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10章 紅妖精

 その2人の前には初秋の風に波打つ緑の草原が広がっていた。
 遥か上空を鳥が飛んでいくのも見える。
 柔らかい日差しと、爽やかな風がやたら心地良い。
 実にのどかな風景だ。緊張感や殺気のかけらも感じられない。
「…ここが「ヴィルトの迷宮」か?」
 ややあって、片方が発した言葉には疑問符がたっぷり含まれていた。
 スパイスに殺気が効いている。
 背景にはまるで合っていない口調だったが、抜けるような青空は文句も言わずその言葉を呑み込んでいった。
「ここが「ヴィルトの迷宮」だ」
 質問とほぼ同じ言葉ながら、答えの持っているベクトルは質問とは正反対の方向を向いていた。
 すなわち単純明解、かつ率直というやつである。
 2人の間にしばらく沈黙が落ちる。
 実にシンプルな質疑応答だ。
 質問に対する明確な返答、模範的と言ってもいいかもしれない。
 とはいえ、これはあまりといえばあまりな会話である。
 質問者はケン、答えたのは道案内役の牧童だ。名前はコルという。
「じゃ、俺はここで」
 コルがくるりと背を向ける。
 ケンが慌てて呼び戻す。
「ちょ、ちょっと待て。どこに入り口があるんだ」
「そこら辺りだ」
 と言って、コルが指さしたのは、まさにその辺りだった。
 特に変わった所はない。ただの草原だ。
 いや、よく見ると微かに道らしきものが見てとれる。
 だがそれにしても、野うさぎが通るけもの道みたいなものだ。到底迷宮の入り口に通じるような雰囲気はない。
「ふざけるなよ」
 ケンの口調に含まれる殺気の割合が急上昇していく。
 こちらを向いたコルが困ったような顔をする。
「だからどうせこの地下に大迷宮が広がっているとか、そんななんだろ」
「この前の人も、そのまた前の人も同じ事を言ってたけど…」
「けど、なんだ」
「俺が違うと言ったら、みんな怒った。あんたももう怒りかけている」
「………」
 ケンは何かを言いかけたが、途中で呑み込むと大きく息をついた。
 コルはその様子を見ている。いや、ケンを通して背後の風景を眺めていると言ったほうが正解なのかもしれない。
「あのな、俺は連れをさらわれて、さらった奴にヴィルトの迷宮まで来いと言われてるんだ。そこら辺は道案内を頼んだ時にも説明したはずだな」
 大きくうなずいた。自信満々である。
「俺も半月に一度は、ヴィルトさんの所に食いもんを届けてる」
 胸をはって言い切った。
 ケンはもうひとつ大きく、今度は明らかなため息をついた。
「もういい、分かった。これから先は俺一人で行く。帰っていいぞ」
 手を振ってコルを帰す。喜々として帰っていった。
 わずかの間肩を落としていたケンだが、首を数回振ると気を取り直したように再び進行方向に向き直った。
「さて、とりあえずこのまま進んでみるか」
 自分に言い聞かせるように呟くと、先程コルが指さした方向に向かって、歩きだし始めた。

 微かに見える道(らしき跡)にとりあえず一歩踏み込む。
 取り立てて変わった感触はない。そのまま道に沿って進んだ。
 しばらく行ったところで道が左右に別れていた。
「ふむ…」
 先の様子を見ようとして、何気なく道から外れた。
 途端に何かに足を引っ掛けて、よろめく。
「おわっ」
 そのまま、べちゃっと転倒した。もろに顔面を打ちつけてしまい、しばらく苦悶する。
「…っつぅ」
 普段のケンならば、この程度つまづいただけで転んだりはしない。
 首をひねりながら、足元を確認する。
 ケンの足を引っ掛けたのは、よく子供が仕掛けるような2本の草を結んだだけの簡単な輪だった。
 いぶかしげに思いながらも、草を引き千切る。簡単に切れた。
 服についた埃を叩きながら立ち上がる。
 立ち上がる前に周囲を見渡したのは、やや照れていたのかも知れない。
 倒れたところは前の道の上だった。
 その事に気付くと、少し表情が硬くなった。ゆっくりと道の周辺を見回す。
「まさか…な」
 今度は注意深くそろそろと、草原に足を踏みいれた。
 一歩、何も起こらない。
 二歩、大丈夫。
 三歩目を出そうと二歩目の足に体重をかけた時だった。
 ぼこっと音がして、その部分の地面が陥没した。ほんの握り拳程度だったが、ケンの身体は大きくバランスを崩して、宙を泳いだ。
 咄嗟に出したもう一方の足が草を踏み、ずるりと滑る。
 このままではさっきの二の舞だ、瞬間的に頭の中であの痛みが蘇り、ケンは思わず両腕で顔をカバーした。
 ごき、という音がした。
 倒れこんだところはやはり前と同じ道の上、ただし今度は地面から少し露出した岩に脛を思い切りぶつけてしまった。
「…」
 足をかかえて、またもや苦悶する。
 痛みが治まったところで、今の穴を確認した。どうも土龍か鼠の巣のようだ。
 人工的な作為は感じられない。
 だが、どう考えてもこれは不自然だった。
(…何かの結界?、しかしそれにしては仕掛けが甘すぎる…)
 実際、今の2回の転倒でのケンの被害は、鼻の先を擦りむいた事と、脛の青あざ位のものである。
 しばらく地面の上にあぐらをかき、考え込んでいたケンだが、やがて何事か決心したようにすっと立ち上がった。
 目の前で2本に枝別れした道を見通す。
 右の道はまっすぐ前方に伸び、左の道は緩く湾曲して左手の方に消えている。
 ケンのいるところから左手の道のしばらく先の部分は直線の歩数にして40から50歩位といったところだが、道に沿っていこうとすると倍近くの距離が有る。
 そこまでの距離をもう一回確認すると、一気に駆け出した。
 勿論草原の上を、である。
 鳥の声と風が渡る音だけの草原に派手な音が連続し始めた。

 それからしばらく、というにはやや多い時間が経過した後。
 ケンは道の上で仰向けになって青空を見上げていた。憮然たる表情だ。息が荒い。
 見ると、さっきの場所から10歩も離れていない。
 着衣の上からは見えないが擦り傷やら青あざはそれこそまんべんなく全身についている。
 上空でまたひょろろろと鳥が鳴いた。白い雲が風に流れていくのが見える。
 あきれ返るほど緊張感も殺気も無い。
 しかし道以外の草原の部分はまともに歩けない。それははっきりした。
 いまやこの草原こそが「ヴィルトの迷宮」である事は間違いなかった。
 道に沿って行くしかない。恐らくは複雑な迷路になっているであろう道のりだ。
 道に寝転がったままのケンのすぐ横を風が抜けていった。草がそよぐ。
 ふっと息を抜いた。
 そのまま、上体を起こす。
 相変わらずののどかな風景がぐるりと視界に広がっている。
 思わず苦笑が漏れる。コルの言葉は間違っていなかった訳だ。
「油断したか…」
 ケンの目の前には、既に帰還不能の迷宮と化した緑の草原が視界の果てまで続いていた。


(また捕まっちゃった。ケンが怒るのよね、さらわれるのはあたしのせいじゃないって口答えするとすぐ殴るし。今度はどうやって言い訳しよう)
 シアはそう考えている自分に気付き、我ながら余裕があるなと思った。
 こういう状況に慣れてきたのかもしれない。
 今回はこれまでと違ってそうひどい事をされていない事も、彼女の気持ちを楽にしている。
 手首と足首を縛られ、椅子に座らさせられているだけで、裸にされるとか、いやらしいことをされるとかいった類の事は、今までのところ無さそうな気配だ。
(それに、捕まっているっていってもこんな所じゃあ…)
 改めて視線を周囲にめぐらす。
 彼女の拉致されているそこは、底抜けに明るい青空の下であった。
 まわりは風に揺れる緑の草原であり、やけに牧歌的な風景が広がっている。
 シアのいる付近だけが草が無く、どういう仕組みになっているのか風もそこでは感じられない。
 透明な壁で出来た家の中にいるといったらいいのかも知れないが、それにしては開放感が有りすぎる。風は入ってこないが外部との空気の流通は自由、日差しは暑からずといったところに微妙に調整されている、といった感じだ。
 傍らには人が2人。
 ひとりは町でシアをさらった傭兵の格好をした女性で、ブロンドの髪を短く刈り上げている。美人といって良いが、冷酷そうな目許が印象を悪くしている。
 もうひとりはどうやら普通の人間ではなく、2人の会話を聞いていると、エルフ、であるらしい。
 そういえば立ち居振る舞いがどことなく人間離れしている。
 今までエルフなど見たことがないのでよく分からないけれど、少なくとも外見は頭に有るエルフのイメ−ジにあっているな、とシアはぼんやり考えていた。
 長身である。ケンより頭一つから一つ半分位は高い。
 髪の色はきれいな白。首と腰の中間位までのその髪を、丁度首の辺りと最後の背中の部分の2ヵ所で縛っている。
 動きやすそうな軽装の服を着ているのは判るが、シアが目を覚ましてからずっとこちらに背を向けたままなので、顔の方はあまりよく見えない。
 ただ、話し方を聞いていると、やさしそうというか、現実から少し遊離しているような、どちらかというとピントがずれているような印象がある。
 今はシア自身の取扱いに関することで2人は言い争っているらしい。
「…だから、あの娘ひとり引き渡すだけでいいんだ。早く帝国の兵隊に連絡をつけなきゃなんないんだから、さっさとあたしとこいつをここから出すんだよ、ヴィルト」
 人間の女性がいらついたような口調でまくしたてる。
「あら、でもあなたから聞いたお話ではそのひとのお供のひとは大層強いって。私、是非お会いしたいわ」
 ヴィルトと呼ばれたエルフの女性は先ほどから終始マイペースである。
「ならいいじゃないか。そいつはもうすぐここにやって来るさ。ケンって奴だ。いくらでも会ったらいい」
「でもこの娘さんがいなければ、そのケンってひとだってすぐに行ってしまうでしょう」
「ねえ、あなただってそう思うわよね」
 突然ヴィルトが振り向いてシアに歩み寄る。
 後ろ姿と声の印象を裏切らない、いや遥かにそれを上回る美貌がシアの顔を覗きこんだ。
 一瞬シアの脳裏にアーフェスの顔がよぎる。
 具体的に顔が似ているという事ではない、何か彼女を思い起こさせる雰囲気がヴィルトにはあった。
 すっきりと通った鼻梁、ほんのり紅をひいたような桜色の唇。
 少し下がりがちの目は欠点というよりも、全体から受ける優しい感じを倍加する方向に働いている。
 深い灰緑色の瞳が彼女の瞳をまっすぐに見つめていた。
「あ、えと…」
 思わず口篭るシアに優しい微笑みが投げかけられる。
 まさしく天使の微笑みという形容がふさわしい。
「いいわね」
「…えっ」
「あなたみたいな娘さんと2人きりで旅しているなんて、ケンていう方はよほど強いんでしょうね」
 暗にシアの無防備さと役立たなさを指摘しているようなものであるが、勿論彼女はそんなことには全然気がつかない。
「ええ」
 力強く肯く。
 ヴィルトの目が遠くを見るような目つきとなる。
 その口元に浮かぶ微笑みが、しかし先程とこころなし異なる様な気がして、シアは訳も判らず微かな不安を覚えていた。
「簡単な事だ」
 刈り上げブロンドの女性がそちらに背を向けているにも構わず、ヴィルトに話し掛けた。
 シアの事をまったく無視している。
「嘘でもなんでもついてごまかしゃいいじゃないか。こいつを返して欲しけりゃ相手をしろとかなんとか言って」
「私、そういう事は苦手なんです。ね、一緒にそのひとに会いましょう、オウルさん」
 シアを捕まえた方の女性の名前はオウルというらしい。
 オウルのつっけんどんな物言いにもヴィルトはにこにことしている。
(それにしても)シアは思った(なんだかとんでもない人みたい…)

「冗談じゃない。あたしが奴にここまで来いと言ったのは、単なる時間稼ぎで、奴の相手をするためなんかじゃないんだ」
「ということは、ケンていう方はあなたより強いのかしら」
 随分直接的な質問だが、喋りかたのせいか皮肉には聞こえない。
「ふん、出来ることは確かだけどね」
「でも負けない、って顔をしているわ」
「当たり前だ」
「まあ素敵」
 素直な賞賛を送るヴィルトに対し、オウルは一瞬冷たい視線を向けた。危険なものが瞳をよぎる。
(もともとこいつとは相棒でもなんでもない。いっそ…)
 そこで躊躇した。
(一体こいつは強いのか、弱いのか)
(確かにここらで「ヴィルトの迷宮」と言えばかなり名は知られているし、相当な数の盗賊や魔術士、剣士がここへ来たっきりてな話は事実らしいが、こいつ自身の腕前は…)
 賞金稼ぎという商売柄、相手の腕をある程度は見切る自信があるオウルだが、ヴィルトに関しては勝手が違った。
 エルフという連中が皆そうであるのか、それともヴィルトだけがそうなのか、まるきり強さのレベルが読めないのである。
 歩き方や動作を見ると、剣術の類の腕の方はほとんど並み以下だろうと予想はつく。
 問題は魔法の類で、オウルがここへ来て半月程になるが、ヴィルトが魔法を使ったところはまだ見たことがない。
 今まで何人か賞金首の魔術士ともやりあったが、そいつらとは全く異質な感じがした。
 確かにここいら一帯の結界を張ったのは彼女らしいし、その面積と効力を考えてみると実力的にも相当なものがあるのも判る。
 それでも危険な攻撃魔法を持っているとは到底思えない、勘がそう告げている。だがその同じ勘がこいつには何かあると、そうとも告げている。
 結局ここがヴィルトの迷宮内ということ、シアも無傷で引き渡さねば賞金が出ないということも考え、とりあえず殺意を引っ込めた。
 ただし、完全に無くなったわけではない。チャンスがあればためらいはしない。
「なあ、夕べもさんざん楽しませてやったろう。あたしもここに来てもう半月だ。あたし達は相棒みたいなもんだろ。だからさ」
 一転して、今度は口説きにかかる。
「あちらの趣味が一致して楽しんだのはあなたも御一緒でしょう。このひとの件に関しては、私は場所を貸してあげただけです」
 言葉の内容はにべもないが、口調が口調だけについ、ああ、そんなものかなと、納得してしまいそうになる。
 それでもオウルの頬が微かに紅潮する。
「ふん、何があちらの趣味が一致した、だ」
 殺意ではないが、それによく似た何か別のものが瞳に浮かんできた。
 ぐいと一歩近寄ると、胸ぐらを掴む。
「ふざけるんじゃないよ、この変態」
 そのまま地面に突き倒した。
 いきなりの展開にシアも思わず小さく悲鳴をあげる。
「え、あたしまであんたみたいな変態と一緒にするんじゃないよ」
 つまさきで横倒しのヴィルトをこづく。
 ヴィルトはされるままだ。
「ほらほら、これでどうなの。いってごらん」
 右手に持っていた長剣を鞘ごと使い乳房をこねる。続いてブーツの踵でわき腹を蹴りあげた。
「やめて、仲間同士でしょ。ひどいことしないで」
 見ていて耐えきれずに、シアが制止の叫びをあげた。
「あら、お姫様。優しいのね。でも、よく見てごらん、こいつの顔を」
 そういって足の甲でシアの方にヴィルトの顔を向ける。
 苦しんでいるというよりは恍惚としているといった表情だ。
 というよりは、頬の紅潮、瞳の潤み具合など、明らかに欲情している。
「それだけじゃないよ。ここだって、もうぐっしょりのはずさ」
 そういって股間に足先を乗せ、力を込める。
「あぁ、やめて…」
 本気でやめて欲しいとは到底思えないような声音で、ヴィルトが嘆願する。
「判ったろ、こいつはこんな奴なんだよ。おとなしそうな顔しやがって、とんだ変態さ」
 だがそう言うオウルの眼も、とてもまともとは思えないほど興奮に輝いている。
 更に続くオウルとヴィルトのどつきあい(というよりはオウルの一方的ないじめであるが)を呆気にとられて見ていたシアだが、眼前の光景にどこか既視感を覚えていた。
(あれ、こんな光景どこかで見たことあるような…)
 少し考えて、ケンと自分も端から見れば夜毎似たような事をやっているのではないかと思い至り、シアは赤面した。同時にヴィルトに妙な親近感を覚える。
(ちょっとまってよ。ということは、このままいくと最後は…)
 改めて2人の方を見やると案の定、床上のヴィルトは既に身にまとっているのはわずかな布切れだけという裸同然の格好であり、一方のオウルも上半身がはだけて胸をさらけ出している。
 ヴィルトをただ小突くだけでは飽きたらなくなったのか、オウルが彼女の上にかがみ込んだ。
 その手に陽光をきらめかせるものが握られているのがシアの目に映った。
 どこから取り出したのか、手のひら程度の長さのナイフだった。
 それでヴィルトの肩口から胸の隆起にかけてのラインをなぞる。
 2人、いやシアも含めて3人の視線が銀色に光る刃に集中する。
 まるでその視線が押したかのように、オウルの手に力がこもった。
 きめの細かい白い肌が、ナイフの刃に沿って限界までくぼみ、やがて鮮血が溢れだした。
 ヴィルトが声も出さずに感極まったような表情で喘ぐ。
(えっ…ちょっちょっと)シアが心中あせる。
 目の前の光景はいまや彼女の理解の範囲を越えた世界に突入しようとしていた。

 オウルがゆっくりとナイフの刃を引く。
 ヴィルトのしなやかな肢体が反り返る。
 血の筋が胸から脇腹を伝って地面に滴った。
 二人の唇が近づいた。舌を絡めあう。
 濃厚なキスをたっぷり交わした後、オウルの頭が下に降りていき、無防備な喉に、形の良い胸にその舌を這わす。
 その間も左手のナイフはゆっくりと動きつづけている。
 ナイフを握っていない方の手、身体を支えていない方の手はお互いの股間を探りあっている。
 顔の位置がナイフと同じところまで来ると、舌を伸ばして血を舐めとった。それをそのまま肌になすりつける。
 おそろしく淫猥な動きであり、背徳的な行為だった。
 だが、それよりもシアが目を離せないでいるのはヴィルトの胸の谷間に食い込むナイフの刃だった。
 既に白刃の半ばまでが肉の間に埋没している。流れる血は止めど無い。
 どう見ても生命に関るような重傷だ。
 なのにオウルはともかく、ヴィルトまでもが手を休めない。
 時々漏れる呻き声は、苦痛によるものと快楽によるものが半々だ。
 更に刃が沈み、新たな血の筋が流れる。
 まさに白昼夢の世界だった。
 この手の状況はシアも今までの旅の中で何度も見てきている。いや、自分が当事者だったことも2度や3度の話ではない。
 だがそれらは皆、加害者側のみの快楽を煽り立てる為の一方的な行為だったはずだ。
 今、シアの眼前で繰り広げられている光景はそれらとは本質的に異なる、もっと病的なものを含んでいた。
 周囲はさんさんと日光が降り注ぐ緑の草原である。
 その真ん中で繰り広げられている痴態は本来、夜の薄闇の中、ランプの頼りない明かりの下で密やかに展開されるべき類のものだ。
 白日の下でのその行為は淫美な妖しさよりも、陰惨な狂気ばかりを周囲に振りまいている。
 側で見ているシアにまで伝染しそうな凶々しさが大気に満ちていた。
 更に果てしなく続く血の饗宴に頭の芯が痺れたような感覚に陥りながら、シアはこの狂気の源が責めている側のオウルでは無く、血まみれで悶えるヴィルトに有ることを直感していた。
 2人の指の動きが激しさを増した。
 と、オウルがナイフを持つ方の手にぐっと力がこもる。
 そのまま押し込む。
 それまでのゆっくりとした速度ではなく、ずぶりと指3本分は一気に沈んだ。
 血が激しくしぶき、オウルの頬を濡らす。
 その背筋が硬直した。
 眉間に皺を寄せ、肩を震わせる姿は明らかに彼女が絶頂に達した事を示している。
 ヴィルトの表情はシアの方からは見えない。
 ただ、その白い脚に伝わる緊張感だけはシアの目にも見て取れる。
 それが苦痛によるものなのか、それとも快楽によるものなのかまでは判別はつかなかった。
 気がつくとシア自身も手を握り締め、両足を緊張させている。掌は汗でべったりだ。
 しばらく、2人はそのままの姿勢で止まっていた。
 やがて、ヴィルトの脚の力が抜けると、右手がゆっくりと胸に向かって上がる。
 そっと胸のナイフに触れた。
 いまだかなりの力がこもっているオウルの手ごと、その手で包みこむと徐々に引き抜いた。
 また新たな血が流れるが、先ほどの勢いはない。
 ようやくオウルがヴィルトの側から離れた。
 ひどく疲れたような表情をしている。
 シアもほっと息をつく。まだ頭の中は真っ白だ。
 対するヴィルトは血を失ったせいか顔色はさすがに白い、だがその顔に浮かぶ表情自体は先ほどオウルと話していた時と殆ど変りない。
 瞳の潤み具合が興奮の余韻を感じさせる程度である。

 脇にあった布で胸元から下腹部にかけてべったりと付いている生乾きの血を拭き取りながら、オウルに話し掛ける。胸からの出血は既に止まりかけている。
「…肺まで…届いたみたい…今日のは割ときつかったわ。…あなたとの内では一番じゃないかしら」
 口から血を咳き込みながらもうれしそうな口調でいうヴィルトに、オウルは背筋に冷たいものを感じた。
(こいつ…)
 ヴィルトとの情事はいつもこうなる。
 回数を重ねるごとにエスカレートしていくようだ。
 もともと、オウル自身、嗜虐的な傾向があったのは確かだが、ヴィルトを相手にするまではこれほどでは無かった。
 今だってそうだ。ナイフを握ったところまでは、せいぜい皮1枚位までと考えていたはずだ。それが血が流れ始めた途端に、自分自身に抑制が効かなくなってあの始末である。
 そもそも今はこんな事をしている場合ではない。
(やはり、早めに手を切っておくべきだったか…)
 と、そうは思っても、あの快楽。
 ナイフが肉の間に潜り込んでいく時の感触、迸る鮮血の生暖かさ、あれはもはや忘れられないだろう。
 ここから出ていった時に、それを自分は我慢できるか。
 今は相手がヴィルトだからいいが、普通の人間相手にあんな事をすれば只事では済むまい。それこそ、自分が賞金を掛けられる側に回ってしまう。
 オウルは軽く頭を振って、膨らみかけた不安感を追い払った。
 とにかく、今はシアを連れてここから出ることの方が先だ。
「おい」
 とりあえず声を掛けた。
 先の会話でヴィルトの方でも、オウルに仲間意識など全然抱いていないことははっきりしている。
 なんとか上手く言いくるめるか、あるいは…。
 オウルが次の言葉を選んでいると、唐突にヴィルトが口を開いた。
「誰か来たようね」
 草原に向けて首をめぐらす。
 視線の動きに合わせるかのように微風が草をそよがしていった。
 精神を集中しているのか、口元の微笑は普段より淡い。
 確かにそこにあるのだが目を凝らすと見えなくなってしまう、よく磨かれた水晶板を思わせる。
 澄んだ瞳はそこに映る草原の草一本そよぐ様子まで見える様な錯覚を起こさせた。
 青空と緑を背景にほつれ毛をそよ風になびかせ、地平の彼方を見つめるその横顔は、もう慣れたと思っていたはずのオウルに、彼女への返答を忘れさせる清々しさと美しさに満ちていた。
 一瞬ともしばらくの間とも判別できない時間が流れる。
 ヴィルトがオウルの方に向き直った。
 顔にはいつもの微笑みが浮かんでいた。
「かなり強い人よ、ケンさんかしら」
「…多分な」
 何とか声が出た。ようやっとヴィルトの顔から目を外す。同時に思考も再開する。
 時間的にはオウルの予想していた通りの時刻だ。ただ問題は自分(とシア)の居場所が予定と大幅に異なっている点だった。
「で、どうする気だ」
 何となく答えは予想できたが聞かずにはいられない。
「勿論、お招きするわ」
 空に浮かぶ雲の様に淡々とした返事は、吟遊詩人の詩吟よりも美しく響いた。

 ヴィルトの言葉はシアの耳にも届いていた。
(ケンが来てくれた…)
 安堵感がどっと湧いてくる。
 自分では余裕があったつもりだが、何故か涙が溢れそうになる。
 さらわれて一昼夜も経っていないが、ケンのばさっとした赤毛がひどく懐かしく感じられた。
 自分を叱る声でもいい、あの低いがよく通る声を聞きたい。
 いつのまに自分の心の中でケンがこれほど大きい割合を占めていたのか。
 その認識はしかし、シアにとってむしろ心地良いもののように感じられた。
 草原を渡る一陣の風の中に、ふいにケンの気配を感じたのは気のせい以上のものかも知れなかった。

 一方オウルは予想していた最悪の事態にあせりを禁じ得なかった。
 ヴィルトとケンを会わせるのはかなり危険な気がする。
 半月前、オウルによって追い詰められ、迷宮内に逃げ込もうとした賞金首を追ってきた時に、結界内の賞金首の所まで自らオウルを導いた理由を聞いた時の答えを思い出す。
「だって、あなた強そうだったから」
 あの事と、この半月のヴィルトの行動パターンを計算に入れ、素早く思考を巡らす。
 結論はすぐに出た。ケンに会えばヴィルトはほぼ確実にオウルから乗り換えるだろう。
 1対1なら先ほどヴィルトに言った通りケンに負ける気はしないが、無傷で勝てると思うほど相手を過小評価はしていない。
 ならば、2対1になる前にヴィルトを殺る。それに来たと言ってもケンの姿はまだ地平線の彼方にも見えない。「迷宮」の入り口からここまでは、素直に来れたとしても四半日はかかる。ここでヴィルトを殺って、そのままシアを連れてうまく逃げきることも、いまなら可能だろう。
 問題はこの結界だが、途切れ途切れにヴィルトから聞き出した話では、どうやら後々まで残る類の術では無さそうだ。
 恐らく作り出した張本人が死んでしまえば効果も消滅するはずだ。
 すでに身体の方は行動に移っている。
 何気ない動作でヴィルトの背後に回る。
 いままでの情事からも判るようにヴィルトのタフさは尋常のものではない。あるいは種族的なものなのかも知れないが、とにかく確実に急所を突かなければ殺すことはできない。
 この半月の観察からすると、それでも幸いにして身体の造り自体は普通の人間とは大差ないようだ。
 後背から心の臓を一突き。即死するかどうかは判らないが、少なくとも行動不能か、それに近い状態には陥るだろう。それで死ななければ首を切り落とすのみだ。
 先のナイフは手中にある。
 殺気など毛ほども漏らさず、オウルは先ほど血を吸ったばかりのその先端を、再び柔らかい肉の中に潜り込ませるための動作に滑らかに移っていた。
 音はたてないが、それなりの力が込められた一歩を踏み込む。
 爪先が小石を踏んだ。
 ヴィルトに向かうはずの力が流れる。体が泳いだ。
 電光のように下を向いた視線は、草原に半歩ほど歩みだしている自分の足先を見出していた。
 ヴィルトがいつのまにか草原の中に移動していたのである。
 素早く足を引き、体勢を立て直した彼女にヴィルトが微笑みかける。
 ナイフは掌中に隠したが、オウルにはもう判っていた。
 ヴィルトはすでに気付いている。
「もうしばらくの間は仲良くできると思っていたのだけれど…」
 笑顔をほんの少し曇らせながら言う彼女の視線は、足元の草むらを何かを探すようにさまよっていた。
 それを見てオウルが身を翻した。そのまま、自分の武具を取りに行く。先の情事の際に身から外して、空き地の真ん中に置いておいたものだ。
 そちらを見もせずに足元に注目していたヴィルトの視線がある一点で止まる。
「ああ、あったわ」
 そう言って、草の中から拾いあげたのは両刃の長剣だった。鞘はない。いままで抜き身で放って置かれていたらしい。
 だがそれにもかかわらず、その刃はたった今砥ぎ上がったが如く濡れたようなひかりを放っている。
 幅広の刃といい、地面から垂直に立てれば柄の部分まででヴィルトの肩口に届きそうな長さといいおよそ彼女に似つかわしくない豪剣である。
 しかし、同時にこのようなタイプの大剣には見られぬ、ぬめぬめと光る刀身はヴィルトの表情を水銀の鏡のように反映し、彼女の微笑にこれ以上もなく相応しい妖刀の輝きを添えていた。
 両手で柄を持ち、横に振る。
 足元がふらつくとまではいかないまでも、上半身が大きく揺れる。剣に振られているという感じがありありと判る。
 もう2、3度振り回して感触を思い出したのか、満足げな表情で刃を横にして右肩に背負った。
 その口元に浮かぶ笑みは、すでに先ほどまでの清々しいものではない。
 それは、少し前シアが不安を覚えたものと同じ色をしていた。
 ゆっくりと草原の中から、裸地の部分へ歩みだす。
 風がいつのまにか止んでいた。

 そのころにはオウルは自分の武具を装備し終えていた。もちろん、ヴィルトの一挙手一投足は視界の隅に捉えてある。
 こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
 それにしても剣を持ち出してきたのは意外だった。
 てっきり、魔術士タイプの闘い方をすると思っていたのだ。
 今の試し振りにしても、剣の腕前はたいしたことはないという、オウルの推測を裏付けるものに見える。
 無謀としか思えなかった。
 あくまで草原の中から闘えば、オウルの勝ち目はかなり薄かったはずである。それを自ら放棄し、しかも満足に扱えもしない大剣で真っ向な勝負を挑んでくるなど自殺行為以外の何者でもない。
 防具の類すら身に付けていない。
(それともあれは見せかけか?)
 だがこの場はともかく、日常生活での仕草すらオウルを欺く演技をしていたとなると、今度は並々ならぬ力量の持ち主と考えられる。それほどの腕ならば、逆にここまでわざとらしく芝居をする必要があるのか、という気もする。
 別の可能性が頭をかすめた。
 斬られたい、からだ。
 そこに思い至った瞬間、背筋が凍った。
(奴の性向からすれば、充分ありうるが…)
 自分を痛めつけて快楽を得るという連中なら、他に何人かを知っている。
 大きい都にいけば、そんな連中用の淫売宿もあるはずだ。
 だが、いくらなんでも自ら斬り殺されたいとは。
 そこまで破綻している奴を見たのは、重度の麻薬中毒の賞金首を斬った時位のものだ。
 そいつは追われる恐怖から麻薬に浸り、オウルが目の前に現れた時には既に廃人同様だった。
(しかし…)
 そこまで考えて、オウルは首を振った。
(いや、斬られたい、というのと、斬り殺されたい、というのは違うか…)
 ともかくどんな相手でも油断はしない、というのはオウルが今までの経験から得た原則だった。
 ヴィルトはもう彼女の間合いに届こうとしている。
 そこで一旦立ち止まり、剣を構え直した。
 少し妙な動作だった。剣先を軽く地面に打ちつけたのである。
 オウルに声をかける。
「では参ります、オウルさん」
 まるで、散歩の途中で会った知り合いに軽い挨拶をするような気軽な調子だ。
 オウルの返答は無い。無表情になっている。
 対するヴィルトは妙にうれしそうだ。浮き浮きしていると言ってもいい。
「いいわ、この感じ。久しぶり」
 頬がかすかに上気しているのは興奮のせいらしい。
 オウルは無言のまま、構えに入った。すっと身体から無駄な力が抜けてゆく。
 迷いや不安はない。
 それにしてもヴィルトの動作は無造作だ。
 一応剣は構えているのだが、剣先が安定しない、身体の重心が高い。まるで素人だ。
 誘っているのか、本当に素人同然なのか。
 さすがに急所をさらすような動きはしないが、細かい隙ならばそこいら中に見受けられる。
 すでに互いの剣の届く距離に達したが、オウルはまだ剣を繰り出さない。剣先は地面すれすれの所を小さく円を描くように動いている。かなり変則的な構えだ。
 大体、普通ならヴィルトの方がもう少し離れた間合いをとるはずである。
 2人の持つ剣の長さ、身長から来る腕の長さの比を考えてみても、今の距離ではオウルの方が有利なのは明白だ。
 と、ヴィルトが剣を軽く握り直した。右脇に大きな隙ができる。
 誘いではない。オウルは一瞬の勘でそう判断し、いきなり突いた。
 入ったかと思ったが、ぎりぎりのところで彼女の剣に弾き返された。
 だが、ヴィルトの体勢は崩れている。
 そのまま手首の返しで脚に切りつけた。
 今度は手応えがあった。剣を戻し、再び間合いを取る。
 最初の一撃を辛うじてとはいえ防いだことは意外というよりは、やはり、という感がしていた。
(なるほど、やはり見た目よりはできるか…)
 それでも今の返しの一撃で、ヴィルトの右腿に傷を負わせた。
 血が腿を伝い、ぽとぽとと地に落ちる。だが、ヴィルトの動きは変わらない。表情はと見ると、笑いを浮かべた口元はそのまま頬の赤みが増している。
(ふん、あの程度の傷なら大丈夫。かえって嬉しいくらいという訳か。だが、一気に急所を狙うのも考えものだな)
 ヴィルトのタフさに業を煮やした相手が無理に急所をついてくるのを待つ、そんな感じの闘いかただ。
(それならば、お望み通り切り刻んでやる)
 初めてオウルの無表情が動いた。我知らず唇の端が、かすかに歪む。
 だがその笑みが今のヴィルトの顔に浮かぶそれと酷似しているという事実に、オウルはついに気付くことがなかった。

 シアは、オウルが自分の武具を着けてヴィルトと向き合った時にやっと、2人が仲間割れで闘おうとしているらしいと理解した。
 ケンと旅をしてきて、かなりの闘いを間近で経験してきたシアだ。戦っている2人を見れば、どれくらいの実力の持ち主かはある程度読める、という自負がある。
 そのシアから見て、オウルはかなりの腕前の持ち主に思える。対するヴィルトは仮にシアが相手をしたとしても引き分けぐらいには持ち込めるような気がした。
 もっともケンに言わせれば、シアの測った相手の力量など、マインの商人の秤の目盛りより当てにならないものだそうだが。
 しかし、実際に2人が剣を交えはじめてみると、どこか妙な感じがする。
 2人が更に4、5回剣を打ち合わせるのを見ていて、その理由に気付いた。
 オウルの動きが、ヴィルトとかみ合った時と、離れて間をとった時とで何故か異なるのである。
 離れている時の動きは滑らかで、ケンとほぼ同等くらいの技量の持ち主に見える。
 逆に、ヴィルトに斬りかかる時はシアにさえ判るほど動きが鈍い。いや、鈍いというよりはどこかぎこちない。まるで、剣術を習いたての者のようだ。
 わざとしている風には見えない。オウル自身には何の違和感もないようだ。
(そういえば、さっき闘いが始まるまえの、あの時…)
 ヴィルトが軽く剣先で地面を叩いたときに、そこを中心として淡い光の半球がヴィルトを包みこんだのが見えたような気がした。その半径が丁度オウルの動きが悪くなる間合いと一致しているようだ。
 ほんの一瞬だったし、ヴィルトと向かい合っているオウルにも何の反応も見られなかったので目の錯覚かと思っていた。
 だが、あれが何らかの結界だとすれば、オウルは最初からヴィルトの術中にはまっていることになる。
(とすれば、ヴィルトとかいうひとの方が有利ということかしら…)
 先ほどから手足の何ヵ所にも相手の剣を受けてすでに血だらけのヴィルトに対して、無傷のオウルを見ているとそうとも思えなかったが。
(でも、もしそうだとすれば…)
 先のヴィルトの言動からして、オウルが負ければ少なくともケンとは再会できるはずだ。
 逆にオウルが勝った場合には、悪くすればケンとはもう2度と会えないかもしれない。
 それは判っているのだが、ヴィルトが勝ったとしても、先刻の情事を見てしまった後では彼女とこの草原で二人きりという状況もあまり考えたくなかった。
 かといって、このままの状態でケンが来たとして、最悪2対1でケンが危機に陥るのももっといやだ。
 いつのまにか2人が共倒れしてくれることを望んでいる自分に気付き、シアは少し嫌悪感を抱いた。
 だがその時、そんなシアの心中をよそに闘いの決着はつきつつあった。

 ぎぃんと鈍い金属音が響く。
 同時にヴィルトの左上腕に浅くもぐりこんでいたオウルの剣がはじかれた。
 あらたな傷口から鮮血がとびちる。
(そろそろ…か)
 オウル自身あせっているつもりは無いが、あまり長引かせるとかえってこちらの消耗が馬鹿にできなくなる。
 なかなか剣を手放さないタフさには確かにあきれるが、その剣を攻撃にほとんど使えない剣技の下手さ加減はどうやら本物のようだ。
 急所部分の防御こそ辛うじて出来ているが、手足、胴への攻撃は面白いように決まる。
 表情からは相変らず弱り具合は読み取れないが、こちらの攻撃を受けたあとの次の体勢への立ち直りが目立って遅くなってきている。
 それに、これ以上はこちらがおかしな気分になりそうだった。
 少しずつヴィルトの白い肌を切り刻む感覚はこれまでの彼女との情事を思い起こさせ、これが命をかけたやりとりだという事実がさらに興奮を誘う。
 すでに下半身には熱い潤いが感じられる。
 初めてオウルは自分の頬がほてっていることに気付いていた。
 一瞬、なにかとてつもなく倒錯した場に自分が立っているような気がして、軽いめまいがオウルを襲う。
 そんな彼女に隙が見えたのか、ヴィルトが斬りつけてきた。
 油断をついた、というにしてはやはり鋭さが足りない。
 軽く後方に下がってよけた。
 つもりだったが、剣先は背筋が一瞬寒くなるほど近くをかすめた。
 それかけていた思考が瞬時に闘いの側に切り替わる。
 落ちていくヴィルトの剣に自分の剣を合わせる。
 思い切り下に叩きつけた。
 ヴィルトの剣が地に当たる。
 上半身がオウルに向かって開かれた格好になった。
 勝機、だった。
 思い切り踏み込み、ヴィルトの左胸に照準をさだめ剣を繰り出す。
 相手の剣が上がってくるのは見えたが、充分避けられる速度だった。
 この程度の攻撃ならば、回避運動をしつつこちらの攻撃を無防備の相手の左胸に加えるなどオウルにとっては容易なことである。
 しかも、相手はすでに満身創痍だ。
 勝利を確信しつつ、オウルは長剣をヴィルトの心臓めがけて突き出した。
 剣先から肉に食いこむ手応えが伝わってきた。
 そのまままっすぐに、腕を突き出す。
 貫通の手応え。
 さらに剣を押し込みかけた時、胸に衝撃が来た。
 込めようとしていた腕の力が抜けていく。
 自分の胸を見た。
 そこから幅広の刃が伸びている。その先はヴィルトの両手に握られている柄へと続いていた。
 ヴィルトの顔を見上げる。
 視界が急速に暗くなっていく。
 あの美しい顔が今どのような表情を浮かべているのか、確かめたいと思ったのがオウルの最後の思考だった。

(まさか、相討ち?)
 2人が重なりあった数瞬の間、シアの目からもオウルとヴィルトの剣は互いの体を貫きあっているように見えた。
 それまでの攻防からすると意外な結末に驚くシアだったが、この展開に内心安堵してもいた。
 だが、オウルが崩れるように倒れると同時に片膝をついたヴィルトは、それでもまだ立っている。
 よく見ると、胸に刺さっていると思えたオウルの長剣が貫通しているのは右脇腹だ。
 肩が微かに震えている。
 苦痛に耐え、立ち尽くしているようにも見えるが微妙に雰囲気が異なっていた。
(この感じは…)
 ある予感がシアをとらえた。
 ヴィルトの俯いた顔が上がる。
 見たくないと思ったが、目をそらすことは何故かできなかった。
 ヴィルトから見てシアはほとんど正面にいる。
 今度こそ、その表情がはっきりと見えた。
 彼女は歓喜に震えていた。
 脇腹にオウルの長剣を貫通させたまま片膝をつき、半分苦痛にも似た、しかし見間違えようはずもないエクスタシーの表情をヴィルトは浮かべている。
 上半身はオウルの返り血で濡れそぼっている。鮮やかな紅が白い髪の間を幾条も伝い落ちた。額から落ちる血が、まるで涙のような軌跡で美しい曲線を描き顎まで流れる。だが、その細められた目が表わすのは喜悦の表情だ。笑みを浮かべつつ半分開いたままの口元から覗く舌が、唇を艶めかしい動きで舐める。
 そこには、先にケンの到来を宣言したとき見せた清々しい表情をそのまま負の側にひっくり返したような、妖しくも凄惨な別次元の美が満ち溢れていた。
 地面に突き刺した自分の大剣を、こちらは自らの出血でぐっしょりと濡れた下半身、股間の部分に擦りつけている。切れ味を自在に制御できるのか、あるいは持ち主は傷つけないのか、刃の部分も関係無しである。
 その足元では彼女の剣により心臓を貫かれ、既に事切れたオウルの身体が横倒しになり、いまだ血を流しつづけている。
 止んでいた風がふたたび吹き始めていた。
 だがほんの少し前までさわやかに感じられた同じ微風が、今は肌にしびれるような刺激を与える。
 頭上の太陽が歪んでいた。
 地面が右に左にかしいでいるように感じられる。
 シアの感覚がおかしくなったのではない。
 「結界」がヴィルトの快楽にあわせて共鳴しているのだ。
 先の情事の際とは比較にならないほどの狂気がシアを取りまく大気を満たす。
 頭にぎりぎりと響くこの音は草原の草が風にそよぐ音だ。
 空の青が目の奥に突き刺さる。
 よろめいた足がずるりと滑る。腐乱した死体を踏みつけた感触。
 耐えきれずにふっと意識が遠くなった。
(ケン、早く来て…)
 薄れていく意識の中でシアはただそれだけを心の中で念じつづけていた。

 誰かが濡らした布を額に当ててくれている。その感触でシアは目を覚ました。
「ケ…ン…?」
 ぼんやりとケンの名前を呼んだシアは、しかし横の人影がケンではないことにすぐに気付いた。
「大丈夫かしら」
 優しく問いかけるヴィルトの顔が迫る。
 思わず横になった姿勢のまま、脅えた顔つきで後ずさる。
 ヴィルトが困ったような顔になった。
 額の布がずれて落ちる。それでシアは改めて気づいた。ヴィルトは気を失った彼女を介抱してくれていたのだ。
 不思議な感じがしてヴィルトを見返す。
 安心したような笑顔で彼女を見るヴィルトは、シアがさらわれてきてから一番最初に見た彼女そのままであり、さきほどまで血にまみれ淫らに悶えていた人物と同一人とはとても思えなかった。
「良かった、大丈夫みたいね。敏感な人だと、あれでおかしくなってしまう事もあるので心配していたのよ」
 心底心配していてくれたようだ。
 そういえばシアは気を失っただけだが、彼女は脇腹に剣を突き刺した重傷をおっているはずではなかったのか。
「あなたこそ、確かお腹に剣が…」
「ああ、わたしの一族はけがの直りが早いの。ほら、ここだって」
 そういってまくって見せた腕の傷は特別深いものを除いて、すでに桃色の筋となっている。闘いの最中はかなりの出血も見えたが、今は顔色も特別白いということはない。
 気がつけばオウルの死体も影も形もない。さっきの事は悪い夢だった、といわれてもシアには反論できる自信はなかった。
「…あ、あの女は」
 シアの質問にヴィルトの表情が曇る。
「オウルさん…せっかく仲良くできると思っていたのに」
 横向きの悲しそうな顔の上に寂しげな影が重なった。それこそほんのわずかの間だけだったが、シアの目にははっきりとその表情が見えた。
(なんて寂しそうな目…)
 恐らく、他の者だったなら気付かなかっただろう。そういう事に対してシアはかなり敏感だ。神経質というのとはちょっと違う。他人の感情の動きが普通の者より身近に感じられるのである。
 その彼女が今のヴィルトに感じたものは、途方もなく深い孤独感と絶望だった。
 だが、すぐに明るい表情に戻ったヴィルトの言葉が続く。
「でも、もうすぐあなたのお友達が来てくれる」
 無邪気に笑う様子が、今度はシアの不安を募らせた。
「ケンに、…ケンに会ってどうするつもりなの」
 本人は意識していないが詰問するような調子がある。
「きっと、ずっと強いかたなんでしょうね」
 夢見る視線でヴィルトが言う。
 どうも会話がかみあっていないようだ。
 気まずい沈黙が流れる。
 もっとも、気まずい、というのはシアが一方的に思っているだけで、ヴィルトは何も考えていないような笑顔で彼女の方を見ている。
「あの…」
 何か喋らなくてはと、口を開いてみたものの何も思い付かない。無意識の内に、さっきの闘いで疑問に思っていたことが口をついて出ていた。
「さっき剣で地面を叩いたときの、あの光は…」
 言ってからシアはしまったと思い、肝を冷やした。得意技のことを自ら明かす戦士などいる訳が無い。それどころか、普通こういう場合口封じさえされかねない。
「ああ、あれね。「無力結界」というのよ」
 好きな食べ物の事を尋ねられたときのように、なにげない調子でヴィルトが答えた。まるで屈託がない。
「あれが見えるなんて珍しい。かなり高位の術士でも、目で確認するのには相当の集中力が必要だと思うけど」
 勝手に解説を始める。
「あれは、中に入ってきた人の技とか力とかを引き下げてしまうの。どんな剣の名人でも偉い魔術士でも、あの中では普段の力は発揮できないわ。オウルさんの最後の突き、心の臓を狙ってきたのだけれど、あれがそれた理由もそれよ」
 穏やかに微笑みながら説明する。
「でも、それって…」
 シアが口をはさんだ。
(ずるいような気がする)
 後半部は言葉にしなかったが、何を言いたかったかは、ヴィルトには判ったようだった。
「フェアじゃないと思う?」
「でもね、あなたも見ていて判ったでしょうけれど、ほら、わたしって全然強くないでしょ。だから、あの結界を張って、ようやくそういう強い人達と対等に闘えるの」
 判ったような判らないような理屈だった。釈然としない顔つきのシアに向かってヴィルトの解説が続く。
「それにあれを張ったからといって、楽に勝てる、ということでもないし。さっきだって、オウルさんの剣が逸れたといっても脇腹は貫通したわ。とても痛かった」
(にこにこしながら痛かったなんて言われても…)こちらはシアの心中である。
「そう、相討ち覚悟でわが身を傷つけながらも相手を倒す。これが最高の勝ち方よ」
 陶酔した表情になる。さっきの闘いを思い起こしているらしい。
 何も言えずに茫然とヴィルトを見ていたシアに彼女は告げた。
「じきにケンさんが来るわ。楽しみね」
 くすりと笑う。
 子供のように無邪気な笑いに、シアはまるで背筋に氷柱をあてられたような感覚を覚えていた。

 少しして、日が傾きはじめた。すでに地平の縁から天空に向かい夕暮れの色が滲みでている。
 シアは陽の沈む方角を見るともなしに眺めていた。もちろん手足も縛られていなければ、逃げるなと脅されている訳でもない。ただし外側の迷宮の結界がある限りこの草原からは抜けられないと、ヴィルトに聞かされている。
 その彼女は少し離れたところで、こちらに背を向けなにやらやっている。
 どちらにしろ(ヴィルトの言葉を信じれば)ケンはここに向かっているはずだ。
 今はケンを信じて待つしかない。それがシアの考えだった。
 黙って空を見上げた。
 まだ本格的な夕暮れ時までには少し間があるが、澄みわたった初秋の空はそこを通り抜けてゆく太陽のひかりを、わずかずつだが確実に黄金色に染めはじめている。
 シアは真上の空のその高さ、広がりに感動を覚えていた。
 確かに王宮にいた頃でも空を見上げ、きれいだな、などと思う事はあった。だが、周囲に隆起ひとつないこのような草原の真ん中での同じ行為はまるで別の感慨を彼女の胸に抱かせる。
 それは自分一人孤独に全世界と対峙しているような孤独感か。
 あるいは天に広がる蒼穹と、地平の彼方まで続く緑との境界の点以下の存在としての卑小感なのか。
 以前の彼女ならばこのような事を想っただけで、その不安感に耐えかね、目を伏せ自分の部屋に帰ってしまっただろう。いや昔のシアならばこのような事など思い付きもしない。
 しかし、いまは何故か不安は感じなかった。無力感はあるが、そこから生じるはずの恐れは全く感じない。なにか、いってみれば透明な力のようなものが彼女を支えている。
 それは不思議な、しかし決して不快ではない感覚だった。
 しばらくの間、彼女は空を見上げつづけていた。
 ふと、横を向いた。
 本当に何故、自分がそちらの方角に顔を向けたのかは判らない。ただ、ふっと視線を向けてみただけだ。特になにかの気配を感じたわけではない。
 そこにケンが立っていた。
「ケン」
 自分で予想していたような叫び声ではない。普通に呼び掛けるような調子、声の大きさだった。ゆっくりと立ち上がり、ケンの方を向く。
 唐突にシアは気付いていた。自分を支えていた透明な力の源はケンだ。力のすべてでは恐らくないだろう。父母、アーフェスやその他の人々の分もあるはずだ。だが、最も大きく、最も深い力を与えてくれている存在は目の前の赤毛の女性だ。
 そのまま走りよろうとして気づいた。ケンの視線は彼女を通り越している。
 はっとして振り向くと、そこにはヴィルトが静かに立っていた。
「はじめまして、ケンさんね」
 軽く会釈する。
 ケンとヴィルトは初対面である。警戒の姿勢を崩さず問いかけた。
「おまえがヴィルトか」
 言いながらもさりげない動きでシアの傍らに寄る。
「ええ、ようこそ、わたしの家に」
 無防備の姿勢のヴィルトに鋭い目線を浴びせながらケンがさらに問いかける。
「夕べシアをさらっていった奴は何処にいる。おまえではないのは確かだ」
 ヴィルトが答える。
「オウルさんならもうこの世にはいません」
「ふん、微かだが血の匂いがするな。仲間割れか?」
 ケンの刺々しい口調にも、ヴィルトはひるむ様子も見えない。
「仲間割れだなんて。わたしはシアさんをさらってどうしようという話には一切関係ありません」
 半日ほど前オウルに言っていたのとほぼ同じ事をケンに向かって言った。
「それにほら、シアさんも無事ですし。わたしがオウルさんにこの場所を貸していただけだったってことは、直接そのひとから聞いてみてくださいな」
 無防備な態度とあまりの殺気の無さに、攻撃的な意図はとりあえず無さそうだと判断し、そこではじめてケンはヴィルトから視線を外した。シアを見やり、軽く全身に手を当てどこにも異常がないことを確かめる。
「何があった」
 ケンの問いは短い。
 シアは今までの事をかいつまんでケンに話した。早口でかなり支離滅裂だったが、一応の内容は伝わったらしい。
「なるほど招かれたってわけか、道理でな。最初は普通に歩くのにさえ苦労したが、途中からはほとんど一本道だった」
 後半部は誰に言うとも無しの呟きである。
 ここでヴィルトに視線を戻した。
「それで俺に会いたかったそうだが、何の用事だ」
「そんなにあわてなくても…まあくつろいでいってください」
 ヴィルトがのんびりと言う。
「好んで人間の里にいるエルフは、皆精神を病んでいると聞いた」
 冷たく突き放した言い方だ。
 シアがはっとした顔つきをして、ケンの後ろに回った。
「まあ、ひどい」
 ヴィルトは微笑みを絶やさない。
「どうやら自覚は無くても、例外ではないようだな。こいつに心当たりがあるようだ」
 ケンの言う「こいつ」が自分を指しているようだと気付き、シアが小さくこくりとうなずく。
「おとなしく俺達を帰すつもりがあるのか、一応聞いておこう」
「あら、ゆっくりなさっていってくれるといいのに」
「悪いが、ここにはもう一刻も居たくないってのがこちらの一致した意見でな。腕ずくでも帰らせてもらう」
「まあ、残念」
 かるく眉をひそめたヴィルトが続ける。
「あなたとは、あちら方面のことでも楽しめると思ったのだけれど…でもそんな喧嘩腰ではしょうがありませんね」
 あちら方面のことと聞いて、思わず先に目撃したヴィルトとオウルとの情事を思い出したシアは、ケンと彼女が絡み合っている様を脳裏に描き、自らの想像に胸を痛めた。
「では」
 と言いつつヴィルトが後ろに下がった。こちらを向いたまま腰をかがめると、右手を背中の方に回す。
 背後の草むらから取り出したのは、例の大剣だった。先ほど血を大量に吸ったばかりだというのに、ぬらぬらと光る刀身には一点の曇りもない。
 ひとめで判る妖刀であった。
「お会いした時からあなたとの勝負、早くなりそうだとは思っていました」
 上唇を舌で湿す。その目の光はすでに、シアを介抱してくれた優しい妖精のものとは別の色に満ちていた。

 ケンにしてみるとヴィルトの行動はやや当てが外れた、というところである。
 腕ずくでも、と言ったのはこちらの意志と決意の程を宣言した位の意図だったのだ。
 シアの話や今の会話によるケンに対する執着の度合から見て、こちらが強気にでればもう少し軟化した態度をとると思っていたのである。
 いや、ヴィルトの態度自体は最初から変化していない。
 ただその言っている内容が「客」から「立ち会いの相手」へと、正反対とは言わぬまでもそれに近い角度で一瞬にして切り替わっただけだ。
 本当に何を考えているのか判らない。だが、相手が剣まで構えている以上引く訳にはいかなかった。
 軽く剣を交える程度にいいかげんにあしらうことは恐らくできないだろうという予感がある。
「下がっていろ」
 シアに言って、レグレスを抜いた。
 手足に治りかけの傷口が見える。シアの話ではほんの数刻前につけられた傷らしい。
(なるほど、治りは早そうだ。獣人族の類とどっこいってところか…)
 もうひとつシアの話で気になった点があった。
「無力結界とやら、張らなくていいのか」
 誘うように尋ねた。ヴィルトの目がうれしそうに細まる。
「もう張ってあります。今のも見えたかしら」
 前半はケンの質問に答えたもの、後半はシアに向かって呼び掛けた言葉である。
 ヴィルトの気勢は見るからに闘気に満ちあふれた、という感じではない。構え、動きはなるほど素人に毛がはえた程度に見える。
 レグレスを構えたまま、間合いを測る。構えはごく正統な型だ。
 本来ケンは剣を使用した闘いに関してはどのような闘い方もできる。実際、初めての手強そうな相手には変則的な剣の使い方をする方が多い。
 だが、今回は相手の結界の事がある。
 それにシアの話にもあったが、ヴィルトはどうも今まで出会ってきた敵とは異なるタイプらしい。
 相手の技も判っているし、たとえそれがどのようなものでも手の内さえ判明していれば闘いようはある。
 それでもなおケンは最初の一撃を交わすことにためらいを覚えていた。
 眼前の相手に無気味なものを感じとっていたのだ。
 そのケンのためらいもヴィルトには無縁のもののようだった。
 無造作に間合いをつめると真っ向から斬りかかってきた。
 その刃をしかし、ケンは受けない。逆に一歩踏み込み、ヴィルトに一撃を浴びせる。
 結界の事は充分考えに入れたつもりの動きだった。
 それでもヴィルトの剣は彼女の腕の端をかすり、こちらの攻撃は空をきった。
 あわてずに後退し、距離をとる。
(なるほどな…)
 自分では全く普段と変りなく思えるが、確実に結界は効いているようだ。
「結界の効果、測れましたか?」
 ケンの心の内を読んだかのようにヴィルトが問いかけてきた。笑っている。
 自分の結界が効いている事を確認した意味の笑みではない。今のケンの冷静な対処を見てのことだ。
 相手が強いほど、自分が苦境に追い込まれるほど、ヴィルトは嬉しいのである。
「さてな」
 一言だけ答えて今度はケンが打ち込む。受けたヴィルトの剣が火花を散らす。
 シアひとりを観客とした今日2度目の闘いの開始だった。

 夕陽がケンの右半身を黄金色に変えていた。赤毛にあたる光線が微妙なコントラストの変化をつけながら影の側へと続く。引き締めた口元、やや細められた目、剣を振るう姿はまるで伝説に登場する美しき女性の勇者のようにシアの目に映った。
 ケンの正面に立つヴィルトの左半身にも夕陽は平等に輝きを与える。そして、その姿も同様に美しい。いや、その美しさはケンをも越えるだろう。
 しかし、この美は狂気と退廃を内包するそれだ。
 微笑をたたえた口許も、潤んだ瞳の中のひかりも、官能的という表現ではおとなしすぎる淫らさと、狂気を含んでいる。
 もしかするとそれらも彼女の周囲を取り巻く結界を構成する要素なのかもしれない。
 2人が分かれた。束の間、剣撃の音が止む。
 最初に打ち込みあってからたいした時間は経過していない。
 だが、シアは闘いの展開に不吉な既視感を覚えていた。
 どう見てもケンが押しているが、それは先の対オウル戦の時でも同様だった。
 むしろこのパターンはヴィルトの流れであるという感が強い。
 そしてこの間である。
 ケンが焦れて決定的な攻撃を仕掛けようとしている。シアにはそう見えた。
 声をあげようとした途端に2人が動いた。
 ケンが踏み込み、ヴィルトが待ち受ける。
 レグレスが夕陽の光を反射しつつ疾った。
 オウルが倒された時の光景が、目前の2人に重なる。
 ケンが危ない、ただそれだけで頭がいっぱいのシアは、訳も判らずケンの背中に向かって駆け出していた。
 ケンの右手が腰の後ろの短剣を抜きかけていることにはシアは気付かない。
「ケン!」
 シアの叫びが響く。
 三者が交錯する。
 シアの頬に血がしぶいた。

 反射的に閉じていた目をそっと開く。
 目の前にヴィルトの身体があった。
 ケンの右手の短剣は、シアを庇った反射的な動作のため狙いからずれ、ヴィルトの左腹、ちょうど心臓から下ろした線上に突き通り、その勢いで脇腹から抜けていた。
 左手のレグレスは、そこに割って入ったシアをかばうように地面に突き立っている。
 ヴィルトの剣はケンの左脇腹をなぎ払う形で、シアの胴のさらに手前、レグレスに触れる寸前の所で停止している。
 ヴィルトが1歩2歩と後ずさる。
 地面に剣を突いた。同時に尻餅をつくように後方に倒れこむ。
 そこはいつのまにか草原の中だった。膝くらいまでの草むらがヴィルトの身体を半ば覆い隠す。
 ケンが草原に倒れているヴィルトに歩み寄った。
 もはや草を踏みしだき歩いても、なんの障害もない。結界が消滅していた。
 仰向けに横たわるヴィルトの傍らに立つと、剣から手が離れているのを確認してからかがみ込む。
 草原に流れ出る血は地に吸われているのか、意外なほど少なく見えた。
 だが、胴はほとんど四半分が切断されており、裂けた脇腹からは内臓がはみだしている。
 ケンに続いて駆け寄ったシアが思わず顔をそむけた。
 ヴィルトが閉じていた目を開いた。
「おい、聞こえるか」
 ケンが呼びかける。
「…負け、ね…」
 血の気を失ったヴィルトの表情はそれでも、この世のものとは思われぬほど白く清々しく見えた。唇に浮かぶ笑みには邪さの一片も無い。
「さすがに、これは効く…わ…」
 普通の人間なら即死に近い傷だ。いかに治癒能力にすぐれているといっても重傷には違いない。果たしてこの状態から生還できるかどうかは判らないが、彼女の意識がある内に帰り道の方角を聞き出さなければならなかった。
 だが、ケンの口をついて出たのは別の質問だった。
「なぜ止めた」
「その剣、まともに受ければ左手1本のレグレスで止めきれたかどうか。そうなれば、シアごと俺の身体を二つにすることもできたはずだ」
「…ああ、そういえば…そうね」
 草原に横たわったまま、忘れ物に気付いたような表情でヴィルトが微笑んだ。
「でもそれじゃあ相討ちにはならない…それでは気持ちよくはなれないわ」
「それに…シアさんが来なくてもあなたの右手の剣の方が早かったはず…あの結界の中でよく…お見事ね、思ったとおりの強さだった…」
 ケンは表情を変えない。
「帰り道を教えてくれるな」
 ようやく出された問いにヴィルトは微かにうなずくと、左手の指先だけである方角を指した。
「…もう迷宮の結界も無いわ。帰り道はあちらよ…」
「行きなさい。今なら夕陽を右手に見ながらまっすぐ行くだけでコウの村に帰れるわ」
 口調はしっかりしていたが、声は低く、細い。
 ケンが立ち上がった。
「行くぞ」
 シアの方を見もせずに言った。そのまま横たわったヴィルトに背を向ける。
 シアは躊躇した。ヴィルトをこのままにして行ってしまってよいのか。
 気味が悪かったのは確かだが、直接ひどいことはされていない。いや、それどころか気を失った彼女を介抱すらしてくれたではないか。
 意を決してケンとは逆の方に一歩進んだ。ケンとシアの位置が入れ替わる。
 いつもならシアが自分の言葉に従わないと冷たく突き放すか、拳が飛んでくるのだが今回はその何れもない。
 無言で数歩離れた場所に佇んでいる。
 同意の印と受け取ってシアはヴィルトの横にしゃがみこんだ。
「あの、手当をしてあげたいんです。どうしたらいいんですか」
 真上を向いていたヴィルトの視線がシアの顔を捉える。
「…ありがとう。気持ちだけいただいておくわ」
 予期しない拒否の言葉にシアはとまどった。
「でも…」
「わたしにはこの場所が一番癒しの力が働くのよ…だから大丈夫」
 聞いた人すべての胸に、母の手に抱かれたような安心感を湧かせる優しい口調だった。
「わたしのことはもういいからさあ、早く行きなさい」
 周囲の山々を圧して聳えたつ孤高の高峰のように、すべてを拒絶しつつも気高く凛とした口調だった。
 シアの胸に先ほどヴィルトから感じた孤独感が蘇った。
 ヴィルトの視線は再び上空に戻っている。
 シアは立ち上がった。他にどうしようもないヴィルトの言葉であり、態度であった。
 だがこれだけは言っておかなければならない。たとえすでにヴィルトの視線の先にシアがいなくとも。
「あたしからもお礼を言わせてください。さっきはありがとう。ケンとまた会えたのはあなたのおかげです」
 それだけを口にした。頭を下げると、ケンの方に向き直る。ケンはすでに歩きはじめていた。
 後を追って歩きだす。
 2人が視界から見えなくなってもヴィルトは夕空を見上げつづけていた。

 草原の彼方に夕陽の最後の端が沈もうとしている。
 じきに夜の闇が天の底から降りてくるだろうが、足元の細く続く道をたどるのには十分すぎるほどの星明かりが得られるはずだ。
 おそらく夜中前には村にたどり着けるだろう。
 夕焼けの茜色が世界をやさしく満たしていた。
 2人は黙ってその中を歩きつづける。
「あの人…」
 シアが言いかけた言葉を中途で呑み込んだ。
「どうした?」
 いつもよりもやさしい口調でケンが聞き返す。多分気のせいだろう。
「ううん、なんでもない。いいの」
(これから先もずっとひとりで…)
 あの青空の下、緑に囲まれて生きていくのだろうか。
 ひとりぼっちで。
 「迷宮」の方を振り返ってみたくなったが、止めた。
 代わりにケンの顔を見上げる。
 表情からはケンの考えは読み取れなかったが構わなかった。いつもの横顔だ。
 シアの顔にようやく微笑みが戻る。
 周囲に誰ひとりいない草原でも、シアの横には少なくともケンがいた。
 それで今は充分だ。
 歩きつづける2人の頭上に、気の早い星々が光を投げかけはじめていた。
 国を失った王女と傭兵崩れの盗賊、追われる2人の未来がまるで洋々たるものであるかのように。

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