恐怖のトホ母.遊園地のトラウマ

 やトホ妻帝国投稿コーナーでも完全に一つのジャンルとして成立した感のある「トホ母ネタ」。ワタクシも久しぶりにその幾つかをここで御紹介したいと思うのでございますが、まぁ純粋なトホ母ネタというよりはトホ父・トホ母・トホ姉すべてひっくるめたトホ家族ネタとでも申せましょうか。ちなみに、いわんやの両親は70過ぎのジサマ・バサマとなった現在もおかげ様で元気でございますが、特にトホ母に至ってはもう野生の牝象のように元気でございまして、「動物的かつアバウトな世界観」に忠実に生きる我がトホ母はワタクシより長生きするのではないかとすら思えてきた今日この頃なのでございます…。

第一章.ウォーター・シュート事件

 れはワタクシが4才か5才の頃…おそらく東京オリンピックが開催された頃と大幅な年代的開きはないはずでございまして、当時東京の練馬区にあった(もちろん今でもございますが)豊島園という遊園地を家族で訪れた時の話でございます。当時の豊島園がどの程度の規模の遊園地で、どんな乗り物があったのか、もうほとんど記憶に残っておりませんが、一つだけ今でも忘れられないのが「ウォーター・シュート」という乗り物でございます。

 の「ウォーター・シュート」、今風に申せば東京ディズニーランドにございますスプラッシュ・マウンテンのコットウ品とでも申すべき乗り物でございまして、レールの敷かれた緩い斜面をボートがすべり下りて最後に池にジャブンと着水するという、ただそれだけの実に牧歌的な乗り物。今にして思えばスリルもヘチマもない、情けなくなるような乗り物でございますが、昭和30年代の遊園地なんてまぁこんなものだったのでございます。

 かし何しろ当時のいわんやはまだ物の道理も分からぬ4〜5才のコドモ。コドモいわんやにはこの「ウォーター・シュート」はあたかも地獄の池に真さかさまに落ちる幽霊船のごとく危険でオッカナイ乗り物に思えたわけでございまして、父母+トホ姉がそれに乗ろうと提案した段階からすでに「乗るのはイヤだ」と激しく抵抗したのでございます。

 こで「コドモが怖がってるから乗るのやめましょうよ」などと我がトホ母が言うわけはございません。「乗りたくない」というワタクシの叫びは当然のように黙殺され、「ほら大丈夫よ!早く乗りなさい」などと言われてワタクシはウォーター・シュートに無理矢理乗り込まされたわけでございました。

 でもこの時の状況はよく覚えておりますが、とにかくワタクシは自分の乗ったボートがはるか下(のように感じられた)の池に向かってスゴい斜面(のように思えた)を落ちていくのが怖くて怖くてたまらず、恐怖に震えながら目の前にある手すり棒に捕まっていたのでございます。この手すり棒、大人にとっては大体胸くらいの高さにございましたが、コドモにとってはそれがほぼ顔の前くらいの位置にあたっていたのでございました。

 分の乗った船が斜面を下り始めるとワタクシの恐怖も最高潮。そしていよいよ着水という瞬間、恐怖に身を縮めていたワタクシは、着水の衝撃で目の前の手すり棒にものすごい勢いでおデコをぶつけたのでございます。その後もトホ家族の間で長く語りぐさになるくらい、この時のぶつけ方は相当なものでございまして、隣にいたトホ母はワタクシのおデコと手すり棒との衝突音をはっきりと聞いたはずでございます。

 やもう大変なショックと激痛でございました。よく「目から火花が出る」などと申しますが、あの時のワタクシがまさにその状態でございまして、一歩間違えば脳シントウくらい起こしたかも知れませぬ。いや、ひょっとするとあの時豊島園のウォーター・シュートで激しく頭をブツけたせいでワタクシは脳にダメージを受けてバカになり、バカになったまま現在に至っているのではないか、とも考えられるのでございます。

 然、ワタクシは激痛のあまり激しく泣き叫んだのでございますが、トホ母はワタクシの頭を心配するどころか、自分の息子が演じたおバカな「自損事故」にけたたましく大笑いしたのでございます。そればかりではございません。ウォーター・シュートが着水する池の回りには多くの見物客がいたわけでございますが、あろうことかこの見物客達までもが泣き叫ぶワタクシと、大笑いしながらそのおデコを撫でているトホ母の姿を見てゲラゲラと笑っているではございませんか。

 ヤがるのを無理矢理乗せられた上になぜこのような目に…幼きワタクシは怒りと激痛と恥辱のあまり、ほとんど正気を失わんばかりでございました。もし当時のワタクシが「舌を噛んで死ぬ」という方法を知っていれば、あの状況から逃避するために迷わず実行したことでございましょう。しかしコドモいわんやに出来ることと言えばその憤激の思いをより大きな泣き声に変換することしかなかったわけでございまして、豊島園ウォーター・シュート池の回りはワタクシの憤怒の泣き声と見物客の笑い声、中でもひときわけたたましいトホ母の笑い声に包まれたのでございます。

 の時ワタクシのおデコに出来た巨大なコブはその後かなり長い間消えることはなく、トホ母は何かと言えばそのコブをネタに豊島園ウォーター・シュート事件の話をムシ返し、割れ鐘のように豪快にワタクシをアザ笑ったものでございました。こうして幼きワタクシは脳に少なからぬダメージを受けた上に「家族を含め、世の中には自分の味方は誰もいないのだ」という事実を発見し、その性格は大幅にヒン曲がってしまったのでございます…。

第二章.マジック・ハウス事件

 下にお話し申し上げる事件がどの遊園地での出来事なのか、実はワタクシにも定かな記憶がございません。豊島園や後楽園といったメジャーな遊園地ではなく、どこかの観光地にあったショボい遊園地であったような気もするのですが…。いずれに致しましても時期は上の「ウォーター・シュート事件」と大差ない、ワタクシが小学校就学前の4〜5才頃の出来事のはずでございます。

 の遊園地には「マジック・ハウス」と称する迷路がございました。この迷路の外壁はガラスで出来ておりまして、外から中が(当然、中から外も)見えるという構造になっておったのでございますが、この「マジック・ハウス」の最大の特徴は迷路の壁面にも鏡とガラスを多用していることでございまして、そこら中「合わせ鏡」に似たような光景が生じ、歩く者の視覚を幻惑させるという仕掛けになっておったのでございます。

 ドモいわんやは手を引かれるまま、ワケもわからずそのマジック・ハウスの中に入っていったわけでございます。その時ワタクシの手を引いていたのが誰だったのか今となっては確認するスベもございませんが、とにかく結論から申し上げますとワタクシはそのマジック・ハウスの中で他の3人からハグれ、一人だけ取り残されたのでございました。そして、ここからワタクシにとって生涯忘れ得ぬ地獄絵図が始まったのでございます。

 しろガキでございます。鏡の迷路を一人で通り抜けられるわけがございません。しかもこれが豊島園のウォーター・シュートで頭を激しくブツけた後のことだとすれば、かなりバカになってもいたはずでございますからよけい一人で通り抜けられるはずもございません。ワタクシはその鏡の迷路の中で完全に方向感覚を失い、恐怖と絶望のあまり家族を呼んだ…つまり泣き叫んだのでございます。

 ると何としたこと!父・母・姉の3人はすでにマジック・ハウスの迷路を抜け、外からワタクシを見てケタケタと笑っているではございませんか。自分たちだけ先に抜け出した上に取り残されて泣き叫ぶ幼児を見てアザ笑うとは何という血も涙もない連中!例によってけたたましいトホ母の笑い声などはガラスの壁を通してワタクシの耳に届くほどでございまして、怒りと屈辱にブチキレたワタクシはメクラメッポウに出口を求めて泣き叫びながら歩き回ったのでございます。

 かし、何しろすでに方向感覚を失っておる上、精神的にも完全にキレておりますから、2〜3歩も行くと「ゴンッ!」「ガツンッ!」とそこらじゅうの鏡やガラスにむなしく頭をブツけるだけ。ワタクシは怒りと激痛と焦燥感にますます泣きワメき、外にいる家族はそれを見てますます腹を抱えて笑いころげるのでございました。

 の時の気分というのもワタクシいまだによく覚えております。もう世の中のもの全てがワタクシの敵でございました。よくまぁ逆上のあまり頭の血管が切れてあの場で憤死しなかったものだと我ながら感心致します。いや、もしかすると1〜2本血管は切れていたのかも知れませぬ。その証拠に、あのマジック・ハウスでの逆上のヒトトキのあと、ワタクシは自分が誰の手でどのように救助されたのか全く記憶を失っておりまして、ワタクシの記憶は鏡の迷路の中で泣き狂う自分と、外からそれを見て笑い狂う家族という悪夢のようなシーンで途切れているのでございます。

 のマジック・ハウス事件によって「世の中に自分の味方は誰もいない」という思いはワタクシの中で決定的に強固なものになり、4〜5才にしてワタクシの性格は復元不可能なまでにヒン曲がってしまったのでございます。…ああ、楽しかるべき遊園地でワタクシの心に生涯消えぬ傷をいくつも残した恐るべき我がトホ家族たち。こうして思い返してみると成長後のいわんやが遊園地を大嫌いにならなかったのが不思議なくらいでございます。

 かしぁ考えようによっては、このように幼い頃から激しいストレス・激痛・屈辱などに苛まれて性格がヒン曲がった結果、やはり性格のヒン曲がった女であるトホ妻との生活にも存外平気でいられるのだとも考えられるのでございますが…それにしてもこうして書いていると、コドモいわんやはいささかカンシャク持ちのガキだったような気もして参ります…。

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