古文書・系図

千手氏系譜
美濃國諸家系譜秋月氏系図
大蔵朝臣姓秋月系図
『吾妻鏡』
佐賀千手氏系図
 「正任記」
天文三十四年小鳥居文書
名勝古蹟
「大蔵原田一族史話海を渡った系図」
「豊前香春城と原田氏」
応永戦覧


千手氏系譜(嘉穂郡誌(大正版)、第三章第十一節千手村)

香春神祠年譜曰香春城保元二年、平清盛為太宰大弐使其臣越中次郎兵衛築此城夢
見山神出示城基、因名鬼城、然営柵耳後興廃不一、永正天文年千手信濃守冬種據
之、永正五年足利将軍義植自防州山口帰京冬種供奉有功、天文元年大内義隆征筑州
生葉郡星野常陸介親忠之貶、秋月並千手冬種随大内攻之、永禄二年大友義鎮与毛利
元就、戦筑前博多貶、随大友同年七月原田五郎親種攻香春、千手戦死、永禄四年六
月十五日大友義鎮攻香春城、七月十六日親種戦死、大友置番兵。

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美濃國諸家系譜秋月氏系図




東京大学史料編纂所所蔵の「美濃國諸家系譜」の中にある、秋月氏系図の一部に、千手氏
が出てきます。すぐ上右に、「種宣 千手五郎 住筑前國千手」とあります。種宣は、原田種直の
子で、原田秋月種雄の兄弟となっています。また、種宣の子に種之「千手五郎三郎」、またそ
の子に「某 三郎大夫」とあります。

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大蔵朝臣姓秋月系図(「系図纂要」第十五冊)


中程の秋月種雄の左に、「重國 嘉摩兵衛」とあります。


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『吾妻鏡』

元暦二年(1185)二月一日、 

「参州、豊後国に渡る。北条小四郎、下河辺庄司、渋谷庄司、品川三郎等、先登せしむ。しか
るに今日、葦屋の浦において、太宰少弐種直、子息賀摩兵衛尉(種益)等、随兵を引きてこ
れに相添ひ、挑み戦ふ。行平、重国等、廻り懸けてこれを射る。かの輩、攻め戦ふといへど
も、重国が為に射られ了んぬ。行平、美気三郎敦種を誅すと」

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佐賀千手氏系図











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文明十年十月「正任記」(部分)

八日、丙申、天晴、一給御下文人々案文、
下 弘中彌六左衛門尉盛時
(可令早領知) 筑前國穂波郡平塚村内七町五段地 平塚伊豆守跡、事、
(右件地事、於京都所令裁許之、為代所宛行畢者、守先例可全領知之状如件、)
右文言同前

文明十年十月六日

為右御礼弘信御太刀二百疋、其余五人御太刀百疋宛進上之、弘節披露之、

十八日、丙午、天晴、
一給御下文人々事、
下 弘中図書允
(可令早領知) 筑前國糟屋郡上津屋参町地 飯田加賀守跡、穂波郡吉隈村内弐町地 同人
跡 等事、
右以人--------------
文明十年十月十八日

為右御礼弘清御太刀二百疋進上之、正清、伊兼御太刀百疋宛進上之、弘養奉行之、

十八日、丙午、天晴、
一当国 筑前、衆並尾州寄子等数十人、於当国知行地給御下文畢、門司助九郎宗親、門司
太郎能孝、相良小次郎弘恒書上之、案文、

御判

下 碓井駿河守資重
可令早領知筑前早良郡比井郷香原拾町地 岡部彦五郎跡、事、
右以人所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、
文明十年十月十三日

下 吉賀江上総介匡安
(可令早領知)筑前國嘉摩郡下山田五町地、合屋伊豆守跡七町内、怡土郡有田村五町地 
飯田次郎右衛門入道跡七町内、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日

下 黒瀬右京進有真
(可令早領知)筑前國鞍手郡吉川内拾八石地 田数三町七段、伊左助太郎跡、同所拾七石
余地 田数三町五段、宮川四郎跡、嘉摩郡片嶋壹町地 片嶋四郎跡八町内、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日

下 河津四郎
(可令早領知)筑前國穂波郡吉隈十弐石余地 段数三町三段余、古曽河内左馬允跡六町六
段大内、事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日

下 河津又次郎成種
(可令早領知)筑前國穂波郡吉隈十弐石余地、田数三町三段余、古曽河内左馬允跡六町六
段大内、同所八町地 唯心院跡、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日

下 黒瀬與三兵衛吉清
(可令早領知)筑前國鞍手郡吉川内拾石地、古曽河内左馬允跡四十石内、同所拾町地、御
手洗三郎跡、嘉摩郡片嶋壹町地 片嶋四郎跡八町内、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日

下 

下 吉賀新左衛門尉貞綱
(可令早領知)筑前國穂波郡河津壹町地、恒岡跡内、鞍手郡吉川内四町地 御手洗蔵人跡、
等事、右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日

下 内海三郎九郎定光
(可令早領知)筑前國鞍手郡吉川千萬弐拾石地、宮川掃部助跡、嘉摩郡片嶋壹町地 片嶋
四郎跡八町地内、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日

下 勝屋與三右衛門尉重為
(可令早領知)筑前國穂波郡河津壹町地、恒岡式部丞跡、同郡吉隈弐拾石地、田数五町品
川左馬允跡、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日

下 倉波與三兵衛房俊
(可令早領知)筑前國嘉摩郡八町地、郡司嶋彌七跡、穂波郡河津壹町地、恒岡跡内、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日

下 勝屋總次郎重為
(可令早領知)筑前國鞍手郡吉川拾石地、田数弐町、伊佐助太郎跡内、穂波郡河津壹町地、
恒岡式部丞跡、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日

下 警固屋掃部助忠秀
(可令早領知)筑前國穂波郡吉隈十石地、田数二町、山田美作守跡、嘉摩郡米房八町五段
地、同人跡、同郡薦田村金丸十石地、田数二町、同人跡、同郡片島壹町地 片島四郎跡八
町内、等事、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日

下 桑野近江守盛達
(可令早領知)筑前國穂波郡榎本十町地 合屋丹後守跡十八町内、
右以人(所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、)
文明十年十月十三日

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天文三十四年小鳥居文書

定月次連歌人数注文

正月 当郡代
二月 当國役
三月 秋月伊予守
四月 千手治部小輔
五月 原田五郎
六月 麻生近江守
七月 吉賀江弾正忠
八月 殿
九月 麻生与次郎
十月 碓井駿河守
十一月 武藤松寿
十二月 土師宮内丞

天文四年十月七日  石見守(花押)

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名勝古蹟(嘉穂郡誌(大正版)、第三章第十一節千手村)

千手八太郎宅址 東千手村の東南二十八町元宮にあり、千手は秋月家の士なり。

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「大蔵原田一族史話海を渡った系図」(昭和48年)

香春城には原田義種落城跡、千手氏が入ることになるのであるが、千手氏に関する古
文書は実を言うと「海を渡った系図」の中に発見された。千手氏は香春岳の原田義種落
城後、戦火を逃れて逃亡した村の人々を呼び戻すため、京都郡行橋の先の今井の祇園
社の分神を大君原に祭った。大君原は河内王の碑のある処である。ところが今まで流
行していた悪疫がとまり、人々も村に居ついて天正十六年頃現在の地に移したとの内容
が書いてある(香春祇園社縁起原本)。

千手氏は小倉高橋鑑種に滅ぼされたと、倉城大畧志等に出ているが、そうではないらし
い。高橋元種が秋月氏の出であることから、秋月家と同族であった千手氏は、その後対
大友戦に秋月氏と共に活躍し、軍功をたて、秀吉の新配置のときに、秋月氏に従って高
鍋藩に従っていった。千手氏は日向高鍋藩秋月氏に仕え、江戸時代一族の中から、千
手廉斎、千手旭山の高名な漢学者を出した。千手氏の断家譜作成はここまで来れば後
は高鍋藩千手系図をしらべればよい。実を言うと千手家系調査は、色々意見が多かっ
たので難儀を極めた。主流が移動してしまうと後に手がかりがなくなるのは長野家系も
同様である。現在田川郡金田町、及び嘉穂郡に居られる千手集団は皆この同系であ
る。(倉城大畧志・陰徳太平記、九州軍記、香春祇園社縁起、佐田文書、鎮西の風雪)

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「豊前香春城と原田氏」(冬眠亭主人)

天狗の鼻(こぼれ話)

香春城の歴史をかくに到った動機は久しい前からのことである。十年も前父の法事で小
倉から田川行きのバスに乗ろうと思って停留所で待ち合わせていたところ、一人の肥え
て腹の出た五十歳前後の男が、息せき切ってバス停にかけつけて来た。額には汗が玉
のように光り、手には鍬を持って、腰には鎌を差している。なんとも異様な姿でバスに乗
った。私は約一時間、採銅所につくまでその男と話したが、彼は千手と名乗る人で、香
春城主千手信濃守はわが先祖であり、昨日子供等が夢に武具をつけた武士が現れて
きたというので、これはご先祖の霊が現れたものに違いない。これからお墓掃除に出か
けるところであるとのことであった。千手氏は八幡で指圧の治療をしていて、玄関に「元
香春城主千手信濃守の後裔」と大きな札をかけているとのことであった。
今度私が原田史をしらべているとき、ふと千手氏のことを思い出し、八幡の電話帳をくっ
て、しらみつぶしに電話をかけてみるつもりで最初にかけた相手が、田川郡香春岳の子
孫千手氏であった。千手氏は嘉穂千手氏と香春千手氏とがあり、香春千手氏の後は田
川郡金田町に住んでいるそうで、数は多くないそうである(注、電話帳に6名)。そして本
家は小倉に住んでいると、おしえてくれた。小倉千手氏はなんと驚いたことには、私の家
の目と鼻の先に住んでいたが、当家に伺って話をしたけれど、話にはうすうす聴いてい
たがくわしいことは今では分からないとのことであった。千手家も年がたつと、先祖のこと
はわからなくなってしまっている。
今のうちなら当方に資料もあるから、残しておかれたらよろしかろうと言ってわかれたが
どうしておられるかわからない。

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応永戦覧 

巻の六 香春合戦の事

香春の城主千手信濃守貞房は、大内盛見押し寄すると聞きて籠城の計略怠らず。敵今
やと待つところに、九日辰の刻、高野、鏡山の人家満天の煙と焼き立て、鬨の声響き渡
れば、香春の町架、男女老若東西へ逃げ走り、家財雑具を持ち運び、老者を助け子を
抱き、八方へ散りいくは、春風花を飛ばすかと周章限り無かりけり。
 先ず、千手九郎房国、混甲三百余騎、東大手に駆け出せば、続いて松田治部大輔元
久、原田帯刀左衛門種成、一の備へになって五百余騎城門の外に待ち向かふ。十川対
馬守武雄、梶原源左衛門尉景鋭、五百余騎龍ノ口川を渡って備へたり。大将興房矢倉
に立ち出で、軍の駆け引きの下知をなす。
 南大手には星井民部丞直政、千手左衛門佐房任、三百余騎にて支へたり。寄せ手城
近くなれば、千手九郎が兵と武田、吉川行き掛かりに入り乱れ、追ひ靡け輸り立て、火
焔を出し戦ひける。龍ノ口にも軍始まりたりと聞こえて、鬨の声、矢叫の音、嵐に比へて
夥し。城よりも荒手を入れ替へ戦ひける。その日も酉の刻両陣相引して見れば、敵味方
の手負ひ死人数を知らず。夜に入りければ、寄せ手の勢は高野、鏡山、宮原、不動寺、
鶴カ岡、勾金、護徳に陣取りて焼続けたる雲火は、藍空の星の如く、さしもの闇夜いと晴
れて、月なき夜半を照らすらん。陣々夜討の用心、斥候、軍使時替りの相詞、持ち口
役々油断なし。城中にも大敵を受けたれば、岩瀧、谷口、乙護法師、風穴、薬師院、蛇
の口、その外南東北の口々を守りて、明くる旦を待ちたりける。

護徳合戦付天台寺衆徒働きの事

 毛利大膳大夫、熊谷小四郎は搦手の寄せ手として護徳谷に在りけるが、評定して、こ
の香春嶽の城は西南嶮巌岨って攻め入り難き岩牆なり。城中にもこの口をば嶮岨を頼
んで、はかばかしき大将守るとも見えず。いざや、西の岨より攻め上るべしと、小早川備
後守に牒し合はせ、同左衛門佐武平、毛利、熊谷と一手になり、十日のまだ朝霧の引き
去らぬ頃、足軽雑兵馳せ廻りて、護徳谷の人家、寺塔一宇も残さず放火し、硯寺観音堂
を本陣とす。城中にも、谷の煙を見て、上野兵庫頭利家三百余騎、屏風嶽、馬場尾、乙
護法師が岨より、まっしぐらに打ち下ろす。毛利、熊谷、小早川、鶴翼に備へ待ち掛かり
たり。両陣既に入り乱れ喚き叫びて攻め戦ふ。上野が兵悉く討死し、兵庫頭も山神の森
にて引き揚ぐれば、遁がすまじと追蒐まる。兵庫頭主従十四騎取って返し戦ひしが、一
渓に屍を並べたり。その日も未の刻、勝鬨作って硯寺へ引かんとするところに、南の原
より煙塵天を霞め、馬蹄雷々として多勢馳せ来たる。
 敵か味方かと見れば、天台寺の衆徒一様の袖印に大日の真言書きて、その勢五百余
騎、金鼓を鳴らし鈴錫杖を振りて打ち向かふ。

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