南北朝〜室町時代

建武四年(1337)

四月十四日、千手・秋月氏らの南党、筑前国穂波郡長尾村に侵入。「筑前の南党(宮
方)に千手氏の名が見えることは注目される。」(「嘉穂地方史古代中世編」)
十月十一日、南党、豊前国宇佐郡より筑前国嘉麻郡桑野原に打ち出て北党と戦う、つ
いで南党、嘉麻郡嘉麻城に拠って戦う。(「嘉穂地方史古代中世編」)(筆者注:桑野とい
う地名が史料に初登場)。

應永二十八年(1421)
八月 彦山座主有俊、嘉穂郡桑野の高木神社を再建する。「奉再建大行事神社一宇、大願主彦山座主大僧正、法印有俊賽白 応永二十八年辛丑八月吉辰」(高木神社棟札銘)。


戦国時代

文明十年(1478)

九月十六日、前年京都より戻った大内政弘が北九州を奪回する。
十月十三日 桑野新兵衛尉正達、筑前国那珂郡薬井村内五町地を安堵される。千手
右馬允盛景、筑前国早良郡山門庄内五町地を安堵される。千手弥太郎正景、筑前国
早良郡山門庄内五町地を安堵される。桑野近江守盛達、筑前国穂波郡榎本十町地を
安堵される(「正任記」大内政弘の臣である弘護の祐筆、相良正任の日記)(筆者注:こ
の「正任記」にある千手・桑野氏四名はどちらも実名に「正」「盛」の字を用いていること
が注目される。小野谷桑野氏系図冒頭に「(桑野氏は)清原之姓往昔国司之末孫千手
ト云」とあることを考えると、十五世紀頃、両氏に何らかの関係があったか。また、桑
兵衛尉正達が、「新」の字を初めて用いているが、この後百年間に、五郎、
衛門、兵衛と三人が史料に見える。この時期の系図は未発見だが、新を通字とした
四人に血縁関係がある可能性は高いと考える)。

天文二十二年(1553) 

八月、「宗像御代寺社武家知行帳」の中に、上八(こうじょう)郷衆として「三町大」を有す
桑野與左衛門が見える(「福岡県史」)。玄海町上八の承福寺に、桑野與一右衛門の墓があるという(玄海桑野氏の項を参照)。

中世原田家桑野氏
戦国中期の武将、高祖城主原田隆種(1506〜1588?)の家臣帳に桑野又六郎の名が見
える。

弘治元年(1555) 

毛利元就、厳島で陶晴賢の軍を破る。翌々年、大内氏滅亡



弘治三年(1557) 
七月十九日、戸次(べっき)艦連らの大友軍、秋月文種を古処山に破る。

永禄二年(1559)(永禄十年とする説もある)
秋月種實(たねざね)帰城時に参集した侍の中に、桑野軍兵衛の名が見える。(「藩史備
考巻一、種實公御恢復頭取侍帳」)

毛利家の庇護を受けていた秋月種実が山口より筑前に帰陣した年の近習帳に、桑野
新右衛門、桑野亀之助、桑野新五郎、桑野藤左衛門の名が見える。(「秋月家百人
宿老千人近習帳」)
秋月氏の家紋、三つ撫子、輪違いに唐花

永禄十年(1567)

八月十五日(九月三日ともいう) 桑野新右衛門、休松の戦いにて、内田彦五郎ととも
に、豪勇の戸次の将、十時(ととき)右近惟忠を討ち取り首をあげる。(「秋月家軍功日
記」「藩史備考巻一、月見打首帳」)

天正三年(1575)

十月 嘉穂郡宮野村大字桑野字普門寺の村社高木神社が秋月種実によって社殿再建
されたときの棟札に、神主鼻祖兵部太夫清原実勝とある。(「嘉穂郡誌」(大正版)

天正六年(1578)

筑前の士、亡き桑野忠春の子、桑野左京亮春元、筑前の兵を率いて大友宗麟の軍に参加、耳川の戦い(高城下の戦いに加わり、戦死する(「大友家文書録」、学習研究社「戦国の戦い四国九州編」)。



十一月十一日、大友宗麟、耳川の戦い(高城)で大敗する。

十二月、秋月・筑紫連合して岩屋を攻める。大宰府天満宮焼失のため、夜須郡栗田に
移す。

十一月朔日 秋月三郎顕種(ママ)ガ兵桑野次郎(筆者注、「高鍋藩本藩実録」は北島
玄蕃とする)ト云フ者。天満宮ニ走リ入リ。社壇ニ火ヲ放チ。雲霞ト焼立テタリ斯ル軍旅ノ
悪業ハ神明争カ赦シ給フベキ。(「残太平記」)

天正七年(1579)

十月二十八日 桑野新右エ門等、大友を原津留に破る。十一月 桑野新右エ門、
嶽城の戦いに出陣。(「高鍋藩本藩実録」「秋月家軍功日記」)

天正八年(1580)

「豊前国(ママ)東部田原右馬頭親貫大友ヘ叛キ種実公ニ一味ス」「種実公ノ若武者
野新右衛門ヲ先トシテ切掛リ敵将一万田宗歴ヲ始トシテ数百騎討取大友方敗北」(「高
鍋藩本藩実録」)、「秋月旗下家来桑野新右衛門を大将として数千騎欠付」(「秋月家軍
功日記」)(筆者注、新右衛門が實勝であるならば、この年とって既に44歳、若武者とい
う記述は正しいのだろうか。小野谷桑野氏系図にも、「壮年之時、秋月種實公ニ仕ヘ」と
ある)。

天正十二年(1584) 三月二十四日 龍造寺隆信、島原沖田畷にて討死。

大友 vs龍造寺・秋月・筑紫・(島津)

天正十三年(1585) 
二月、龍造寺家晴は柳川城を出て、西牟田に陣を取り各地からの軍勢の到着を待っ
て、高良山の大友軍と対陣した

大友・筑紫vs島津・(龍造寺)・秋月

天正十四年(1586) 

四月 大友宗麟、秀吉に拝謁し九州征討を懇請。また、秋月種実、使者を八代在陣中
の島津義久の許へ遣わし、「七代までも一味たるべし」と起請文を取り交わす。

七月十四日 島津・秋月勢、高橋紹運のよる岩屋城を攻撃開始。七月二七日岩屋落
城、「首一 桑野助右衛門討捕」(「藩史備考巻一、岩屋落城首帳」)
八月、岩屋・宝満城開城、島津は秋月に与え、桑野新右衛門を入れて守らせる(「筑前
戦国史」p.299)。
小野谷桑野氏系図にも、「三笠郡岩屋白、高橋氏落城之後ニ依種實立命岩屋ニ籠ル為
ニ立花氏ニ追落サレ豊前国ニ退ク其後桑野邑ニ立帰リ・・・」と記される。

秀吉・大友・筑紫・龍造寺vs島津・秋月

天正十五年(1587) 

四月一日 岩石城秀吉に奪われる。「秀吉公豊前河原岳ヘ着陣先手蒲生飛騨守(氏
郷)四月朔日岩屋(ママ)の城へ押し寄す城主隈江越中十日前病死」「終日合戦終ニ落
城」「岩石城城主隈江越中守死後桑野新兵衛預り」(「高鍋藩本藩実録」)。

四月三日 秋月種実・種長父子、秀吉に降参。「筑前国三笠郡 岩石 隈江越中 桑野
新兵衛」(「秋月家記録抄」天正十五年四月三日秀吉公御打入此時秋月抱城令破却生
駒雅楽頭殿へ相渡候城数之覚)

七月三日 秋月種長、下関にて日向高鍋の朱印状を受ける。

九月 嘉穂郡宮野村大字桑野字神有の村社高木神社の甲一頭奉納寄付札に、大行事
神主桑野七郎実定とあり。(「嘉穂郡誌」(大正版))

慶長二年(1597)
八月二十七日 朝鮮討ち取り、首数十二、桑野左平太。(首数欠く)桑野助右衛門。首
数一、桑野三七。(「高鍋藩本藩実録」)

慶長三年八月十八日 豊臣秀吉死去。

慶長五年九月十八日 関ヶ原陣で、秋月種長は大垣城にあったが、兄弟の相良・高橋と相計
り、家康公に降参し、領地安堵される。


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