東京大学史料編纂所所蔵の「美濃國諸家系譜」の中にある、秋月氏系図の一部に、千手氏
が出てきます。すぐ上右に、「種宣 千手五郎 住筑前國千手」とあります。種宣は、原田種直の 子で、原田秋月種雄の兄弟となっています。また、種宣の子に種之「千手五郎三郎」、またそ の子に「某 三郎大夫」とあります。
中程の秋月種雄の左に、「重國 嘉摩兵衛」とあります。
元暦二年(1185)二月一日、
「参州、豊後国に渡る。北条小四郎、下河辺庄司、渋谷庄司、品川三郎等、先登せしむ。しか
るに今日、葦屋の浦において、太宰少弐種直、子息賀摩兵衛尉(種益)等、随兵を引きてこ れに相添ひ、挑み戦ふ。行平、重国等、廻り懸けてこれを射る。かの輩、攻め戦ふといへど も、重国が為に射られ了んぬ。行平、美気三郎敦種を誅すと」
八日、丙申、天晴、一給御下文人々案文、
下 弘中彌六左衛門尉盛時
(可令早領知) 筑前國穂波郡平塚村内七町五段地 平塚伊豆守跡、事、
(右件地事、於京都所令裁許之、為代所宛行畢者、守先例可全領知之状如件、)
右文言同前
文明十年十月六日
為右御礼弘信御太刀二百疋、其余五人御太刀百疋宛進上之、弘節披露之、
十八日、丙午、天晴、
一給御下文人々事、
下 弘中図書允
(可令早領知) 筑前國糟屋郡上津屋参町地 飯田加賀守跡、穂波郡吉隈村内弐町地 同人
跡 等事、
右以人--------------
文明十年十月十八日
為右御礼弘清御太刀二百疋進上之、正清、伊兼御太刀百疋宛進上之、弘養奉行之、
十八日、丙午、天晴、
一当国 筑前、衆並尾州寄子等数十人、於当国知行地給御下文畢、門司助九郎宗親、門司
太郎能孝、相良小次郎弘恒書上之、案文、
御判
下 碓井駿河守資重
可令早領知筑前早良郡比井郷香原拾町地 岡部彦五郎跡、事、
右以人所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、
文明十年十月十三日
下 吉賀江上総介匡安
(可令早領知)筑前國嘉摩郡下山田五町地、合屋伊豆守跡七町内、怡土郡有田村五町地
飯田次郎右衛門入道跡七町内、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日
下 黒瀬右京進有真
(可令早領知)筑前國鞍手郡吉川内拾八石地 田数三町七段、伊左助太郎跡、同所拾七石
余地 田数三町五段、宮川四郎跡、嘉摩郡片嶋壹町地 片嶋四郎跡八町内、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日
下 河津四郎
(可令早領知)筑前國穂波郡吉隈十弐石余地 段数三町三段余、古曽河内左馬允跡六町六
段大内、事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日
下 河津又次郎成種
(可令早領知)筑前國穂波郡吉隈十弐石余地、田数三町三段余、古曽河内左馬允跡六町六
段大内、同所八町地 唯心院跡、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日
下 黒瀬與三兵衛吉清
(可令早領知)筑前國鞍手郡吉川内拾石地、古曽河内左馬允跡四十石内、同所拾町地、御
手洗三郎跡、嘉摩郡片嶋壹町地 片嶋四郎跡八町内、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日
下
下 吉賀新左衛門尉貞綱
(可令早領知)筑前國穂波郡河津壹町地、恒岡跡内、鞍手郡吉川内四町地 御手洗蔵人跡、
等事、右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日
下 内海三郎九郎定光
(可令早領知)筑前國鞍手郡吉川千萬弐拾石地、宮川掃部助跡、嘉摩郡片嶋壹町地 片嶋
四郎跡八町地内、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日
下 勝屋與三右衛門尉重為
(可令早領知)筑前國穂波郡河津壹町地、恒岡式部丞跡、同郡吉隈弐拾石地、田数五町品
川左馬允跡、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日
下 倉波與三兵衛房俊
(可令早領知)筑前國嘉摩郡八町地、郡司嶋彌七跡、穂波郡河津壹町地、恒岡跡内、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日
下 勝屋總次郎重為
(可令早領知)筑前國鞍手郡吉川拾石地、田数弐町、伊佐助太郎跡内、穂波郡河津壹町地、
恒岡式部丞跡、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日
下 警固屋掃部助忠秀
(可令早領知)筑前國穂波郡吉隈十石地、田数二町、山田美作守跡、嘉摩郡米房八町五段
地、同人跡、同郡薦田村金丸十石地、田数二町、同人跡、同郡片島壹町地 片島四郎跡八 町内、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日
下 桑野近江守盛達
(可令早領知)筑前國穂波郡榎本十町地 合屋丹後守跡十八町内、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日
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