復讐の黒い影は沈黙と共に…

 の人の置かれた環境よって、ある特定の感覚だけが異常に鋭くなるという例はいろいろと実例があるようでございます。音楽家が常人にはとても聞き分けられないような微妙な音の違いを聞き分けるなどというのがその典型でございましょうが、まぁここまで立派なものでなくとも、似たような例は身近にもあるものでございます。例えばビールの好きな方がいつの間にかビールの銘柄を味だけで識別できるようになる、などというのもある種の「境遇による感覚の鋭敏化」の一例と申せましょう。

 ホ妻やワタクシにも、結婚後の境遇の成せるワザによって異常な発達を遂げてしまった感覚というものがあるようでございまして、例えばトホ妻はワタクシの上半身の匂いをクンクンと嗅いだあとに「…眠いニオイがする…」などと信じ難いことを言うことがよくございます。一体、人間の嗅覚が「眠いニオイ」などというものを感知し得るものなのか?と思うのでございますが、トホ妻は「アタシにはわかるの。アナタから“眠いガス”のニオイがするのは眠い証拠よ」などと平然と言ってのけるのでございます。

 の「眠いガス」とやら、もちろんワタクシに感知できるはずもありませんが、おそらくしょっちゅう眠たがってばかりいるトホ夫であるワタクシと暮らしているうちに、トホ妻には身体から発散される「眠いガス」のニオイを嗅ぎ分けるような、いや少なくとも本人には嗅ぎ分けたと思えるような「第二の嗅覚」と申しますか、“超感覚”とでも言うべきモノが備わってしまったらしいのでございます。

 たような“超感覚”はワタクシにもございまして、「トホ妻の怒りのオーラ感知能力」などはその代表例でございましょう。普段はトホホなトホ妻も、いったん怒るとこれが何ともコワいのでございます。何がコワいかと申しまして、トホ妻はたとえ怒っても大声でワメいたり、モノを投げつけたりといった、言うなれば“陽性怒り行動”に及ぶことがあまりございませんで、逆に怒れば怒るほど静かになり、氷の刃ような冷たい言葉でワタクシを鋭く詰問するという“陰性怒り行動”をとる女なのでございます。

 来がガサツな育ちのワタクシ。そういう“陰性の怒り”というものには全く慣れておりませんでしたから、結婚後、激しく怒った時のトホ妻の静かな陰性の怒りに接した時の恐怖感は大変なものだったのでございます。悪いのは明らかにワタクシであるといったような場合は反論も出来ませんから、こちらはひたすらその恐怖に耐えるしかなく、一連の“陰性怒り行動”が終わった頃にはもうワタクシ、心身共にボロボロになるのでございます。こういう経験を繰り返していれば、ワタクシにもいつの間にかトホ妻の怒りのオーラを感知する異常に鋭敏な“超感覚”が備わったとしても不思議はございますまい。

 いまして、ホ妻が声を荒立てて怒っているうちは、怒りとしてはまだローギアか、せいぜいセコンドギア程度だということが分かります。「あやまれば許してもらえる」という希望を十分に持てる段階でございますが、これが静かになりだしますと、それは怒りがかなりシフトアップした証拠。ワタクシの“超感覚”は早くも警告音を発し始めます。そして怒りがトップギアに入り、トホ妻が沈黙状態になりますと、ワタクシには彼女の身体の周辺に立ち昇る「怒りのオーラ」がハッキリと見えるのでございます。ああ、何と恐ろしい…。

 て先日の夜、トホ妻と駅前の店で晩メシを食い、二人で自転車置き場に向かっておりました時、突然トホ妻が「自転車のカギがない…」と言い出したことがございました。メシを食った店で落としたのか、歩いている時に落としたのか…「カギ忘れ」に関しては過去に輝かしい実績を誇るトホ妻でございますから(参照:いわんや、ホームレス転落の危機)、どこかに忘れたらしいのですが、カギ束には自転車のカギに加えて我が家の玄関のカギも付いておりますから、そんなものをコロコロ忘れられては困るのでございます。

 は以前にもこれと同じことがございまして、その時は何とトホ妻は玄関のカギもついたカギ束を一日中自転車に付けっぱなしで放置しておったのでございます。何という不用心!これではまるで「空き巣さん、このカギ持ってって」状態ではございませんか!当然、ワタクシはその時トホ妻を強く叱責し、自宅のカギと自転車のカギとは別々に管理することを約束させたのでございますが、それをおこたったまま、またもやトホ妻は自転車&自宅のカギをなくしたのでございます。

 回の場合も、最終的にカギは発見されたのですが、それは何とトホ妻の自転車のカゴの中に一日中置かれたまま放置されていたのでございます。信じられません。これにはもうワタクシ、怒りました。

いわんや「またかよ!もう空き巣に入られてもオレは知らないぞ」

トホ妻 「…でも、空き巣がこのカギ取ったとしても、どの家のカギかわからないじゃない…」

いわんや「いいか?空き巣がこのカギ盗んで、この自転車をジッと見張っててみな。今こうしているオレたちが持ち主だってわかって、そのままオレ達を尾行すりゃ家の場所も一発でバレちゃうじゃんか」

 ったくとんでもない話でございます。れは明かに、その並はずれた忘却パワーが原因となったトホ妻の失態。何しろ我が家の安全がかかった問題ですからワタクシとしても叱責するのが当然でございます。むしろ、ここはトホ妻に厳しく反省を迫って今後のカギの管理を徹底させないとイカンのですから、叱責の口調も自然とキツいものにならざるを得ません。

いわんや「大体、この前も似たようなコトがあって、その時ちゃんと自転車のカギと家のカギは分けるって約束したじゃないかよ」

トホ妻 「…ごめん…」

いわんや「もう〜、すぐに自転車のカギと家のカギは別々にしてくれよな。自転車盗まれるだけならいいけど、家に空き巣が入ったらどうすんだよ、全く…」

トホ妻 「…別々にする…ごめんなさい…」

 ぁ素直にあやまっていることでもあるし、この辺でいいだろう、というわけで一応ワタクシも叱責のホコを収め、二人で自転車に乗って自宅に帰って参りました。この時期、家の中は冷えきっておりますから、我々は寒い寒いと言いながら真っ暗な階段を昇り、早く暖房をつけようとトホ妻が先に立って寝室のドアを開けたのでございました。すると何と、寝室の中は薄ボンヤリとダイダイ色の照明がすでについております。これは明かにワタクシが今朝ウチを出る時に常夜灯のマメ電球を消し忘れたことを意味します。

 ると、トホ妻はクルリとこちらを振り向いてジッとワタクシを無言でにらみ始めたのでございます。何しろ背後にダイダイ色の常夜灯が点いておりますから全身は真黒なシルエットになり、身体のフチのところだけダイダイ色の光のスジが通っているという、それだけでも十分不気味な姿。しかも、おお神よ、その時ワタクシの“超感覚”はトホ妻の全身からいきなりスサマジいまでの怒りのオーラが立ち昇るのを見たのでございます。

 かが常夜灯のマメ電球を消し忘れた程度のコトでございますよ。何もいきなり「怒りのトップギア」に入らなくても良さそうなもの。しかし、先ほどカギ忘れの失態でさんざんワタクシに怒られたトホ妻は、今度はワタクシの小さな失態を発見して復讐のチャンスを獲得した喜びのあまり、つい「怒りのアクセル」を踏み込み過ぎてしまったようなのでございます。その証拠に、トホ妻の背後には「怒りのオーラ」に加えて「残酷な復讐の喜びのオーラ」がメラメラと輝いているのを、ワタクシの“超感覚”はハッキリと感知致しました。

 讐の喜びのあまり、怒りのコントロールを暴走させ、憤怒とリベンジのオーラに包まれたトホ妻の黒い影…いやもう、スゴい光景でございました。ワタクシ、数秒間はただそのオーラの余りのスゴさに圧倒されておったのでございますが、何しろ怒りのタネはたかがマメ電球の消し忘れ。その「怒りのタネの小ささ」と「怒りのオーラのスゴさ」のアンバランス…つい勢い込んでトップギアに入れてしまったものの、さてどうしようか…とトホ妻は思ってるかな?…と考えた瞬間、ワタクシは暗い廊下で腹を抱えて大笑いしてしまったのでございます。

 いにしてこの大笑いが効果を発揮したのか、自分の暴走に気付いたのか、トホ妻から怒りのオーラも急速に消え始め、コト無きを得たのでございます。いやー、きわどい所でございました。一歩対応を誤っていれば大変なことになるところでございましたが、今回は怒りのタネが小さかったためにうまく笑って怒りのオーラを“鎮火”することができたのでございます。

 年一緒に暮らしている間に夫婦というのはかくの如く、その感覚まで相手に「カスタマイズ」され、やがては“超感覚”が備わっていくようでございます。この駄文をお読みの既婚者の皆様、みなさまにも配偶者に関して御自分にだけ聞こえるもの、御自分にだけ見えるもの…そんなお心当たりはございませんでしょうか…?

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