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応仁期 系図には、圓覚(応仁二(1468)年終)、桑野太左衛門(文明五(1473)年終)、桑野彦左衛門(文亀元(1501)年終)、桑野源太夫(永正元(1504)年終)などが見える。 |
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寛正五(1464)年 武生市の妙高寺を、桑野源左エ門が創建するという。「日蓮宗 頂滝山 妙高寺 武生市本町9-12 由緒 本寺院は、今を去る500年前、寛正五(1464)年日親聖人の創立にして、桑野源左エ門、聖人の化導に拠り改宗、聖人を外護し、壱子を投じ剃髪し、妙高庵日栄と称し、二祖に列なる。明治18年24代桑野日幸、本堂庫裏を再建。25代関内日住、明治30年表門大正10年鐘楼堂を再建し、26代の今日に至る」(「武生市史」資料編8 社寺の由来) |
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「桑野屋は、江戸時代には福井藩の両替業務に携わり、町の総代も務めた裕福な商人。広々とした境内からも、財力の豊かさが想像できる」(武生市観光パンフレット) |
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寛文二年(1662年) 府中の町代、桑野屋次郎兵衛が、福井藩の藩札の札場として史料に見える(「福井県史」)。 |
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文化年間 大黒町に府中の町代かつ庄屋だった桑野屋があった((「福井県史」通史編3近世一第四章 都市と交通の発達 第一節 城下町とその構成 二 町役人と町政)「府中御城下絵図」)がある。 |
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明治5年2月 敦賀県の区長・戸長を定めた中に、武生町の桑野彦三郎が見える(「武生市史」概説編)。 |
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なお、武生はもと府中と呼ばれ、越前の国府が置かれたところで、若い紫式部も父の国司任命に伴い滞在した。現在の福井市に中心が移るのは戦国時代以降である。妙高寺には、長さ四間にわたる桑野氏系図が寺宝として伝わる。妙高寺のすぐ北側には、織田信長が陣を敷いた竜門寺がある。御子孫によれば、家紋は中輪に五つ柏。 |