江戸時代の各地の桑野氏

嘉穂小野谷桑野氏
甘木高田桑野氏
甘木小田桑野氏
甘木下渕桑野氏
日向高鍋桑野氏

日田桑野氏
豊後大山桑野氏
豊後松岡桑野氏
豊後日出桑野氏
豊後高田桑野氏

糸田町桑野氏
方城町桑野氏
金田町桑野氏
玄海町桑野氏
福間町桑野氏
小倉桑野氏
福岡桑野氏
秋月桑野氏
久留米桑野氏
筑後市桑野氏
高田町桑野氏
柳川桑野氏
肥後天草桑野氏
出水桑野氏
薩摩桑野氏

伊予大洲桑野氏
香川県丸亀市桑野氏
阿波桑野氏
浅口郡金光町桑野氏
備中松山桑野氏
島根県桑野氏
鳥取県桑野氏
播磨斑鳩寺周辺桑野氏
河内桑野氏

近江堅田桑野氏

越前武生桑野氏
福井桑野氏
石川県加賀市(大聖寺藩)桑野氏
新潟県柏崎市桑野氏
新潟県新潟市桑野氏

新潟県新発田藩桑野氏
新潟県村上藩桑野氏
信濃国小県郡上田桑野氏
愛知県宝飯郡御津(みと)町桑野氏
静岡県掛川市桑野氏
東京府桑野氏
埼玉県桑野氏
茨城県桑野氏
栃木県馬頭町桑野氏

福島県桑野氏
青森県野辺地桑野氏

北海道に渡った桑野氏
(未調査桑野氏)


嘉穂小野谷桑野氏
寛永四年(1627)四月二十六日、桑野兵部大輔實勝、91歳にて卒(小野谷桑野氏系
図)。小野谷村浄土寺に、墓有り。(「嘉穂郡誌」(大正版))
「此村にむかし桑野新右衛門といへる者有り。秋月種實につかへ一字を賜り實勝と号
し、三笠郡岩屋の城に入レ居かれしが、種實落去の後、新右衛門ハ小野谷に退き農民
となれり。慶長七年後藤又兵衛、益冨の城に在し時、新右衛門か子又左衛門をして近
村土貢のことを司らしむ。其後黒田長興君に従て島原に軍立す。帰陣の後名を喜右衛
と改られ、椎木・桑野二村の代官とし給へり。其子孫今も此村の農長たり。」(「筑前国
続風土記附録巻乃二十二」)

小野谷大庄屋系図 冒頭に、「清原之姓 往昔国司之末孫 千手氏ト云 代々之系図
消失」とある。

初代 實勝 鼻祖兵部大夫、寛永四(1627)丁卯年四月二十六日九十一歳にて卒。
(兄に、延寿院道三*に医を学んだ道琢、弟に、北国に行き後肥後に行き子孫有とも言
兵蔵實教、豊後府内で戦死した藤蔵實敏、さらに名前不詳の弟があった) 
二代 清定 又左衛門 寛文三(1663)年九月六日卒 (初め與作といったが、黒田の臣後藤又兵衛が益富城に居住して年貢取立代官被仰付時、又左衛門と改名。島原の陣の後さらに喜右衛門と改名。二男三男後に出す、四男 甚六(断絶)、五男 忠兵衛(糸田))
三代 清恒 又右衛門 清定嫡男、寛文十三(1673)年六月十八日卒。庄屋を辞し、與左衛門へ庄屋を譲る。
四代 源助 清恒嫡男、享保五(1720)年九月三日
五代 儀七
六代 金平 家断絶
*曲直瀬玄朔(1549-1631)フロイスの日本史にも登場する京都の医師、曲直瀬道三
(将軍足利義輝の侍医として厚遇を受け、毛利元就を往診するなど全国で活躍。晩年に
は、その教えを簡潔にまとめた「啓迪集」を編纂するなど、後継者育成に尽力した。150
7-1594)の妹の子で、養子となった玄朔が、天正九年に延寿院道三を号した。玄朔は
天正十年(一五八二)法眼に叙せられ、文禄元年(一五九二)に征韓の役で朝鮮に渡っ
たが翌年帰国、喘息発作に苦しむ関白秀次公を治療して著効をあげた。慶長十三年
(一六○八)徳川秀忠の病を治して江戸に招かれる。そして城内に邸宅を賜わって、京
都と江戸に交代で住むようになった。玄朔は寛永八年(一六三一)、江戸で没した。享年
八十三。
福岡藩桑野氏(後に出す)
三代 清治 喜右衛門(福岡藩桑野氏初代) 清定次男、元禄元年十一月十一日卒、博多天福寺葬(天福寺は、戦後城南区南片江の油山山麓に移転、墓は残存せず)
四代 清直 半六(弟に、宅左衛門
五代 應春 兵太 後、半七衛門と改める
六代 勝助

小野谷神職系図

二代 清定 又左衛門 寛文三年九月六日卒
三代 實直 又四郎 清定三男、元禄十年九月二十八日卒
四代 實雄 数馬正 屏村社司出雲弟養子 寛延元年十月九日八十四歳卒
五代 實賢 石見 幼名内記 安永四年七月四日 八十二歳卒
六代 栄實 清麻 寛政十一年二月三日
七代 實敏 淡路守清原 文政七年九月十三日
八代 實続 対馬正 幼名八塩 嘉永元年七月二日 五十五歳卒
九代 實保 伊予正 幼名頼母

小野谷實定系系図

二代 實定 次郎兵衛 叔父道琢養子となり、後實勝隠宅を継ぐ 寛文十二壬子手(1
672)九月二十九日卒
三代 實次 七助 享保五庚子(1720)六月九日卒(兄に、甚五郎と、千手村に住んだ
甚三郎とがある)
四代 實信 加助 明和四丁亥(1767)六月二十日卒、行年七十三歳
五代 實包 傳太郎十五郎後号七助 宝暦十庚辰(1760)五月三十日四十五歳にて

六代 實行 喜右衛門 實包の弟、寛政十年(1798)午五月二十七日六十六歳にて

七代 新右衛門 安太郎(弟に伴助あり、阿弥陀寺分家を出す)
八代 實直 新十郎 天保四癸(1833)巳六月十四日死 行年七十三歳
九代 實房 幼名重五郎、新十郎と改める
十代 實則 幼名五市郎、新右衛門と改める

阿弥陀寺分家系図

初代 實瘁@伴助 筑前福岡より秋月に分かれ初め之盗賊方並びに吟味方被申付候、
黒田甲斐守より上下五人召し連れ御免相成り 文政九戌(1826)年三月二十一日死 
(弟に勇次郎があり)
二代 實年 勇次郎伴七 実は勇次郎の子、嘉永元申八月八日死、行年四十一歳 
(弟に亀太郎があり)
三代 實正 伴助 実は亀太郎の子、嘉永元申八月八日より戸籍勤、天保元年寅二月
二十五日生 
四代 實光 初名百三次 伴右衛門 安政三年丁辰(1856)十二月十日生

秋月藩の文政年間(1818〜)分限帳に、桑野半助(並半札、旅人方徒刑方盗賊方手
筋之者支配、三人扶持)がある(「黒田三藩分限帳」)。(筆者注、半助は小野谷阿弥陀
寺分家の伴(ばん)助(〜1826)か?)

小野谷大庄屋別系図

實勝の孫、桑野又右衛門清恒(〜1673)、庄屋退役この與左衛門に役儀譲る。
與左衛門
與兵衛
五助 與兵衛養子 庄屋
庄七 大庄屋
弥七郎 大庄屋、病気にて早死
徳八 実は弥七郎弟 大庄屋
與四八 後に與兵衛と改める 安永十(1781)年五月六日追放、家滅亡。

(以上、嘉穂町教育委員会所蔵「桑野氏系図」、最初書かれたのは十八世紀前半であろ
う)
嘉永七年(1854)、嘉穂村桑野廉成十七歳で入門。(「咸宜(かんぎ)園出身二百名略伝集」)
万延元年(1860)五月に秋月藩で諭達された養育法によると、「・・・五、子産婆(産婆) 嘉麻郡医師、桑野養山、佐谷玄硯へ入門、夜須、下座郡は依井村藤崎養貞へ入門の上免許相渡。・・・」とある(「朝倉町史」)。
明治三十三年(1900)の資産家名簿に、桑野新右衛門桑野謙参が見える(「都道府県別資産家地主総覧」)。また、高木神社の神官に、桑野保麿が見える。
家宝として、黒田家より下賜されたと思われる権門駕籠があったが、惜しくも平成十四年、嘉穂町の過失により焼失した。この他、實勝使用のものと伝える鎧や裃が伝わる。
なお、家紋は、男紋は三つ扇、女紋は抱き沢瀉(前記駕籠に紋あり、神官家は今も三つ扇を用いる)。その後、違い鷹羽も用いた。また、秋月氏より「實」の字を賜ったことにより、「實」を図案化した丸に實も用いる。

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甘木高田桑野氏

元和七年(1621)、高田村庄屋桑野新兵衛・山隈平田孫作、福岡藩役人夜須郡二タ
村出張の村田出羽守下役、井ノ口麦右衛門に、夜須郡山熊原を新開田畠と致したい旨
の願書を願い出た。十月、山熊原開墾の許可が下された。(「三輪町史」)

「元夜須郡の二村に代官村田出羽が駐在し桑野は其配下にて夜須郡一円の大庄屋な
りと伝ふ、此桑野家は秋月原田家に属し義国の頃よりの家筋なり、以上は高田村の桑
野家のことなり(平田文書)」(「秋月史考」p.199)。(筆者注:義国とは誰?)

次郎左衛門の父で慶長・元和期に触口を勤めた桑野新兵衛実次は、秋月氏の記録
「本藩実録」に、「同郡(三笠郡)(筆者注:ママ)岩石城城主隈江越中守死後桑野新兵衛
預り」と記された人物と同一人物であると思われる」。

系図

「初代 桑野新兵衛実次 代官役 夜須郡より三十六カ村の大庄屋、触口、慶長・元和
の頃に活躍せし人なり。
二代 桑野次郎左衛門尉実徳 大庄屋、触口役。
三代 桑野新兵衛実次 大庄屋。
四代 桑野孫四郎 大庄屋。
五代 桑野嘉平入道 大庄屋。
六代 桑野又次郎尉正実 大庄屋。
七代 桑野作兵衛実恵 大庄屋。
八代 桑野山三郎 庄屋。
九代 桑野正平次再次 庄屋。
十代 桑野常作 庄屋。
十一代 桑野十平次 庄屋、大庄屋。
十二代 桑野興七(養子)。
十三代 桑野初三
十四代 桑野初三郎
十五代 桑野初四郎
十六代 桑野松右衛門
十七代 桑野次郎(先代の弟)。
十八代 桑野種義 甘木市甘木に住す」(「桑野纐一族」)。

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甘木小田桑野氏
「小田村の桑野家は、明暦二年(一六五六)に高田村の触口桑野次郎左衛門の次男
(桑野)茂八(実藤)が、入庄屋として小田村に入ったのに始まる」。
安政六年四月の由緒書に、「先祖は、肥後国浪人宮崎平左衛門が筑前へ漂泊仕り、
秋月家に仕え嘉麻郡桑野村へ居住、新兵衛迄の代数は相分り申さず候。其の後、夜須
郡高田村に居住仕り、姓を桑野に改め、長政公御入国遊ばされ、直ちに触口役を仰せ
付けられ候」とあるが真偽は不明(「甘木市文化財調査報告第六集」)。

系図
初代 桑野茂八実藤 明暦二年小田村入庄屋役被仰付 延宝六年触口役被仰付
二代 桑野次郎左衛門実信 貞享三年触口役被仰付
三代 桑野半五兵衛実行 正徳三年触口役被仰付
四代 桑野茂八実寿 享保十五年大庄屋役被仰付
五代 桑野藤助実久 宝暦六年大庄屋役被仰付
六代 桑野和兵衛実直 安永四年大庄屋役被仰付
七代 桑野茂八実一 寛政八年庄屋役被仰付 同十年大庄屋役被仰付 文政十二年
大庄屋退役
八代 桑野儀八郎実長 文化十二年庄屋役被仰付 文政四年死亡
九代 桑野茂八実載 文政十二年大庄屋相司被仰付 嘉永五年大庄屋役被仰付
十代 桑野芳輔(村長、県会議員)
とみえる。


享保八年(1723)に、三代半五兵衛の弟次郎蔵が、酒造一式・家屋敷を与えられて分
家している(「秋月藩政関係史料調査報告書」「桑野纐一族」)。
桑野玄升、天保九年(1838)一月咸宜(かんぎ)園に入門(「あさくら物語」)。
明治十七年、福田村の私塾取水舎が開かれ、その教員に桑野塚次があった(「あさくら物語」)。
桑野芳輔、福岡県の人、株式会社金田銀行頭取、筑前国朝倉郡福田村(「日本現今人名辞典」明治三三年刊)。
桑野實代嗣、明治三十四年生、大正十四年東大工学部卒鉄道省工務局勤務、のち酒井建設工業専務。二男、達夫(昭和10)、三男、邦夫(昭和12)、四男隆男(昭和17)(「大衆人事録第十九版」(昭和32年))。


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甘木下渕桑野氏
下渕村の桑野家は、もとは森山(守山)氏を称しており、同家の系譜によれば、桑野姓を
称するようになったのは、元禄十四年(1701)に没した正兵衛満尚の妻が、高田村の
桑野家の出であったことによるものという。「筑前国続風土記付録」の夜須郡下渕村の
記事には、「○薬師堂木仏也。台座の裏に、・・・貞享二年(1685)丑二月三日、筑前夜
須郡下渕村願主森山新三郎、・・・」とある。小田村七代、桑野茂八は、文化十四年(17
18)には、下渕村大庄屋桑野新三郎の跡を引き受けた。安永七年(1778)に分家した
家とともに、下渕西組・下渕東組を大庄屋として支配した。文化期以降は、本家のみが
大庄屋を勤めた。(「秋月藩政関係史料調査報告書」)。
桑野彌一郎、明治三年福岡県朝倉郡安川村生、二十三代彌一郎長男累代大庄屋。大
正七年大連購買会社支配人就任、傍ら桑野洋行を設立。
また、桑野保則氏、友五郎長男、明治四十三年生、昭和九年京都大学法学部卒、福岡
県朝倉郡安川村本籍、が見える(「満州紳士録」昭和15年)。

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日向高鍋桑野氏
寛永二十年(1641)十一月、高鍋藩分限帳に、桑野七左衛門、拾四石が見える。
千手八郎兵衛(寛永二十年(1641)の高鍋藩分限帳に見える)の室が、高鍋藩士桑野
平右衛門の娘であるらしい。
慶応四年(1868)、戊辰役で北越出征した高鍋隊の中に、戦兵第二分隊 桑野浅吉が見える。

御子孫によれば、享保十年(1725)卒の桑野慶忠まで位牌にて遡れるが、西南の役
にて、系図・遺物等紛失とのこと。

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日田桑野氏
元文二年(1737)閏十一月、上座郡古毛村と筑後国生葉郡高田村との筑後境目争論
を、豊後国日田郡關村の桑野佐平が仲裁したとの記事が見える。朝倉町菱野の大内
家文書に、「覚 筑前上座郡古毛村と筑後生葉郡高田村御境目紛争の儀に付て、古毛
村百姓文六、高田村へ差留置候得ども、此のたび相談を以て指し返し申し候。隣国端
の儀に候間、右文六の人柄、あらあら存じ居り候得ども、決して盗人などと申す儀にて
は御座無く、其の為一筆くだんの如し。 高田村庄屋 仁右ェ門 元文二己十一月 日
田郡関村 桑野佐平殿」とあるという(「黒田新続家譜巻之二十五」「朝倉町史」)(筆者
注、小野谷系図の甚三郎子孫に見える左平か?)

慶応二年(1866)九月に結成された農兵隊「制勝組」に、頭取(小隊長で庄屋が任命さ
れた)に桑野守三郎、大砲方頭取に桑野陽吉郎桑野歓蔵が見える(「日田市史」)。

明治三年の日田県竹槍騒動の首領に、上野切畑村桑野喜八がいた。翌年三十一歳で
卒(「求来里喜平」)。
明治四年の求来里(くくり)村小前惣代に桑野市右衛門があった(「求来里喜平」)。

明治十八年二月二十五日、花月村(現在日田市北部)の桑野甚五郎が咸宜(かんぎ)園
に入門。

現在、神来町(11軒)、高瀬銭渕町(10軒)、庄手(18軒)、上野(23軒)に、桑野姓が
集中している。日田市上野の本家は、少なくとも八代続いており、落城した城主の子孫と
の伝承を伝える。近世には、集落の中心的家であったという。なお、宗
家には雪舟作と伝える庭が現存している。また、江戸末期以前は系図
が存在したという。家紋、丸に抱き柏。
関連は不明だが、付近の高瀬村普門寺には懐良親王の位牌や菊池武重の塚と伝える
遺蹟がある。また、付近の荒平には、永正九年、懐良親王とともに西下した清原姓五条
頼元の子孫、五條兵部少輔鑑量が豊後日田郡高瀬村荒平の西山に支城を築き館宅を
も営んだが、天文元年(1532)、城を家臣に任せて矢部に引き上げたという。(「高瀬村
誌」)(南朝方だった、清原姓五条氏と何らかの関連があった可能性を連想した)。

淡窓図書館長を勤められた桑野善之氏(昭和六年三月六日―1998年)は、新星発見
で著名であられた。

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豊後大山桑野氏
祖先は姓を唱え、天明年間(1781〜)の日田の大火で大山へ移住し
桑野暮吉を祖とする。暮吉翁は遊庭と号し、蹴球の師だった。また、
覚兵衛翁は鳥類を愛撫することひとかたならず、各種の珍奇なる鳥かご
を作り、これを同部下へ広めたという(「大山町誌」)。家紋、亀甲に三つ
柏。

明治二十年、咸宜園に学んだ西大山村桑野増次が見える。
明治から昭和前半にかけて、村長を歴任した人物に、桑野慎作(明治
35-38)、桑野梅二(明治44-大正2、大正10-14)、桑野住吉(大正2-
10、昭和4-8)、桑野猛(昭和8-21)、桑野三男(昭和21-22)がある
(「大山町誌」)。

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豊後松岡桑野氏
現在、大分市松岡には五軒の桑野氏があり、神代から藤原氏を祖とする系図を連綿と伝えておられ、比較的正確と思われる戦国以降の部分には大友氏との関連が記述される。家紋は丸に花菱。大友氏との関連からも、同紋の柳川桑野氏との関連の可能性を検討したい。
思い出されるのは、1578年の所謂耳川の戦いに筑前の兵を随れて出陣した桑野左京亮春元との関係で、記録では戦死とされているようだが、恐らく一族も連れて戦陣へ赴いたと思われ、その生還した一部が、大分あたりで土着したということもあり得たかも知れない。
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豊後日出桑野氏
現在、日出・豊岡に、10軒の桑野姓があり、豊後森藩の参勤交代に用いる舟に関わっていたとの伝承を伝える。付近には豊後森藩の飛び地で唯一の湊であった頭成(かしらなり)がある。家紋は丸に木瓜。
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豊後高田桑野氏
現在、3軒があり、子孫であられる中ノ島旅館の女将明石トシ子氏によれば、豊後高田市松行の地に昔よりあったとのこと。キリシタン灯籠が敷地内にあった(写真あり)。この松行には、先祖が国東半島の六郷山衆徒の指揮をとり、戦国時代黒田氏と戦い石垣原で壮絶な討ち死にをした吉弘氏の菩提寺金宗院跡がある。家紋は藤紋。
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糸田町桑野氏
小野谷桑野氏、實勝の嫡子清定の五男、忠兵衛が、豊前田川郡糸田町に住み、庄屋を勤めて子孫繁昌、という(小野谷桑野氏系図)。生没年は記されていないが、生年を系図より推測すれば、1650年頃となる。糸田に移住したのは、1670-1700年くらいであろうか。隣接する金田、方城の桑野氏との関係は不明。
明治三十四年〜四十年 桑野兵七が村会議員に選出。大正十一年〜十四年 桑野鹿太郎が村会議員に選出(「糸田町史」)。
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方城町伊方桑野氏
桑野庄三郎重美、行年七十三、若名介助、明和二年(1765)二月一五日没。

桑野重三郎重賢、童名熊七、若名壮兵衛、寛政三年(1791)正月元旦生、文久二年
(1862)六月二十六日没。
天保七年(1836)、百両献上、弐人扶持一代苗字上下御免被仰付。文政十二年(182
9)八月、神崎村庄屋、天保四年八月赤池村江転役、天保十三年又神崎村庄屋被仰付
得節、小倉表江御用御召出之上勤役中、門松構柱御免。天保十四年赤池村庄屋兼
帯。

桑野庄三郎重賀、若名茂四郎、文政四年(1821)十月二十四日生。

明治〜大正にかけて、能念寺桑野庄三郎、犬法師嘉七養子桑野由三郎、観音丸
野清次郎、伊方村桑野通蔵、能念寺別家桑野通三、伊方村戸長桑野重三郎桑野
常三郎、常三郎の嗣子清次郎桑野甚平桑野亀作、能念寺の桑野立生などが文
献に見える(「方城町史資料」桑野文書)。福円寺に墓四基があり、家紋は三基が丸に
違い矢羽、一基が丸に花菱。



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金田町桑野氏(金田碧巌寺裏山の、現在は方城町に移転している福円寺跡に墓塔を多数発見、調査中。なお、福円寺はもと金田にあったが、応永年間に大友の兵火にあい焼失、近年方城へ移転したという。応永の戦乱に大友が襲ったというのは、ここが千手氏の拠点だったことを窺わせる)


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玄海町桑野氏
桑野與一右衛門墓 上八(こうじょう)村 桑野氏墓。文禄・慶長の頃、芳長老という禅
僧あり。当村の人で、宗像家の臣桑野與一右エ門という者の子なり。玄蘇和尚の弟子
で、対馬以酊庵の第二世なり。文禄年間玄蘇に従い明国に(ママ)渡れり。その墓水越に
あり。高さ三尺、巾二尺。銘は磨滅して見えず。尚、この墓の銘文は玄芳長老の書なり
という」(明治初年 福岡県地理全誌「玄海町誌」)。
承福寺 埜村要道氏提供
規伯玄方(無方長老)(1588‐1661)は、近世初頭、文禄・慶長の役で日本側交渉役
として重きをなした景轍玄蘇(1537‐1611 宗像郡飯盛山城主、河津民部少輔の二
男、聖福寺第百九世、日朝・日明交渉の掌にあった外交僧)の後継者として、対馬藩で
日本と朝鮮の外交文書を一手に扱う、特殊な職務についていた僧侶であった。寛永六
(1629)年には、日本の使節として漢城(ソウル)を訪問し、国王を粛拝している。しかし
寛永十年、対馬藩の国書改竄事件が発覚し、寛永十二年(1635)三月十一日、江戸
城で行われた徳川家光の御前での取り調べを受け、その結果、藩主宗義成の重臣柳
川調興の国書改竄事件に関わったとして、南部藩へ配流された。そこで栗山大膳と交流
したり、著書を著したりしながら、国際派の客分としてもてなされ、
南部鉄瓶の基礎をなした。赦免された後、南禅寺をへて大阪九昌
院で、寛文元(1661)年十月二十三日没(中公新書694「書き替
えられた国書―徳川・朝鮮外交の無台裏」)。
ご子孫によれば、紋は梅鉢。天草の桑野氏、岡山県金光町の桑野氏との関連が注目される。筆者按ずるに、近世初期まで宗像宮は明と貿易するための勘合札を持っていたほど海外との交易があったこと、その港町である鐘崎の続きにあたる上八に住んだこと、後世右のような高名な外交僧を出していること、などからみて、当地の宗像家臣桑野氏は、何らかの海外交易を生業としていた可能性を感じる。また、英彦山座主も朝鮮貿易に関わっている(『海東諸国記』の1468年条に、彦山 座主(ざす) 黒川院俊有(くろかわいんしゅんゆう) (俗名 藤原 俊幸(としゆき) )が 朝鮮貿易 に従事していることが見える)。今の所空想にすぎないが、天草や備前、そして近江、越前、越後の港町に今も住む桑野氏はそうした交易ネットワークの名残ではないだろうか。

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福間桑野氏
系図には、初代桑野弥左衛門より十三代桑野孫四郎までの没年戒名を記すという。ま
た、古文書には、享和三年(1803)に桑野茂三郎、文化四年(1807)に桑野権右衛
門寛敬、文政六年(1823)に桑野七右衛門、文政九年(1826)に桑野半六、文政十
三年(1830)に桑野百助正英、天保十一年(1840)に桑野寛英、文久三年(1863)
桑野権右衛門朝則が見える。(「福間町史収集資料目録3諸家文書」桑野(岳)文
書)。

安政五年(1858)〜万延元年(1860)まで、桑野孫太郎が本木村の庄屋を勤めた。
明治三十六年〜三十七年に桑野卯一郎が、大正五年に桑野邦太郎が町長を勤めた
(「福間町史」)。

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小倉桑野氏
元和七年〜寛永九年(1621〜1632)の細川藩侍帳(豊前小倉)に、桑野輔右衛門
(切米人数、五石二人)が見える。(御侍帳並軽輩末々共二、「熊本藩侍帳集成」)(筆者
注:細川氏は江戸初期(1632)まで小倉を治めた。熊本国替え以降は桑野氏は見られ
ない。小倉桑野氏先祖か?また、天正十四年(1586)、慶長二年(1597)に見える桑
野助右衛門と同一人物か?)

明治三年か? (説明不明瞭により不詳)、桑野権之輔 六石三斗五升 二人 が見え
る(「小笠原藩侍帳」豊津(小倉)藩士切米名簿)。

明治四年千束藩分限帳に、八石三人扶持の桑野貢が見える(「福岡県史」)。

明治初年頃、小笠原藩士族桑野里七(没年明治三十五年四月一日、歳七十)が、津野
(現在添田町)にて寺子屋の師匠を勤めた(「赤村郷土史料」)。また、明治八年より、豊
前小倉県の第二大区の区長を桑野里七が勤めた。赤村上赤才の原に碑ありと言う(明
治五年より、豊前小倉県は大区小区制となり、大区六個で構成された)(「赤池町史」「福
岡県史」)。

著名な御子孫
桑野正夫、号桃華、東京演芸通信社社長、大日本活動写真協会顧問(「日本紳士録」 大正十四年)、東京府人桑野貢の四男桑野鐡造の弟、明治十四年十二月二十九日牛込区細工町に生まれ、明治四十年毎日電報通信社に入り後東京日日新聞社会部記者となり、大正四年東京演芸通信社を創立、大正十年社長に就任(「大衆人事録 昭和三年版」、「冷凍機屋人生」)。著書に『ジゴマ 探偵小説』(有倫堂1912(明治45))や「水の流れ」 がある。
桑野茂、1912年〜1977年、東京市四谷区本村町生、35年京都帝国大学経済学部卒。映画監督、記録映画作家。当初叔父正夫が経営する演芸通信社に入るが、当時新分野であった記録映画の世界に入り、同盟通信社、日本映画社、戦後は日映や岩波映画で活躍した。「基地の建設」「メソポタミア」など。著書に「ドキュメンタリーの世界」(サイマル出版会、1973年)がある。

御子孫によれば、承応元年(1667)小倉藩で御先手組、御筒持組を勤めた桑野儀右
衛門(宝永五年(1708)卒)を初代とするとのこと。家紋、石餅のうち上げ羽蝶下に一の
字。


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福岡桑野氏
嘉摩郡小野谷の實勝の孫にあたる喜右衛門清治(元禄元年卒、博多天福寺葬)が博
多に住み、その室(豊前猪膝村大場庄左衛門娘)が黒田光之公(福岡黒田藩第三代)
の姫と長重公(秋月藩第二代)の室とに乳奉公した後、御局役となり、剃髪して宗観尼
(法名、法樹院嘉雲宗観禅尼、正徳四年(1714)三月二日八十一歳にて卒、武蔵祥雲
寺に葬る)と言った。この時、清治と子の半六宅左衛門とが黒田藩に出仕したのが始
まりという(小野谷桑野家系図)。

元禄十四年(1701)、江戸幕府への絵図・郷村帳提出の記事に、「翌日本郷役所にて
請取、則狩野良信か門弟数人召寄、是を写さしむ。不日に功終り、山川村里の名・名
所・古跡・村高の数等悉く図上に書記し、 青柳佐太夫書之、一人にて急ニ功を成かた
きに拠て、桑野半六是をたすく。」とある。(「黒田新続家譜巻之十一」)

元禄十七年(1704)、桑野九左衛門に遠島が仰せつけられる(「近世福岡博多史料
(長野日記)」)

宝永年間(1704〜1711)、福岡黒田藩分限帳にはじめて桑野氏現れる(「福岡藩分
限帳集成」)。

正徳二年(1712)、三月二十一日殿様江戸を立って国元へご発駕、そのお供をする人
数の中に、御納戸(身の回り世話出納役)として桑野兵太がいる。また、御側陸士として
桑野忠助がいる(長野日記)。兵太は、翌年正月に千歳の能を舞っている。

元文二年(1737)紅葉山の石鳥居再建の記事で、「此度事に預りし輩ハ、・・・桑野兵
 普請奉行・・・・以上在江戸なり」とある(「黒田新続家譜巻之二十五」)(筆者注、兵太
は半六の嫡男)。

延享年間(1744〜)の福岡藩分限帳に、桑野喜右衛門(十五石、本光院様付御小姓
賄奉行兼ル目付)が見える(筆者注、喜右衛門は実は半六の次男で、宅左衛門家の養
子となる)。

徳川中期の俳人として、福岡藩士、桑野萬李(1678-1756)(名は好濟、字は多橘、
初め鹽田氏、通称太吉、辞世「とろりとろり柴のほまれや後の月」)があり、公務六十年、
家禄を嗣子の宇白に譲った後、七十を越えてから句を詠んだ。句集「田植諷」「柴のほま
れ」「後の月」がある。志太(しだ)野坡(やば)(1662〜1740)の門弟(「日本人名大事
典」)。

明和三年(1766)四月七日、徳川家基元服に際し、桑野半五右衛門を使者として御台
所に儀物を奉ったとある。また翌年、治之の使者として善修院に儀物を参らせたとある。
(「黒田新続家譜巻之三十一」)

安永年間(1772〜)の福岡藩分限帳に、桑野半五右衛門(弐百石)が見える。

享和元年(1801)四月二十二日、「家齊公の第十二子、亨姫誕生し給ひけれハ、長順
在府なれとも、幼年なれは使を 桑野小兵太留守居介 老中にまゐらせて是を賀し給
ふ」(享和二年にも同様の記事あり)(「黒田新続家譜巻之四十四」)

文化年間(1804〜)の福岡藩分限帳に、桑野小兵太(百五拾→弐百石)、桑野平六
(十石、断絶被仰付)が見える。

文化五年(1808)
閏六月二十二日、尾藤良佐孝肇を招いた記事に、「桑野小兵太 留守居 を使い
として頼給ひ」とある。
八月十五日長崎でフェートン号事件発生、十七日夜四所の台場の備えをなしたと
の記事に、「小船頭四人 桑野半作・山崎善太郎・中山佐次郎・小山善八」とあ
る。(「黒田新続家譜巻之四十六」)

文化十一年(1814)
四月三日、士の心疾にて家を亡くせし者、二十八人の後を立て給ふ、との記事
に、「礒山新平ハ桑野勇・・・に嗣しめられし也」とある。(「黒田新続家譜巻之四十
八」)

天保年間(1830〜)の福岡藩分限帳に、桑野喜間太(弐百石)、桑野市作(槍術八
石)が見える。

安政年間(1854〜)の福岡藩分限帳に、桑野波門(御馬廻、弐百石)が見える。

万延二年(1861)の福岡藩家中分限帳に、下町に住む桑野兵太(百九拾石)、が見え
る(「福岡県史」)。

慶應年間(1865〜)の福岡藩分限帳に、桑野長兵衛(百九拾石)が見える。

慶應元年(1865)乙丑(いっちゅう)の獄にて、「七月二十一日遠慮並ニ一族預ケ左ノ如
シ・・・長兵衛大伯父 桑野左内」「七月晦日遠慮一族預・・・長兵衛大伯父 桑野半兵
」(「従二位黒田長溥公伝」)

明治初年の福岡藩分限帳に、桑野清海(光之(黒田長政の孫、1628〜1707)の時
代より、馬廻組、百九十石)が見える。

明治四年(1871)、福岡藩知事の護衛のため旧兵隊の内より御家従を選んだ七名のう
ちに、桑野乾太郎が見える。(「従二位黒田長溥公伝」)
なお、2003年10月に、桑野乾太郎直系の小倉の桑野氏から連絡いただき、家紋が丸に梅鉢、御祖父が七郎右衛門、曽祖父の代まで福岡の大名町に住まい、昔は甘木に領地があったとのこと(掲示板参照)

筆者按ずるに、清治室の生年は卒年と年齢から大体1634年。仕えた黒田藩三代光之の生年が1628年、その夫人は小倉小笠原忠真の女で、生年が大体1627年。その姫となると、長女が大体1649年、母が村上氏の二女(勝真院殿)が大体1667年生。15歳で乳奉公するとも考えにくく、二女の世話を33歳位でした、と考えるのが最も自然ではないか。二女はその後長重室となるので、そう考えると辻褄があう。長重室は元禄六年(1693)、27歳で死去する。喜右衛門の死去が元禄元年(1690)であるから、初めて彼らがご奉公にでたのは、1667-1690の間ということになろう。明治初年黒田家分限帳に見える桑野春海は、初仕官が光之(1654-1707在位)の代ということなので、それとも辻褄が合う。ちなみに、實勝の孫、清恒が庄屋を譲った頃と概ね同時期でもあり、小野谷桑野氏は大揺れであったろう。もしかすると、庄屋を譲ったこと自体が、仕官と大いに関係があるのかも知れない。ところで博多の豪商伊藤小左衛門の密貿易露顕と刑死は寛文七年(1667)であるが、この一件との関連があるかどうか。
さて、半六の子である兵太半衛門応春が、新地百五十石を賜り、秋月甲斐守様の何か(未解読)で五十石加増となっている。おそらく、秋月藩二代の長重(1665-1710)と桑野家は、長重室を通じて何らかの関係があったと想定されるが、さらに三代長軌(1710-1715)-四代長貞(1715-1754)と続く中で、長貞の母は長興の娘、つまり長重の姉妹であるため、宗観尼の育てた長重室と関係が深かったに違いない。兵太は1712年には福岡藩の宣政の近習として江戸詰となっているようであるから、福岡藩と秋月藩と双方に関係を持ったことが、急速に加増を見た一つの原因であったろう。またこれが、後述するように、長貞の代に秋月藩でも別の桑野家が取り立てられた遠因かも知れない。
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秋月桑野氏
黒田長貞公御代(1715-1754)秋月黒田藩に桑野氏、御抱立身となる。この後、長房
公(文化年間)の時も一家御抱立身となっている(「秋月諸士分限」)。

享保年間(1716〜)分限帳に、桑野戸作(御側筒、九石)、桑野弥助(御勘定所付人、
八石)がある(「黒田三藩分限帳」)。

文政年間(1818〜)分限帳に、桑野半助(並半札、旅人方徒刑方盗賊方手筋之者支
配、三人扶持)がある(「黒田三藩分限帳」)。

文政2年?秋月御城下絵図に桑野友平が見えたと記憶する。福岡県立図書館蔵。
嘉永七年(1854)秋月の桑野広成が咸宜(かんぎ)園に入門(「あさくら物語」)。

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久留米桑野氏
江戸中期に久留米に住んだ俳人に、柳川で生まれた桑野九兵衛敬義(寒梅)(〜173
7)(辞世「一帆の願ひはみてり東風の伝」)と桑野九兵衛可明(採下)(〜1761)(辞世
「露の世や旅より旅へ旅衣」)があり、志太野坡の久留米来遊(元禄十五年(1702)冬と
享保元年(1716)。「郷土研究誌「筑後」第2巻第2号「筑後地方に於ける野坡」竹下泣
猿著」)の折の門人であった(「筑後俳諧史」)。

天明五年(1785)八月二十九日の御祝儀御能興行にて、千鶴二之間東軒下雨障子附
出し、雨落ちより縁取敷で拝見した桑野宗八が見える(「藩法集11久留米藩」p.798)。

文化文政(1804〜1830)頃、透彫の名工、桑野数正、数平、茂直があった。数正(1
744―)は有馬家の抱工、庄島小路の住人で、「文化十一年(1814)七十一歳作」との
銘がある作品があり、鉄地丸形で稲穂、松竹梅、什器図、家紋を肉彫地透の鐔を造っ
た(「久留米人物誌」「久留米市誌」「刀装金工事典」)。久留米市埋蔵文化財センターに
作品があるという。

文化六年(1809)、御勝手方連々御差支、「一 御鷹方 御取崩、田中市之丞宅え御
引直し、御鷹部屋は今の御普請方」。餌刺・御鳥見は御改法により二人人数が減らされ
ている(「藩法集11久留米藩」p.1107)。

弘化三年(1846)久留米有馬藩分限帳に、桑野万蔵(御鷹方支配餌刺(えさし))(良右
衛門の長男)、桑野良右衛門(御鷹方支配御鳥見)、桑野与兵衛(御鉄砲方支配御鉄
砲師、十石)、桑野又兵衛(天保十五年(1844)、長寿により五百文拝領)・左平次(御
水主組頭、五石)、桑野竜八・段次郎(御蔵奉行中支配下代頭取助・吟味役、七石)が
見える(「手鑑」)。

嘉永四年(1851)、御蔵方外代桑野龍八・明次郎が処罰を受けているのが見える
(「藩法集11久留米藩」)。

明治初年、久留米藩海軍に関係せし輩として、桑野恵次郎(水主小頭)がある(「久留
米叢書」天)。

明治五年、久留米県監察局に桑野円次(監察属、弐石六斗四升)がある。

久留米市正蓮寺には、天保七年(1836)卒の桑野十蔵、明治六年(1873)卒の桑野
太一郎、明治十二年(1879)卒の桑野文蔵などの墓石が残る。
 
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筑後市西牟田桑野氏
来歴不明だが、当地は中世に西牟田城があり、地頭として下向した藤原氏が
勧請した三島神社があるという。家紋は丸に花木瓜。(筆者は、柳川桑野氏
の家紋花菱との類似性に関心を持っている)。

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高田町江浦桑野氏

来歴不明だが、当地は中世に江浦城(田尻氏支城、のち三池立花氏)があったという。
江の浦城には、天正十五年立花宗茂の弟、高橋統増(後の立花直次)が秀吉より三池
郡のうち二十三か村一万八千百石が与えられ入り、後に内山城に移っている。この時、
蒲池氏は二百町を与えられ、直次の与力となっている。

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柳川桑野氏

御子孫によれば、過去帖では宝暦5年(1755)卒の桑野次右衛門まで遡れるとのこ
と。家紋は、男紋は丸に花菱。

明治期著名人
桑野鋭(するぞ)、明治前期のジャーナリスト。後半生は宮内官。顧柳散史と号
す。安政五年(1858)一月筑後柳河藩士桑野庫蔵(くらぞう)久(ひさ)壽(とし)の第
二子として生る。佐賀松原の藩学校、東京の共憤義塾等に学び、海老原穆の主
宰する西郷派の激烈な新聞「評論新聞」に関係し、さらに林正明の「近事評論」に
入り服部撫松の「東京新誌」や「江湖新報」等に寄書す。・・・のち二十三年の帝国
議会解説に備へるため新鋭華族の組織した研究団体「同方会」の機関誌を編集
し、その縁故と政治運動や政党に幻滅を感じた結果宮内省に入り、大正天皇の東
宮時代の東宮主事、今上陛下の東宮時代の東宮主事、王子傅(ふ)育官となつた
が大正六年病気のため三十年の宮内省生活を辞し、昭和四年八月二十五日没、
年七十二」(「日本人名大事典」)。「・・・81年には自由党結社に参加している。85
年11月、警視庁出仕」(「近代日本社会運動史人物大事典」)。

「広報みつはし」昭和46年1月1日発行
町のあゆみ 町の名所旧跡 7 人物
八、桑野 鋭
 桑野鋭氏は明治から大正にかけて30年あまり天皇家の傳育官(ふいくかん)を
つとめた人です。本町には小さい頃在住した人でご承知ない方が多いと思いま
す。
 鋭氏は安政2年(1855)今古賀に生まれました。氏は若い頃中国に渡り広東大
学に学び、帰って国民新聞社に入社していますが、その辺のくわしいことはよくわ
かりません。
 新聞社を辞して宮内省に入ったのは明治19年(1886)31才の時です。それか
ら32年間同省にあり、東宮(今上天皇)、淳宮(秩父宮)、高松宮、澄宮4人の傳
育にあたり、わけて東宮(今上天皇)誕生の明治34年から大正2年までは東宮職
主事として天皇に仕えました。
 天皇は東宮時代から生物学の研究にご熱心であられたことは衆知の事実です
が、桑野氏の依頼で有明海のあげまきが研究用に送られたこともあります。天皇
の思い出の中に桑野氏は「がまがえる」のことをつぎのように語っています。
 「殿下が日光ご用邸」にいられた時の思い出だが、夕刻お庭を散歩していたら大
きながま蛙がいた。わたくしはそれをつかまえて何心なく懐中に入れたまま忘れて
しまっていた。
 殿下は『桑野すもうをとろう』とおおせられて、むんずとばかり組みつき遊ばされ
た。
 殿下の頭がわたしの胸にぶつかると、ギャッという蛙の悲鳴に殿下はびっくりさ
れた。わたしは恐縮した。今でも思い出すが、殿下の頭は石のごとく堅かった。が
ま蛙はつぶれてしまった。
 先日殿下が中佐にご昇進遊ばした時、参殿して拝謁を賜りましたが、『桑野、が
まはどうした』と仰せられ、氏は大阪で蛙料理を食べたことなど申し上げました。」
(東京朝日大正14年11月24日付)
 大正6年11月16日病気のため辞表を提出しました。皇室では多年の勤労を思
し召され両陛下からはご紋章付銀莨(たばこ)箱、淳宮、高松宮からは七宝ご紋付
銀鉢、澄宮からは蒔絵ご文庫がくだされました。
 大正10年雑司ヶ谷の邸で東宮ならびに皇子殿下のご事蹟を編さんしました。そ
こで、東宮殿下については仁のお方であるといい、葉山海岸における天皇のご仁
事を伝えています。
 昭和4年6月、氏は重い病で床につきました。この時、菓子や野菜、果物などの
お見舞いの品々が下賜されました。こうした光栄に浴した氏も同年9月、74才で
その生涯をとじました。葬儀に際して、両陛下をはじめ皇太后、秩父宮、高松宮、
澄宮から香料お菓子が下賜されました。その後、正五位勲五等に叙せられ、死後
もその光栄に浴したわけです。なお、嫡男寛氏は箱根に在住してあります。
(日向市桑野豊氏報告書による)
郷土史家 堤 伝

鋭の兄弟に庫三がいて、陸軍参謀本部測量課に勤務し国土地理院一等三角点
の記録に桑〇〇号などと記されている。

桑野久任、東京府士族先代庫三の長男、明治九年一月生、明治三十四年七月
東京帝国大学理科大学動物科を卒業し、明治三十七年八月教授に任ぜられてい
る。著書に「遺伝講話」(昭和5年(1930))がある。長男 久利(大正三年生)。久
任氏の弟、六郎(昭和十八年五月から二十年九月まで専務取締役)は、味の素
二代目社長鈴木三郎助の養子となって昭和26年に社史「味の素沿革史」をまと
めている(昭和六年 「大衆人事録」)(「財界家系譜大観 第七版」)。

(筆者注:柳川古文書館白石氏によれば、桑野家は柳河藩で鉄炮組に属した)。

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肥後天草桑野氏
「二代目(伊藤)小左衛門は父が築いた博多伊藤家の家督を継ぎ、五十余人の使用人を抱え、世に七万貫とも八万貫ともいわれる膨大な家産を築いた。十余艘の持船で各地の特産物を運び、かたや鉄を中心とする鉱産物の生産・販売に携わった。博多片土居町居住の奥野藤兵衛の妹と結婚し、四男二女の子福者となった。長男・甚十郎は博多の本店を切り回し、長女は長崎平戸町の豪商・渡辺忠兵衛の嫡男へ、次女は天草の豪族桑野善一郎の嫡男のもとへ嫁いだ(この渡辺忠兵衛、奥野藤兵衛はいずれも、後に述べる密貿易事件の片腕として小左衛門と行動を共にし、死を迎えることになる)」(「悲劇
の商人伊藤小左衛門」武野要子)(小左衛門刑死は寛文七年(1667)、五十歳のことであった)
「晩年まで博多市の実現を唱え続けた元福岡市長河内卯兵衛氏は大阪毎日新聞に、
(伊藤)小左衛門と密貿易の仲間との関係を克明に述べている。長崎平戸町の渡辺忠
兵衛は小左衛門の娘婿の父、平戸の松浦庄兵衛は義兄、対馬の薦田勘左衛門も義
兄、肥後天草の桑野善十郎は娘婿」。(平成14年4月20日西日本新聞「海はわがた
めにあり」)

楠浦村明治四十二年時国税納入者の中に、桑野由太郎(農業・二三円)、桑野甚太郎
(農業・二一円)がある(「本渡市史」)。

楠浦村大正十五年時村会議員名に桑野平五郎があり、昭和四年時村
会議員名に桑野喜三郎(政)がある(「本渡市史」)。現在、熊本県本渡
市に桑野氏が多く(30軒)、家紋剣梅、江戸以前より桑野を名乗るが出
自不明と言う。

五島列島の長崎県若松町(6軒)は家紋梅鉢、近代になってから五島に移られたようで
ある。

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l出水桑野氏
鹿児島県出水市の海岸部に、現在約十軒があり、八十年ほど前に天草から移住されたとのこと。家紋は梅鉢。
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薩摩桑野氏
寛永十三年(1636)、桑野新左衛門、二本松地蔵馬場下屋敷四畝 神宮司安右衛門とともに屋敷地があったことが記録にある(「鹿児島県史料 旧記雑録後編五」p.615(寛永十三年 薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳))。神宮寺氏はその後も薩摩藩分限帳に名前が見られるが、桑野氏はその後見当たらない。

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伊予大洲桑野氏
元和三年(1617)、米子城主加藤貞泰とともに伊予大洲へ転住した桑野彦市が、「積
塵邦語」に見えるという。(なお、十四世紀に伯耆を治めた山名時氏は、最初南朝方とし
て、のちに北朝方として戦った)。

系図
初代 桑野彦市 元和年中、伯州の米子より御供仕りし由、申し伝う。
二代 桑野喜作
三代 桑野治太夫
四代 桑野喜太夫
五代 桑野五郎兵衛 始めは右ヱ門平

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香川県丸亀市桑野氏
(未調査)丸亀市柞原(くばら)町に10軒弱が集中する。なお、屯田兵に香川出身者がみえる。香川県在住の方から、家紋が若竹とご教示いただいた。
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阿波桑野氏

戦国期、長宗我部氏家臣に、阿波国那賀郡桑野の城主、桑野河内守康明(康朋)
野義明があったという。

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浅口郡金光町桑野氏(岡山県金光町)
初代より八代は上竹阿坂の奥にあった中野坊吉祥院の住職であったが、寛文六年(16
66)八月二十三日還俗し、作付御扶持米壱石五斗永代に遣わされる。名を桑野武太
と相改め、竹五か村の神職となり以後任官なし。桑野筑前正吉と称した。

文化五年(1808)四月、「下竹村手鑑」の中に、「一 宮 二社 大森宮 御崎宮 神職
 桑野左京」とある(「金光町史史料編」)。

文久二年(1862)三月、「上竹村手鑑」の中に、「一 社方 弐軒 神職 桑野筑前 桑
野権之輔」「一 宮 二社 天神宮 太老神社 神職 桑野権之輔」とある(「金光町史史
料編」)。

明治十六年、桑野万五郎の記した文書「上竹村野山旧公有地改柴草山書類写」が残
る(「金光町史史料編」)。

大正十二年、「下竹地内 関係地主一同 小作問題に関する経費収支」に、「謝礼 一 
金弐円 仲裁人 桑野寿一」とある(「金光町史史料編」)。

本町の氏神社として、「上竹 天満神社 村社 菅丞相 桑野家、上竹 大老神社 無格
社 専女命 桑野家、下竹 大森神社 村社 勺勺廼馳命・高皇産霊命・種日女命 桑
野家」とある(「金光町誌」)。
現在も、上竹・下竹に十軒以上の桑野家があり、太老神社を始めとした神社の神職が
おられる。なお、江戸時代、倉敷市玉島は港町として、日本海側から来る北前船や九州からの商船が寄航して交易が盛んになり、白壁の蔵が建つ等商業港として栄えたとのこと。その上流部が上竹。

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備中松山桑野氏(岡山県高梁市)
板倉氏統治以前の水谷(みずのや)氏の侍帳(高梁市図書館蔵)には桑野氏は見られない。
延享元年(1744年)板倉氏伊勢亀山から備中松山に国替となる。五月九日、松山城請取の総役人氏名の中に、近習用人として、桑野仲兵衛が見え、板倉氏とともに入国した一族であろう。住居は東之丸にあり400石。これと別に南野村に十五人扶持の桑野孫兵衛が見える(「亀山地方郷土史」他)。現在伊勢地域には桑野氏の集中は見られない。なお板倉氏は足利一族渋川氏の後裔と伝わり、鎌倉時代に三河守護職となった足利本宗家に従い三河に入部、碧海(へっかい)軍中島城(現岡崎市中島町)を守るが、頼重のときに松平氏に仕え、額田(ぬかた)郡小美(おい)(現岡崎市小美町)に住し、孫勝重は、家康の信頼を得て京都所司代などを歴任し、山城・近江国内一万六千石の大名となっている。その後、下総関宿〜伊勢亀山〜志摩鳥羽〜伊勢亀山〜備中松山と移封になっている。どこで家臣となったのか、興味深い。
岡田藩士人名に木崎安之進あり(1800年頃)、その妻は給人筆頭御年寄役板倉周防守様家中桑野仲兵衛の妹との記事あり(インターネット)。
文政六年(1823)、板倉勝職の意を体した家老・年寄役たちの触書の連署人に、桑野良平が見える。
天保九年(1838)四月二十九日、松山の桑野良平らが鴻池屋を訪問し、翌閏四月十五日まで滞在、接待を受けたことが記録に残る(萬日記、「大阪商業大学商業史博物館 史料叢書第5巻 鴻池屋T」)。
万延元年(1860)六月二十四日の藩主勝静から山田方谷へ宛てた手紙の中に、桑野亀と相談するようにと何度か言及されている。文久三年(1863)の松山家中分限帳にも、桑野亀が記される。また、明治二(1869)年松山藩成立による城請取方にも桑野亀が見える(「高梁市史」)。
元治元年(1864)の長州出兵は、勝静自ら953人の指揮をとったが、その中に年寄役桑野亀が冒頭に記される。また、元治二年(1865)の松山藩長州出兵の中に、玉島宿泊の御本陣内に桑野権蔵、桑野晴彦、桑野武彦、また別の場所に桑野様御家来として安森初治以下六名が見える。また帰陣の際は、本陣に桑野様とあり、別の場所に桑野様御供十六人と見える(「玉島地方史 中」)。
本丁(維新後改称内山下)の御蔵坂に、桑野孫兵衛・武彦が、同じく本丁の西門通りに
年寄役桑野亀維亀晴彦が居住したという(「昔夢一斑」)。
高梁藩初期の職員名簿には、武教授として桑野武彦が見える。
明治初期、桑野晴彦(元高三百五十石、此現米百四十石)が見える(「岡山県通史 
下」)。

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島根県瑞穂町桑野氏
島根県邑智郡瑞穂町に桑野姓多い(19軒)。戦国時代、裏手に二つ山城 があった。少なくとも、宝暦以前の墓があるという。家紋は、丸に角立ち四つ目結。
昭和30年頃町会議員
に2名見える。昭和30年頃町会議員に2名見える。また、桑野直夫氏(明治45年〜平成13年)は元小中学校長や教育委員を歴任されている。なお、瑞穂町は中世南朝方についた高橋氏の城があったところという。

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鳥取県桑野氏
鳥取県倉吉市付近に桑野姓多い(6軒)。なお司馬遼太郎の挿絵を描いた画家、桑野博
画伯は、鳥取出身である。

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播磨斑鳩寺周辺桑野氏
兵庫県龍野市誉田町福田、太子町太田などの斑鳩寺周辺に桑野姓多い(計30軒)。福田の桑野氏は、今でも斑鳩寺の氏子として、60年に一度の斑鳩寺の祭りや毎年の法隆寺へのお参りを欠かさないという。家紋は三つ柏や丸に九枚笹。
なお、「津々浦々をめぐる」(岡山博物館)のpp.86-87によれば、福田片岡遺跡の発掘によって、福田は鵤宿に比定され、中世筑紫大道が東西に通り、林田川から海にも通じ、さかんに物品の交流が行われていたとのこと。
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河内桑野氏
(未調査)大阪市東住吉区、八尾市、藤井寺市、東大阪市、堺市などに数十軒が集中する。
延宝五年(1677)、くわのや仁兵衛、直嶋の市兵衛と寄り持ちで、五百石の船を持っていた(「直島町史」)。(関連は不明だが、長野県下伊那郡泰阜村三耕地2872の篠田家は、「くわのや善兵衛」という名で、古来行商で全国を回り、「鍬善」という屋号を持つという)。
桑野喜斎、医者、生年不詳、安政六年(1859年)没、墓河内太田村(現八尾市)。医者
桑野喜庵の子。著作「帰斎詩稿」「喜斎和歌詠草」「仁堂雑記」(「国書人名辞典」)。

「満州紳士録」昭和15年に、桑野源治氏、明治二十二年生、本籍大阪府南河内郡道
明寺町、大正十三年上海に渡り昭和三年桑野洋行創設、があるが関係未調査。
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近江堅田桑野氏
(中世まで琵琶湖の交通を支配し、日本海にも進出した商人を輩出した歴史を持つ、大津市堅田の、今も灯台や造船所の残る港の湾奥を中心に、10軒以上の桑野姓が集中する)。
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越前武生桑野氏
応仁期 系図には、圓覚(応仁二(1468)年終)、桑野太左衛門(文明五(1473)年終)、桑野彦左衛門(文亀元(1501)年終)、桑野源太夫(永正元(1504)年終)などが見える。
寛正五(1464)年 武生市の妙高寺を、桑野源左エ門が創建するという。「日蓮宗 頂滝山 妙高寺 武生市本町9-12 由緒 本寺院は、今を去る500年前、寛正五(1464)年日親聖人の創立にして、桑野源左エ門、聖人の化導に拠り改宗、聖人を外護し、壱子を投じ剃髪し、妙高庵日栄と称し、二祖に列なる。明治18年24代桑野日幸、本堂庫裏を再建。25代関内日住、明治30年表門大正10年鐘楼堂を再建し、26代の今日に至る」(「武生市史」資料編8 社寺の由来)
「桑野屋は、江戸時代には福井藩の両替業務に携わり、町の総代も務めた裕福な商人。広々とした境内からも、財力の豊かさが想像できる」(武生市観光パンフレット)
寛文二年(1662年) 府中の町代、桑野屋次郎兵衛が、福井藩の藩札の札場として史料に見える(「福井県史」)。
文化年間 大黒町に府中の町代かつ庄屋だった桑野屋があった((「福井県史」通史編3近世一第四章 都市と交通の発達   第一節 城下町とその構成    二 町役人と町政)「府中御城下絵図」)がある。
明治5年2月 敦賀県の区長・戸長を定めた中に、武生町の桑野彦三郎が見える(「武生市史」概説編)。
なお、武生はもと府中と呼ばれ、越前の国府が置かれたところで、若い紫式部も父の国司任命に伴い滞在した。現在の福井市に中心が移るのは戦国時代以降である。妙高寺には、長さ四間にわたる桑野氏系図が寺宝として伝わる。妙高寺のすぐ北側には、織田信長が陣を敷いた竜門寺がある。御子孫によれば、家紋は中輪に五つ柏。
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越前福井桑野氏
(未調査)福井市北部の石盛・八重巻・天池〜春江町中庄にかけての地域に、50軒以上の桑野氏が集中する。
昭和10年7月から22年4月まで、春江町助役を桑野裕氏が務めた。また、昭和26年
9月から28年3月まで、春江町町議会長を桑野馨氏が務めた(「春江町史」)。

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石川県加賀市(大聖寺藩)桑野氏
(未調査)大聖寺周辺に5軒ほどが集中。
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新潟県柏崎市桑野氏
(未調査)20軒近くが集中。メールをいただき、桑名藩柏崎領の藩士だったとの伝承があるとのこと。紋は丸に対い銀杏。
新潟県刈羽郡柏崎町本町六丁目に、桑野屋書店を営む桑野荘三郎が見える。明治二十七年生まれ、桑野倉之助氏の長男(「出版文化人名録」)。
田中キンとともに、昭和五年頃、桑野静が刈羽地方の婦選獲得同盟を立ち上げる(「柏崎の先人たち」)。
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新潟県新潟市桑野氏
新発田藩領大淵(現在新潟市大字大淵)の名主を桑野家が代々世襲とある(「新潟地名大辞典」大淵の項)。
明治初期、新潟地方裁判所所属弁護士であった桑野耕七が見える。明治二十六年十一月二十五日に没(「明治過去帳」)。
新潟市一日市・大淵・新崎・松浜・天野・鳥屋野、亀田町、豊栄市下大谷内・木崎にかけて、200軒を超える桑野氏が集中する。一日市桑野氏の家紋は丸に蔦。桑名から来たという伝承を持ち滝川一益の掛け軸があるという。
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新潟県新発田藩桑野氏
(未調査)新発田・加治川付近に十軒ある。新発田はもと城下町。
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新潟県村上藩桑野氏

宝永六(1709)年六月、「村上領築地組大庄屋 桑野七郎兵衛」(「新潟市史」)。平成
14年現在、豊栄市助役に桑野誠司郎氏がある。

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信濃国小県郡上田桑野氏
天文十七(1548)年、武田信玄・村上義清との激戦地、また滝川一益支配地であった、上田原周辺に10軒ほどの桑野氏が集中する。合戦犠牲者の菩提寺である観音寺に、桑野家墓塔あり、少なくとも天明まで遡る。家紋は丸に四つ目結。
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愛知県宝飯郡御津(みと)町桑野氏
(未調査)4軒が集中する。
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静岡県掛川市桑野氏
上西郷に、5軒以上が集中する。中世の城跡の小高い丘の麓に寺跡(観音寺、1346年銘石塔あり)があり、川を隔てて屋敷跡や堀跡らしきものが残る。二代将軍秀忠公の生母西郷ノ局(戸塚氏)生誕の地でもありここから浜松城へ登った。家紋は丸に三分銅や笹紋。
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東京府桑野氏
近世中期、江戸の蒔絵師に桑野不幽なる人有り。もとは木村氏にて名は重春、甚右衛
門と称す(「装剣奇売」「桑野一族」)
桑野良作、東京府士族逓信省官吏桑野與一氏の長男で、明治四年七月に福岡県久
留米市に生まれる。幼くして父に従って上京し、工手学校電気科に学び、卒業後逓信省
技手となる。明治三十九(1906)年九月独立してメーター製作を開始。夫人栄子、長男吉
和、次男近良、長女富子。住所は芝区浜松町三ノ三。電気機械製造業、荏原、下大崎4
54。昭和2年7月逝去、渋谷区広尾の霊泉院に葬られる。後、柳川に改葬(「現代人名
辞典」大正元年、「日本紳士録」 大正十四年、桑野電機95年のあゆみ「桑野電機OB会
だより」)(筆者注、與一は、1846年に久留米藩で御鉄砲方支配御鉄砲師を勤めてい
た、桑野与兵衛の子ではないだろうか?)

桑野吉和、東京府士族桑野良作の長男、明治二十七年三月三十一日東京市芝区に
生まれる。大正十年九州帝国大学工科大学電気科を卒業、直ちにオーム社に入り記者
となり、傍ら父良作の経営する桑野電機製作所主任を兼ねる。長男、俊浩(大正11
生)。住所、東京府豊多摩郡渋谷町青山北町七ノ二八(「大衆人事録 昭和三年版」)。

桑野龍太郎、歩兵少佐、陸軍参謀本部員(「現代人名辞典」大正元年)。

桑野代助、明治二十八年七月二十日東京生、福島県出身、大正
十年東大農学部卒。宇都宮大学農学部長。長男、博(昭和13)
(慶應義塾大学理工学部教授、写真)、次男、進(昭和16)(「大衆
人事録第十九版」(昭和32年)、昭和五十六年版「日本要人録」)。

桑野通子、大正四年(1915)一月四日生、昭和二十
一年(1946)四月一日没、東京市芝区田村町生、女
優。住所芝区三島八。生家はとんかつ屋・喜楽軒を営ん
でいて、兄と妹がいた。三田高女を卒業後、森永製菓の
スィートガールに続いて赤坂溜池「フロリダ」のダンサー
となる。昭和九年松竹蒲田にスカウトされ女優としての
スタートをきる。1938「金環蝕」デビュー、「有りがたうさん」「淑女は何を忘れたか」など清水宏や小津安二郎の作品に主演し一世を風靡した戦前女優。6本共演した上原謙との仲はアイアイコンビと宣伝された。昭和二十一年31歳で、これからという時に撮影中の急病でこの世を去った。本名桑野通

桑野みゆき、昭和十七年七月十七日、横浜市鶴見区生。森永製菓の企画部員だった
斎藤芳朗と桑野通子の娘、女優。「赤ひげ」「彼岸花」「青春残酷物語」など、黒澤明、小津安次郎、大島渚などの作品に出演。本名斎藤みゆき。住所鶴見区獅子谷町一九二。(「日
本女性録」1959)

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埼玉県桑野氏
北本市桑野氏・・・10軒以上ある。本家墓地には江戸初期からの墓石が並び、古くから桑野と呼ばれた家であることを示す。家紋は丸に剣片喰。北本は中山道の通る農村地帯で、中世までは城下町・宿場町として栄えた。
川口市桑野氏・・・(未調査)、桑野通子の父出身地で、恐らくその子の隆一氏が住む。
岩槻市桑野氏(未調査)・・・5軒あり。岩槻は、江戸時代5万5千石の城下町として、また日光御成街道の宿場町として栄えた。
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茨城県桑野氏
那珂郡緒川町桑野氏・・・10軒以上あり、久和野姓と同じ墓地にあり、桑名姓は付近で著名な姓である。家紋は丸に剣片喰。
西茨城県友部町桑野氏・・・7軒以上あり、家紋は、丸に二つ引き、丸に対い鶴。
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栃木県馬頭町桑野氏


元和七年(1621) 「常陸大掾・江戸・佐竹家家臣名」に、佐竹義重(1547−1612)家臣として、桑野民部が、280貫の禄高にて矢又に住すことが記されている(「馬頭町史」)。

栃木県馬頭町矢又、大内に桑野姓多い(17軒)。

大内の桑野氏、「五瓜に桔梗」を家紋とし、本家敷地内に桑野堂なる参礼所がある。

矢又の桑野氏、本姓清和源氏、三つ巴の紋を伝える。慶長の人、勝太郎為定の子の
為家が他国より初めて下野へ来住したと伝えると言う。(「桑野一族」)。
系図

清和天皇―貞純親王―源経基―経貞―経景―隆持―昌次―昌嗣・・・

現在喜連川高校教頭の桑野正光氏は、「下野のおくのほそ道を歩く」という書を著してお
られる。桑野弘氏は、いわむらかずお絵本美術館建設推進委員会会長。

なお、会津安積郡福良村の「隠津島神社の神職は桑名豊前(久道)。先祖は下野国よ
り来り、桑野氏を称す、後に今の氏に改む。七代の祖を弾正道永という。天正年中に中
村の地頭伊藤氏に仕えしが、中地の館が陥りて後、来りて禰宜内の住せしという。弾正
が曾孫を河内尚永という。四世にして、今の豊前久道に至る」(「新編会津風土記」)。

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福島県桑野氏
二本松市に5軒以上が集中する。
郡山市に10軒以上が集中する。久留米地区は筑後久留米藩士の開拓地だが、名簿に桑野の名は見えず。前記の会津安積郡福良村は現在郡山市西端にあり、付近には桑名氏が多い。
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青森県野辺地桑野氏
青森県上北郡野辺地町に桑野氏多い(10軒)。家紋は丸に五三の桐だという(インターネット記事)。なお、野辺地は南部盛岡藩の港町として栄えた。http://www.harimaya.com/o_kamon1/mailmon/mail_36.html
青森県北津軽郡市浦村に桑野氏あり、中世に全国的な湊として栄えた十三湊遺跡の北方。
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北海道に渡った桑野氏
明治32年7月、剣淵南兵村に香川県出身の桑野長五郎が見える(「屯田兵人名録」)。
現在、釧路、根室、旭川、深川、江別、札幌、函館、伊達、興部、島牧などに集中する。
久留米桑野氏本家(万蔵―良太郎家)は、北海道に移住したという。
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(未調査桑野氏)
この他北部九州では、椎田町(9軒)に桑野氏が集中する。


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