設置されましたが,複雑な変遷を経て1942(昭和17)年には1市4支庁体制となります。

樺太庁支庁・出張所変遷表

1908(明治41)年3月31日付の内務省告示で,これまでのロシア語あるいはアイヌ語による地名の主なものが日本語式の漢字表記の地名に改められ,その他の地名も順次日本語式のものに改められていきました。
1915(大正4)年6月26日に発せられた勅令第101号「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」に基づき,この年の8月,内地(北海道以南)と同様に樺太は17郡4町58村が設置されました。ただし,この段階の郡町村は行政区画としてのそれであり,自治体としての性格は与えられませんでした。

樺太市町村変遷表 (1)

1929(昭和4)年,樺太町村制(昭和4年法律第2号)が公布されて,樺太の町村にも自治制がしかれることとなりました。ただし,これは本州以南3島の制度よりも自治権の範囲が若干制限された北海道の制度に準じるものでした。同年7月1日付の拓務省告示により豊原町以下10町1村が一級町村(ほぼ完全な自治権を持つ)に,24村が二級町村(町村長は樺太庁長官が任命するなど,自治権に制限あり)に指定されましたが,豊原支庁(豊原郡)川上村のようにいずれにも指定されず自治権の与えられない村(「樺太町村制」附則第2・3項による)も存在しました(この際に指定されなかった町村のうちのいくつかはその後二級町村に,また二級町村のうちいくつかの町村が一級町村に昇格しています)。
なお,樺太自体は1943(昭和18)年4月の内地編入後も地方自治体としての性格は与えられず,議会も設置されませんでした。ただし,樺太庁長官の諮問機関として任命制の評議会が1937(昭和12)年に設置されました。
1937(昭和12)年には内地市制にならって樺太市制(昭和12年法律第1号)が公布され,これに基づき1937年7月1日に豊原郡豊原町が市制を施行して豊原市となり,樺太で最初(で最後)のが誕生しました。同時に,豊原市は豊原支庁の所管を離れ,同支庁は豊栄支庁と改称されました。
1942(昭和17)年11月には大幅な行政区画の再編が行われ,それまでの1市8支庁1出張所1市4支庁に統合されました。この際に,豊栄支庁大泊支庁および同支庁の留多加出張所と統合されて,豊原支庁という呼称が復活しています。

植民地としての樺太は,内務省などをへて1929(昭和4)年の拓務省の設置以降は同省の管掌下に置かれました(ただし,朝鮮,台湾などと同様に現地機関としての樺太庁に対する拓務省の統制は必ずしも強力なものではありませんでした)。
1942(昭和17)年,戦時体制強化の一環としての外交および植民地・占領地行政再編を目的に拓務省が廃止され外務省などから大東亜省が分離すると,樺太朝鮮台湾とともに再び内務省の所管となりました。さらに,樺太に関しては1943(昭和18)年3月に公布された法律第85号によって,内地に編入」され,この年の4月1日より,いわゆる植民地ではなく内地として北海道に準ずる地位に置かれることになりました。
しかし,このような行政区画は1945(昭和20)年8月のソ連軍の進攻・占領により消滅しました。

樺太市町村変遷表 (2)

1945(昭和20)年8月の行政区画図

地名の読み方

樺太の地名の多くは,北海道の地名と同様にアイヌ語地名を日本語式発音に写し漢字をあてはめたもので,きわめて読みにくいものが少なくありません。
それらの地名の中には資料によって複数の読み方が記載されているものが少なくありません。行政地名の場合,告示類にその読み方が掲載されているものもあるのですが,それにもかかわらず行政文書でさえ敷香しくかしすか),知取しるとるしりとり),留多加るうたかるたか)などのように複数の読み方が行われているものも多数あります。
(余談ですが,ラジオで放送されている気象通報では観測地点の1つを比較的最近まで「シスカ」と放送していました。旧敷香,現在のポロナイスクに当たる地点です。現在では全く無効となっている日本統治時代の地名を戦後長い間使用しつづけていたのは奇妙なことですが,政府官庁の1つである気象庁としては,「サハリン南部がロシア連邦に帰属しているわけではない」という政府見解にしたがい,ロシアによる統治を意味するロシア語地名を認めるわけにはいかないという態度をとっていたのではないか,と私は憶測しています。)

以下の変遷表では,基本的に「帝国行政区画便覧(樺太庁部分)(1994年,日本加除出版により復刻)に基づいた読み方を掲載してあります。ただし,読み方のかなづかいおよび漢字の字体については,いずれも現代表記に書き改めました

樺太市町村変遷表 (1)
1915(大正4)年8月17日現在:樺太郡町村編制実施
1923(大正12)年4月1日現在
1928(昭和3)年12月31日現在

樺太市町村変遷表 (2)
1929(昭和4)年7月1日現在:樺太市制・町村制施行
1945(昭和20)年8月現在:ソ連軍進攻時
現行ロシア語地名

1945(昭和20)年8月の樺太行政区画図

樺太市町村変遷表:関連法令

参考資料

雪の字さん: 樺太日和 06.4.10
*日本統治下の樺太のさまざまな姿を紹介されています。

千島列島地名対照表

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2001. 2.25
2001. 3.23 改訂
ISIDA Satosi