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6章 人形船

 マイン共和国。
 王政を施く国家の多い中、代議員による民主制度を200年に渡り存続させてきた国家である。
 中央集権による強国のひしめく中で、マインが生き延びて来れたのは、商業、特にカルゴ、スラーベ、リーゾの三港を中心に栄える東方貿易による莫大な富と、その利権を他国から守ろうとする商人=代議員の団結力による。
 彼らはいつもは互いに争い、いがみ合うが、自分たちの利権が犯されんとするとたちまち一致団結して敵と当たる。その莫大な富による10数万の傭兵軍と巧みな謀略、さらに西部に広がる豊饒なマライ平野がマインを沿海州国家の強国たらしめている。
 首都ラーマインは、3港の勢力の均衡を保つため、そしてマインの食料庫であるマライ平野の防衛のため、マライ平野のほぼ中央に造られていた。
 シアとケンはマインに入ると首都ラーマインへの道を右に折れ、東へと向かっていた。

「あの…」
 シアが遠慮がちに話しかけた。
「ん?」
 先を進むケンが馬の手綱を絞って馬を止める。
「何だシア」
 上天気も手伝って、珍しく機嫌がいい。
「この道はラーマインには行かないと思うのですけど?」
「ああ、そのことか。ラーマインには行かないよ、スラーベが目的地だ」
「スラーベ?」
「三大港の真ん中の奴さ。あそこは国境に近いカルゴやリーゾに比べると警備が甘いからな。仕事がし易い」
「仕事って…まさか泥棒!?」
「それ以外に何がある。俺たちの商売は盗賊だってこと忘れたか?」
「あ、あの、私も?」
 すでに”俺たち”になってるのが恐いと思うシアだった。
「当り前。働かざる者喰うべからず。俺はお前の護衛は引き受けたが、生活の面倒までは引き受けてないからな。まあ、見張りぐらいは出来るだろう?」
 さすがにケンはシアと一緒に忍び込もうとは思っていない。商人の館は下手な城より遥かに警備は厳しいし、そのために雇われている連中のガラが悪い。気付かれたらタダでは済まない。素人が手を出せるような場所ではないのだ。
「金銀財宝、何でもあるんだ。アクリスのダイヤ、カルンの金細工、ギムの銀の食器、ハルンの火炎石、カーリースレンの水宝石、東方大陸の見たこともないようなお宝…ああ早く拝みたいもんだ」
 趣味が偏ってる気がする。シアはそう思う。私なら…、と考えてハッと気がついた。この職業に抵抗感が薄れてきている。これはいけない!
「しばらくはお金に不自由はないはずです。やっぱり盗みは良くないと思うのですが」
「…まずはいちばん羽振りのいい奴の情報を仕込んで下見といくか。逃げる用意もしておかないとな」
 自分の言うことなど、はなから無視しているケンにムッとするシア。
「ケン、本当の目的は何なのですか?」
「本当の?」
 普段は滅多に動揺を見せないケンの眉がピクリと動いた。
「私…思うんです。確かにケンは盗賊だけど、でも何か目的を持ってやってらっしゃるんだって」
 すっ、するどい。
 思わずドキリとするケン。
 普段なら何気なくかわしてしまうのだが、シアの深く澄んだ碧い瞳に見つめられると思うように嘘がつけなくなる。
「馬鹿だな。他に何の目的があるって言うんだ」
「…そう?」
 しばらくその瞳でケンを見つめていたシアは、思いっきり疑問符のついた返事をするとぷいと顔を背けてしまった。
(そうよね、私たちって所詮他人同士ですものね)
 シアは少し悲しかった。泥棒さんだけはいやだけど、何でも話し合える、助け合える、そんな関係になりたいといつも努力してきたのに。いつも肝心なところではぐらかされてしまう。ケンとの距離が縮まらない、そんな想いが悲しい。
 そんなシアを見ると、ケンはいつも自己嫌悪に陥ってしまう。
(ロラン王よ、あんたの娘は優しすぎる、か弱すぎる、そして頭が良すぎる。あんたとの約束は守りたいが…俺の行こうとする道にはあまりにも似合わないよ。いつかは別れなきゃ…)
 相変わらず噛み合わないそれぞれの想いを胸に、二人は一路スラーベへと向かうのだった。

 潮の香りが微かに漂う港近くに立つその酒場は、航海帰りの船乗りたちを迎えて大層賑わっていた。
 4階建ての内、上3階は宿になっていて海の荒くれ男たちが遠慮無しに飲んだくれられるようになっている。そこは船乗りは勿論、旅の疲れを癒そうとする旅人や吟遊詩人、さほど裕福ではない行商人、傭兵、その他素性の知れない者まで、雑多な人々の憩いの場となっていた。
 日もとっぷりと暮れると、したたか酔った男どものわめき声や賑やかに囃し立てる遊女たちの声がさほど広くはない酒場の中に響きわたっていた。
 そんな酒場の隅の席で、ケンとシアは遅い夕食を取っていた。
 幾つもの修羅場をくぐってきているケンは周囲の雰囲気と同化しているが、シアの方はそうはいかず、すっぽりと頭までマントを被って賑やかな方に背を向けて黙々とあまり上等とは言えない食事を口に運んでいた。
 ケンの方はといえば、乱暴に足をテーブルの上に投げ出し、目にかかるぼさぼさの前髪をけだるげに左手でかきあげながら、酒の杯を重ねていく。
 グラスが空になると、カウンタに立つ店の主人に合図を送り空のグラスを満たしてもらっていたが、そのうち面倒になりボトルごと買取り、自分で注いで飲むようになった。
 酒場の主人は二人を見たときから嫌な予感がしていた。
(騒ぎにならなきゃいいが…)
 傭兵か何からしい背の高い男の方は、身なりは薄汚れているがよく見るとなかなかの美形だった。赤味がかった栗色の髪は自分で切ったのだろう。邪魔にならないように乱暴に首のあたりで切られていた。切れ長の目はまるで女性のように涼し気で、瞳は少しくすんだ朱。戦士としてはほっそりとした顔立ちに、灰色の戦士服を着込んでいる。所々返り血らしいどす黒い染みがついて、かなり汚れていた。
 マントで顔を隠した連れの方はちらりと顔を見ただけだがいかにも上流階級の娘といった感じの美しい少女だ。はらりとマントからこぼれる髪は薄暗いこの部屋では漆黒とも見える、しっとりとした暗い青。瞳は一度見たら忘れられないような、深い碧。まだ大人になりきらない少女の愛らしい唇。
 陸に揚がったばかりの男たちははっきり言って性欲の塊である。少女は勿論、男と言えどもあれだけの美形となると、何かきっかけがあればたちまち荒くれ男どもの餌食だ。
 案の定酔っぱらった男の一人が、足をもつらせて少女にぶつかってしまった。
「痛い!」
 思わず声をあげたシア。
 場違いの可愛らしい声に一瞬場がシーンとなった。
 キョトンとした表情を浮かべた男は、好色気な笑みを浮かべると少女のマントの下を覗こうとした。
 不精髭を生やした酒臭い顔が近づくと、少女はマントの端を固く握りしめてうつむく。
「へへ、そういやがるなよ」
 船乗りらしいその男は頭をごつんとテーブルにぶつけながら、しつこく少女の顔を覗こうとした。
 その時、男の目の前にどんと音を立てて足が投げ出された。
「なにしやがる!」
 そんな男を無視するようにグラスの酒を空けたケンは、ボトルの底に残ったほんの僅かな酒をグラスに注ぐ。
 あからさまに馬鹿にされた男は、少しふらつきながらケンの胸ぐらを掴もうとケンに近づいた。
「うっ…」
 いつの間に抜いたのか、ケンは男の首元に剣先を突きつけた。
「俺たちにかまうな。いいな」
「ひっ!そ、そんな目でにらむなよ」
 ケンが殺気たっぷりの視線をおくると、男はすごすごと自分の席へと戻って行った。
 そんな様子をカウンタに座って見ていた男が、店の主人に聞いた。
「あの二人は何者だい」
「さあ、初めての客ですよ。わたしゃ初めっから心配してたんですよ、ちらっと見たんですが連れの娘さんはかなりの身分の方みたいですし」
「ふーん」
 確かに場末の酒場にはふさわしくないようだ。
「あっ、今度は違う奴らが行きやがった。盛んに剣の自慢話をしてた連中だけど…」
「店を壊されねえといいがな」
 男はふっと鼻で笑って主人に酒のお代わりを頼んだ。
(ちっ、やっぱりまずったかな。情報を集めるにゃもってこいだと思ったんだが)
 シアは部屋において来るんだったと後悔しているケンは、酒の残り少なくなったグラスを軽く振りながら、もう一杯飲もうか飲むまいかと迷っているところだった。
「にいさん、いい腕してるじゃねえか。どうだい、俺たちと飲まないか」
 船員らしき男と、その船に雇われているらしい傭兵たちが4人、ケンとシアのテーブルを囲んだ。
「かまうなって言っただろう」
 気だるげにケンが答えた。
「まあそう言わずさ」
 リーダー格の男がシアの肩を掴もうとする。ケンは無用の刺激を与えないように、静かに席を立った。
 男たちは待ってましたとばかり剣を抜く。
 シアは慌ててケンの後ろに隠れる。
 ケンは相変わらずやる気の無さそうな表情で、突っ立っていた。
 4人が左右に別れ、まさに切りかかろうとした時…
「いい加減にしねえか!」
 酒場中に響きわたる声で、先ほどのカウンタの男が怒鳴った。
「…アイザルさん」
「…アイザルだ」
 しんとなった酒場のあちこちから、やがてひそひそと声がした。
「ア、アイザルさん」
 かなりの有名人らしい。ケンと相対していた男がうろたえ気味に返事をした。
「たった一人に4人たあ大人気ねえんじゃねえか?そっちのにいさんに助太刀してもいいんだぜ」
「い、いえアイザルさん」
「みんな気持ちよく飲んでるんだ。少しは大人しくできねえのか、ん?」
 その男が凄みを効かすと、男たちの酔いは一瞬でさめたようだ。
 彼らは慌てて剣を納めると、逃げるように酒場から消え去る。
 カウンタの席から立ったその男の一言で、たちまち騒ぎは治まってしまった。酒場の中は何事もなかったかのように、いつもの賑わいを取り戻した。
「おい、そこの。いつまでそうしてるんだ。まあこっちにきて飲めよ」
 事の成りゆきに唖然とするシアと相変わらず平静そのもののケンに、アイザルと呼ばれた男が声をかけた。
 大柄だが、がっしりと引き締まった身体をしている。申し訳程度に身体を覆っているシャツから剥き出しの太い両腕や、胸板は赤黒く焼けていた。典型的な船乗りと言う所か。
 美男子というわけではないが、どこかしら見た者を引きつける魅力がある顔立ちをしている。彫りの深い精悍な顔だ。海を写しているような青い瞳は優しげに輝いている。
 日に焼けただけではない。元々そういう色なのだろう。ケンの少しくすんだ朱色とは違う、鮮やかな赤い髪が印象的な男だった。
 値踏みをするようにアイザルという男を見ていたケンの袖を、シアが軽く引っ張った。
「どうしましょう?」
 好奇心一杯の瞳でケンの様子を窺うシアを見てケンは軽くため息を突くと、肩をすくめてアイザルの横に腰掛けた。シアもケンの横に座る。
「すまない、助かった」
 主人に酒を頼むと、ケンはアイザルに素直に礼を言った。
「いやいや、俺が助けたのはおまえらにからんだ奴らの方だ。あのままだと二人は斬られてたからな」
(ほう…)人を見る目も確からしい。
「あいつらはあんたの知り合いかい」
「まあな。俺の船団の乗組員だ」
「あんた、なかなかの有名人みたいだな。いったい何者なんだ?」
「人にものを訊ねるときは自分から名乗れって親から教わらなかったのか」
 ケンの問いに、空のグラスを振ってアイザルは笑った。その笑みはシアにはひどく魅力的に見えた。
「違いない、俺はケン」
「私はシアと申します」
 ずうっと被っていたマントのフードを脱ぐと、シアはアイザルに軽く会釈した。さらりと深青の髪がマントの上を流れた。
(なるほど、こいつあどっちもすげえ美形だ)
 アイザルは軽くウインクを返す。
「ど、ども…」
 あまりそういう返礼に慣れていないシアは、恥ずかしげにケンの後ろに隠れた。
 そのやり取りに、少し不機嫌そうな顔で主人に酒を頼むと、ケンは二人の自己紹介をした。もちろんほとんどでっち上げの作り話だったが。
「ほう、ケンにシアか。いい名前だ。特にシアはどっかのお姫様みてえだがな」
 真剣な眼差しで見られたシアは肩をビクリとさせてしまう。
「スーオンの商人の息子とその幼なじみねえ…」
 皮肉たっぷりのアイザルの視線に、ケンは思わず心の中で舌打ちする。
(こりゃーしっかり見抜かれとるなあ)
「で、あんたは?」
「俺か?俺はアイザル・キャズバードだ。五隻ほどの船団を仕切ってる船乗りさ」
「仕切ってるってことはあんたも商人なんだ」
「まあな。だが金勘定は性にあわんから部下に任せてる」
「よっぽどやり手らしいな。酒場の連中の反応からすると」
「それほどでも、な」
 少し自慢気な表情を浮かべるアイザルを見て、ケンは苦笑いを浮かべる。どうやら裏表の無い性格のようだ。
「ところで話は変わるが、このスラーベで力のある商人と言ったら誰だろう。商売上挨拶だけでもしておきたいんだが」
「スラーベでか。そうだな…一番はウインスローかな。そうだろ、主人」
 アイザルは店の主人に聞いた。
「そうですねえ、やはりそうでしょう」
 アイザルに相づちを打つ。
「奴がここじゃ一番だな。なにせ持ち船は二百隻を越えるっていう話だ」
「二百隻か。そりゃ凄いな」
「そういうこと。奴はマイン共和評議会の議長もやってる。で後はライヒ、ダル、マグノリア、オロあたりが続くって感じかな。もっともウインスローに比べるとどんぐりの背比べだが。そうそう最近伸してきたのがいるぜ。たしかシェスレンとかいう女商人だ。美人のやり手だが、裏ではかなり汚いことをしているって噂も聞く」
「ふーん、するとそのシェスレンが今はナンバー2か」
「そこまではまだいってないが、あと一年もすればそうなるかもな。そうそう、シェスレンで思い出したが、奴は変な趣味を持っていてな」
「変な趣味?」
「伝説の秘宝を捜してるらしい。聞いた事があるだろう、三種の神器の伝説を」
「三つ揃えばこの大陸を支配できるほどの力を得られるという、あの?俺はおとぎ話と思ってたぜ」
 さりげなく無関心を装う。おいしい話がいきなり聞けそうだ。
「俺もお袋が子供の頃に話してくれたのを覚えてるっきりだったがな。何でも最近それらしい一つを手に入れたって話だ」
「本当にあったのかあ、そんなお宝が…」
 喉から手の出るような情報を聞かされて、ケンはいま自分がどんな顔をしているのか気になった。こういう場所で相手に自分の手の内を知られるのは後々面倒の元である。
「こんな話にゃ興味はないかな…」
 にやりと笑う彼の視線を追ったケンは次の瞬間、思わず頭を抱えそうになった。
 彼の視線の先で、シアが思いっきり真剣な表情で首を横に振っていた。
「どうだい、続きは俺の屋敷でってえのは。勿論、お代はいらねえぜ」
「あんたのおごりは高くつきそうな気がする。遠慮しとくよ」
 3人分の代金を放り投げると、意外そうな顔をするアイザルをカウンタに残して、ケンはやっぱり意外そうな顔のシアを引きずるようにして部屋へと戻るのだった。

 次の朝、シアとケンはさっそくシェスレンという女商人の館を下見に出かけた。
 いわゆる高級住宅地だから、二人とも怪しまれない程度にさっぱりとした服装に着替えている。
 シェスレンの館は、スラーベの南側の小高い丘の上にあった。
 緩やかな坂を登りきると、真新しい白壁に囲まれた大きな館が見えてくる。穏やかな日差しが館を覆い隠すように植えられた木々の間からこぼれる。波止場の喧噪がまるで嘘のように静まり返った場所だった。
「静かなところですね」
 ここだけはゆっくりと時間が流れているような、そんな錯覚を覚える。
「ああ、ここはシェスレンに乗っ取られた商人の館を彼女が立て直したそうだ。波止場から少し遠いから、もっぱら彼女の住居専用らしい」
「うわー、海がきれい…」
 はしゃぐシアの声が背中からする。
「人の話はちゃんと聞け…」
 振り向いて叱りかけたケンの目に、キラキラとした光が差し込む。
 朝の陽光が照り返す穏やかな海。
 そう、彼女達の場所からはスラーベの街と、街に面した海が隅々まで見えた。
「確かに…きれいだ」
 思わずケンも、この広大な光景に見とれた。
 今まで歩いてきた修羅場を忘れさせてくれくれるような、そんな爽やかで雄大な光景。
 しばし立ち尽くす二人だった。

 突然門が開き、武装した男達が道に溢れた。
 ぼうっと佇むシアの襟元を掴むと、ケンは道の端に避けた。
 数十人の兵が道を固める。シア達を逢い引きするただの恋人同士と思ったのだろう、彼らはシア達には一瞥をくれただけでさして気には止めなかった。
 やがて館から、前後を騎兵に守られた馬車が出てきた。馬車の窓には黒いカーテンが掛かっていて中の様子はわからない。
「どうやら主のお出ましか」
 数十騎にも及ぶ護衛を従えて馬車は進んだ。その物々しさは、今このスラーベでこの館の主のおかれている立場を象徴しているようだ。
 だが、馬車がシア達の前にさしかかると…
「止めて」
 馬車の中から若い女の声がした。
 御者が慌てて馬を止める。
馬車の窓を閉ざしていた黒いカーテンがすーっと開くと、美しい女の顔が覗いた。歳は20代後半だろうか、少し暗いブロンドの長い髪と白い肌が印象的な美女だ。噂どうりの、しかしこの街で1、2を争うという大商人には若すぎる女だった。
 その女主人は、物憂げな眼差しをシアとケンに向けると、じっと二人を見つめるのだった。
「私たちの事ばれちゃったのでしょうか」
 シアはケンの後ろに隠れるようにして囁いた。
「ばーか、初めてこの土地に来た俺達のことが分かるわけないだろう」
 シアにそう答えながらケンは少々不安になっている。(昨日のあの男、あるいはあの酒場に居合わせた奴の中にシェスレンの間者がいたかな)
「でもケンは初めてじゃないようだし…昔ここで何かしませんでした?」
「おまえな、そういう目で俺を見てたのか」
「そういう訳じゃ…」
「あ、その目俺を疑ってる目だ」
「ですからそういう訳では…」
 言葉では否定していても、目はなんとやら。シアは明らかにケンを疑っている。
 いつの間にか馬車の主の事を忘れて言い合っている二人。
 当のシェスレンはその様子にクスリと笑って、側に控えていた側近らしき騎上の男を手招きすると何事か耳打ちをした。
 男は肯くと馬を降り、シア達に近づいた。
「私、この街で主に貿易業を営む商人シェスレン様の執事を勤めますゴースウッドと申します。失礼とは存じ上げますが、主が仲睦まじいお二人をお見かけいたしまして大層お気に召された様子。もしよろしければ是非我が館にお招きしたいと申しておりますのですが」
 急な申し出に、シアもケンもさすがに面食らった。
「是非といわれても、こちらには招待を受ける謂れはないんだが…」
「いえ、我が主人は私が申し上げるのも何でございますがたいへん気難しいお方。それがお二人をたいへんお気に召されまして。ご迷惑でなければ、是非今晩の夕食に招待させて頂きたいのですが。勿論最高のおもてなしをさせて頂く所存でございます」
「どうする、シア?」
「え!ど、どうするって…」
 当然断るだろうと思っていたケンの突然の振りにシアはびっくりして口ごもる。
「私は…」
 見知らぬ方のお誘い、お断りすべきだと思いますと喉まで出かけたが、ケンの目を見て言葉にするのは止めた。ケンは始めからこの話、受ける気でいるのが分かったからだ。
「構いませんけど」
「そうか、シアがそう言うなら受けてもいいよ、その招待」
「そうですか、お受け頂けますか。これで私もお叱りを受けずに済みます」
 あっさりと承諾されたゴースウッドという執事は、嬉しげに頷いた。
「だが…正装してこいと言われると困る。なにせ旅の途中なんでな」
「それはそれは、旅の途中でございましたか。いえいえ私的なものでございますから、そのままの服装で何の問題もございません。よろしければ館に部屋も取らせますので」
「そいつは助かるな。ご好意に甘えさせて頂こう」
「それでは日没ごろに迎えをお出し致しますので」
「いや、手間を掛けさせるのも悪いからこちらから出向くよ。いいだろ、シア?」
「はい」
 場末の安酒場に泊まっている事が知れれば相手も気を変えるかも知れない。当然ね、とシアも思った。
「では、主人共々お待ちしておりますので」
 深々と頭を下げると、ゴーズウッドは馬車に戻っていった。そして馬車の主人に首尾を報告したらしい。シェスレンもにっこり笑うと二人に軽く会釈して、窓のカーテンを閉めるのだった。シェスレンの一行は動き出し、坂の下へと消えていった。
「よかったのですか、これで」
「下見が楽になる。うまくすれば今日中にけりがつくかもしれんし」
 ちょっと安易だ、そうシアは思った。

 スラーベで2回目の夜がやってきた。
 シアとケンは、約束通り日が沈みかけた頃シェスレンの館を訪れていた。用心深いケンは大事な荷物は途中の森の中に隠し、シアは勿論ケンも今日はさっぱりとした軽装であった。
 二人はゴースウッドに出迎えられ、食堂へと案内された。
 館の中は、外見そのままに白を基調とした色にまとめられ、かなり高級な装飾品がさりげなく飾られていた。恐らく主人の性格を反映しているのだろう、どこを見ても館の中は清潔に保たれている。
 数十人が座れるであろう大きなテーブルには、まだ誰も着いていなかった。ただテーブルの上座とその両側に食器やグラスがセッティングされており、今日ここで食事を取るのはシアとケン、そしてこの館の主シェスレンだけであることを示していた。
(不用心だな)
 普通客をもてなすときは、お互いに顔が良く見えるよう互いの正面に座るもの。このようなセッティングは家族向けの時ぐらいだろう。
 先に席に案内され、テーブルを挟んでシアとケンは席に着いた。シアは行儀よく館の主の現れるのを待っていたが、ケンはもう食前酒をちびりちびりとやり始めている。
「ようこそ、我が館へ」
 しばらくしてシェスレンが現れた。
 彼女は胸の大きく開いた純白のドレスを纏い、優雅な足取りで自分の席に着く。
 形式通りにシアとケンが立ち上がり挨拶を返す。シェスレンはにこやかにそれに答え、席に着くように進めると、改めて二人に食前酒を注いだ。
「私、このスラーベで貿易を営んでおります。私の不躾な招待を受けて頂いて感謝しておりますわ」
「私はケン、そしてあちらがシアと申します。スーミアにてやはり貿易を営んでおります。このスラーベには商用と勉強をかねてやって参りました」
 いつもとうって代わって礼儀正しい言葉遣いのケン。
「まあスーミアからわざわざ。それは大変な旅でしたでしょう」
 お互いの形式通りの挨拶が終わると、シェスレンはさっそく料理を運ばせた。料理は海に面したマインのこと、様々な海鮮料理が出るのは勿論東方大陸からの珍しい料理も出た。
 シェスレンがスラーベや海の話題を話せば、ケンが中原諸国を旅したときの話をする。普段は無口なケンだが、こういう時の会話の合わせ方は実に上手い。和やかな内に食事も最後のデザートを残すのみとなった時、シェスレンは少しためらいがちに、
「失礼でなければ良いのですが、お二人のご関係は?」
とずっと控えめにしていたシアに訊ねた。
「幼なじみですの。お互いの父親同士が仲が良くて、それで自然に私たちも…」
 少し恥じらいを込めて、シアはいつも通りの答えを返した。
「そう、それはそれは。ではいつかは御結婚を?」
「…まだそこまで考えては…」
 嘘をついている事への罪悪感に頬を赤らめたシアを見て、シェスレンはそれを少女の恥じらいと誤解したようだ。
「あら、私とした事がごめんなさい。失礼な質問をしてしまいました」
 シェスレンは口に手を当てて笑みを浮かべると、眩しげにシアを見た。
「しかしどうして我々を招待してくださったのでしょう」
 ケンは仲良くする二人に多少のジェラシーを感じたのか、話題を変えた。
「お二人があまりに美しかったからですわ。私美しいものが大好きですの」
 今度はケンに笑いかける。
「それにこの辺りでアクリス系の方をお見かけするのは珍しいから。あなたはアクリスの血が入っていらっしゃるでしょう?」
「よくお分かりですね。確かに母がアクリスの出です」
「そう思いましたわ。でも、本当にお二人ともお美しい…どうです、しばらくここにご逗留されては?」
「そうも参りません。故郷で待つ親たちに心配をかける訳にも参りませんから」
「そう、それは残念…あら、デザート召し上がって」
 二人の前にはすでにデザートが置かれていた。山葡萄のケーキに蜂蜜と果汁のソースがかけられている。
 甘いものに目がない年頃のシアはたちまち平らげた。
「ケン、甘いものはお嫌い?」
「ああ、シアこれも食べろ」
 酒飲みのケンは甘いものは苦手。シアに自分の分も渡す。
「そんな…」
 食べたいのは山々だが意地汚いと思われるのがいやで手のでないシア。
「あらあら仲の良い事。そうだわ、ケンには東方大陸の珍しいお酒があるの。ちょっと強いからなかなか人に勧められなくて。でもケンなら大丈夫そう」
 シェスレンはメイドを呼ぶと、小さなグラスに琥珀色の液体を注がせた。確かにアルコール分がかなり強いらしい。ツンとアルコールの匂いがした。
 しばらく匂いを楽しんだケンは、一気にグラスの酒を飲み干す。
「ん!?」
 この後味は、まさか…
「どう?お味は」
 シェスレンは目を細めた。
「あっ…」
 シアは体が痺れてくるのを感じた。やがてすーっと意識が遠のき、床に倒れこむ。
「シア!貴様何を入れた」
 隠し持っていた短剣をシェスレンに突きつける。
 シェスレンは動ずる事なくテーブルの上に肘をつき手を組むと、その上に顎を乗せ微笑んだ。
「私は美しいものが大好きなの。どんな事をしても手に入れるわ。たとえそれが人間でも。ほら、あなたも薬が効いてきたでしょう」
「ちっ!」
 目が霞み始めたケンは、出口に向かって走った。
 取り押さえようとする召使いを殴り倒すと、扉を体当たりするようにして開け、廊下に走り出た。
 その様子を見ていたシェスレンはゴースウッドを呼ぶ。
「ケンを捕らえなさい。出来るだけ傷つけずに。でも手に余るようなら、殺してもいいわ。ただし顔に傷はつけないでちょうだいな」
「かしこまりました」
「薬が効いているからそう遠くには行けないはず。じっくり追いつめなさい」
 そう言ってゴースウッドを送り出すと、シェスレンはメイドを呼んだ。
「そこのお嬢さんを寝室へ。いえ、その前に浴室できれいに磨いてあげて」
 メイド達に抱えられたシアの顎を掴むと、顔を上げさせる。もう全身に薬が回ったらしく、口からは微かに涎さえ流している。
「シア、一つ言い忘れたかしら。シェスレンは帝国御用達の奴隷商人でもあるって」
 シアがメイド達に運ばれて行くのを見ながら、シェスレンは自分のグラスの酒を飲み干した。
「心配しなくてもいいのよ、シア、ケン。あなた達は私が飽きるまでは私のコレクション。たっぷり可愛がってあげる」
遠くを見ながら呟く彼女の顔には、もうすでに優しい笑みはなく冷酷な女商人の素顔が現れていた。

「くそっ!もう足に来たか」
ケンは制止しようとする衛兵の喉を掻き切る。いや、掻き切ったと思った。だが小刀から伝わった感触は、柔らかな肉のものではなく固い無機質のそれであった。
「なんだ「」
 驚きの声を上げながら、ケンの身体はすぐさま次の動作に移っていた。小刀を握った腕の肘を思い切り衛兵の顔にたたき込む。
 ぼこっ。
 鈍い音を立てて、その男の顔が陥没した。
「人形「ちっ、人形使いがいるのか」
 断末魔(?)に震えるその手から剣を奪い取ったケンは悪態をつく。
 長い回廊の前後から大勢の声と足音が迫る。
 ケンは奪い取った剣を杖代わりに痺れ始めた全身を支えると、周囲を見回した。回廊は堅牢な石作りで、明かり取りの部分は人ひとり通り抜けるには十分な大きさではあったが、さりげなく装飾を施された鉄格子がはめられている。
「木戸はもう少しか…くそ!しくじったか偶然か…こうも見事にはめられるとは」
 自嘲気味に笑いを浮かべて剣を肩に背負うように持つと、ケンはゆっくりと足を運び始めたこの先に木戸があったはず。その想いが身体を前に進ませる。
「いたぞ、ぐわっ!」
 真っ先に駆けつけた男を袈裟がけに切り倒す。男は血を噴き出す代わりに見事にバラバラに砕けた。
「こいつもか。くっ!」
 ケンの方も振り降ろした反動でぐらついて壁に背を打ちつけた。左手が石ではない物に触れた。
「もう目にきたのか…ここに木戸がある事すら気づかんとは!」
 5、6人に半円状に囲まれたが、相手はすぐには手を出そうとしない。薬が十分に効くのを待っているようだ。ケンは手に持った血塗れの剣で牽制しながら、左手を身体の陰にして木戸の閂を外した。
 じりじりと間を詰める相手。ケンは思い切り剣を横殴りに振ると、男達が身を引いた瞬間、木戸に体当たりするように、外へ飛び出した。
 素早く扉を閉じ、扉の取っ手とそばの窓の鉄格子に持っていた剣を通した。これでしばらくは時間が稼げるはず。
「いい腕の人形使いみたいだ。人間そっくりに反応しやがる。まずったな、えらい所に招待されちまった」
 人形相手では分が悪い。相手は恐れも痛みも知らない。まともに戦えばこちらが消耗するだけ損だ。
 四つんばいのまま、周囲を見渡す。
 芝生の向こうに、壁際に生い茂る木がある。
 木戸に体当たりする音が聞こえた。
 ケンは走った。走りながら耳を立てる。まだ木戸をたたく音と汚い罵り声や怒鳴り声が聞こえる。まだ相手は外に出ていない。
 必死の思いで張り出した木の枝にしがみつくと、壁の上まではい上がる。壁の上には先の尖った鉄棒がびっしりと植えられている。
「ここで…落ちたら終わりだな…」
 くらくらする頭を振りながら、壁の向こうに飛ぼうとした瞬間、一本の矢がケンの背中に鈍い音をたてて突き刺さった。
「ぐっ!」
 うめき声を上げながら、前のめりに倒れそうになる。だがケンの鍛え抜かれた本能が一瞬早く足に木を蹴らせた。
 辛うじて壁を飛び越える事は出来たらしい。とっさに腕で顔をかばいながら、うつ伏せの姿勢で地面に叩き突けられる。人の背丈の2倍ほどの高さから落ちたのだから相当の衝撃を受けたようだ。その証拠に激しく打ち突けた胸の呼吸が苦しい。だが痛みはほとんど感じなかった。
「こればっかりは盛られた毒に感謝しないとな…」
 ぜーぜー言いながら立ち上がろうとするが、足に力が入らない。血が背中を流れて行くのだけが妙に生々しく感じられた。
 ふと四つん這いのままのケンの視界に、男の足が見えた。
「…もう、…これまでかい?」
 息絶え絶えに顔を上げたケンは月明かりにその男の顔を見て、何故か安心したように笑いながら、そのまま倒れた。

「…眩しい」
 窓から強い陽光が差し込む。海からの風が透き通ったレースのカーテンを揺らしていた。
 まだ頭がぼーっとしている。やがて目の焦点が合ってくると、シアは自分が見知らぬ部屋で寝ていた事に気づいた。
「ここは…どこ?」
「ここは私の寝室よ。ふぁああ、おはようシア」
 隣から声がした。
 まだ横になったシェスレンがまだ眠気眼でシアを見ている。
「シェスレンさん?おはようございます」
 シアもまた頭が良く動いていないようだ。低血圧のシアは、大ボケにも反射的に挨拶を返してしまう。
「私昨日…どうしたのかしら」
 よく見るとシェスレンも自分も真っ裸になっている。
 シェスレンは上半身だけ起きあがってぼーっと考えているシアを眩しげに眺めた。日の光を浴びてシアの裸身が輝いている。まだ成熟しきらない可愛らしい乳房、ほっそりとしたうなじ、可愛らしく整った横顔。光の中にその全てがキラキラとしていた。
 やがてシアの思考を司るところが起きてきたようだ。慌ててシーツで胸を隠した。
「どうして私ここに?ケンは?昨日何があったの?」
「質問が多すぎるわ。何から答えようかしら」
 クスクス笑いながらシェスレンは戯れにシアの乳房に触れた。
 身を強ばらせるシア。
「一番目、あなたは私の虜になった。2番目、彼は矢に貫かれて死んだ。3番目、あなたは毒を盛られた。どう?答えになったかしら」
「ケンが死んだですって?そんなこと…」
「無いと思う?でもね、どんなに強い人間も毒を盛られていてはただの人以下よ」
「そ、そんな…」
「確かに惜しい事をしたと思うわ。でもあなたを手に入れただけでも十分だと思わなきゃ」
 満足気に笑うシェスレンにぞっとするシア。
「私を、どうするつもりです?」
「どうするかって?そうねえ、どうして欲しい?」
「帰してください。いえ、私今すぐ帰ります」
 毅然とした態度でシェスレンを睨みつけると、シアは起き上がろうとした。
「私を不愉快にさせないで頂戴、シア」
 シェスレンは起き上がろうとしているシアの左手を掴んだ。
「離してください、シェスレンさん。そうでないと軽蔑します」
「軽蔑?してご覧なさいな、シア。どうやら世間知らずなお嬢さんには少し教育が必要ね」
 シアの手を離したシェスレンは、起き上がると白いガウンを羽織り、窓とは反対側の机の前に歩いた。
「シア、これが何だか分かる?」
 シェスレンの指差した方を見ると、大きな人形が幾つも置いてあった。
 人形はいずれも等身大で、きれいに着飾られている。どれも美しい物ばかりだった。でもみんな余りにも生々しい印象を覚えた。まさか、この人形達は…
「ただの人形だと思う?それにしては生々しい、そう思わない?」
 シェスレンは手近にあった人形の頬を撫でるようにすると、いきなりその頬を抓った。
 一瞬ビクリと人形が動いた。
「どう?シア、私のコレクション。私、昔から綺麗な人形が好きだったわ。幼い頃は貧しくてとても手にいれられなかったけど。だから今こうして集めてるのかも知れないわね。でもね、私は初めて人形を手に入れたとき、思ったの。人形ってなんて冷たいのかしら。なんて肌触りが悪いのかしらって。だから考えたの。もし母親のような温もりがあったら、そして美しいならどんなに素敵かしらって。だからねシア、私は創る事に決めたの、私の理想のお人形を」
 そう言うシェスレンの顔には邪気がない。
「どうしたらいいか、考えた。そしたら簡単な事に気がついたわ。人間を使えばいいって」
 シェスレンはシアに笑いかけると、テーブルの上から朝の果物に添えられていたナイフを取った。
「シア、私の機嫌を損なうとどうなるか、見なさい」
 シェスレンは先程頬を抓った人形の顎を指で持ち上げた。
「どうしてお人形が抓られたぐらいで身体を動かすの?もういいわ、あなたはあんまり好きじゃなかったし」
 何気なくナイフをその人形の喉に当てると、躊躇いもなくスーっと横に引いた。
「ひーっ…」
 人形は恐怖に目を見開き、微かな悲鳴をあげた。血が床に敷き詰められた白い絨毯に飛び散る。
「や、やめてー!」
 思わずシアは悲鳴に近い叫びをあげると、顔を伏せようとした。
「シア!見ないともう一体人形を殺すわよ」
「もう、やめてえ…」
 半泣きになりながらシアは顔をあげた。
 人形の喉からは止めどなく血が溢れ、絨毯を染めていった。そして、小刻みに身体が痙攣したかと思うと、やがてがくっと力無くうなだれた。
「もう、終わり」
 指についた血を美味しそうに舐めると、シェスレンは泣きじゃくるシアの側に近づいた。
「あらあら、泣き虫さんね」
 シェスレンはシアの頬に口づけすると、つぶらな瞳から流れる涙を舌で舐めた。
「じゃ、もう一つ」
 シェスレンは軽く手を叩いた。
「なにか」
 すぐに寝室の扉の向こうから返事がした。
 扉を開けてメイドが入ってきた。
「こちらへ。手を出して」
 シェスレンの言葉に従い、メイドは彼女に近づくと、右腕を差しだした。
「きゃっ」
 シアの小さな悲鳴が、部屋に木霊した。
 シェスレンが、無言で差し出されたメイドの腕にナイフを振り降ろしたのだ。
 ぼこっ。
 二度目の血生臭い光景を予期しながら恐る恐る顔を上げたシアは、そこに信じられないものを見た。
 メイドの手は、手首の所ですっぽり消えていた。不思議そうにそれを見るシアと、そしてメイド自身。切られた筈の手は、ぼろぼろの欠片となって床に散らばっていたのだ。
「どう、シア。驚いた?私は人を信じない。私の側に仕えるものは、皆人形なの。私の側にいていい人間は、執事のゴースウッドと、物言わぬ可愛い人形達だけ」
「いい?これからあなたは私の言うことは何でも聞くの。這えと言えば地に這い、舐めろと言われれば汚い靴でも舐める。そうしたら、自由を奪って人形にしてしまうのは止してあげる。でもね、少しでも逆らったら、分かるわね?」
 優しげな言葉遣いとは裏腹に、シェスレンの表情は固く冷たい。まるで蛇のように。
「私は商人。でもね、本当に欲しい物は側に置いて離さない。こんな風に」
 シェスレンはすーっと左手を出した。彼女の左手にはいくつかの指輪が光っている。シアはその中の一つに目が吸いつけられた。
 人差し指に填められたその指輪は、何の飾りもしていない。何で出来ているのだろう、見る角度を変えるだけで輝きや色が変わる。
 シアの視線にシェスレンも気がついた。
「分かるのね、この指輪が。普通の人間にはただのクリスタルにしか見えないこれが」
 彼女は人差し指からそれを外すと、陽光にかざしてみせた。
「あっ!」
 余りの眩しさにシアは驚いた。
 それは光を浴びた途端、七色に輝き、その光は広いこの寝室に溢れ返るように見えた。
(私にしか見えていない?)
 反射的に手で目を庇ったシアは、シェスレンにはこの光が見えない事に気付く。
「これはセルサームの指輪。そう、三種の神器の一つ。真実を写し力を引き出す帝王の指輪。戦士が持てば力尽きる事を知らず、賢者が持てばその知は神を凌ぎ、魔術士が持てばその魔力神をも滅ぼすとまで言われたものよ。でもこれが本物かどうか私には分からなかった。私にもただのクリスタルとしか見えないもの。指輪の力を引き出す事の出来るのは帝王の資格を持つ者だけだから。あなたは古の帝王の血を引くというロラン公国の公女、シア・ロランね」

 緑溢れる庭園。
 あちこちの泉から清らかな清水が溢れ、流れている。楽しげな小鳥の歌声が響き、爽やかな風は美しい花達を揺らす。
「…姉様、姉様ったらあ!」
 幼い、甘えた声が聞こえる。
 いつの間にかうたた寝したらしい。軽く背伸びをしながら半身を起こすと、声の方に振り向いた。
 屋敷から、背中まで延びた少し朱い栗色の髪を揺らしながら、私の天使が駆けてくる。
「姉様あ!」
 少女ははあはあ息を切らせながら私の首にしがみついてきた。
「どうしたの、シリア。そんなに息を切らせて、お行儀の悪い」
「だってだって、姉様ったらいないんだもの、お部屋にいないんだもの!午後はシリアとご一緒してくれるって言ったもの」
 少女はつぶらな瞳に涙を浮かべると、口を尖らせた。
「もう13歳になるというのに、シリアったら甘えん坊さんね」
「だって姉様、いつも遠くにお出かけしてちっともシリアの相手をしてくださらないんだもの」
 8歳も年下の妹は、綺麗な顔に不安を浮かべていた。
「もっとシリアといてほしい」
 きゅっと抱きつく妹の髪を優しく撫でながら、その耳元に私は優しく囁いた。
「ああ、そうしよう」
 半年前に父を失って以来、この世にたった二人の姉妹。
「今日はレクセングールの市場に遊びに連れて行ってくださる約束よ」
 妹は私の腕をとると、引っ張るように私を立たせようとした。
「名門アクレス家の令嬢が市井の場所に出入りするなんて、しょうがないわね」
「あら、私は姉様のする通りにしてるだけよ」
 クスリと笑うと私は立ち上がり、服についた芝草を払う。
 ふと見上げると、空は雲一つない快晴。
 だがアクリス南方の友好国カルンが陥落した今、事態は急を告げていた。全ての騎士団に動員がかかり、私もまもなく南部国境へと出発しなければならない。
 ほんの束の間しか妹といられない事が辛い。だが、この妹を守るためにも戦わなければならない。
「姉様あ、早くー!」
 門の所で妹が手を振っている。
「ああ、今行く」
 この幸せな日々がいつまでも続きますように。そう祈らずにはいられなかった。

「ううっ…」
 背中が痛い。
 ぼんやりとした意識が回復してきた。目がチカチカする。
「夢か…」
 右手を動かそうとして肩にずきんと痛みが走った。仕方がないので左腕を上げて手の甲で目を覆う。
「昔の記憶か…シリアはどうしているだろう」
 胸の痛む、封印された記憶。
 しばらくそうしていると、完全とは言わないが意識がハッキリとした。目ももう大丈夫のようだ。
(ここはどこだろう)ケンはゆっくりと部屋を見渡した。あのシェスランに捕らえられたにしろ、何にしろ今は動けるような身体ではない。そう思うと心も落ち着く。
 部屋はわりと広い。白地の壁にはに東方大陸系の装飾が施されている。寝台の正面に大きな扉があった。
 天井は格子状に区切られて、その一つ一つに様々な絵が描かれていた。
(これは…)ケンは絵の一つ一つに見覚えがあるような気がした。
「そいつあ、アーデナの創世記を描いたものさ」
 突然の声に驚いて顔を上げたケンの視界に、男の姿が飛び込んできた。
「いつの間に…」
「神出鬼没は俺のモットーでな」
 半開きの扉に軽くもたれていた男は、扉を閉めると笑いながらケンに近づいてきた。
「どうだい、身体の具合は?」
「最低さ」
 その不敵な態度となれなれしい口調に心の中で閉口しながら、ケンは無愛想に答えた。
「それだけ口が叩けりゃ十分だ。2日も寝込んでた重病人にしちゃあな」
「2日も寝ていたのか…なぜ俺を助けた、アイザル。それとも助かった訳じゃあないのかい?」
「おっと恐い目で睨むなよ。俺はシェスレンとは関係ねえぜ。少し気になったんでな、あんたとあんたの連れが」
「まさかシアに惚れたとでも…」
「冗談言うなよ。確かにあんたの連れは別嬪だが、若すぎらあ。俺も子供に手を出すほど堕ちちゃいねえよ。みすみす危険に飛び込んでいこうとしてるお前らを見捨てちゃいけねえような気がしてな」
「ほう、あんたがそんな慈善家だとは思わなかったな」
 皮肉たっぷりの言葉にアイザルは多少むっとしたが、すぐに気を取り直した。
「俺はどちらかと言えばお前の方が好みだぜ、ケン」
「なに!」
 流石のケンも、この時ばかりは慌てた。(こいつは男色家か)
 少し落ち着かない素振りのアイザルを見て、ケンはやばいかな、と思った。
「誤解するなよ、俺は決して男が好きだなんてことはねえ。その意味じゃ男としてノーマルなつもりだ。ただお前と初めて会った時、ちょっと心が揺れた」
「それで俺達の後をつけてた訳か。そいつは危ない。変態への第一歩だぞ」
「どういう意味だ」
「そういう意味だ」
「ちょっと待て、重病人の癖に口先のへらねえ奴だ。…確かにお前らが部屋に消えてくのを見送ったとき、俺もやばいかなって一瞬思ったがな、お前を助けてみてほっとしたのは事実だ」
「ほっとしたって…」
 そう言われてみて初めて気がついた。何とケンは素っ裸で寝かされていたのだ。
 上半身は背中の傷の治療の為、包帯でぐるぐる巻きにされてはいたが、それでもケンの胸の二つの丘のラインはくっきりと浮かび出ていた。
「見たのか?」
 シーツを口元まで引っ張り上げたケンは、少し頬を赤らめながら、相手を睨んだ。
 何故だろう、少し胸がドキドキする。
「い、いや、俺は見ちゃいねえ。見たのは医者だけだ」
 慌ててアイザルは弁解する。もう不敵な男というイメージはどこにもない。
 その慌てぶりが普段とかなり落差があったものだから、思わずケンはクスリと笑ってしまった。
 思ったよりいい男かも知れない。
「信じるとしよう。うっ!」
 起き上がろうとしてズキッと背中が痛んだ。意識がしっかりしてみると、身体中が痛む。
「お、おい、まだ無理だ」
 アイザルが起き上がろうとしたケンの身体を押さえた。
「行かなきゃならん。シアが待ってる」
「無理だって。もう二日経ってるんだ。自分の身体を考えろ」
「まだ間に合うかもしれない。邪魔するな」
 二人の視線がぶつかった。
 お互いに真剣な眼差しで相手を睨んでいる。
 やがて…
「肩が痛い」
 ケンが目を伏せてぽつりと呟く。
「すまん」
 アイザルは慌てて肩を押さえていた手を離した。
「おまえさんがあのお嬢さんを心配する気持ちは分からないでもない。でもな、そんな身体で何が出来る」
「あんただって言ったろう。シェスレンには良くない噂があるって。大体初対面の相手にいきなり薬を盛るような奴の所にあの娘一人置いておけるか」
「正直に言おう。奴は奴隷商人もやってるんだ。あんたの連れみたいな上玉は一日も経たずに売られちまってる」
「奴隷商人だと!?何故それを先に言わない」
「動くなよ!」
 また起き上がるケンを止めようとしたアイザルの腕を掴むと、ケンは静かにその腕を外した。
「ケン…」
「行かせてくれないか、アイザル」
 上半身を起こしたケンは痛みに耐えながら言った。
「アイザル、あんたの気持ちは嬉しい。俺はいい。どんな汚い事もできる、耐えられる。だがな、あいつは違うんだ。本当に何も知らない無垢なお嬢様、なんだ」
「おまえ…」
「ん?」
「おまえ、女が好きなのか?」
「ちがあう!…とは言えない」
 アイザルの思わぬ突っ込みに前のめりになりながら、最後の方は顔を沈めたシーツの中にぼそりと呟いた。
「俺は…約束したんだ。あいつを護るって、あいつの親父さんに」
(騎士として誓いを立てたんだ)
 顔を埋めたシーツの中からアイザルを見たケン。
 アイザルは顎の不精髭を撫でながら、笑った。
 いい笑顔、してる。
 ケンは思った。私はこの男が好きになるかも知れない、と。
「どうやら酒場で会った時のお前に戻ったらしいな」
「すまん…どうやら我侭言ってたらしい」
「熱くなり過ぎると事をしくじる。いつもは冷静な奴は特にな。シアの方は俺の方で当たらせるから、おまえは傷を直す事に専念しろ。もうすぐ腕のいい僧侶が来る。そうすりゃすぐに良くなる」
「面倒ばかり掛ける。すまん」
「貸しにしとくからいいさ。おまえなら貸し倒れはなさそうだ」
「ちぇっ、慈善事業じゃないのか」
「マインにそんな奴ぁいねえよ」
 片目を軽くつぶってみせると、アイザルは部屋を出ていった。
「アイザル・キャスバード…か…」
 クッションのよく効いた寝台に起こした身体をゆっくりと倒すと、ケンは呟いた。
 休もうと思っても、身体の痛みがそれを許さない。
 何度か呻きながら寝返りを打つと、窓の外を遠い目で見つめる。
「…シア…」
 言う事を聞かない自分の身体が歯がゆかった。

 捕らえられてからもう二日間、シアは便器の上に座らされていた。便器は白い陶磁器製で、底には屋敷の外から引き込まれた清水のせせらぎが流れている。裕福な家にならばどこででも見かける、水洗式のトイレだ。ただ普通のトイレと違うのは、便器の両脇に鉄の棒が立てられている。その鉄棒の丁度シアの首辺りから横棒が延びていて、先が半円状に分かれている。左右のそれが、シアの首の所で結合され、シアの首を固定する首輪となっていた。
 さらに、便器の後ろ側にはやはり鉄製のフックがあり、そこにシアの両手首に嵌められた手枷から延びた鎖が繋がれている。
 こうしてシアは身動きの取れない状態で便器に繋がれていたのだ。しかももっともシアを悩ませていたのは、シアの腰を便器に固定するために、便器の中央にシアの局部を貫いて据え付けられていた陶磁器の張型だった。腰を動かすと、張型がシアの身体の中を抉る。このためにシアはずっと同じ姿勢を取っていなければならなかった。
 あの日、血塗れになった死体と部屋を片付けさせたシェスレンは、地下室に怯えて嫌がるシアを連行し浣腸を施すと、無理矢理ここに座らせた。そして見ないでと哀願するシアをあざ笑いながら、シアの排便する様子を眺めていたのだった。
 屈辱と恥ずかしさに身体を震わせていたシアに、シェスレンは追い打ちを掛けるように宣言した。
「厭な匂い。俗世の匂いだわ。シア、私のお人形はそんな汚らしい物は出さないの。今日からあなたの身体を変えてあげる。排泄物さえもあなたの容姿にふさわしい、綺麗な物にね」
 シェスレンは、革と金属でできた奇妙な物をぶらぶらシアの前で揺らした。
「お姫様、これが何か分かるかしら」
「わ、わかりません」
「猿轡よ。嵌めてさしあげましょうか?」
「いや…恐い!」
 シェスレンはわざと丁重な言葉を使ってシアをなぶりながら、シアの反応を楽しんだ。
「さあ、大きく口を開けて」
 鼻を摘まれて苦しくなったシアがいやいや口を大きく開くと、その口いっぱいに丸いリングが押し込まれた。それは円形の分厚い金属製のリングで、それがすっぽりとシアの口元に嵌めこまれたのである。
 歯で咥えこんだ形になり、歯に当たる部分はソフトな革で覆われている。それを噛みこむ事で、大きく開けた口いっぱいにリングを咥えた猿轡になってしまうのだ。そのリングは革のマスク状の物に埋め込まれ、頭の後ろでしっかり留めると、顔の下半分がすっかり猿轡に覆われてしまう。ただぽっかり丸い穴の開いた輪状の金属の奥に、シアの赤い舌が覗いていた。
「あー、あー、あー」
 シアが何か言ったが、大きく口を開いたまま喋るので、まったく言葉にならない。しかも、「あー」の一言しか発音できないのが哀れであった。
「あなたの可愛い顔が半分隠れてしまうのが残念ですわ」
 シェスレンはもう一度シアを見直した。
 ふっくらと膨らんだ、まだ発展途上の乳房の先端に、小粒の乳首が愛らしい。ぴったり閉じ合わされた太股の間に挟まれて、下腹部の黒い陰毛が微かにその上端を覗かせている。
「どうしてこんな物を着けたと思う?」
 わざとシアに訊ねてみた。シアはこれまでの経験から、薄々はその意図に気付いてはいたが、それは想像したくない事だったので、黙って首を振る。
「例えばこういう事もできるわね」
 シェスレンは右手の人差し指と中指を重ねると、シアの口に押し込んだ。
「あぐぐ…」
 舌の上に突然指を押し込まれて、シアはびっくりした。
「これが男のペニスだったら。どうシア、感想は」
 シェスレンの指がシアの口の中をこねるように撫で回す。時々喉の奥にまで差し込まれるので、シアは吐き気を堪えるのに懸命だった。
 やがてシェスレンが指を口から抜くと、唾液に濡れた指を美味しそうに舐めるのを、苦しさに胸を上下させてシアは見た。
「でも、そんなことはしないわ。しばらくはね。では、本題に入りましょう」
 シェスレンは床に置いてあった壷を取り出し、片手でシアの髪を絡め取り、ぐいっと後ろに引いて顔を上向きにさせると、壷の中身をシアの口に流し込んだ。
 シアの口の中に生温かい液体がどっと溢れ、思わず息を吸いかけて気管に入ったらしく、大きくむせかえった。その頭をシェスレンはがっしり抑え込んだまま、
「さ、こぼしたらお仕置きよ。これからは、あなたの食事は全てこれなんだから、さあ、綺麗に飲み干しなさい」
「あぐ、あぐ、ぐぐ…」
 ごぼごぼと音を立てて、口の中から溢れ出る液体。それは白いミルクのようで、微かに甘い匂いを漂わせながらシアの乳房を濡らし、股間からその隙間へと流れていった。
 ようやく壷が空になって、シアは一息着く事が出来た。だいぶ飲まされたらしい。下腹部が見た目にもぱんぱんに膨れているのが分かった。
「どうやらお腹もいっぱいになったらしいわね。これからはゴースウッドがあなたの面倒を見るわ。楽しみにね」
 それからずっとシアはこの格好のまま、監禁されていた。さらにシアにとって恐怖だったのは、ゴースウッドという男だった。
 最初の一回以外は、あのミルクのような食事もゴースウッドが運んで来ていた。
 食事を運んでくるだけなら良かったのだが、ゴースウッドという男、見た目とは大違いに好色な男だったのだ。
 シアが口を閉じる事の出来ないのをいいことに、食事の前に必ずフェラチオを強要した。猿轡のリングの中に意外と大きい逸物を挿入すると、シアの髪の毛を掴んでがくんがくんと頭を揺さぶったり、舌で丹念に舐めさせた。
 また、食事の後で汚れた身体を拭き取るときも、乳房を揉み、乳首を口に含んでは転がすように弄び、アヌスや尿道に指を挿入しては身悶えるシアの表情を楽しむのだった。
 屈辱に涙を流す時、シアはいつも心の中で叫んでいた。
(ケン…助けて)
 シアはケンの死を未だ信じてはいなかった。

 若い女僧侶の唱える癒しの呪文が寝室の中に木霊する。
 ケンの背中の矢傷。その赤く腫れ上がり、肉芽の盛り上がりかけた傷口がみるみる塞がっていく様を、アイザルは感心して見ていた。
 ケンの背中は透き通るように白い。長い戦いの中で受けた様々な傷跡がまだ生々しく残っていた。背中を斜めに走る刃の痕。脇腹に残る槍の痕。恐らく鎧が防いだのだろう、無数の浅い矢傷。
(いったいこの女は…)
 どのような生き方をしてきたのだろう。どうすればこれほどの傷を負う事が出来るのだろう。あれほどの剣の腕を持つ者が。
「おい、いつまで見ているつもりだ」
 アイザルの視線に気がついたケンは、うつ伏せのままとがめるような口調で言った。
「あ、ああすまん。お前の背中があんまり綺麗だったからな」
「下手な世辞だ。…醜いだろう、私の背中は?」
 ケンは顔を伏せながらぽつりと呟く。
「…」
 アイザルは返す言葉がない。
 二人の沈黙の間を、癒しの呪文が低く、時に高く流れて言った。
「終わりました」
 女僧侶は撫でるようにケンの傷口を触ると、シーツをその上に掛けた。
「まだ肩の筋肉が完全につながった訳ではありません。あと2、3日は安静にしていてください」
「ああ、そうしよう」
 ケンはシーツで身体を隠しながら起き上がると、その僧侶に礼を言った。
 女僧侶は治療に使った道具を片づけると、アイザルに付いてくるように目で合図をした。
 女僧侶に付いて寝室を出、両手で寝室の扉を閉める。
「手間を掛けさせたな、ニーシャ」
 つかつかと前を歩く女僧侶は名前を呼ばれると、クルリと振り返った。
「あの人、いったいあなたの何なの」
「やきもち、焼いてくれんのか?」
「ばか」
 ニーシャは少し顔を赤らめると、すぐにいつもの穏やかな僧侶の表情に戻った。
「あなたが誰を好きになろうと私には関係ないわ。でも、でもね、あの人は止めておいた方がいい」
「女のやきもちってのは恐いね」
「ふん、自惚れるな。私が言ってるのはそんな事じゃない。背中の傷、見たでしょ」
 アイザルは苦笑いしながら軽くニーシャの額を指でつつく。
「女はすぐに外見に走るな」
「そんなんじゃないって。私は癒しの呪文を背中全体に施したのよ、背中全体に」
「普通の傷なら、あの古傷も直ってる、か…」
「あの古傷が消えないのは私の力不足。あの傷を消すには…アクリスの白の塔の力が必要だわ」
「闇の…傷か」
 アイザルは絶句した。
「そう。それもかなりの重傷」
 ニーシャはアイザルの胸に飛び込むと、その胸に顔を埋めた。
「あなたが彼女に魅かれているのが分かる。私はあなたの愛した何人かの内の一人。あなたが誰を愛してもそれは構わないの。でも、でもね、あの人はあなたを不幸にするわ」
「不幸になる…か…」
 微かに震えるニーシャをきつく抱きしめると、アイザルはふうとため息を吐いた。
「親父に反発して家を飛び出して、何の生きがいもなく生きている今より不幸になる事なんて、あるのか。今好きになった女が自分より大きな不幸を背負ってるのが分かるのに、何にもしてやらない事が幸せなのか…」
「アイザル…」
「…なんて、大それた事を考えてなんざいないさ。あいつといると、面白い事がありそうだから、ただそれだけだ」
 ぐっと身体を引き離して、やたら明るい笑顔を見せるアイザルを眩しそうに見つめたニーシャは軽く彼の胸を拳で叩くと、くすりと笑った。
「やってられないわ。心配するだけ無駄だったわね。でもこれだけは憶えていて。闇に傷つきし者、即ち闇。闇の力を侮らないで」
「そんな玉かよ、あいつが」

 夕暮れが訪れた。
 海からの風が心地良い。
 ケンはアイザルが止めるのも聞かず、再びシェスレンの屋敷に来ていた。
「どうする?」
 一人では行かせないと言ってついてきたアイザルが、隣りにいた。
 二人はシェスレンの屋敷の正門を見渡せる林の中に潜んでいた。
「思案中」
 素気無く返事を返したケンだったが、実際の所考え倦んでいた。屋敷の警備の厳しさは前に厭と言うほど思い知らされている。
 アイザルの部下の報告では、シアはまだ屋敷から出てはいないらしい。分かっているのはそれだけだった。
 警備兵の数はざっと二百。さほど広くない屋敷の割には異常なほど多い。シアがどこに閉じこめられているのか分からない以上、迂闊に動けない。
「どこから手をつける、か…」
 林全体がさわさわと風に鳴っている。
「このままこうしていても…」
 アイザルの言葉をケンの手が途中で遮った。
 一つ、二つ…全部で八つ。
 がさっと後ろの茂みが音を立てるのと剣を抜くのとほぼ同時だった。
 振り向き様に剣を抜いた。
「はええ」
 アイザルには、今のケンの動きが良く見えなかった。それが素直な言葉となって彼の口から洩れる。
 ケンたちの頭上を越えて黒い物体が茂みから躍り出した。
 着地した瞬間くるりと振り向いたそれは、狼と人間の丁度中間のような生き物だった。背中を丸め、四脚で地に立ち、口には左右に鋭い刃のついた剣を銜えている。
 暗闇の中で目を光らせていたそれは、再びケン達に飛びかかろうとして身構えた瞬間、ぐらりと倒れた。
 その身体から流れるどす黒い血潮を、厚く積もった腐葉土が貪欲に啜る。
「ちぃっ、帝国絡みか」
「こいつはいったい…」
 ケンに少し遅れて剣を構えたアイザルが呻いた。
「牙狼兵だ」
 ケンは片膝をついて剣を構える。
「帝国軍が使ってる狼男さ。こういう地形では相当強力な兵力になる」
「斬られても声一つあげんとは。あと、いくらいる?」
「私が気付いてるのはあと7人…」
「じゃあ俺と勘定が合うな。どうする」
 今度は音も立てずに、アイザルの脇の木陰から黒い影が飛び出す。
「ちいぃぃ!」
 左の拳を相手の顔面に叩きつけると、そのまま首筋に剣を突き立てる。
 地面に縫いつけられながら、まだビクンビクンと痙攣している牙狼兵の頭を踏み潰すとアイザルはケンと背を合わせた。
「あと6人だ」
「この分じゃ屋敷に知れるのもじきだろう。悔しいが引き揚げる」
 ちらりとケンの様子を窺うアイザル。ケンは唇をきつく噛みしめている。
「えらく諦めがいいんだな」
「ああ」
 ケンは素気無く肯く。
 帝国の手に落ちたとあれば、殺されたり、奴隷に売り飛ばされる事はあるまい。
「チャンスはまだある」
 自分自身を納得させるようなケンの言葉。
「簡単に引き揚げさせてくれるかな」
「あんたが足を引っ張らなければな」
 二人を囲んだ牙狼兵が同時に二人に襲いかかった。
 しばらく激しい剣の音が響いた後、森にはいつもの静寂が訪れた。

「そう、つまりまんまと逃げられたと言う訳ね」
 食後のワインを持つ手が途中で止まり、シェスレンはそのグラスをテーブルに置いた。
「はっ、誠に申し訳ございません。警備兵が森に向かった時にはすでに牙狼兵は全滅しており、賊の姿はどこにも見あたらなかったと」
 深々と頭を下げるゴースウッドに然したる興味も示さずに、彼女は左手の指輪をランプの光に翳した。
「陛下に付けていただいた兵だったけれど、だらしないものね。で、彼らの狙いはなんだと思う?私?この指輪?それともあの娘かしら」
「いずれも考えられます。僅か数名だった様子から見ると、今夜は単なる下見であったようですが」
「無駄な事を…明日には船出するというのに。処置は任せます。抜かり無いように。それからゴースウッド」
 目を細めて手招きする。
 一礼して側に来たゴースウッドの頬をシェスレンは思い切り叩いた。
「シェスレン様!」
 シェスレンは、突然の事に狼狽する彼の衿を掴むと床に這いつくばらせ、頭を足で踏みつけにした。
「おまえシアに手を出しているようね。誰があの娘に手を出していいと言ったの」
「お、お許しを」
 額を床に押しつけたまま許しを請うゴースウッドの頭を更に踏みつける。
「いい、私の大事な物を奪おうとする奴は決して許さない。たとえお前でもね」
「お許しを」
 必死に謝り続けるゴースウッドに興味を無くしたシェスレンは、ナプキンを外すと席を立った。
「これからはもっと注意なさい。私に二度目はなくてよ。シアの所に行きます」
 ようやく立ち上がって見送るゴースウッドを後目に、彼女は冷たい表情のまま地下室へと降りて行った。
 地下室の扉の鍵を開け、中に入ると甘い匂いが漂ってくる。目の前にはぐったりと頭を落としたシアの姿があった。相変わらず便器に座らされたままだ。
「どう、シア?」
 うつ向いたままのシアの後ろ髪を掴んで顔を上げさせる。
 薄暗いランプの灯に映ったシアの表情を見てシェスレンは満足気に笑う。
 嵌口具で開きっ放しの口からは、涎が細い糸を引いて胸の乳房の谷間を経て股間の茂みへと流れていた。目は半開きで虚ろになり、シェスレンが眼の前で手を振っても反応がない。
「ようやく薬が効いてきたようね。フフッ、食事の度にゴースウッドに虐られ、夜は満足に眠れない。疲れで意識が朦朧となった時、プロミアの秘薬は脳を犯していく。もうすぐだわ、シア。私の言いなりの人形になるのも。そうしたらあなたはセルサームの指輪の力を私のために使うの。そしていつか…闇の王に代わりこの大陸を私達の物に…」
 指輪を填めた左手で愛しげにシアの頬を撫でシェスレン。その姿を背後の扉の陰からじっと見つめている存在に彼女は気付かなかった。

 牙狼兵を倒した二人は、追手を振り切ってアイザルの屋敷に戻っていた。
 夕食をほとんど手を付けずに部屋に戻ったケンを心配したアイザルは、ケンの部屋の扉を叩いた。
「ケン、入るぞ」
 しばらく中からの返事を待ったアイザルだったが、やがて意を決するように部屋に入った。
 ランプの火も灯していない部屋の中は暗い。
 窓から差し込む月光の輪の中に立ちすくむ影。
「灯もつけずに。そう落ち込むなって」
 テーブルに持ってきた酒とグラスを置くと、アイザルは側の椅子に腰掛けてグラスに酒を注ぐ。
「まあ一杯飲め。そうすれば落ち着いていい考えも浮かぶさ」
 返事はない。
 アイザルは肩をすくめて一人でさっさと一杯やり始める。じっとケンを見つめながら。
 ただ黙って窓の外を見つめるケン。
 いつもは引き締まって殺気すら感じさせる表情も、今はただ儚げに見えた。悲しみに満ちた目元。潤んだ瞳。少し開いた唇は月の光を浴びて艶やかに輝いている。
 今目の前にいるのは男を装った歴戦の戦士ではない。ただの頼りなげな女だ。
 グラスを置いて立ち上がると、ケンの後ろに歩み寄る。少し迷ったが、そのまますっとケンの肩を抱いた。
 いつもなら打たれるか喉元に剣先を突きつけられるかのがおちだが、今日は違った。ケンは胸の前で組まれたアイザルの手に自分の手を重ね合わせると、アイザルに身体をもたれかけた。
「何故私はシアのことがこんなに気になるのか、今朝ようやく気付いたんだ。…きっとシアを妹の代わりのように思っていたんだ。あの娘の名を呼ぶと、まるで妹を呼んでるみたいで。…故郷に妹を捨て、今シアを助けられずにいる。…これほど己が無力だとは…」
「そんなことはねえ」
 途切れ途切れに目の前の女の口からこぼれる言葉。慰める言葉もない自分。
 ぽたり。
 アイザルの手に冷たい水滴がこぼれた。
「泣いてるのか」
「ちぇっ。どうしてかな。もう何年も泣いた事なんて無いのに。あんたといると…ポーカーフェイスになれないや」
 語尾が微かに震えている。
「もう…出てってよ。このままだと…大声で泣きだしちゃいそうだ。自分が情けなくて、歯がゆくて、…やるせなくて」
「大声で泣いていいんだぜ。ここじゃ別の自分を装う必要はないんだ」
 アイザルはケンを強く抱きしめると、耳元に囁きかけた。
「恥ずかしいが…俺はお前に惚れた。お前が好きなんだ」
 ケンの肩を掴んで振り向かせると、そのまま唇を吸う。
 一瞬の出来事に、ケンは驚き、抗おうとした。けれどアイザルの真剣な目を見た時、ケンは身体の力が抜けていくのを感じた。
 やがてアイザルが唇を離すと、ケンは止まらない涙を拭った。
「卑怯者。人の弱みにつけ込むなんて、あんたって最低な男ね」
「知らなかったのか?」
 大げさに驚いて見せたアイザルの表情を見て、ケンはくすりと笑う。そして今度は自分から唇を重ねた。
 一つになった二人の影を、月は煌々と照らし続けるのだった。

 月の淡い光がいつの間にか陽の差すような輝きに代わった。
「ふぁああ」
 逞しい男の腕が天を衝くように伸びる。
 もぞもぞと起こした上半身は無駄無く筋肉が発達し、引き締まっている。
「おい、いつまで寝てんだ」
「…起きてる…よ…」
 男の隣のシーツの中でもぞもぞと動く気配があった。丁度男に背を向けるように、猫のように身体を丸めた様子がシーツに浮かび上がる。
 男はぐっと背伸びすると、思わず腰に手を当てる。
「いてて…腰が痛てえ」
「情けない…」
 シーツの中から相変わらず気だるげな声がする。
「かあ。おまえねえ、昨日あんなに落ち込んでた割りにゃ滅茶苦茶燃えてたじゃないか。おかげで俺とした事が…5回もいっちまった」
 指折り数えながら頭を抱える。
「朝からこんなんで身体が持つかな」
「昨日は…落ち込んでたから…あんまり燃えなかった…」
 シーツの中の声にアイザルはすーっと青ざめる。
「おまえ…あれでかあ?」
「あと2回は…欲しかった…」
「…」
 アイザルは腰を擦るだけで声も出ない。
 ゆっくりとシーツを剥ぐと、丸めたケンの背中に身体を合わせる。
「じゃあ、もう1回戦いくか?」
 力を取り戻し始めた逸物をケンの腰にあてがおうとした時、ケンの指がピシャリと逸物を弾いた。
「いてっ!」
 くるりと身体の向きを変えたケンが両腕でアイザルの首に抱きつき、二人の頬を擦り合わす。
「私を満足させられなかった奴に2度目のチャンスをやるほど、慈悲はない」
「ぎくっ…」
 男としての自我が、自信が音を立てて崩壊していく。
 くくっと喉で笑ったケンは、まるで小悪魔のような笑みを浮かべる。すっと身体を離すと、両手を頭の後ろに組んだ。
 その細い身体からは想像出来ない豊かな肢体。弾力のある乳房は見事な半円形で、ウエストのラインはきゅうっと引き締まり、優雅なラインを描きながら腰へと流れていく。戦士としての鍛え抜かれた筋肉も、その美しい身体の線を損ないはしなかった。
「欲しい?」
 まるで淫婦のように訊ねる。
「ああ…」
 まるで引き込まれるように、虚ろな返事が彼の口から洩れる。
「私を手に入れたかったら、私にふさわしい男になる事…」
「ふさわしい男?」
「王足る資格を持つ者、よ」
「王の資格…か」
「そう、この世にはただ強い奴ならたくさんいるわ。ただ賢い奴も、生まれながらに権力を持つ奴もね。私が欲しいのは王に足る者」
「贅沢な女だぜ」
「そう、私は途轍もなく贅沢な女よ。この世に私を満たしてくれる男なぞいない。だから男を演じるの」
 アイザルは右手でケンの顎を持つ。
「俺は欲しいと思ったものは必ず手に入れる。俺の身体に流れる海賊と商人の血が騒ぐんだ。こいつはとびっきり上等な獲物だって」
「私を捕まえるには、上等の餌が必要よ。例えば…」
「例えば?」
 ぐいっとアイザルはにじり寄った。
「マイン」
「へっ?」
「この国が欲しい」
「???」
「もしあんたがこの国を掌握出来る程の男になったら、考えてもいい。どうせほかにやりたい事なんぞないんだろ?」
 一瞬目が点になったアイザルは、やがて大声で笑い出した。心の底から。
「おまえって女は…面白れえ、面白れえぜ。代議員の末席にも入れねえ俺がこのマインをか」
「なぜ私があなたに抱かれたか、その意味を考えてみる事ね」
「はっ、大変な奴に見込まれちまったぜ」
 その時、扉を激しく叩く音がした。
「アイザル、アイザル起きてるか」
「なんだ」
「奴が動いた」
「動いたか」
 ケンとアイザルは声を合わせて叫んだ。

 折りからの追い風に乗って、ケンとアイザルを乗せた船の足は早い。
 シェスレンとシアは、一足違いでスラーベの港を発った後だった。急遽二人はアイザルの船をかき集めて後を追う。
 旗艦とも言うべきアイザルの「ケルベーナ」を中心に、4隻が輪形陣を組ながら青い海原を疾走していた。
 「ケルベーナ」は大型船ではあったが、船体幅が普通より狭く、積み荷の量より速度を重視したタイプだ。三本のマストに、片舷40本の櫂を備えている。
 他の4隻は「ケルベーナ」に比べれば一回り小さいが、やはり快速船タイプであった。
 ケンはマントを靡かせながら、舳先の向こうに水平線をじっと見つめていた。
 アイザルが銀杯に入った酒を差し出す。
 黙ってそれを受け取ると、一口口に含み、杯を両手で抱えるようにした。暖められた酒は冷たい海風に冷えた身体を内側から心地よく暖める。
「捕まえられそうか?」
 じっと水平線を見つめるケンの顔は風に強張って厳しい。
「足はこっちが遥かに早い。風もいい。シェスレンの船団の数は5隻。問題はいつし掛けるかだけだ」
「向こうは戦艦クラスばかりなのだろう。戦士の数が違い過ぎるんじゃないのか。まさかこっちは相手の十倍強い、なんてのはよしてくれよな」
 これまでの経験から、シェスレンの手勢はかなり訓練された戦士達である事がハッキリしている。迂闊に乗り込めば、こちらが全滅させられるだろう。数が多い方が有利である事は、いかなる場合でも不変の法則なのである。
「心配するな。海賊はなあ、漕ぎ手さえも屈強の戦士なんだぜ」
 アイザルは自信たっぷりに言った。
 なるほど。ケンは思った。普通、船の漕ぎ手には奴隷を使うが、その漕ぎ手も戦士として戦えば、戦力は倍増する。
「問題は…奴らがどちらに向かうかだ。北か、東か…」
 後ろから追いかけてはいつか気がつかれる。準備万端の戦艦相手にはこちらの戦力は些か心許ない。アイザルの本心は、待ち伏せに持ち込みたいという気持ちが強かった。
 このまま東方大陸に向かう可能性も否定しがたいし、帝国に向かうのならば北回りの航路を取るのが一番早い。確率は五分と五分。
「…北」
 ケンは低く呟いた。噂通りシェスレンが帝国と繋がりを持っているならば…
「いいのか。東や、万が一南へ向かったら、もうシアを救い出すのは不可能だ。このまま追いついた方が…」
「シアを救い出すためにあなたの仲間や船を犠牲には出来ない。そんな貸しを…私は返し切れそうにはないよ」
「…」
 ケンの血を吐くような言葉に、アイザルは返す言葉がなかった。
 ケンは杯をアイザルに返すと、腰の剣を抜き、南に片より始めた太陽に翳す。(我が神スレイマーよ、我が進むべき道を…ロラン王よ、この剣に誓いし契約を果たさんがために道を示したまえ)
 冷たい風に髪を靡かせ、祈るように目を閉じる。
 軽く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
 感情の乱れは気の乱れ。気の乱れは迷い。
 乱れた気の流れを整える。頭から爪先へ、そしてその反対へ…。
 やがて…
 高く掲げた剣を振り降ろし、水平線に突きつけるようにぴたりと構えた。その顔にもう迷いの表情はない。
「…北へ、北へ向かいましょう。シルビ海、「鎮魂の岬」へ」

 鎮魂の岬。
 いつからそう呼ばれるようになったのか、誰も知らない。
 ただ確かな事は、船乗りにとって非常に危険な難所であるということだ。
 大陸北部から大きく東に張り出したルセンクス半島の先端にあるこの岬をかすめるようにして北回りの船は大陸を回り込む。
 岬の沖合いには所々に岩礁帯が潜んでおり、さらにその沖に北から流れ込んでくる寒流と南から来る暖流がぶつかり合い、どんなに天候のいい日でも荒れている、いわゆる「竜の息吹き」と呼ばれる海域が広がっていた。
 この為、船はずっと沖合いを大きく迂回するか、「鎮魂の岬」と「竜の息吹き」の間の水路を通るかのいずれかを選択することになる。
 そして、この狭い水路を選択して敢えなく座礁した船乗りが多かった事から、この岬を「鎮魂の岬」と呼ぶようになったと言う。
 もっともそうした先人達の苦労のおかげで確かな海図が出来ると、そうした事故は少なくはなっていた。そもそも大陸西方にゼクート帝国が興ってから、殆どこの航路は使われる事はなくなっていたが。
 シェスレンの船団は、一列縦隊でこの水路に進入していた。
 「竜の息吹き」からの勢い衰えぬ波が、白い波頭を作って戦艦の分厚い船腹に打ち寄せる。
 護衛に付く4隻の戦艦がその波に翻弄される中、シェスレンの旗艦たる白き戦艦「サーラ」だけは凪の海を進むが如く静かであった。
 険しい海岸の崖に激しくぶつかり砕けた波が舞い上がるのか、いつもこの辺りはうっすらと霧に包まれている。すでに「サーラ」からは前後の僚船は見えない。
 「サーラ」の艦長は艦橋から不気味な自然の光景を見ながら呟いた。
「いつ通っても厭な場所だ、ここは…今日も何事もなければいいが…」
 側に立つ副長が肯く。
「護衛艦との距離が開いてしまったようです。少し詰めさせましょう」
「いや、もう少し待とう。まだ危険だ」
「はっ!」
 「鎮魂の岬」を過ぎるまで後僅か。
 緊張の張りつめた艦橋の空気を感じて、艦長はふと当直の艦橋詰員に振り返った。
「茶をもらおうか」
 その場にいた者全てが、ほうっと緊張の糸が緩む。
 その時…
「左舷、ユヘス(10時方向)より船影!」
 フォア・トップ(前檣楼)の見張り員の悲鳴に近い叫び声が聞こえた。
 すかさず艦長は叫んだ。
「掌帆長に伝令!フォア、メイン、ミズンマスト揚げ索引けえ!増帆、加速、戦闘用意。」

 その頃シアは艦尾楼の第2層、シェスランの部屋にいた。
「いつになっても、船の上は退屈なものだわ。そうは思わない、シア?」
 航海3日目にして既に船上での生活に飽きたシェスレンは、床の上にちょこんと座ったシアに話しかけた。
 シアは生気の無い瞳で、こくりと肯く。
 純白のドレスの裾を床にまるで花弁のように広げて座っているシアは、主人が命じない限り、それ以上の動作をする事はなかった。そう、まるで人形のように。
「そう、あなたも退屈なの。それじゃあ、こうしましょう」
 シェスレンは手を覆っていた黒いレースの手袋を外すと、左の薬指からすうっとセルサームの指輪を抜いた。
 しばらく考え込むように指輪を弄ぶと、彼女はシアの左手を取った。
「さあシア、指輪の力を見せて」
 シェスレンが指輪をシアの薬指に填める。
 シェスレンより細いシアの指に指輪は吸い付くようにピタリと填まる。
(あっ)
 凍りついたシアの心に見た事もない風景が映った。
 それは戦場となった小さな村の風景。
 傷ついた村人に無情のとどめを刺す戦士達。
 村人達は、抵抗し、泣き叫び、哀願しながら死んでいく。
 震える視界を戦士の足が塞ぐ。
「ちっ、まだガキじゃねえか」
 視界の風景が変わる。
 醜いほど太った中年の男が身体をまさぐる。
 噎せ返るような匂いの口臭を吐きながら、男は唇を奪う。
 男の膝が太股を割っていく。
「い、いたあい!」
 少女の叫びが部屋に響た。
涙で視界が歪んでいく。
 男は少女の頭を押さえると、血塗れの逸物を彼女の口に押しつけた。
 可愛らしい手が震えながらその逸物を握る。
「むう、むう!」
「その可愛い口では儂のは大き過ぎるかな」
 また風景が変わる。
 初老の男が寝ている。視界の主はその上に跨っているようだ。
 視界が揺れる。
「いいぞ、もっと腰を使え」
 男が絶頂に達して目を閉じた瞬間、男の心臓を短剣が貫いた。
 まだ死の痙攣を続ける男の荷物を漁る女の腕。
(これは…シェスレンの心?)
 指輪を填め終えたシェスレンが手を離すと、流れ込んできた映像はピタリと止まる。
(なんて…寒い心…)
 ぼうっと霧の中に霞むような意識に、青い染料を落としたような哀しみが広がる。
 かわいそう…。自分の自由を奪った女なのに、そう思う自分が何故か奇妙に思えた。
 運命に翻弄され、愛する事を知らない人生。そう、この人は本当の愛情というものを知らない。それに比べて自分はなんと恵まれていたのかしら。自分の思い通りにならない時、辱めを受けた時、寒さやひもじさに哭いた時も、いつも側に誰かいてくれた。母や父、友、侍女、家臣、そしてケン…。
 シアの目から一筋の涙がすうっと頬を伝って流れた。
(…ケン!)
 どうしてだろう。あの人の名前だけが、心の中に浮かぶ。
「…どうしたの、何が見えたの?」
 突然のシアの涙に、シェスレンは戸惑いを憶えた。
「答えなさい、シア。そこで何を見た?」
 微かに怒りを含んだ声。
 シェスレンはシアの頬を挟むようにして顔を上げさせると、もう一度訊ねた。
 黙って首を振るシア。
「私の命令が聞けないと言うの?」
 苛立った彼女は短剣をシアの喉元に突きつける。
「聞けない…話せない」
 まるで幼女がイヤイヤをするように首を振り続けるシア。その様子にシェスレンははっと驚き、手を離した。
「あなた、…薬が効いてないの?」
 シェスレンの言葉にシアもはっとする。
 頭がぼうっとしていない。身体が痺れていない。呂律が回る。どうして…
「わ、わたし…」
 その時…すさまじい衝撃と共に船が傾き、二人は床の上に投げ出された。
「な、なにごと」
 慌てたシェスレンとまだぼーっとしているシアの耳に外の騒々しい声が聞こえてきた。
「…襲撃…海賊の襲撃だあ!」
「海賊の襲撃ですって?何てこと!」

 ケン達の「ケルベーナ」は、荒れる海を巧みに乗り切り「鎮魂の岬」の奥の小さな入り江にその船体を隠していた。激しく打ちつける波に船体がきしみ、油断すると周囲の岩肌に船体が叩きつけられそうになる。
 アイザルは巧みに船をこの入り江に入れると、船倉一杯に積み込んでいた麻袋を船の周りに投げ入れさせた。
 残りの船も皆少し離れた入り江で同じようにしているらしい。
「あれは一体なんだ」
 ケンの問いにアイザルは自慢気に答える。
「杉の枝を詰めた袋だ。全部縄で繋いであるだろう?そして所々に小さな錨が結んである。あれを船体と入り江の岩の間に入れてクッションにしてるのさ。そうでないと忽ち船体が岩にぶち当たって砕けちまう」
「へえ、よく考えついたな」
 確かに揺れは相変わらず酷いが、岩肌に船体が擦れる厭な音がしなくなっている。
「密かに考えていた秘密兵器さ。ここを通る船は帝国に関係する船だから襲えば実入りはでかい。いつかこいつを試す機会を狙っていたんだ」
 もっと褒めてくれと言わんばかりに胸を張る、アイザルの腹に軽く肘鉄を加えるケン。
「動機が不純だ。自慢するな」
 少しオーバーに痛がる振りをしながら、アイザルはにやりと笑う。
「まあ大目に見ろよ。後はシェスレン達がここを通るのを待つだけだ」
 こうしてケン達はシェスレンの船団を待ち伏せする事になった。
 追い越して余り時間が経っていなかったから、シェスレンの船団は間もなく姿を見せた。
 一隻…また一隻。
 「ケルベーナ」の目前を船の影が通り過ぎていく。もっとも霧のおかげではっきりとはその姿を見る事は出来ない。強い海風に大きく膨らんだ帆の影で、それと分かるに過ぎない。
 二隻目が通り過ぎると、アイザルは帆を張る準備をさせた。漕ぎ手達が位置につき、ゆっくりと櫓を降ろし始める。
「さあて、来るぜえ。狙い通りの三本マストが来るといいが…」
 アイザルはぺろりと唇を舐めた。
 定石通りなら、旗艦であるシェスレンの「サーラ」が船団の真ん中にいるはず。
「来た!」
 マストに身体を縛り付けていた見張りが叫んだ。
「よし、野郎ども。帆を張れ、漕ぎ出せえ!」
 アイザルの号令が轟く。
 「ケルベーナ」はゆっくりと、そして次第に速度を上げて時化の海へと乗り出していった。
 やがて相手も気付いたらしい。
 「ケルベーナ」に脇腹を見せないように針路を変えようとしているのが分かる。だがある程度速度の出た船がこの時化の海で針路を変えるのは容易ではなかった。
 「ケルベーナ」の衝角が「サーラ」の船腹を捕らえた。
 船腹を食い破るすさまじい音が響きわたる。
 衝撃から立ち直るのも仕掛けたこちらが早かった。
「野郎ども、いくぜえ!」
 剣を抜き放ったアイザルが真っ先に「サーラ」に跳び移る。
 ケンもそれに続く。
 忽ち「サーラ」の船上は戦場と化した。
 待ちかまえていた相手の数は味方の倍はいたであろう。その中を二つの影がまるで旋風のように舞った。
 アイザルは口先だけでなく、腕の方も確かだった。力任せに強引に敵を斬り捨てていく。
 だがそのアイザルが驚いたのがケンの強さだった。
 船の上の戦いは地上と違って慣れがいる。揺れる船上では自分の足場をしっかりと保つのが慣れていない者には難しいのだ。
 二隻の船が結合して幾分ましになっているとは言え、時化の海で揺れる甲板でケンはまるで舞うようにその細身の剣をふるっていた。
 まるで動かぬ人形を相手にしているかのように、次々に斬り伏せていくケン。彼女の周囲には屍の山が築かれていった。
 棲まじい。
 その表現は、ある意味で正しく、ある意味で正しくない。
 注意深く見ればケンはほとんど相手の剣を受ける事無く、相手を倒している。完璧に相手の動きを見切っている。そんな動きだ。
 まるで剣舞を見ているような、美しさがある。
 そんな二人の強さに、「サーラ」の戦士達はたじたじとなり逃げ腰になる。そこにアイザルの部下達が襲いかかった。
 人数では未だに劣るアイザル達だったが、心理的に優位に立っている彼らは次第に相手を圧倒していった。
「ケン、もうここはいい。おまえの連れを探そうぜ」
 返り血に汚れた顔を擦りながら、アイザルが叫んだ。
「分かった!」
 さらに三人を斬り倒しながら、剣騒鳴り響く甲板の上でケンが叫び返す。
 ケンはアイザルと共に船尾楼に降りる階段を駆けて降りた。
「ここか?」
「ここみたい」
 二人は顔を見合わせニッと笑う。
「せーの!」
 ケンとアイザルはシェスレンの部屋の扉を蹴破った。
「ケン!」
「シア、大丈夫か」
 驚きと喜びが幾重にも重なり合ったシアの叫びに、冷静の仮面を装って答える自分に嫌悪を感じながらケンはシアに駆け寄った。
 まだ足元のおぼつかないシアを抱えるようにして立たせると、ケンはそのまま殺気を込めた視線をシェスレンに送った。
 ぞくっ。
心臓を氷の手で捕まれたような悪寒が走る。まさに死神に睨まれた気分。
 シェスレンはいつもの冷たい微笑みすら浮かべられずに、壁に張りついたように動けなかった。
「シアが…世話になったようだ」
 右手でシアを自分の背中に庇うように押しやると、ケンは無表情にシェスレンに剣を向けた。
「礼をさせて貰おうか」
「それには及びません」
 背後からの声にその場に居合わせた全員が振り向く。
「シア姫を除いた皆様にはここで死んで頂くつもりですから」
「ゴースウッド…」
 相変わらず丁寧な物腰で部屋の扉を後ろ手に閉じると、ゴースウッドはほっとした表情のシェスレンに手を差し伸べた。

 シェスレンが彼の手を取ると、ゴースウッドは軽く彼女の腕を捻り、両手を後ろ手に縛り上げた。
「えっ?」
 助かったと思いこんだシェスレンはゴースウッドの行動の意味が計れない。
「ゼクート帝国帝王陛下に代わり、私が皆さんのお命を頂戴致します。まずはシェスレン、あなたはシア姫とセルサームの指輪を手にいれた時から、帝王陛下への反逆をお考えになった。次にアイザル、あなたはマイン最大の実力者ウィンスローの嫡子。あなたの存在は帝国がマインを支配する際に為になりません。そしてケン、あなたがこれまで犯してきた帝国への反逆の数々。許す事は出来ません。よって全員に死刑を命じます」
「貴様、帝国の影忍だったか」
 呻くように呟くシェスレン。
「陛下があなたのような下賎の者を信用なされたと思っているのか。所詮あなたは我々の隠れ蓑、捨て駒、いやあなたの大好きな人形、と言ったところですか。何も考えず操られていればいいものを、欲を出したのがいけません。いずれは処分するつもりでした」
「お前一人で何が出来る!」
 アイザルがゴースウッドに斬り込む。だがアイザルの剣はゴースウッドの直前で弾き返された。
「親衛軍直属の魔導士に下賎の者の剣は効きません。直接私が手を下すまでもない。ほら、あなた方の相手はそこです」
 ゴースウッドが低く呪文を詠唱すると、部屋の四隅のクロークの扉がすーっと開いた。
 ぎしぎしと音を立て、分厚い装甲兵の鎧が動き出す。
「竜牙兵か…」
 ケンはシアをアイザルと自分の間に挟むようにして、部屋の中央に立つ。
「ほほう、竜牙兵を知っているとは珍しい。余程我が帝国に通じていると見える。尚更ここで死んで貰わねばならないようだ」
「どうやらお前が人形使いのようだな。いい腕だ」
「くくっ、人形を操らせれば帝国で私の右に出るものはおりません。あなた方も己の不運に諦める事ですな」
「だが、魔導士としては二流だ」
 苦し紛れに憎まれ口を叩いたケンに、ゴースウッドは動じた様子は見せない。
「で、奴らはいったい何なんだ?」
 冷たく笑うゴースウッドを睨みつけながら、アイザルはケンに訊ねた。
「ゼクート帝国に忠誠厚い騎士の屍を装甲兵の鎧に埋め込み、魔法で復活させた不死の怪物だ。あの装甲はそこらの魔法や武器は跳ね返す。しかも不死ときてるからな。もっともあれは機動力がまったくないから普段は王宮か余程重要な場所にしか配備されないのに」
「で、倒す方法は?」
「無い!」
「へ?無いって、無いのか?」
「あれが動く前なら復活の呪文を唱える魔導士をしとめればいい。だが動き出すと強力な魔法使いの攻撃の呪文か僧侶の浄化の呪文が無ければ無理だ。お前は魔法使いか僧侶か?」
「どっちかというと戦士の部類だろうな。お前は?」
「私も同じ。4体は無理だ」
「そういうことか」
「そういうこと」
「で、どうする」
 余りの自重の重さに床をきしませながら近づいてくる4体の竜牙兵をちらりと見ながら、アイザルはかなり焦りの混じった声をあげた。
「あの装甲に穴を開けれれば、私の剣でも何とかなる。だが4体もいるとなると…」
「だが、動きは鈍そうだ。海に叩き落とせばあの重さだ、二度とあがっちゃこれまい」
「迂闊だ、アイザル!」
 ケンの制止を振り切って、アイザルは左の2体に向かって飛び出した。
 2体の間をかいくぐって窓際に誘い込むつもりだ。
「へっ、余裕だぜ、うあ。」
 まだ5歩以上も間合いがあったのに、いつの間にか1体がアイザルの正面に立ち塞がる。
 竜牙兵の剣が唸りをあげてアイザルに襲いかかった。アイザルは必死でその剣を受け止めたが、ケン達の足元まで吹っ飛ばされてきた。
「素早い!」
 したたか打ちつけた背中をさすりながら、アイザルが立ち上がる。
「だから言ったのに」
「じゃあどうするんだよう」
「静かにしろ!アイザル、しばらく防いでくれ!」
 じれたアイザルの声に怒鳴り返すと、ケンは口の中で呪文を唱え始めた。
(これじゃ4年前とまったく同じだ。けどあの時には優れた魔法使いや剣士がいた。今の私にこの呪文が唱えきれるのか)
 竜牙兵が3人を囲んだ。まるで鏡に映るように同時に剣を振り降ろす。
「ケン!」
「ケン!」
 シアとアイザルが叫んだ。
「うぐっ!」
 4本の剣は3人の直前で弾き返された。竜牙兵はその勢いに数歩よろめき、退く。ケンもまたよろめいたが、シアがその体を支えた。
「む、結界?どうやらその男、魔法を使えるようですね」
 ゴースウッドが面白そうに笑った。
「けれどいつまで持ちますか。その前にこちらを済ませてしまいましょう」
 彼はシェスレンの後ろ手に縛られた腕を捻り上げると、反り返った彼女の胸に手を掛け、ドレスを一気に引き裂いた。
 黒地のドレスの間から、透き通るような白いシェスレンの裸身がこぼれた。
「貴様…何をする」
 捻られた腕の痛みに彼女の言葉も絶え絶えにしか出ない。
「いやなに、一度あなたを味わってみたくてね。一時とはいえ、お仕えしたあなたには快楽のうちに死んで頂こうと言う情けですよ」
 そう言いながらゴースウッドの左手がシェスレンの身体をもて遊び始めた。
 指でシェスレンの乳房の輪郭をなぞり、やがて山のラインに沿って乳首まで辿り着く。
「ん…」
 羞恥からか、シェスレンは目を固く瞑り顔を背ける。
 二本の指が彼女の乳首を挟み、そして揉み上げる。そして二つの乳房の谷間から、鳩尾、臍、やがて薄暗く繁る秘所へと消えていった。
「…いや…」
 微かなシェスレンのうめき声。
 だが彼女の身体は意志に反して火照り、うっすらと汗を帯び始めていた。
「如何です?ご主人様」
 ゴースウッドの手が滑らかに動く。その指がシェスレンの花唇を優しく、時にはきつく揉みしごく。
「やめてえ…」
 いやいやするように顔を振るシェスレン。
「…お…お願い…」
 彼女は目にうっすらと涙さえ浮かべて哀願した。だがゴースウッドは静かに首を振る。振ってシェスレンの唇にキスをした。
 嗚咽を漏らしながら、シェスレンはその唇を激しく吸った。目尻から一筋の涙を滴らせながら、物悲し気な嗚咽を漏らしながら、それでも彼女はゴースウッドの唾液を啜り、嚥下した。
 やがて…シェスレンの瞳から命の光がすーっと消え、ガクリと首を落とした。
「シェスレンさん…」
 シアが悲しげに呟いた。
「勿体ねえことしやがる」
 アイザルがぽつりとこぼす。
 ゴースウッドは手を離し、シェスレンの身体を倒れるに任せた。生命の炎の消えた肉体は、ただ重い音を残して床に崩れた。まるで人形のように。
「これで一人…」
 口元と指をハンカチで拭きながら、何の感情も篭もらない声でゴースウッドは呟く。
「糸の切れた人形は、処分するのみ」
 シアとアイザルはどうしよう、といった表情でケンを見た。
 ケンはシアに支えられながら、呪文の詠唱を止めない。
(悔しいがあいつの言う通りだ。私の力じゃ1体倒せればいいほう)
 魔法使いが常に身近にいたアクリスの騎士だから、ある程度の魔法を使う事は出来たが、到底本当の魔導士には及ばない。まして攻撃用の魔法は、力を外部に放出する技であるから、レベルの低い者ほど途轍もない体力を消耗する。
 汗が全身から噴き出し、目の下には隈が浮き上がる。呪文を紡ぐ言葉の一つ一つがケンの体力を棲まじい勢いで奪っていく。
 そんなケンの姿に、シアの心は痛んだ。
(ケンが苦しんでるのに…シェスレンさんが殺されたのに…何故私には何も出来ないの…)
 ほんの一時垣間見たシェスレンの寂しい、悲惨な生涯が想い浮かぶ。
(あの人の心も決して闇では無かった。私に力があれば…救う事も出来たのに…)
 それは叶わぬ事だったのかも知れない。
 けれど…
(助けたい…ケンや私を救いに来てくれた人達を…何故私には力がないの…もし私に帝王の血が流れているのなら、三種の神器を使いこなせると言うのなら、答えてセルサームの指輪よ!)
(ほっ、ほっ、ほっ。フロリア・アクレスともあろう者が弱気じゃのう)
 その時、ケンの心の中に何者かが囁いた。
(だ、だれだ?)
 自分の本当の名前を呼ばれてケンは一瞬慌てた。
(だいぶお困りのようだ。助けてしんぜようか、フロリア殿)
(貴様いったい…)
(何、大した事はない。我が未来の主がお前を助けよとご命じだからのう)
 ケンは振り返った。
「ケン」
 そこには、か細い二の腕でケンを支えるシアがいた。
 声を掛けたい。
 うっすらと涙を浮かべるシア。
(ケン、ケン、ケン…)
 シアの心の叫びが流れ込んでくる。左手でシアの左手をきつく握る。
(あっ!)
 ケンの中に棲まじい力が流れ込む。
 棲まじいが優しい力。
 汗が引き、身体中に精気が満ちていく。呪文が苦痛でなくなっていくのが分る。
(これなら、出来る!)
 ケンは右手の剣を目の前に突き立てると、印を結んだ。最後の詠唱に入る。
「天の龍、地の蛇、海の竜よ、鎚を持ちて汝が敵を打て。」
 叫んだ瞬間、地が裂けるような雷鳴が轟き、光の柱が部屋を突き抜けた。

 カラン…。
 床に倒れ伏したシア達の周りを囲んでいた竜牙兵達。
 その一体の兜が床に転がり落ちた。
 鎧の中には何も残っていない。
 まるでその音を合図にしたかのように、4体の竜牙兵の鎧は音を立てて崩れた。
「…ば、馬鹿な…」
 ケンは、ゴースウッドのうめき声で気がついた。
 ゴースウッドは扉に半身融け込んで、しかも殆ど全身が炭と化していた。
「…こんな…棲まじい…魔法を…」
 口を動かす度に身体のどこかが崩れていく。
「…初めて…見た…セル…サーム…」
 やがてゴースウッドの身体はぼろぼろに崩れていった。
「うーむ…」
 アイザルが呻き声をあげながら、ふらふらと立ち上がった。
「シア」
 ケンは床にうつ伏せに倒れながら、隣に伏せているシアを呼んだ。  
「う…ん」
 うっすらとシアの瞼が開く。
 まだ意識が完全に戻らないようだ。シアは声のした方に顔を向けた。
「…ケン?」
 最初はぼんやりと、そして次第にハッキリと…
「ケン」
 シアはにっこりと笑った。無防備な、安心しきった笑顔。
(綺麗だ)
 本当に久し振りに見たシアの笑顔。それは百万の宝石にすら勝るほど、美しかった。

 主を失った事を知った兵達が降伏して、甲板の上の戦いも終わった。
 シア達は一足早く「ケルベーナ」に移っていた。
 消耗しきったケンはアイザルに抱き抱えられながら、シアと共にアイザルの部下が「サーラ」からお宝を運び出すのを眺めていた。戦いの余韻が残っているのか、シアはしっかりとケンの手を握って離さない。普段なら決してこんな事はしようとも思わないし、出来ないだろう。
「おまえ…知ってたな」
「何を?」
 少し真剣なアイザルの視線を避けるようにして、ケンは首を傾げた。
「俺がウィンスローの息子だって事をだ」
「ああ、そのこと。知ってたよ、ウィンスロー殿の御子息は放蕩息子だってな」
「だから俺をけしかけたんだな、おまえ」
「そうかあ?」
 とぼけるケン。ふっとその表情が曇る。
「見ただろう、帝国の恐ろしさを。私らはこんな奴らに狙われてるのさ」
「だがお前はその上を行ってるじゃねえか」
「私の力じゃない、シアの力だ。だが…」
 ケンは一瞬遠い目をしたかと思うと、アイザルの目をじっと見つめた。
「だがいつか、私らだけじゃどうしようもなくなる。もっと大きな力が必要な時がくる」
「おいおい、だから抱かれたってんじゃ…」
「…言い忘れたけど、私は凄く打算的な人間でもあるんだ」
 少しひねくれたような、悪戯ぽい笑みを浮かべる。
「好きだから抱かれた。これは本当。でも好きだけでは抱かせない」
「ちい、高い買い物をしちまったかな…ま、いいか。さて、スラーベに戻るか」
 しばらく考え込む様子だったが、アイザルは脳天気に笑ってケンに頬擦りした。
「髭が痛い。それに恥ずかしいじゃないか」
 アイザルの不精髭に閉口したケンは、顔を赤らめて怒った。
「はは、可愛い奴。本当、おまえがあんなに凄い奴だとは思わなかったぜ」
「馬鹿」
「買ったぜ、おまえを。そこの嬢ちゃん込みでな。ま、商品先渡しじゃしょうがねえ。だがたっぷり楽しませてくれそうだ、こいつは」
 ケンが口を開こうとした瞬間、アイザルのキスがそれを塞いだ。
「むうううっ「」
 ケンは慌てた。シアが見ているのが恥ずかしい。
 それはラブシーンというより、喜劇を見ているようだった。愛おし気に口を吸うアイザルと、彼の腕の中でじたばたするケン。
 シアは初めて見るケンの取り乱した姿に、始めぽかんとしていたが、間近で見る濃厚なキスシーンにぽっと頬を染めた。やがてケンの手を握っていた手に力がこもる。
「ん?」
 残った片手でアイザルの顔を思いっきり突っぱねながら、ケンはシアの方を見た。
「助けに来てくれて、ありがとう」
 少しうつ向き加減にはにかむシア。
「どうした、やけに素直じゃねえか。お姫さんにはちょっと毒だったか」
 照れ隠しなのか、ケンの口からはいつも通りの男言葉が出た。冷静に見ればその時のケンの格好からは、その言葉はまったく似合わない。
「…]
 三人ともそう思ったのか、一瞬の沈黙。
 でもシアには、いつもは条件反射的に怯えるか、むっとくるその言い方も今だけは気にならない。
 その時、三人の心に声が響いた。
(マインの王よ。今はここまでじゃ)
 アイザルは突然の声に、辺りを見回した。だがケンとシアの視線に気がつく。
「…その指輪か?」
 シアが黙って肯く。
(今はまだ合の時ではない。その時が来ればまた巡り会えるじゃろう。そして帝王の娘よ、儂とお前が出会うのもまた、今ではない。まだお前は己の目的も力も心も定まってはおらん。我らと出会う為の準備をするがよい。先を越されぬようにな…)
 セルサームの指輪から、光がこぼれ始めた。それはやがてケンとシアを包む。
(帝王たる者を導く賢者の娘よ。鍵であり、鏡である娘よ、心せよ。運命の女神はそなたに過酷じゃ)
(どういうことだ)
 ケンは心の中で問い返した。だがセルサームの指輪は、微かに笑いを漏らしただけで、それ以上何も語りはしなかった。
 二人を包む光は勢いを増す。
 アイザルの腕にかかるケンの重さが失われていく事に気付いたとき、彼は別れを予感した。
(取り合えず送ってしんぜよう。正しい道程に。すべてはこれから始まる…)
「ケン」
「アイザル」
「最後に一つだけ教えろ。お前の真実の名前を」
 光の中で姿が霞んで行く二人。ケンは叫んだ。
「フロリア。アクリスのフロリア・アクレスよ」
 その言葉を最後に、二人の姿はかき消すように消えた。
 今二人が消えた場所には荒々しい海が広がっているだけであった。
「フロリア…か。あの琉華のフロリアか。ははは、本当に面白れえ女だぜ、お前は」
 アイザルは空になった腕の中を見ながら笑った。
「フロリア、俺はお前との約束を果たす。そん時には、お前は俺のもんだぜ」
 彼は拳を握り締めると、息を吸い、ゆっくりと吐いた。
(マインの…王、か。いい夢が買えたようだ)
 やはり彼も生粋のマイン商人だったのである。
「やいやいおめえら!何ぐずぐずしてやがる。お宝を積み終わったらすぐに出発の準備だ。帆を張れ、面舵一杯!」
 大声で叫ぶアイザルの顔には不敵な笑みが浮かぶ。
 それは確固とした意志を、目的を持った男が浮かべる笑み。
 彼はゆっくりと視線を海へ戻した。
 その先で、北の海は未だ荒れ狂う事を止めなかった。

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