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4章 ディモール妖変(前編)


 下弦の月が空にかかっていた。
 雲が風に乗り、ちぎれ流れていくのが見てとれる。
 森の梢の間から天を仰いでいたシアはそっと瞼を閉じると、呼吸を整えた。
 ゆっくりと息を吸い込み、少しためてからまたゆっくりと吐き出す。
 基本はそれだけだが、かなり複雑なリズムがある。
 かつて彼女が城の中で暮らしていた時に、ロラン公国一の魔術士であり、彼女の師でもあったアーフェスから教わった呼吸法だった。
 剣術も魔法の腕も人並以下だったシアに彼女は優しく言ってくれたものだ。
「あなたには他の人にない力があります。たとえ今はそれが判らなくても、きっといつか皆があなたの力を必要とする時が来るでしょう。
 だから、この呼吸法だけは忘れないで。あなたが自分の力を見つけ、高めるのに役に立ってくれるはずです。」
 彼女は今ごろ何処でどうしているのか。
 思い出すと涙が溢れそうになったが懸命にこらえた。泣いているところを見つかると、またケンに殴られるからだ。
 それに最近では自分でももっと強くならなければ、という想いがある。
 しばらく忘れていたこの呼吸法を6日前から再開したのも、剣術やその他、体を使う技ではケンに遠く及ばぬ自分が、何か彼女の助けとなれるような事はないかと思い悩んでいた時に、アーフェスの言葉を思いだしたからだった。
 ただし、生徒としてあまり模範的とはいえなかったシアである。まずそのやり方を思い出すのに時間がかかった。
 やっとコツをつかんだのが昨晩あたりの話で、「他の人にない力」とは一体どんなものなのか、今のところ自分でもまるで見当もつかない、といったところが実状であったが。
「よう、姫様。呼吸が乱れたぜ、どうしたい。まためそめそしてんのかい」
 闇の中から突然ケンが声をかけてきた。
 反射的に身を硬くする。涙を見られたかと思ったからだ。
「それにしても毎晩よく続くじゃねえか」
 声は続いた。こちらの方に来る気配はない。
 どうやら今夜は殴られずに済みそうである。ほっとして、シアは身体の力を抜いた。
 指をそっと目の下に当ててみる。濡れていない。涙はこぼれなかったようだ。
「しかしなあ、本当に信じてんのかい。その、アーフェスって魔術士が言った事をさ」
 思わず言い返そうとして、シアは口を開きかけたが、すぐに閉じた。
「どうせ、でたらめだよ、でたらめ。できの悪い上客の生徒に口からでまかせの世辞をいって、いい気にさせただけの話さ。そりゃ、俺もアーフェスって名は耳にした事はあるよ。そういう名の美人で腕もいい魔術士がいるってな。だけどな、大体いままで、城付きの魔術士で性格のいい奴ってのを見たためしがねえんだよな」
 勢いづいたケンが更に続ける。
 いつもの悪態だ。気にとめるほどのものでもない。
 黙って受け流していればいい。最近は殴られる回数も減ってきているというのに、ここでわざわざ殴られるきっかけを与えるような口答えをすることもないはずだった。
 それでも、シアは黙っていられなかった。
 森の闇のなかにふと浮かんだ、優しい笑顔の記憶のせいかもしれない。
「…アーフェスは…先生はそんな人じゃありません……」
 うつむいたまま、細い声でそれだけをやっと言った。
 折檻を覚悟の上だ。
 わずかの間、沈黙が落ちた。
 だが、シアの予想に反し、ケンはそれ以上絡んでこなかった。
 再びかけてきた声には先ほどの椰揄しているような口調はない。
「…ちっ、白けちまうじゃねえか。分かったよ、その話は置いとこう。それより、念を押しとくけど、じきに国境だぜ。本当にあっちのお姫様とやらは信用していいんだろうな」
 ケンのいうお姫様というのは彼女達がこれから入ろうとしているディモール王国の王女ファジィのことである。
 彼女はかつてロラン公国に留学していたシアの幼なじみであった。
 同じ師の元で学問や魔法を習った、彼女とは姉妹同然の間柄だ。
 闇の王の追跡の手が伸び、どこへ行っても命をつけ狙われる旅を続けてきた2人の前にディモールの兵士だと名乗る男が現れたのがほんの3日前の事である。
 彼は、隣国に幼なじみがいると知ったファジィの使いで来たと言い、彼女からの、「何か目的のある旅ならば無理に引きとめることはしない、だけどせめてディモールの城で十分な休息と装備を整えていって欲しい」という伝言を2人に伝えた。
 最初は罠ではないかと疑い渋っていたケンだが、シアが懸命に説得したのに加え、この近隣の諸国の中では唯一闇の王の帝国に屈していない小国がディモールだと聞くに及んでついに心を決めたのだった。
 それにここのところの逃亡生活のおかげで、食料も装備も底をつきかけていたという事情もある。
 ディモール行きの決心を固めた2人だったが、もちろんおおっぴらに入国する訳にはいかない。そこで、連絡役の兵士を先に帰し、シア達はその後からこっそりとディモールの城に向かうという手筈であった。
「ファジィ、どうしているかしら…」
 限りない郷愁で目を煙らせながら、シアは再び月を見上げていた。


 同時刻、ディモール王国王女ファジィ・K・ディモールもまた同じ月を見上げていた。
 王宮の中、自分の寝室につづくテラス上である。
 下弦とはいうもののかなり明るい月の光が彼女の周囲で煌めいている。
 シアと同年齢なのだが、その横顔は、幼さの残るシアの顔立ちに比べだいぶ大人びて見える。
 俗にディモールの民が他国の人間に自分達の姫を自慢するときの論点は3つあると言われている。
 その内の2つが、ファジィが3才の時若くして逝去した先代の王妃譲り、といわれる気品のある美しさと、誰にでもわけへだてなく優しく接する気立ての良さだった。
 じきに16にもなろうというのに、婚約者どころか恋人もいないのは、求婚にやって来る他国の王子達が彼女に会うと、器にあらずとそのまま帰ってしまうからだという噂が町ではまことしやかにささやかれている。
 上を向いていた顔がふと横を向いた。
 足元近くを見る。黒猫が1匹彼女の方に歩いてくる。
「テブクロ、おいで」
 テブクロと呼ばれたその猫は一声鳴いて、不安そうにファジィの踵に頭をすりつけた
 月明りに影がない。生身の生き物ではありえなかった。
 ファジィはテブクロをそっと抱き抱えた。まるで重さを感じさせない動作だ。
 実際、普段のテブクロの体重は同じ位の大きさの綿の重さに等しい。
「もう、シア達は国境にさしかかっているころよ、テブクロ。覚えているかしら、あなたの生まれたア−フェス先生の庵を。一緒に学んだシアの事を」
 そういってテブクロを目の前の高さまで持ち上げ、その瞳を覗き込む。
「本当はもっと堂々とむかえてあげたい…。でも、最近では近隣の国々はほとんど闇の王の国と同盟や密約を交わしているような状態。ただでさえ、昔ロラン公国と親交が厚かったというだけで経済的に圧力をかけられているというのに闇の王自らが捜索を命じているシア達を表立ってむかえ入れることなど、とてもではないけれど無理…」
 ファジィは小さくため息をもらした。軽く目を伏せる。テブクロはおとなしくしている。
「でも、こっそりとかくまうことぐらいの事はできる。聞くところによれば、供の傭兵と2人きりで追われるままに旅をしているとか…。きっと疲れ切っているはず。早く会いたい、シア…」
 気を取り直したように彼女は再びテブクロの瞳を見つめた。
「さあ、見せてちょうだい、テブクロ。シア達がどの辺りまで来ているか」
 使い魔を通して、何のつながりもない遥か彼方の様子をうかがう。かなりの高等魔法である。生半可な魔術士にできる技ではなかった。
 ディモールの民が、自分達の姫を誇る時の3つめの点がこれだった。
 シアと共にアーフェスの元で学んでいた時から、ファジィの魔法に対する物覚えの早さ、応用力は人一倍優れていた。生まれつきの才能もあるのか、国に帰ってからも独学で覚えた魔法は城付きの魔術士を遥かに上回り、魔術士ギルドからもギルド公認の印をさずかっている。以来、王の心配をよそに、他の大国と比べ開けていない土地がかなり残るこの国に出没する妖獣、邪精の類を数知れず退治してきた姫の力を、国民は信頼しきっていた。
 しばらくして、テブクロをテラスに下ろしながらファジィは呟いた。
「ふう、やっぱり駄目。だいぶ近づいたようだからひょっとしたら、とも思ったんだけれど。全然見えない、見当もつかないわ。何か強力な撹乱魔法を使っているか、力の強い道具をもっているかね。もっともそうでなければ、闇の王の手先にたちまち見つかってしまうはずだけれど」
 連絡役の兵士から聴いた話では、どちらにしてもあと1〜2日で城にたどり着くはずである。国内に入ってからの為の迎えの兵士も少数ながら送りだしている。
 今夜はファジィもそれ以上のことはしない事に決め、寝室に戻ろうとした。
 数歩いった所でふと、歩を止める。
 テブクロの様子がおかしかった。どこか落ち着かない様子で周囲を見回している。
「どうしたの、テブクロ」
 言ってから、ファジィははっとしたような顔をした。
「この感覚は…誰かがこの王宮に侵入しようと…」
 気が付けば、夜の鳥や獣の声もいっさい途絶えている。
 妙なしらじらしさがあたりを支配していた。
 その場でテラスの上に腰をおとす。
 結跏趺坐の姿勢に入り、呼吸を整えた。
 テブクロもファジィからやや離れた場所で背筋をぴんと伸ばし、1点を見すえている。
 何も起こらず、動くものもない。
 静寂の中で、月の光だけがそっと動いていく。
 月明りに照らされる彼女の姿は、1体の彫像を思わせた。
 王宮の中庭に飾られている、その昔東国からの使いが献上したという、美しい女神像を。 
 月が自分の直径分動くだけの時間が経過した。
 突然ファジィの呼吸が乱れた。
 あえぐように頸を上げ、上半身を硬直させて横だおしになる。
 ビクン、ビクンと2、3回身体を波うたせてようやく顔をあげた。
「こ、これは…この力は…」
 彼女の結界を破って中庭に現れた気配の主は、瞬間移動の余波として生ずるはずの莫大な量のエネルギーを寸毫も周囲にもらしていなかった。
 1流といった程度の形容詞では追いつかない、まさにおそるべき力量の持ち主である。
「早く、皆に知らせなければ…お父様…」
 よろめきつつも立ち上がると寝室へと戻る。
 そのまま部屋の廊下側の扉まで向かいかけたが、思い付いたように振り返ると同じくふらつきながらついてきたテブクロに、かがみこみ語りかけた。
「あなたは私とは別行動を取って…。もし、私に何かあったら、シアに…お願い」
 相手の力を考えての、もしもの時の対策だった。
 わざわざ今夜襲ってきたということは、敵もシア達がここへ向かっている事を知っているとみていい。
 ここでもし自分が敗れた場合、シア達をみすみす敵の罠におびきいれることになる。
 それだけはなんとしても避けなければならなかった。
 テブクロは気掛かりそうな様子を見せていたが、やがてひと声低く鳴くとテラスの方へと駆けていった。
 その後ろ姿が消えるまで見送ると、静かな決意を全身にたたえ、ファジィは寝室の入り口へと向かい直った。
 結界を破られたダメージは徐々に去りつつある。
 頭を軽くふりながら、廊下に通じる扉を開いた。
 途端にすさまじいばかりの妖気が廊下側から押し寄せた。
 思わず身をかばう動作をしたファジィの囲りに妖気がまとわりつく。
 いままで退治してきた邪精、妖獣や邪悪な魔術士が放つ妖気とは似ているようで微妙に異なる雰囲気を持った気だった。
 中にいる人間の精気を衰弱させたり、凶暴な気分にさせたりするというのとは違う、酒に酔った気分というか、麻薬の類を吸った時の感じに似ている。
 魅惑(チャーム)の魔法に似ているような気もするが、あちらは完全な対人魔法であり、このような莫然としたものではない。
 それだけの事を考える間にも妖気はからみついてくる。魔術士としてもその手のものに敏感なファジィは、物質化しそうな程の妖気が胸に、股間に侵入してくるのを、ほとんど肌で直接感じていた。
 頭がぼうっとしてくる。目が潤み、顔が火照る。
 全身の感覚も鋭敏になっている。着衣が肌を擦る感じがたまらなく心地よい。
 このままではとりこまれる、心の奥で警告の声が響いた。
 左手のブレスレッドに右手を添えると、目を閉じて精神を集中する。
 周囲に小規模な結界をはりめぐらす。
 すぐに頭が冴えわたってきた。全身の火照りも引いていく。
 しばらくそのままの姿勢をとる。
 完全に平静な気分に戻ったのを確認して、数回深呼吸を繰り返した。
 あらためて侵入者の力の恐ろしさを確認した。これでは、魔法防御の心得を持たぬ普通の人々はひとたまりもない、たちまち妖気の虜となってしまうだろう。
 用心深く廊下に足を踏み出す。どうやら、妖気は城中に充満しているようだ。おそらく発現点はあの気配の主であろうが、こうも濃密な気の中ではその中心を捜し出すどころではない。
 とりあえず王の間に足を向けた。いまの時刻だと、父親である王はまだ王の間にいるはずである。
 侵入者の目的が城の制圧にあるなら、城中で最優先に押えに来るだろう場所だ。
 そのまましばらく歩いた。さして広くない城中とはいえ、彼女の寝室は王の間から比較的離れたところに位置している。
 誰ともいきあう気配はない。ことさらに深夜という程の刻限でもない。通常なら、兵士や大臣達が歩いていてもおかしくない通路だ。ところどころに松明の明りがかざしてある。
 普段見慣れているはずの、誰もいない通路に松明だけがあかあかと燃えている構図も今の状況では妙に不気味に思える。
 やがて彼女の耳にかすかな声が聞こえてきた。目の前の角をまがった先にだれかいるらしい。声は途切れ途切れに流れてくる。聴きようによっては、苦悶のうめきのようでもある。
 少し歩を早めた。
 角をまがる。
「……!」
 思わず息をのむような光景が眼前に展開していた。
 少女が1人通路のまん中で、全裸になり自分を慰めている。
 見知った顔の持ち主だった。
 ファジィの世話役をしている小間使いのジョディだ。確か、ファジィの1つ年下、14歳だったはずである。
 よく話もするが、恋人がいるとも聞かない、控え目な感じで清純そのものといっていいような娘だ。
 それが今は呼吸を荒くしながら獣のような姿勢でよつんばいになり、腰を高くかかげて指を懸命に使っている。
 紅潮した頬、うすく開けた唇からのぞく舌、涙を瞳いっぱいに溜めて眉をよせたその表情はまさにジョディが快楽の絶頂にあることを示していた。
 右手は股間に伸び、淡く繁るくさむらをまさぐり、左の手は、まだふくらみきっていない胸を揉みしだいている。
 それでも足りないのか、片手でカバーしきれない側の乳首を石の床にこすり付けるように動かしているのが見える。
 恐らくこのような事はいままでしたことがないのだろう。手の動きはどこかぎこちない。
 それでも、か、それだからこそ、なのか、その動作は少女のものとは思えぬほど荒々しい。
 服は破るように脱ぎ捨てたらしく、通路のあちこちに無造作に落ちている。
「あ…うぅっ」
 いまでは快楽によるものとはっきり判る、あえぎ声が彼女の口からもれた。
 指の動きがいよいよ激しくなった。
「…うぁ…ひぃっ」
 何度目かの気をやったのか、ジョディの体から力が抜ける。
 ファジィがとまどったのもほんのしばらくの間だった。
 たしかに顔見知りの娘が目の前でこのような状態におちいっているのを見れば、動揺はある。
 しかし、彼女とてこれまで、邪悪な魔術士と対決したりしてきたなか、もっと淫らで冒涜的な情景を見てきてもいる。
 すぐに気を取り直すと、そっとジョディに近づく。彼女がそばに行ってもジョディはまったく気づいていないようだった。幸福そうな表情をしているが、目はまったく虚ろで、口を半分開けたまま呼吸をしている。
 今、気をやったばかりだというのに手だけが別の生き物のように股間で動いていた。
 首筋に手を当てると、そこから気を送り込んだ。
 ジョディの手の動きが止まる。顔をのぞき込み、安らかな寝息をたてているのを確認し、周囲の服を集めた。
 本当はどこかの部屋に運んで寝かせたいところだが、今はその余裕はない。
 横になった体をなんとか通路の脇まで運ぶと上から服を覆いかけた。
「急がないと…」
 そうつぶやくと、再び歩きだす。
 さすがに残りの道程では通路で誰かに出会うことはなかったが、注意して耳をすますと、城のあちらこちらから遠く近く淫らな呻き声が聞こえてくる。どうやら城の人間で正常なのは彼女1人だけらしい。
「城の魔術団はどうしてしまったの…」
 ファジィは不安そうにひとりごちた。あまり攻撃的な魔法は持っていないが、この程度の気から身を守る位は出来る魔術士の一団が城には常時詰めているはずである。その者たちはどうしているのか、何も判らぬままやがて彼女は王の間へと到着した。
 部屋の前には衛兵もおらず、扉がわずかに開いていた。
 傍まで近づくと、中からはかすかに、もはや城中に満ちているあの呻き声が聞こえてきた。
 思わず扉を開き、部屋の中へととびこむ。
「お父様っ…」
 いつもは近衛兵やら重臣が何人もいる広い王の間に、人間は二人しかいなかった。
 玉座の前で王が裸の女性を責めている。二人ともひどく淫らな表情で腰を動かしながら、卑猥な言葉を吐いている。
 裸の女性は重臣の一人であるジーン・タリスであった。
 30歳を半ばまで越えているはずだが、20代といっても通るような柔和な美貌の持ち主である。
 文化国家を売り物としている事もあり、男女の違いによる役職の差別が他の国と比べ伝統的に少ないディモールであるが、さすがに宮中での重要な職にある女性は少ない。
 ましてその若さで、王を補佐する重臣の1人として登用されたとあっては、他の大臣連に比べ、口さがない者達の噂の対象となる回数も倍するというものである。
 しかし、彼女の実力がその噂を一蹴して、なおかつ余りあるものであるということもまた宮中では周知の事実であった。
 どこか、おっとりとした印象を感じさせるその外見とは裏腹に、卓越した記憶力と状況判断力は自国のみならず周辺国の市場の動きを全て掌握していると言われている。
 実際、最近の闇の王の帝国の進出により、周囲の国々が軍事的にあるいは経済的に次々とその配下となっていくのに対し、たいした特産物があるわけでもなく、強大な軍事力があるわけでもないディモールが、その独立性を保っていられるのも、国内外の経済活動を取り仕切る彼女の手腕があってこその話である。
 必然的に王の厚い信頼を得て大いに重用されていたが、それ以上に王との間で、互いに好意以上のものを持っているらしいのも、ファジィには分かっていた。
 だが王は先代の王妃、それにファジィに気をつかっているらしく、一方ジーンは自らの立場を意識してか、2人はあくまで王と重臣の間柄をくずそうとしないところがファジィには歯がゆかった。
 (周囲ばかりにそんなに気をつかわなくても、ジーンなら資格は充分ある)日頃からファジィはそう思っていた。
 せめてあの下品な噂の十分の一でも真実なら、と思えるほどジーンの日常は色気というものから遠く離れていたのである。
 それが今は先程廊下で会ったジョディとまったく同じような表情で快楽に酔い痴れている。
 ジーンは体にもみずみずしい若々しさをたたえていた。
 普段はゆったりした衣服を身にまとっているせいか今まで余り目立たなかったが、胸と腰が発達した見事なプロポーションを保っている。
 今は王が下になり、彼女はその上にまたがり腰を振っている。
 見事に張った乳房はそのたびに豊かに揺れ、乳首がつんと立っているのが見える。
「おぉっ、いい、いいわ。もっともっとよ、突いて、突きいれて。あぅうううう…良いわ、おおおぉぉ…」
 正常な時の常に控えめで落ち着きのある彼女を知っている者にとっては、信じられない程の乱れ方で、かえってたとえようも無い淫らさを感じさせる光景だった。
 ファジィが声をかけられないほどの迫力がある。
「……」
 その気配を感じたのか、偶然なのか、ジーンの視線が彼女の方に向いた。
 ファジィに気付く。にこりと微笑んだ。あどけなさすら感じさせる微笑み方だった。
「ジーン…」
 それ以上の言葉がでない。ジーンが口を開いた。
「とても良いのよ、ファジィ。あぁ、こんな感じはじめて…。あなたのお父様、とても素敵よ。今まで全然気付かなかった、これがこんなに気持ちいいものだったなんて。」
 話す間にも腰を揺すり続けている。時に眉をよせ、目を薄く開けたり閉じたりしながら歓びの表情を浮かべる彼女の顔からは邪気は感じられなかった。
 かわりに、今までファジィが見たことがないような喜悦の表情を浮かべる彼女の周囲には物質化できそうな程の色気が発散されている。
 下になっている王の顔はよく見えないが、似たような表情をしているのだろう。
「ジーンお願い、しっかりして。」
 呼びかけながらファジィは玉座の方にあゆみより、ジーンの周囲の気を探った。
 魅惑か何かの魔法にかかっているのなら、そう時間も経っていないだろう今ならまだ残留魔法が残っているはずである。
 魔法の種類さえ分かれば彼女を正気に戻す手立ての考えようもある。
「大丈夫、…私は、正気よ。あっ、チ、魅惑をかけられたりなんかしていないわ…あふっ」
 姫の意図に気付いたのかジーンがまた話し掛けてきた。
「そ、その方に教えていただいたの、とてもいい方よ。」
 その方?、彼女の言い方に眉をひそめたファジィのすぐ後ろで声がした。
「これは聞きしに勝る美しい姫様だ。お相手するのが楽しみだな。」
 風をまいて振り返った彼女の眼前に、黒づくめの僧服に似た服をまとった男が立っていた。

 ついいましがたまでこの部屋のなかにはファジィを含め3人しかいなかったはずである。
 それは先ほど周囲の気を探った時も、誰か第三者が隠れてはいないかと確かめてある。
 扉はさっき彼女が飛び込んだときに後手に閉めたそのままだ。
 愕然とする彼女の前で男は軽く頭を下げ、会釈した。
「挨拶が遅れた非礼はお佗びする。すこし城内を回っていたものでね。以後よろしくお目通りを。」
 口元に人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
 男が顔にかかった長髪をかきあげた。
 そこから覗く顔の左半分に、アザか刺青か稲妻状の紋様が走っているのが見える。
 ファジィの背に冷たいものが走った。
「その紋様、まさか…13年前アーフェス先生に封じ込められたはずの…」
「ほう、俺の事を知っているとは光栄な事だ。さては師匠にでも聞いたかな」
「聞きました。アーフェス先生や他の人達から、邪悪な魔術士「無名」の名は」
 17年前忽然と現われ、ハルン、ドルコ、ハンニルといった沿海地方を中心にその強大な魔法力で暴虐の限りを尽くしたとされる「無名」と呼ばれる魔術士。
 ファジィの師であるアーフェスによって封印されるまでの4年間に為した行為の数々は半ば伝説と化している。
 10数年の歳月を越えて今なお語られるその力にある種の憧れを持ち、魔術士の道を目指すものも少なくない。
 曰く、戒律の厳しさで知られるフェルミ教の信者の町を一夜にして、淫楽と暴力の支配する町へと変えた。
 50人からなるファモナ神教の僧の集団魔法に、たった1人で打ち勝った。
 等々、ファジィはしかし、それらの話をアーフェスから直接聞いてはいない。
 「無名」の名と、昔そういう強い魔術士がいて自分勝手なことばかりしていたが、とうとう封印されてしまった、力を自分の欲望のために使ってはいけない、そのような事をさらりと講義の合間に話してもらっただけである。
 確かに自分の手柄を朗々と語ってみせるような人柄でなかったといえばそうなのだが、他人に「無名」の話をしてくれと請われた時にも「力の使い方を誤った人です。惜しい事です」位のことを言葉少なげに語るだけだった。
 そんな時見せた寂しげな微笑みは、まだ幼かったファジィの記憶にも残っている。
 彼女の脳裏に数瞬アーフェスの思い出がよぎったが、そこへ「無名」の声が響いた。
「ならば話は早い。渡して頂きたいものがある」
「何の話です。見当もつきませんが」
「それはないだろう。恐らく師匠から預かっているのだと思うが、確かにここにあると俺の影が告げている。13年前俺を封じ込めた例の紋章だ」
「…そんな物はこの国にはありません。あなたの勘違いです」
 ファジィは内心ほぞを噛んでいた。確かに「無名」を封じ込める為の紋章は王宮内にある。
 だからといって、今からそれを取りにいくことも、目前の相手の実力を考えると到底出来そうにない。しかも王宮の中で紋章の存在を知っている人間は彼女1人だけである。
 後手に回った事を痛切に感じるファジィであった。
「それはまあいい。後でゆっくり捜そう」
「それからもう一つ、こちらは俺にとってはついでの仕事だが、明日あたりこちらの城にロラン公国のシア姫という方が来られると聞いた」
 やはりシア達の事は知られていた。
 ファジィの思いをよそに更に「無名」が続ける。
「実はその方を自分の国に是非招待したい、とゼクートの王から頼まれている。封印を解いてもらった手前断りきれなくてね。手伝ってもらえるかな」
「両方とも断ります。一刻も早く皆を元に戻してこの国から出ていきなさい」
 毅然とした口調でファジィが言い放つ。
「ふむ、たいしたものだ。この状況下でその態度。さすが彼女の弟子だけのことはある」
 平然と「無名」はつぶやいた。まるで意に介していない。
「もう一度、言います。この妖気を直ちに払って皆を正気に戻しなさい」
 ファジィがひるまずにさらに重ねて言う。
「気に入った。その気合い、いいぞ。どうだ、ひとつ俺のパートナーとならないか」
 彼女の警告をきれいに無視している。
「どうしても聞いてもらえないというのなら…」
 何をいっても無駄と悟ったのか、ファジィは左手のブレスレッドにそっと右手を添えた。
「やるか。面白い、久しぶりの腕試しをしたかったところだ。ここの城の魔術団だけでは歯応えが無さすぎる」
「彼らをどうしたのです」ファジィが問いかける。
「そこさ」
 「無名」が指差したのは部屋の奥、ファジィの後ろ左手にあたる壁だった。
 今まで気付かなかったが、壁に何か描いたような跡がある。
 幼児が殴り描きした稚拙な線画のように見える。
 赤、青、黄の毒々しい原色で描かれた複数の人体のカリカチュアだ。
 だが、それは動いていた。揺らぐ炎に照らされる影絵のように膨張と収縮を繰り返している。デフォルメされた淫らな行為を示す動きだった。
「彼らもあそこで幸福にやってる。あちらでもしかり」
 そういって、ひょいとジーンと王の方にも親指を向ける。2人は先程の続きを再開している。
「どうだい、俺達もひとつ」
 無言でファジィは「無名」の方へと向き直った。
 精神集中のためか目を半分閉じている。
 胸の前で左手首のブレスレッドを右手で軽く押えた。
 途端に部屋に満ちる空気の成分が変化した。
 (人の訪れぬ緑深い森の奥に湧き出る泉の清洌さ)
 (雲海の上に遥かそびえ立ち、頂上に雪を頂く高山の大気の透明さ)
 澄みきった清浄な風が彼女を中心に部屋の四方へと抜けていった。
 「無名」の髪が微風に揺れる。
 こちらは両腕を脇にたらし、まったくの自然体だ。
 視線をファジィの胸元から腰にかけてさまよわせている。
 服の下の身体のラインを目でなぞっているかのようである。
 その口元に浮かぶ笑みに別の成分が混じった。
 邪悪で猥褻、考えていることがそのままにじみ出てきたかのような毒々しさが生じている。
 右手が動いた。
 腰のあたりまで持ち上げると、掌を上に向けて奇怪な印を組む。
 それきりだった。
 2人とも静かに向かい合ったままである。
 何も起きない。
 部屋の中でする物音は王とジーンがたてるあえぎ声だけとなった。
 それも妙に遠く、白々しく響く。
 このまま永劫の刻を経てしまいそうな、先程からまだ1呼吸もしていないような気もする。

 きっかけは何も無かった。
 「無名」の影が背後の壁に伸びた。
 松明の明かりによる頼りない影ではない、黒々とした輪郭のはっきりした影だ。
 窓の無い部屋の中にどこからか、まばゆい光が差し込んでいる。
 松明でも、無論月光でもない。
 黄金色に輝く、まぎれもない昼の太陽の光だ。
 「無名」の仕業ではなかった。
 光はファジィから「無名」の方に向かって差し込んでいる。
「夜中に昼を作り出したか。それからどうする」
 面白そうに「無名」が独りごちた。
 ファジィの右手がブレスレットの上でわずかに動く。
 その動きに合わせてか、雨上がりの雲間から差し込むような光の線が移動していく。
 「無名」の左の肩口から右腰にかけて金色の平面が横切った。
 「無名」の右手がその線をそっと押える。
 手の下の服にどすぐろい滲みが浮き上がってきた。
 血だった。服をそのままに「無名」の胸だけが光が通過した線にそって切り裂かれている。
「なるほど、よく斬れる」
 「無名」が他人事のように言う。
 ファジィは無言のままである。
「だがまだ浅いぞ。手加減したか、優しいな」
 挑発するかのように言う「無名」の、今度は胴を両断する形に右側面から光の線がゆっくりと襲う。
 右の脇腹にかかる寸前、「無名」の左手が動いた。
 まるで光そのものを受け止めるとでもいう風に掌を外側に向ける。
 掌に陽が当たった。
 たちまち血が溢れ出し、床にこぼれ落ちる。
 だが、それに比例し「無名」の笑みが深くなる。
 ファジィがはっと目を見開いた。

 陽光の動きが止まっていた。
 黄金色にきらめいていた光のスペクトルが変化していく。
 「無名」の全身がオレンジ色に輝いた。
 変化の発源点は「無名」の左手だった。
 左掌からしたたる血が、光を夕陽の色に侵食していくのである。
 部屋の内部が緋色に染まった。
 不吉に輝く血色の朱が「無名」のみならず、ファジィの顔を照らし返す。
 その光も輝く橙から暗赤色にと暗く鈍く変化していく。
 「無名」がぐいと左手を突き出した。
 血が前方に飛び散る。
「!!」
 何を感じたか、ファジィが後ろに飛びずさった。
 腰を落とし、前方に右手を添えた左腕を伸ばしている。
 視線は「無名」から、前方の床にと移っていた。
 今まで彼女がいた位置に、すり鉢状の窪みが出来ていた。
 丁度、「無名」の血が落ちた辺りだ。
 石作りの床の筈が、泥のような質感を持つ物質がゆっくりと渦巻いている。

 気が付くと光源の位置が変わっていた。
 赤い錆色の光は窪みの中心部から漏れ出ている。
 漏れ出ているのは明かりだけでは無かった。何か恐ろしく凶々しい気配が蠢いているのが感じ取れる。
 ファジィの全身が総毛立つ。
「コル砂漠の民は、夕陽の沈む刻、沈んでいく陽を呑み込む為、地獄の門が開くと信じているそうだぞ。ならばそいつは地獄の住人かな」
 そう言うと、「無名」はファジィに向かって広げていた左手の五指を、握り締めるように自分の胸の前に持ってきた。
 ファジィの額に一筋汗が流れる。
 「無名」の動きに伴い、孔の底から気配の主がせり上がってくる。
 何か白いものが見えた。
 手だった。それも白く美しい女性の手である。
 均整のとれた指、愛らしい爪、傷ひとつない滑らかな肌、どれひとつとっても見事な、まるで芸術品のような手首が孔の底から這い上がってくる。
 ただし、指の先から掌までの大きさがファジィの身長程もある。
 それは優雅な動きで窪みの淵をぐるりと回ると、ファジィに向かって指先を伸ばしてきた。
 接近するにつれ、異様な音が手の方から聞こえてきた。
 ざわざわ、ぴちぴちと大量の虫が蠢いているような音だ。
 いや音だけではない。肌の表面が波打っているのが見える。
 最初からそうだったのか、穴からせり上がってくる過程で変貌したのか。
 どちらにせよ、いまや目前の手に白く美しい肌は無かった。無数に蠢くぬめぬめと光る白い虫を表面にまとわりつかせた手の骨格がファジィに迫って来る。
 五指が広がった。
 ファジィが大きく息を吸う。
 手が彼女の全身を包みこんだ。
 そのまま指を絞りこむ。
 みかけの華奢さとは裏腹に強大な力が彼女を掴み潰そうとする。
 だがおぞましく波打つその表皮はファジィに触れていなかった。
 彼女の周囲に球状の空間が生じている。
 手の力が強まった。
 手と彼女の間隔は縮まない。代わりにびちゅびちゅびちゅと何かが潰れる音が連続した。
 灰白色の嫌な感じの液体が床に広がる。
 手の表面の虫が潰れ、その体液がファジィの周囲の空間を伝って流れ落ちているのだった。
 握られた手の周囲に灰色の輪が出来る。
「たいしたものだ、だがこれからが本番だぞ」
 「無名」のその言葉が合図だったのか、灰色の液溜りから一斉に無数の白いものが頭をもたげた。手の表面に蠢くのと同じ虫だ。びゅるびゅると手の表面を伸び上がり、ファジィを握りこんだままの手を包みこんでいく。
 すぐにその場に歪つな白い球が完成した。内部の様子は既に見えない。
 ぎゅう、と軋んだ音がした。ファジィを潰そうという力が倍加しているのである。
 白い球体が一回り小さくなった。
 目に見えない力が球体を元の大きさに押し戻す。
 再びびちゅびちゅという音と共に球体の表面に灰色の液が滲んだ。外側を伝わり落ち、周囲の液体の輪を広げる。そこから、先と同様に白い虫が出現し、球体を潰す力を更に増す。
 球体は脹らんだり縮んだりを繰り返しながら、しかし確実にその径を小さくしていく。
 結界を物理的障壁まで高めたまま維持する技は施術者の体力・精神力を著しく消耗する。
 いかにファジィといえど、カタストロフィまでは時間の問題だった。
 「無名」が球体に向かって呼び掛けた。
「おまえの師匠はそいつを破るのに外からの助けを必要としたぞ。弟子独りではやはり荷が重いか」
 と、その声に呼応するかの様に球体を形造る力の向きが変化した。力が内部に向けて凝縮していく。
 それに伴い、球の直径もいままでとは比べものにならないほどの速度で小さくなっていく。
 収縮が止まった。
 内部は既にファジィの身長ぎりぎりの空間しか残されていないはずである。
 数瞬の間があく。
「っやぁあああああ!!!」
 裂帛の気合いが響いた。
 球体が裂けた。
 部屋の中が白い光で満ちる。
 音にならない、肌でも感じられない衝撃が部屋の内部を揺さぶりあげる。
 明かりが暗転した。

 部屋の中に松明の明かりが戻ってきた。
 床は元通り、今の窪みの痕跡すら残っていない。
 「無名」は最初と同じ自然体、ファジィは片膝をつき、肩で息をついている。
「本気でやらなきゃ俺は倒せんぞ」
 「無名」が嘲笑う。声にはいささかのダメージも感じられない。
 (力量を量られている)ファジィは一瞬躊躇した。
 すぐに、決断する。
 (次の一撃に全力をかける)
 いったん俯きかけた視線を、きっと「無名」へと向けた。
 その瞳の中に怖れの色は見えない。
 大きく息をつくと、静かに立ち上がった。
 左手首のブレスレッドを中心に複雑な印を組み立てていく。
 いましがた「無名」の術を破った以上の力が彼女に集中していく。
「どうした?次はこちらから仕掛けようか」
 それを承知の上か、「無名」が重ねた。
「…集…」
 ファジィが呟いた。同時に、部屋の中が陽が陰ったように暗くなる。
「言っておくが今度は俺も障壁を張ってある。簡単にはいかんぞ」
 いちいち茶化しをいれる「無名」の口元からは、しかし、言葉とは裏腹に急速に笑みが失われていく。
 壁の松明の火が一斉に細くなった。薄暗くなった部屋の中でファジィの身体の輪郭がぽうっと光を放ち始める。
 ファジィの手の動きが止まった。印が完成したのだ。
 同時にその周囲から光がすっと消えた。
 
 一呼吸おいて「無名」の前方で火花が散った。
 何かが障壁にぶつかって弾かれたような感じだった。
 「無名」の唇に微笑が戻る。
 その時だった。
 「無名」の肩でぼっと音がした。首を回してそちらを見る。
 右肩に拳大の穴が空いていた。
 血が吹き出す。
 続いて脚から同じ音が鈍く響く。今度はやや小さめの穴が左腿に空いているのが見える。
 音はすぐに身体中から響き始めた。最初は断続的だった音が、まるでどしゃ降りの雨にさらされているかのような連続音になっている。
 穴の原因は光の球だった。ファジィの全身から離れた大小無数の光の球が「無名」の周囲を旋回しながらその手足を胴を貫通していく。
 「無名」の長身がよろめいた。
 小指の先ほどの球体がその身体に当たり損ね、床をかすめる。
 その部分の床が消滅していた。
 かすめただけなのに消滅の範囲は「無名」の身長ほどの直径にも及んでいる。
 淡く光る可憐な球体は恐ろしいまでに凝縮された「光」の塊りだった。
 先ほどファジィが張ったものに勝るとも劣らない「無名」の障壁を、それはやすやすと打ち破りその身体を通り抜けていく。
 いまや、身体中がボロ布のように穴だらけとなり、血が滝のように床を打つ「無名」だが、それでも彼は立っていた。
 ファジィの顔に焦りが浮く。この術をこれ以上の時間維持するのは不可能だ。
 一気に片をつけるしかない。
 印に力を込める。
 すべての球体が一斉に「無名」に殺到した。
「うおおおおぉっ」
 「無名」の叫びが部屋に木霊した。
 今度は光の球は貫通しなかった。
 すべてが「無名」の体内に留まっている。
 いや、貫通しないのではなく、出来ないのだ。
 傷口から溢れる血が生き物のようにからみつき、抜けようとする光球を押さえつける。
 それだけでは無い、徐々にそれぞれの球の光度が落ちつつあった。
 替わりに「無名」の顔の紋様が光り始める。
 顔の左半分の紋様が稲妻のように光った。
 すべての光球は光を失い、「無名」の体内に消えていった。

 ファジィはただ立ち尽くしていた。今の攻撃で倒せなかった以上、もはや彼女に打つ手は残っていない。力もほとんど尽かい果たし、顔色は紙のように白い。
 「無名」が口を開く。
「…見事だ」
 血まみれで立つ「無名」の口元に浮かぶ微笑みはしかし、先程までの邪悪さのかけらもない清涼さをたたえている。
 ファジィはなぜか、幼いころ初めての魔法に成功して、アーフェスに誉められた時の彼女の笑顔を思い出していた。

 次の瞬間、「無名」から凄まじい力が放たれた。ファジィは咄嗟に両腕を交叉させて身体の前面をカバーしたが、もはや障壁をはる力も残っておらず、そのままパワーに押されて両足が宙に浮く。
 予備動作も見えない、呪文の詠唱も聞こえなかったが、吹き飛ばされた視界の隅で「無名」の片手がこちらに向けて上がっているのが見えた。
 そのまま壁に激突するかにも思われたが、身体は空中に浮いたまま途中で停止した。
 姿勢を整えようともがいたところに、ぽつぽつと手足に当たるものがある。はっとして見ると鮮やかな朱が身体中に付着している。
 先程と同様に伸ばした「無名」の手から飛び散った血だった。
 腕が交差したまま抵抗しようもない力でぐんと上に引かれる。脚も同じく下に引かれた。
 力を込めて抵抗しようとするが、身体から力が抜けつつある。原因は「無名」の血だった。
 腕、脚、胴に飛び散った血がある種の紋様を描いており、それが彼女を無力化しつつあるのだ。
 完全にファジィの動きが止まった。
 両腕は頭上で交差し、丁度手首のところでロープに縛られ釣下げられた格好のまま全身が水平になったような姿勢だ。
「…くっ」
 ファジィはなんとか身体の自由を取り戻そうと空中でもがいたが、痺れた五体はわずかに動いたきりだ。
 「無名」は彼女の必死の表情を面白そうに見ていたが、ふと忘れ物に気付いたかのように視線を部屋の隅に向けた。傷はほとんど治癒し、服もいつのまにか元どおりとなっている。
「「狂人」か、「詩人」と「避雷針売り」はどうした。まさかこんな小さな城下町のひとつ結界に収めるのにまだ手間取ってるんじゃなかろうな」
 あからさまな感情をこめた言葉だった。
 「狂人」と呼ばれた男が薄闇の中からぎこちなく歩み出てくる。
 ごく普通の軽装の傭兵のような格好をしている。
 ただのひょろりとした中年男にも見えるが、雰囲気が尋常ではなかった。
 目の焦点がこの場にない、遥か遠くに合っている。
 ただの水晶が埋まっているだけではないかと思わせる乾いた無表情な目だった。
「作業はじき終わる」
 目の前の壁に書いてある台詞を棒読みしているような口調と表情だ。
「君は君の仕事を果たしたまえ。我々は我が王の御言葉のみに従う。君と我等の立場は同等だ。どちらがどちらに従うということはない」
 砂時計の砂が落ちる音を人間の言葉に翻訳したらこうなるのかもしれない。
「ふん、相変わらずだな。まるで枯れ木相手に話してるみたいだぞ」
 「狂人」は黙ってファジィの方に顔を向けた。
 顔は向いたが虚ろな視線は相変わらずだ。ファジィを遥かに通り越している。
「シア姫の幼な馴染みを使うか。良いことだが、やり方が派手すぎるな。今の騒ぎ、少し心得のあるものなら遥か遠くからでも感じ取れる程の力が感じられたぞ」
「ほっとけ、こいつは俺の趣味だ。おまえらの為じゃない」
「それもよかろう。幸い、今の事に関しては我々の結界がほとんど張り終わったところで外部には漏れなかったようだしな。ただし、これまでの君のやり方を見ていると気になる点がある」
「言ってみろ」
「くれぐれもシア姫の御身体には傷などつけぬようにとの我が王の仰せ、それはこれから君がその娘にしようとしているような事も含まれている。くれぐれも忘れぬようにな」
「せいぜい気をつけよう」
「もうひとつ、シア姫と共にいるという傭兵、かなりやると聞いた。そちらにも気をつけたまえ」
「今度のは誰の御言葉だ?男の始末なぞ貴様等にまかせるさ。勝手にやるがいい」
「………」
 伝えたいことはすべて言い終えたのか、「狂人」は回れ右をして部屋の出口へと歩きだした。
「そんなおまえでも、魔龍将軍とやらの地位は欲しいか」
 部屋から出ていく「狂人」の方には目もくれず「無名」が言い放つ。
「3人1組で一人前の貴様らが成り上がれるチャンスだ。せいぜい大事に使えよ」
 音も立てずに扉が閉じた。

 「無名」はしげしげとファジィの腰のあたりを眺めまわしている。
 先程の視線とは異なり、いやらしいというよりは、学者が研究対象を観察している感がある。
「…あれを試してみるか…」
 口の中で何か言うと、彼女の頭の方にまわってきた。
「どうだい、気分は。ま、あまり愉快そうには見えんがな。なに、すぐに気持ち良くなるさ」
 黙って唇を噛んだままのファジィの視線が「無名」の動きを追いかける。
 「無名」はおもむろに懐に手をやると何かを取り出した。親指と人差指のあいだにつまんでいる。
 やや赤みがかった透明な外殻はカットされた宝石のようにも見えるが、中心部でなにか極彩色の物体が絶えず蠢いているのが判る。
「そ、それは」
 ファジィの顔色が変わる。
「そうだ。「月光蟲」、「淫魔の使い」ともいう。こいつに憑かれるとえらく気持ちいいぞ。自分の気持ちに素直になれる」
「しかもこいつは俺が直々に手を加えた特別製だ。ひとつ進呈しよう」
 すっと腰をかがめる。
 そのまま右手を床に映ったファジィの影に差し込んだ。
 腰に相当する部分である。
 何の抵抗も無く、ずぶりと手首まで影に沈む。
「はぅっ!」
 空中のファジィの身体が震えた。
 尻と前に同時に熱い塊を突っ込まれたような異様な感覚が彼女を襲っていた。
 一気に腰から脊柱にかけての体温が高くなる。
「これだけでよがってもらっては困るぞ。ほらほら」
 「無名」が影に差し込んだ手を何かを探るようにぐりぐりと動かす。
 その度に直腸に、子宮に、いや、内臓の全てが性感帯と化したのではないかと思えるような快感が走る。
 ファジィは身をよじりつつも、唇を噛みしめ耐えた。
 影から手が抜かれる。
 思わず息をついた。
 その顔を見おろしながら「無名」が嘲笑う。
「これからが本番だ、すぐに蟲が孵化する。じきにもっと気持ち良くなるぞ」
 その言葉が終わるか終わらぬかの内に、彼女の身体に脈動が走った。
 身体の内部から全身に広がるその波動は湯浴みの時のような心地よさを伴っていた。
 全身の疲労感がすっと抜けていく。
 五体の痺れの感覚さえ今では不快なものとは縁遠い。
 身体をこの感覚にすべて委ねてしまえたらどんなに解放感があるだろう、そんな衝動が沸き上がってくる。
 「無名」は床上のファジィの影を見ていた。
 床に映る影の輪郭が蠕動している。それは彼女の全身を這いずり回る無数の蟲を想像させた。
「発育は順調だ。こんなに相性がいい組み合わせも珍しいぞ」
 温かさが徐々に火照りに変化しつつあった。
 影の動きが実体に影響するのかファジィの腰も少しずつ淫らな動きでうねり始めている。
 すでに火照りは腰を中心に全身に広がっていた。
 呼吸のために吐き出す息もせつなく熱い。
 額には汗が浮き、それがつと一筋流れ落ちる。
「暑いだろう。これで少しは涼しくなる」
 「無名」が手を振るとファジィの服がパサリと床に落ちた。
 上を向いていても形が崩れない引き締まった乳房、やや細めの少年のような臀部、股間の翳りがあらわになる。
 上気した肌に汗がびっしりと浮き、松明の明かりを怪しく反射する。
 無意識に身体をよじる動きが徐々に大きくなってきた。
 突然ビクンと大きく痙攣する。「無名」の指が胸の先に触れていた。
 指の腹で乳首を擦られると、その刺激だけでいきそうになる。
「まだ耐えるか、たいした精神力だ」
 指先はそのまま肌を離れずに下半身の方へと移動していく。
「こんなになってまで我慢するのは、体に良くないぞ」
 からかうように言う「無名」の手がそっと彼女の中心を刺激する。
 たまらず、声がでた。
「…あぁ…」
 限界だった。もはや身体のほうは完全に反応している。
 股間からあふれる熱い液体は尻の割れ目をつたいながれ、床にしたたりおちている。
 赤く染まった太腿は無意識のうちに擦り合わされ、腰が上下に動く。
「そろそろだな」
 「無名」が数歩後に下がる。
 朦朧とした意識のなかでファジィは自身の限界を感じていた。あともう僅かな間しかこの快楽には耐えられない。一度この快感に身をまかせてしまえば、彼女は完全に「月光蟲」に憑かれてしまうだろう。そうなれば後は「無名」の思いのままだ。
 その前に残りの力を全部注ぎこんでもしなければならない事があった。
「…」
 微かに唇が動いた。「無名」がそれに気付く。
「まだ何か…」
 言いかけた矢先に空中に浮いたままのファジィの身体が一瞬ぼうと光った。
 光は束の間彼女の全身にまとわりついていたがすぐに消えた。
 「無名」は再び彼女に近づくと床の影に手をかざした。
「蟲に異常はないか…まあいいだろう。何をしたかは後でゆっくり聞くさ」
 そのまま元の位置に戻る。
 いまや蟲の生育段階は最終過程を迎えようとしている。
 そして最後の力を振り絞った後のファジィに抵抗力はほとんど無くなっていた。
 影の蠕動が一気に大きくなる。
 快感が稲妻のように全身を走った。
「ああぁぁぁっ!」
 ファジィは目を見開いて、歓喜の声をあげた。
 意識にとてつもなく淫猥なものが侵入してくる。水に染料を落としたようにそれは彼女自身の心と同化していった。
 同時に床に映る影が変形し始める。
 まず、背中に相当する部分が膨らみ、羽根らしき形状になった。
 やや遅れて本物の彼女の背中からメリメリとコウモリ状の羽根がせりだす。
 声も出ないほどの快楽にファジィはあえいだ。
 床上の影に続いて次々と肉体が変容していく。
 尻のすぐ上から尻尾らしきものがくねくねと伸びた。
 口の端から唾液があふれ、こぼれおちる。
 耳がとがり、目元はきつくなり、しかし媚を売るような表情がうかびあがる。
「…ひ、ぃぃ…」
 背中が反り返る。
 全身が痙攣に襲われていた。呼吸も途切れ途切れとなっている。
「普通は皆ここで死ぬ。少々きついかね」
 「無名」が返答を期待するでもないような口調で呟いた。
 そのままの状態がしばらく続く。
 やがて痙攣が徐々におさまってきた。
 身体の硬直が解けてくる。
 目に焦点が戻ってきた。
 まだ断続的に震えが来て、呼吸も荒いが、息も絶え絶えといった風でもない。
「ほう、持ちこたえたか。初めての成功例だ、良かったな」
 そう呼び掛ける「無名」にファジィの視線が向いた。
 瞳は潤みきり、欲情に煙っている。
 うすく開いた唇を舌で湿す仕草は男を誘う娼婦のそれである。
 「無名」が満足げに指をならした。
 空中に浮いたファジィの身体があぐらをかくような姿勢ですうと床に降りる。
 手足の自由は効くようになったらしく両手を共に股間にあてがっている。
 恍惚とした表情で指先を動かすファジィの前に「無名」がついと出た。
「どうだい、お姫様。気分は」
「と、とても…あぁ」
「私のパートナーとして協力してくれる気になったかね。」
 その顔を見上げながらうっとりとした口調でファジィは言った。
「…き、協力します。…だから、お願い…」
 そのままにじりよるファジィを手で制して「無名」が言う。
「おっと、その前にひとつ聞いておきたいことがある。我が封印の紋章の有り場所だ。あれを始末せんことにはゆっくり楽しむ気分にもなれない。どこにある」
 その質問に対し、ファジィは夢みるような表情のまま、何の事だか判らないといった様子を示した。
 最初眉をひそめた「無名」だが、すぐに何かに気付いたような顔をして、両手をファジィの頭部に伸ばした。
「失礼」
 軽く彼女の頭を押さえて目を閉じる。
 すぐに開いた。
「なるほど、さっきのあれは自らの記憶を消去する呪文か。さすがにただでは転ばない。さてどうするか」
 そのまましばらく何事か思案していたが、ややあって、人差し指でファジィの顎を軽く上向かせた。
「残っている記憶からすると紋章の有り場所を知っているのは、あとは使い魔の猫だけか」
 尋ねるように言う。
「テブクロなら、シア達のところに…危険を知らせるようにと…」
 ファジィが答えた。
「なるほど…だが「狂人」達の結界から何かが抜け出したような形跡もいまのところは無しだ。となると、これは明日のシア姫御一行の到着を待つのが一番の近道かな」
「ええ、テブクロは必ずシアのところに行くはずです。それより、早く…」
 ファジィがねだるように腰を振る。
「しょうがない、それまで少しは楽しませてもらうか」
 「無名」は右手を前にまわすと、どういう造りの服なのかそのまま自らの陽根を掴み出した。
 服の間から隆々と覗くそれに吸い付けられるようにファジィは「無名」の股間へと顔を近づけていった。
「すてき…あぁうれしい…」
 やがて何かをしゃぶるような音と、ファジィの呻き声が王の間に満ちていった。


「おい、いい加減に寝とけよ。明日にゃ城に着くからって、いつまでもはしゃいでんじゃないぞ。」
 ファジィの事を思い出してから、色々な思い出が蘇ってきて目が冴えて眠れなくなってしまい、横にはなったものの何度も寝返りをうっていたシアの耳にケンの声が響いた。
「はぁい…」
 素直に返事はしたが、当分寝付かれそうにないなとシアは自分でも思っていた。
 こんな気分は随分久しぶりのような気がする。
(早く明日になればいいのに)
 月はまだ夜の中天にあり、森の木々の葉からもれる光りがシアとケンを照らしている。夜明けの訪れまではまだしばらくはありそうだった。
<次章後編>



[次章予告]
 邪悪な魔術士に操られたファジィが、シアとケンを悪の結界に囲まれたディモール王宮に誘いこむ。
 彼女達に襲いかかる闇の妖人3人衆。
 超伝奇バイオレンスか、正統派剣と魔法物か、はたまた少年ジャンプか。
 ディモールの王宮に、城下に、壮絶な魔法戦闘が繰り広げられる(笑)。
 はたして2人は「無名」に、3人衆に勝てるのか。
 本当にこの話は前後編で終わるのか。
 シリーズ最大の引きで続く次章「ディモール妖変(後編)」を剋目して待て。

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