トホ妻を野球に連れてって

 ホ妻は成人してからかなりの年月を過ぎるまでプロ野球というものを観戦したことはございませんでした。現在でも全く野球には関心を持ちません。従ってルールの詳細はもちろんのこと、選手の名前、どこが強い・弱い等々に至るまで“野球知識”と呼べるものは彼女の脳髄の中に全く蓄積されていないのでございまして、このように野球に全く無知であったということが言わば「この事件の背景」と申せましょう。従いまして、トホ妻と同じように野球に全く無知・無関心な方がこの出来事をお読みになられても、そのトホホなニュアンスを御理解頂けますかどうか…

 れは1995年頃のシーズンでございましたでしょうか。ワタクシは久しぶりに横浜ベイスターズの試合を球場で観戦したいと思い、トホ妻を連れて休日の神宮球場に「横浜×ヤクルト」戦を観に訪れたのでございます。季節は真夏ではございましたがオープンエアの神宮球場であれば吹きわたる風もさわやかなことでありましょうし、ビール片手にナイター見物するにはもってこいの日であるというワタクシの勧誘に乗せられ、トホ妻も神宮球場への同行に同意したのでございました。

 ろん、トホ妻は野球のことは全く知らぬのでございますから、ワタクシは「誰かが打つとなぜあっちこっちで人が走り回るのか?」「なぜ選手はベンチに座って休んでばかりいるのか?」といった事象にまつわる質問から「なぜ3人アウトになると交代しなくてはいけないのか?」という根源的な質問に至るまで、根気良く説明していたのでございます。そんなトホ妻でございましたが、ヤクルトのある選手が場内アナウンスでコールされた時、突然「あら、珍しい。この人イタリア人なの?イタリア人も野球やるんだ、ふーん」と確信に満ちた表情で感心し始めたのでございます。

 ナウンスされた選手はワタクシも名前を知っている日本人選手でございましたので、ワタクシがその選手はイタリア人などではないという旨を説明致しますと、「あら、だって今トマシーノって言ってたじゃない。イタリア人じゃないの?あっそうか、イタリア系のアメリカ人なんだ」

 ちろんワタクシはそれが単なる聞き間違いであること、それが苫篠という名前のレッキとした日本人選手であることを条理を尽くして説明を試みたのでございますが、トホ妻は自分の勘違いを認めたがらぬものでございます。また、確かにそう言われてみると神宮球場の場内アナウンスが、「とましの」「し」と「の」の間をほんのちょびっとだけ伸ばし気味にコールしていた、と言えなくもないのでございます。

 の後も苫篠選手の名が場内にコールされ、彼がバッターボックスに立つたびに、トホ妻はワタクシへの当てこすりでもございましょうか、わざと「トマシーノ〜」と声援を送るのでございます。願わくばその声援がヤクルト応援団のファンファーレにかき消され、周囲の横浜ファンの耳に届かないことを祈りつつ、ワタクシは神宮球場左翼外野席で下をうつ向き続けたのでございました。 

 “トマシーノ”選手は確かその後広島東洋カープに移籍されたと記憶しておりますが、現在どうしておられるのか正直なところよく存じ上げません。ただ、ワタクシは横浜ベイスターズのファンではございますが、トマシーノ選手の今後の御活躍をトホ妻ともどもお祈りしたいと思うのでございます。

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