トホ妻・夜の暗黒リサイタル

 ホ妻とワタクシ、実はかつて何回か第九の合唱に加わった経験を有しております。ちなみにトホ妻のパートはソプラノ、ワタクシは男声低音部のバス。ここ数年は歌っておりませんが、それでもワタクシが独身時代から結婚後にかけて舞台上で第九を歌った回数は5〜6回になりましょうか。トホ妻の出演回数はおそらくもっと多いはずでございます。

 九のような合唱の練習では、まず自分のパートを一生懸命練習して覚え込むわけでございますから、一般に「歌をマスターする」ということがそうであるように、第九も一度覚えてしまうと少なくとも自分のパートに関してはもう旋律も歌詞もあまり忘れることはございません。従いまして、歌謡曲などと同じように鼻歌で第九の自分のパートを♪ヴァス・ディー・モーデ・シュトゥレン・ゲェタイルト♪などとドイツ語で歌うことも可能なのでございます。

 うだいぶ前になりますが、トホ妻と二人で台所で晩メシを作っていた時、ワタクシがふと第九のバスのパートを鼻歌で歌い始めたことがございました。横にいたトホ妻はそれにソプラノの旋律で唱和し始めたのでございますが、何しろお互いにかつて猛練習して覚えた歌、両者異なるパートでもございますし、歌えばそれなりにチャンとハモるのでございます。

 モるというのはやはり耳に心地良いものでございまして、つい面白くなった我々は、台所でメシを作りながら「ソプラノ+バスだけ」の第九を延々と歌い続けたのでございました。すると突然「ピンポーン」という呼び鈴の音。一瞬のうちに正気に戻った我々はお互いに凍り付いた顔を見合わせ、恐る恐るトホ妻が玄関に出てみると、そこには朝日新聞の集金の青年がニコニコ笑いながら立っておりました。

 の集金青年、おそらく中国あたりからの留学生でございましょう、ちょっと変わったアクセントの日本語で「ウタ、ウマイネー」と言って笑っております。我々の狂気の「めおと第九」はやはり外にまで聞こえておったのでございます。…うああ…あんなに恥ずかしかったことはありません。もちろん、その純朴な青年は皮肉や冷やかしで言ったのではなく、親しみを込めて「ウマイネー」と言ってくれたのですが、とにかく顔から火が出る思いとはまさにこのこと。羞恥のあまり夫婦揃ってその場で失神してしまえればどんなに楽だったことでございましょう…。

 て、ここからが本題でございますが、実はトホ妻&いわんやは、マレに夫婦二人でカラオケボックスに行くことだってあるのでございます。しかし、何しろ上述のようにヘンな“歌唱生活”を送っている我々でございますから、宇多田ヒカルやグレイなどのハヤリウタを唄うことなどほとんど皆無に等しく、唄うのは大体ヘンな曲ばかりでございまして、「こんなヘンな曲入れた奴は、たぶんこのカラオケボックス開店以来オレ達が初めてに違いない」と思ったことも1度や2度ではございません。

 えば「匕首マッキー」「いそしぎ」「マイ・ファニー・バレンタイン」…なんて、こんな曲そもそも御存知ない方がほとんどでございましょうし(大体、匕首-あいくち-なんて字、今や誰も使いませぬ)、仮に御存知であったとしても、これをカラオケで歌ったことがある方などまずいらっしゃいますまい。しかも例として上に挙げた曲はどれも実にノリの悪い歌ばかりでございまして、ワタクシが第九のバスで鍛えた低音で「♪M〜y funny Valenti〜ne…♪」などと唄えばどんなに楽しいカラオケの集まりもたちまちドンヨリと暗い雰囲気に包まれてしまうというものでございます。

 かし、我々二人しかいないのであれば暗い曲を唄うのに遠慮は要りません。続いてさだまさしの「飛梅(とびうめ)」いってみるか…暗〜いバイオリンの前奏に続いて「♪信字池にかかる…みっつの赤い橋は…ひとつめが…過去で…ふたつめがぁぁ……いま…♪」ううう、暗い。しかし暗い曲ならトホ妻はワタクシよりウワテ。長谷川きよし(古すぎる)の「別れのサンバ」などを歌い始めます。こんな曲、コンニチ誰が知っておりましょうや?…「♪な〜んにもぉ…お〜もわずぅ…な〜みだもぉ…ながさずぅ…♪」あああ、暗い…。このようにして我々の「カラオケの夕べ」は大体いつも加速度的に暗くなっていくのが常なのでございます。

 日も久しぶりに二人でカラオケボックスに入り、この「暗〜いカラオケの夕べ」を開催したのでございますが、暗い曲を唄いまくった余韻が残った我々は、店を出たあとも街を歩きながら、しばらく二人で「暗い曲」談義を続けたのでございました。

トホ妻 「アタシ、“チューリップのアップリケ”っていう最高に暗い曲をぜひ歌いたいんだけど、さすがにあれはどこのカラオケボックスにもないみたいね」

いわんや「チューリップの“アップリケ”?そんな暗い曲、チューリップが歌ってたっけ?」

トホ妻 「違う、“チューリップのアップリケ”っていう題名。ほら、あの“山谷ブルース”っていう暗い曲を作った岡林信康の歌」

いわんや「ふーん、岡林信康ってヒトは知ってるけど、その曲は知らないなぁ…」

トホ妻 「知らない?もうメッチャ暗い曲よ。聞いたことない?じゃ、アタシがあとで歌ってあげる」

 の時点では、ワタクシはさほど注意を払わずに「あとで歌ってあげる」というトホ妻の言葉を聞き流したのでございまして、帰宅して着替えて布団に入った頃には「チューリップのアップリケ」のことなど完全に忘れておりました。しかしトホ妻はよほどこの「メッチャ暗い」曲が気に入っているらしく、布団の中で「じゃ、さっき言った“チューリップのアップリケ”唄ってあげるね」と宣言するや、実際にソレを唄い始めるではございませんか。以下はトホ妻の記憶を参考にした大まかな歌詞でございますので正確なものではございませんが、大体こんな歌なのでございます。

 「♪うちがなんぼ〜…はよ起きても…おとうちゃん…もうくつトントンたたいては〜る〜…うちのおかあちゃん…どこ行ってしもうたんやろ〜…みんなビンボがぁ〜みんなビンボが悪いんやぁ〜…おかあちゃんちっとも悪うないぃ〜…チューリップゥのアップリケェ…ついたスカァ〜ト…うち…やっぱりぃ…おかあちゃんに買うてほしい…♪」

 ホ妻の無気味な歌声抜きで大まかな歌詞しかお伝え出来ないのが残念でなりませんが、それにしても壮絶なまでの暗さ。繰り返して申しますが、これから安らかな眠りにつこうという布団の中でございますよ。一体何が悲しゅうてこのように暗い“暗黒歌曲”を寝る前に聞かされねばならぬのか。ワタクシ心の中で「も、もういい…」「…たのむ、やめてくれ…」と哀願しておったのでございまして、ようやく区切りが良いところで「わかった。とにかくそういう歌なんだな。よくわかった」と、口を挟んでその“暗黒歌曲”をストップさせたのでございました。

 かし、ワタクシは甘かったのです。トホ妻は「まだ2番もあるんだからね。2番はね、こういうのよ」と言うと、今度は「チューリップのアップリケ」の2番を歌い始めたのでございました。

 「♪うちのおとうちゃん…一生懸命はたらいては〜るのにぃ〜…何でうちの家…いつもお金がないんやろぉ…みんなビンボがぁ〜みんなビンボが悪いんやぁ〜…そやでおかあちゃん…家を出て行かはった…もうおじいちゃんが…死んださかいにぃ〜…誰もおかあちゃん…怒らはらへぇ〜んでぇ〜…チューリップのアップリケェ…ついたスカァ〜ト…おかあちゃんに買うてほしい…♪」

 やもう、スゴい歌でございます。こんな歌を寝る前に聞かされたら悪夢にうなされそうでございます。歌詞が持つ暗さ・悲哀・絶望感はもちろんですが、トホ妻の歌声がそれを倍加させる力を持っていることも確かでございましょう。上述のように、ワタクシも決して暗い歌は嫌いではございませんが、これにはさすがに打ちのめされました。

 のページを今お読みの方で岡林信康の「チューリップのアップリケ」なんて御存知の方はほとんどおられないでしょうが、多分我々よりもう一世代上の、いわゆる「全共闘世代」とか「団塊の世代」と言われる方々にとっては極めてなつかしい歌らしいのでございます。

 れにしても、この歌が流行った頃はトホ妻はせいぜい小学生だったはず。今や誰も知らないような「チューリップのアップリケ」などという“暗黒歌曲”をなぜ彼女はここまで覚えているのでございましょう?しかもそれを大人になってから、こうして突然布団の中で亭主にフルコーラス唄って聞かせるトホ妻の音楽的嗜好・記憶力とは一体…いやしかし、これは「暗い歌」に関してトホ妻が持つ“一種の才能”と申すべきでございましょう。明らかに無能ではございません。

 れから御結婚される前途有為な独身者の皆様。皆様が配偶者をお決めになるにあたっては、当然相手の異性の人柄や生活能力、御自分との相性などをお考えになることでございましょう。しかし、念には念を入れてと申します。試みに一度その異性をカラオケボックスに連れて行き、どのような音楽的嗜好をどの程度の強さで持った方なのかを“事前に”お確かめになることも無駄ではありますまい。御結婚後に配偶者の尋常ならざる音楽的嗜好に気付かれても、もう遅うございます。アナタ様にも「夜のリサイタル」のたった一人の聴衆として、S席が用意されているかも知れません…。

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