11章 黒迷宮の森

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11章 黒迷宮の森


      − 闇の迷宮 −

 スーオンの迷宮。
 正式にはガザ森林塊と呼ばれる。
 スーオン、ロランをはじめ5ヶ国に跨る大森林地帯。一度迷えば二度と抜け出す事は出来ない、広大無比な迷宮。
 その奥には地獄への入り口があると人は言う。
 あるいは黄金の眠る古の都があると。
 そしてある伝承には…帝王のかつての都があるとも言い伝えられる。
 誰一人戻る事の無い地だからこそ生まれる無責任な噂なのか、それとも…

 疲れきった身体に険しい山間の隘路はきつい。ましてやそれが女の身であれば。
 真昼だと言うのに、鬱蒼とした森の木々の合間から差す日差しは幾つもの葉のフィルタを通って弱々しくなる。
 薄暗い足場は分厚く積もった苔の為に酷く滑り易くなっていた。
 ケンとシアは、そんな森の中を帝国の追手から逃れて歩いていた。
「大丈夫ですか?」
 シアは心配そうに連れの顔を覗き込んだ。
「…おまえに心配してもらう筋合いはねえ…」
 そんな強がりを言うケンだったが、顔は紙のように白く、冷汗がにじみでている。
 ようやくスーオン王国の南方森林地帯に逃げ込めた二人だったが、ここ2、3日ケンの調子があまりよくない。徐々にひどくなっていくようだ。
 絶対に体力は上の筈のケンがふらふらとなり、どう考えても遥かに劣るシアがそのケンを支えて歩く。いつもとはまるで逆の奇妙な光景だった。
 確かにシアもこの慣れない山道に疲れてはいたが、ケンが頻繁に休みを取るのですぐに回復する。いつも虐められているシアとしては最初は(年だけは取りたくないわねぇ)と、無論心の中だけで思っていたのだが、その内ケンの疲れ方が尋常ではない事に気付き、おろおろとしている次第であった。
 もう何十回言ったかしれない台詞と、同じだけ聞いた返事。
「でっ、でもー」
「うるせえ!」
 バシッという小気味よい音が静寂な森の中に響いた。シアは、「あっ!」と一言漏らすと、ぶたれた頬を押さえてその場にうずくまる。
「…すまない…」
 手を出した方のケンも、自分の突然の行動に戸惑ったらしい。視線はシアと反対の方に向けて、少し恥ずかし気に言った。
「日がだいぶ西に傾いたようだ。今からスーオンの迷宮に入るのは危険だな。今日はこの辺に野宿するとしよう」
 気不味い雰囲気。シアも視線を落としたまま、同意の印にコクンと肯いた。
 二人はそのガザ森林塊の入口にあたる場所で野宿出来そうな場所を見つけると、そこに簡易テントを設営した。
(どうしたんだ)
 ケンは幾度と無く繰り返した問いを呟いた。
 決して体調が悪いわけではない。病気にかかっているとも思えない。
 ただ…
 昔の傷が疼く。まるで脈を打つように疼く。
 この森の奥へ進むほどにその疼きが強くなる。
 痛みではない。疼くのだ。
 なんと言ったらいいのだろう。それは甘い心地良さを持って、ケンの身体全体に広がろうとしているみたいだ。
 この森は危険。そう、本能が教える。
 だが心は、囁く。
 もっと奥へ、奥へ。
 相反する命令が、ケンの身体の力を削り取っていった。
「闇に傷つきし者、即ち闇」
 遠い過去からの声が甦る。
 ケンは色が変わるほどきつく唇を噛んだ。
 そんなケンの様子を気付かれないように覗くシア。
 余程身体の調子が悪いんだわ。そうシアは思うのだった。

 パチッ。火の中で木が弾けた。
 日はすでに沈み、森の中を闇が支配していた。さすがに森の中は日没と共に冷え込み、息が微かに白い。
 干し肉と、豆のスープの質素な生活にも、だいぶシアは慣れてきた。最初の頃はそのあまりに粗末な食事に不平を言ってはケンに折檻されたものだ。
 木にもたれ、安酒をあおるケンをシアはじっと見つめていた。昼間よりだいぶ落ち着いたとはいえ、その端正な顔に疲労の色は隠せない。
 ロラン公国落城以来の保護者、ケン。本当の名は確かフロリアとかいった、男装の女戦士。かなり有名な騎士らしいのだが、血生臭い話の嫌いだったシアにとってはほとんど縁の無い存在だった人。
 そういえば私、この人のことを殆ど知らないんだわ。そう思ったシアは、思い切ってケンに話しかけてみた。
「ねえ、ケン」
「ん?」
 ケンは酒の瓶から口を離すと、シアに視線を向けた。
「あのう、ケンは本当はどういう人なの」
「傭兵で、副業が泥棒」
「そうじゃなくて、どこの生まれだとか昔何をしてたとか、そういう話」
「人の過去を知ってなんになる。俺はおまえの幸せな公女時代の話なんて聞きたくもないし、おまえに俺の過去を知ってほしいとも思わない」
 ケンは立ち上がると、服についている枯葉を手で払い、シアの側に来る。
「俺が教えてやれるのは、おまえが公女のままだったら到底知る事の叶わなかった快楽、そして屈辱さ」
「おっ、怒ったの?」
 シアは思わず後ずさる。そんなシアの慌てぶりを楽しみながら、今日はどんな趣向で夜を楽しもうかと考える。
 ぱちっ!
 また薪が弾けた。
 ぷいと横を向いて嫌がるシアの髪の毛を弄びながら、ケンは首筋にちりちりとしたものを感じた。
 それは人とも獣とも取れる気配。
 一つだけ確かな事がある。その気配は殺気を含んでいるという事。
 シアも気付いたようだ。ということは闇の世界の奴らに違いない。シアは元お姫様だけに、殺気とか気配を感じとるのは非常に鈍い。けれど闇の気配に関しては自分と五分五分かそれ以上だ。色々と酷い目にあって敏感になっている。そうケンは理解していた。
「どうやら囲まれたようだ」
「邪悪な気を感じます。五つか六つ…」
 酒を取りに行く振りをして、ゆっくりと剣を立ててあった場所に戻り、ケンはシアにレイピアを投げた。
「七つだ。俺の背中から離れるな。それから念のために言っとくが、今度浚われても俺は知らんからな。凌辱されようが売り飛ばされようが、自分の身は自分で守れ」
 緊張のためか、ぎこちなく肯くシア。
「来る!」
 すうっと剣を抜くと、ケンは無造作に横に撫いた。
 その一撃は、暗闇から飛び出した黒い影を一刀両断にした。
「ギャーッ!」
 上半身と下半身を真二つにされた黒い影の悲鳴が漆黒の森の中に消えていく。
 シアは焚火の光で、ようやくそれが何者か知った。
 醜いオーク!
 そのオークの絶叫を合図に、四方から敵は襲いかかってきた。
「シア、後ろを頼む!」
 僅かに身体を動かして左右からの剣を避けると、正面のオークを袈裟切りにし、素早く剣を返して左右のオークを切り捨てる。
 振り向きざまにシアとケンの間に割って入ろうとしたオークを倒すと、シアに向かおうとしていたオークに剣の切っ先を向けた。
 言葉にすれば長いが、それはほんの一瞬の動作であった。
 オークは大きくカーブした独特な半月刀を左右に振りながら、じりじりと後ずさる。
 ケンの気迫に圧されているのだ。
 やがて木を背中にもう下がれなくなったオークの喉笛に剣を突き立て止めを差すと、そのままシアの様子を伺った。
 シアの方はと言えば、一応護身の為に剣技も習得していたのだが日頃の不真面目さが災いして大苦戦を強いられていた。
 元々リーチが不足している上に腕の力がないから、相手の剣をはらう度に体勢を崩す。
(こりゃあ一から鍛え直さんとダメだな)
 心の中で苦笑いを浮かべながら、ケンはシアの横に剣を構えた。
 オークがそのケンの動きに気を取られた瞬間、シアは相手の懐に飛び込み、心臓に深々とその刃を突き立てて仕留めた。
 レイピアを持つ手に伝わった、生身の身体に突き刺さる感覚に思わず嫌悪を感じたシアはレイピアを放してしゃがみこむ。
 ハアハア言いながら顔を背けるシア。
 そんなシアの様子に何故か不快気な表情を浮かべながら、ケンはオークの死骸からレイピアを抜き取ってシアの手元に投げた。
「敵を一人倒す度に自分の剣を放したんじゃ何本あっても足りないぜ。それに…」
「それに?」
 シアはようやく顔を上げた。
「まだ主役は出てきてないんだぜ」
 そう言い放ったケンの視線は漆黒の森の一点を見つめている。
「お宅はやらないのかい?」
「なかなか棲まじい腕だな」
 闇の中から返事が返ってきた。
 途端にシアはそこから発生する棲まじい気を感じた。
 微かに地を踏みしめる音がする。
 やがて、大きな影が姿を現した。
 でかい。
 今まで色々な戦士を見てきたシアだったが、その誰よりも巨体である。
 背丈が高いというだけではない。
 がっしりとした身体はまるで山が動くようなボリューム感がある。
 まるで伝説のヨブールの巨人のような男である。
 しかしその男が焚火の光の輪の中に入ってくると、シアは思わず声をあげそうになった程驚いた。
 男の容貌に驚いたのだ。
 男はまるで人と虎を足して2で割ったような顔をしていた。
「…人虎族か…」
 微かにケンの声がした。
 シアは初めて見た。
 風の噂にそういう種族がいる事は知ってはいた。
 中原ではとうに見かけなくなった生き物だ。
 人狼族や人馬族のようにポピュラーな者ではない。誇り高き戦士の種族だと聞かされていた。
 それが今目の前にいる。
 さらに驚くべき事にケンが気付いた。
「その鎧、魔狼将軍!」
「ええっ!?」
 シアは思わず声を上げた。
 がっしりとした巨体に纏われた漆黒の鎧。その胸部にはまるで血のように紅いガーデルフ狼の紋章が染め抜かれている。
 帝国軍選り抜きの者しか纏う事の出来ぬ鎧。巨大な帝国軍の中で魔狼将軍は僅かに12人しか選ばれないという。未だに実態さえ分からぬ魔龍将軍と帝国を二分する精鋭中の精鋭である。
「占い師共が騒ぎ立てるものだから来てみたが、これは良い獲物に出会ったわ。上等な女が二人も揃うとは」
 はっとシアはケンの方を見た。
 ケンはいつものようにラフな男の傭兵姿をしている。今までケンを女だと見抜いた者をシアは知らなかった。
「俺を一目で女だと見抜いたのはあんたが二番目だよ」
 少しむっとしてケンは言った。
「見ての通り、俺は鼻が利くからな。いくらそんな格好をしても女の匂いはごまかせん」
 笑いを浮かべながら、その男は無造作に間合いを詰めてきた。
「美姫二人、今宵は退屈せずに済みそうだ」
「もし手に入れられたらの話しだろう」
「オーク共とは違うぞ、俺は」
「知ってるつもりだ」
 シアははらはらしなが二人の対決を見守る。なまじの腕ではこの相手には加勢になるどころか足手まといになる。
 すでに伝説的といっていい魔狼将軍の強さに、ケンが勝てるのか。不安な想いに胸が圧し潰されそうになる。
 棲まじい程の気が男の身体から発生している。
 よろめくようにシアは数歩退いた。
 まるで目に見えてしまうと錯覚しそうなほどの気だ。直接対決しているケンより数歩も後ろにいる自分がその気に圧される。
 ケンは相変わらずの自然体を装ってはいるが、剣の柄を握る手が白くなっている。
流石にその口からはもう軽口は聞かれない。
 男はゆっくりと剣を抜いた。シアの背丈ほどもありそうな長剣だが、その男はそれを造作もなく扱う。
「俺の名はグーラ。魔狼将軍グーラだ。お前の名を聞いておこう。手加減は出来ぬ質だからな、誤って死なすかもしれん。名無しの墓ではかわいそうだ」
「ケン」
「ふっ。本当の名ではあるまい。墓に偽名はよくないぞ」
「構わん」
 互いにじりじりと動きながら間合いを詰める。
 二人の間の緊張がぴりぴりとシアに伝わる。
「参る」
 グーラが一気に間合いに踏み込もうとした。
 と、その時。
「あっ!」
 シアの叫びに二人は振り向いた。
 シアはいつの間にか後ろから忍び寄った影に羽交い締めにされ、首筋に短剣を突きつけられた。
「シア!」
 思わずケンは叫んだ。
 ケンはもう一人敵がいたことにまったく気付かなかった。それほどその影の隠形の術は優れていたのだ。
「剣を捨てて貰いましょう」
 はっとするケン。
 この声、昔聞いた気がする。
 男の声だが、顔はフードをすっぽりと被っていて見えない。
「シアは盾にはなるまい。お前らがシアを手に入れたがっているのは分かってるんだ」
「確かに」
 その男はあっさりと認めた。
「けれど我が王は、シア姫を生きてお連れ申せと言われたのみ。五体満足で連れて参れとは申されてはいない。例えば…」
「いっ、痛い!」
 思わず閉じた瞼の上から男の指がぐいぐいとシアの瞳を押しつけた。
「この美しい瞳を潰してみますか?」
 涼しげな男の声が、かえって不気味だ。この男なら躊躇わずやるだろう。
「ちっ!」
 男を睨みつけるケンの口から、洩れる舌打ち。
 愛剣レグレスが地に突き立った。
「好きにしな」
 そう言うとぷいと横を向く。
 治まらないのはグーラの方だった。
「何故邪魔をした。俺一人で充分だったものを」
「ふっ、邪魔などと申されるなグーラ殿。二人が戦えばどちらかが死にます。それは私の望みではありません」
「どちらかだと。俺が破れるとでも言うのか」
 グーラの声が荒立った。明らかに怒りを含んでいる。野生の獣の雄叫びのように人に恐怖を与える叫びだ。
「五分五分だと申し上げたのです」
 男は動ずる素振りを毛ほども見せず、涼しげに答える。
「ご存知か、その女の正体」
「なに?」
「アクリス琉華騎士団長、フロリア・アクレスですぞ」
 びくっとケンの肩が動いた。
 この声。私の素性を知るこの男は…
「フロリア・アクレスだと。魔狼将軍二人を屠ったというあのフロリアか」
「そう、先のアクリス戦役で二人の魔狼と一人の魔龍を倒したアクリスの英雄、琉華騎士団長フロリアです」
 その言葉に、グーラはにやりと笑った。
「面白れえ。だったらなおのことやらせろ」
「ですから私はどちらにも傷ついて欲しくはないのです」
 男の答は相変わらず素気ない。だがその声には恐さや邪悪の念は感じられなかった。
 シアはこちらを見るケンの視線に気がついた。
 ケンの身体が震えている。
 いつもは飄々としている表情が、固く強ばっていた。
「…あなた…は…」
 掠れたケンの声は辛うじて聞き取れるほどか細かった。
 ケンはその男の正体に気付いていた。だがそれは余りにも信じ難いことだった。
「ばっ、ばかな…なぜ…なぜあなたが魔狼将軍に…闇の側に…」
「久し振りだ、フロリア」
 男はフードを脱いだ。
 端正なその顔には、優しげな笑みが浮かんでいる。
ケンの目は驚きの余り大きく開かれ、その口からは微かに悲鳴が洩れた。
「あのアクリスの英雄が…唯一闇の王に手傷を負わせたあなたが、なぜ、どうして闇の手先などに…なぜなんです!ケン・サンオー様。」

 結局捕らえられた二人は黒迷宮の奥へ奥へと連行されていた。
 世に恐れられた魔龍将軍二人を相手にしたのだ。しょうがないわ、とあっさりあきらめているシア。
 ケンの方は悄然として声もない。
 夜通し歩かされた二人。ただでさえ難儀な森の中を、手を前で縛られて歩かされたのだ。夜が開けてくる頃にはもうシアはめろめろに疲れていた。
「ち、ちょっと休ませて!」
 息を切らせながら情けない声をあげたシアに、全員の視線が集まる。
「もう少しだ、我慢しろ」
 グーラが冷たく答える。
「もう少しって言ったって、どこに行くっていうの?私にはどんどん迷宮の奥に進んでいるとしか思えないわ」
「もう少しだ」
 グーラが一睨みすると、シアはしゅんとなって押し黙った。
「もう少しって言ったって…」
 口の中でごにょごにょと呟きながら、歩き続ける。
 もう辺りは白々とし始めていた。薄い霧が森の中を立ちこめている。
「あらっ?」
 シアはいつの間にか足元の感触が変わっている事に気がついた。
 腐葉土ののめりこむ様な歩きにくさが無くなっている。明らかに落ち葉のすぐ下に固い地面がある。
 しばらく歩くと周りの景色が変わり始めた。
 明らかに自然の物ではない、風景。
 苔に覆われた明らかに人工の石垣が、あちこちに覗いている。
 落ち葉に埋もれてはいるが、真っ直ぐな道が森の中に伸びている。
 目を凝らして注意深く見ると、辺り一面にそういった埋もれてしまった都市の跡が広がっていることが分かる。
 しかもその規模は只事ではない。
 どれほど歩いたか知れないのに、遺跡の跡は途切れる事を知らない。ロランの首都の数十倍はあろう。そうシアは思った。
 これが帝王の都?
 噂は本当だったんだ。シアは感慨にふけりながら、いつまでも続く街並にいい加減うんざりし始めた。
 歩くのは相当楽になったとはいえ、捕まってからもう半日以上歩いている。
「あ、あのう…」
 シアが口を開きかけると、「ケン」が苦笑いしながら前を指さした。
「もう、すぐそこです。お疲れさまでした」
 シアは自分が何か悪い事を言ってしまったような気がして、思わず顔を赤らめた。
 鬱蒼と茂る森が突然開けた。
「これは…」
 シアとケンは二人とも目の前に広がる光景に、唖然とした。

一行は日が中天を過ぎる頃ようやく都の中心部らしい場所にたどり着いた。どうやらそこが彼らの目的地らしい。
既に森に没した周囲東西南北に2本、広い路が伸びそれらが交差する場所に広い広場がある。
 2本の道路で区切られた北東、南東、南西、北西の四つの区画には、それぞれ今は朽ち果てかけた巨大な建物があった。
 北東の建物は、どうやら宮殿の跡らしい。20マール(30メートル)はあろうかと思える高さの城壁にぐるりと囲まれ、十数個の塔が立ち並んでいる。あちこちと崩れてはいるが、城壁の長さは差し渡し500マールはあろう。城塞都市が当たり前であるこの時代、街中の宮殿がこれほどの規模を持つ都市は聞いた事がない。これと比べればロランの宮殿はまるで子供の玩具のようだ。
 南東にある建物は、どうやら行政を司る建物のようだ。3階建てで、宮殿に負けず劣らず大きい。
 南西にあるのは大きなドーム型聖堂を中心にした寺院の跡。マタール教寺院に似ているとも言え無くないが、四方に20マールほどの高さの塔が立てられている。
 しかしなんと言ってもシアが驚いたのは北西にある建物であった。継ぎ目が分からないほど見事に積み上げられた三角錘の巨大な建物。一辺の長さは100マールほどだが、高さが6、70マールはある。このような高層建造物をシアは見た事がなかった。
 ぶん。
(え、なにっ「)
 シアは自分の目を疑った。
 視界が、一瞬波打ったように思えたからだ。
 ぶん。
 また視界が揺れた。
 気のせいじゃない。
 気にしてみると、その波は周期的に訪れた。心を打ちのめすような強い波動。しかもそれは酷く邪悪な気を持っている。
「これは…」
 なんだろうと、ケンの方に振り向くと、またケンは蒼白な顔で震えていた。「ケン」が小刻みに震えるその身体を後ろから抱きしめるように支えている。
 まるで小鳥が怯えているよう。こんなに弱々しいケンの姿を、今まで見た事がない。
「感じますか、シア姫。あの波動を」
 「ケン」はシアの途切れた言葉に、さりげなく答えた。
 ぎこちなく肯くシアを見て、「ケン」は何故か一人で納得したように肯いた。
「あなたをここに連れてきたのは正解だったようだ」
 言葉は途切れた。
 説明を求めるシアの視線にも、「ケン」もグーラも何の反応も示さない。
 そのままシアとケンは、それぞれグーラと「ケン」に引き立てられて別れ離れにされた。
 別れ際、「ケン」がぽつりと呟く。
「明日になれば、分かります」
 それが、シアの問いに対する答えだった。

 広場でシアとケンは別れた。
 シアはグーラに引き立てられ、大きな聖堂に連れてこられた。
 中は大理石の広い広間が広がり、その四方を階段状に床がせり上がっていく。正面に二階に登る階段があり、その階段を登ると広間を見おろせるようにぐるりと張り巡らされたテラスに出る。特に階段を挟むように迫り出したテラスは相当広く、大きな大理石のテーブルや椅子が幾つも置かれている。
 昔は広間での様々なイベントを楽しんだであろうテラスも今では外から侵入した蔦や蔓に覆われ、緑が辺り一面を覆っている。
 薄暗い聖堂の広間を横切り、階段を登りかけたシアの耳に微かに女性の悲鳴が聞こえた。
 はっと振り返ると、暗闇の中に白くうねるものが見える。人間の女性がゴブリンやオークに押さえつけられ、凌辱されているのだ。
 よく見るとそこばかりではない。広間のあちこちで白い人間の肉体が細い悲鳴を上げながら、悶えていた。
 シアは両手で耳を覆うようにして、グーラの後を追う。
 二人は二階のテラスに登った。
 グーラの為にしつらえたのだろう。右のテラスの中央だけ、きれいに整えられたテーブルと椅子があった。グーラの体格に合わせた大きめのその椅子には獣の毛皮が敷き詰められている。
 グーラがその巨体を椅子に沈めると、彼は顎で隣の椅子を差した。
 グーラの椅子に比べればもう玩具のような椅子だったが、よく周囲を見るとこの方が普通のサイズらしい。
 びくびくしながらシアは腰を降ろした。
(私…あの女性達みたいにこの男に…されちゃうのかしら…)
 過去の経験からして、こういう状況で後の成り行きといったらそれしかない。両手を握り締め、きゅっと身体を固くした。(もう犯されるのはいや…)凌辱の予感にシアの華奢な身体が震えた。
 どこから現れたのか、2匹のゴブリンが二人に銀の杯を渡すと、その中に波々とぶどう酒を注いでいった。
 グーラは一気にそれを飲み干すと、テーブルの上に用意されていたもっと強い酒をぐびぐびとやり始めた。
 シアは両手に抱えるように銀杯を持ち、そんなグーラの様子を眺める。
 グーラはもうシアには興味を無くしたように、酒をあおっていた。ふとその手が止まる。
 彼を見るシアの恐怖に震えた暗い瞳に気付いたようだ。
「どうした?」
「い、いえ」
 慌てて視線を反らせたシアは、ぐいっと銀杯のぶどう酒を飲み込む。いきなり飲んだのでケホケホ噎せてしまった。
 そんなシアの様子を相変わらず撫然とした表情で見下したグーラは、一気に杯の酒を飲み干す。
「心配するな。おまえには何もしねえ」
 はっと表をあげたシアの少し安心した表情に、思わず苦笑いをするグーラ。
「そんなに心配してたのか、おまえは。よっぽど酷え目に会ってるようだな。確かにおまえは人間の女としては極上の部類らしい」
 グーラは杯を置くとシアの顎に太い指をかけ、自分の方を向かせた。
「だがよ、おまえはあのオークやゴブリンどもと寝たいと思うか?」
 シアは返事に困った。気味が悪い、見るだけでもおぞましい。そんなことを正直に言っていいものか。怒らせたらそれこそ何をされるか分からない。
 しかしシアの心の内はしっかりとその表情に現れたらしい。
「気味が悪いだろう。俺とてそうだ。人間なんぞと性交る奴なんぞ気が知れねえ。違う種族と性交ろうなんてのはあいつらゴブリンやオークども、鬼族か気○いしかいねえよ」
 自分がゴブリンやオークと同一に扱われた事に多少(?)ムッとしたが、そう言って自分を見つめるグーラの瞳に、強い知性の輝きを見たような気がした。
 誇り高き人虎族。
 確かにその通りだわ。
「何で帝国上層部がおまえを狙うのか俺にはわからんが、仕事だからな」
 その声には少し寂しげな響きが含まれている。
 凶暴な男。そう思っていたシアには意外な言葉であった。
 ふっと身体から緊張が抜けていく。
「この街はいったい…」
 なんとなくホッとしたシアは、辺りを見回すと疑問に思っていたことを訊ねてみた。
 グーラはピクッと鼻を動かした。
「なんだと思う?」
「帝王の都?」
「はずれだ」
「?」
「なあに、もうすぐ分かるだろうよ」
「いま…知りたいな」
 ぼそっと遠慮気味に呟かれた言葉には強い好奇の響きが残った。教えてくれないんなら初めから聞かなきゃいいのに。
 グーラは鼻を鳴らすと、杯の中身を一気に飲み干した。
「何で人族ってのはこうも好奇心が強いのか。知るだけで不幸を呼び込む事だって幾らでもあるのによ」
 少し目を細めながらシアを見つめる。
「俺が恐くないのか、え?」
「最初は恐かった。でも…今はそんなに恐くない」
「どうして?」
「どうしてって言われても…困るんだけど…一つは私に変な事しないから。それから…」
「それから?」
「何となく感じるんです、あなたの魂の暖かさ。今まで「闇」と呼ばれた人達には感じなかった暖かさを」
 言ってしまっていいのかな。言い終えてからシアは少し後悔した。いつもお前は読みが甘いとケンに叱られ続けている自分の言動に、今一つ自信が持てない。
「暖かさ、か…」
 グーラは急にシアに興味を無くしたかのように視線を反らした。
「俺はお前の敵。ただ…それだけだ」
 人族のシアには、ボソリと呟いたグーラの横顔から何の感情も読みとる事は出来なかった。
「この街はな、かつて「封印の都」と呼ばれていたそうだ」
「「封印の都」?それってどういう意味なの?」
「すぐに分かる」
 それっきりグーラは口を開かなかった。
 会話は振り出しに戻って、途切れた。

 夜の帳が降りて、暗闇が辺りを包んだ。
 ケンは扉が開く音で目を覚ました。
 シアと離れ離れにされて、ケンが連れてこられたのは大きな庁舎の建物だ。
 「ケン」は寝具のある部屋にケンを通すと、少し休むように言った。ケンが少し躊躇する素振りを見せると、「ケン」は彼女の汚れた上着や鎖帷子を脱がせて下着だけにし、抱き抱えるように寝具まで運んだ。
 その間抵抗らしい仕草も見せない自分に、ほんの少しの懐かしさと不思議さを感じるケンだった。
 「ケン」はそれ以上何もせずに部屋から立ち去った。
「ふう…」
 酷く疲れたため息が一つ。ケンはぐるりと部屋を見回す。
 換気の為のひどく小さな窓しかないその部屋の扉はひどく頑丈な造りで、びくともしそうにない。部屋には寝具と壁際に小さなテーブルと椅子。ただそれだけ。小さな書斎といった雰囲気だった。
 ケンは仕方なく寝具の上に横になった。少し臭ったが、久し振りに味合うその柔らかな寝心地に、疲れきった身体は抵抗できなかったらしい。いつの間にかぐっすりと寝込んでしまっていた。
 自分の迂闊さを呪いつつ、ケンは眠った振りを続けた。
「フロリア、起きているのでしょう?」
 扉を締める音と共に、懐かしい男の声がした。
「やっぱり騙せないな、あなたは」
 ケンはゆっくり起き上がると、寝具から起き出そうとした。
「そのまま。自分で思っている以上にあなたは疲れている」
 ランプの弱い光の向こうに、「ケン」は立っていた。
「ケン」は立ち上がろうとするケンを押し止めると、銀の杯を渡して葡萄酒をなみなみと注いでくれる。
 ケンは半分ほどを一気に飲んだ。疲れの少し取れた身体に、まるで染み込むように葡萄酒が広がっていく。杯を口から離すと、ほっとため息が出た。
 しばらく無言の時間が流れる。
 やがて、どちらからとでも無く言葉が交わされた。
「シア姫に手強い護衛が付いているという噂を聞いていましたが、まさかあなただったとは驚きました」
 「ケン」は椅子に腰掛けると、優しく微笑む。
「死んだとばかり思っていたのに、どうしてあなたが…」
「闇の手先になったか、ですか」
 ケンの少し悲しげな問いかけに、彼の笑みは微かに曇った。
「私も、あなたが生きているとは思っていませんでしたよ。あれは激しい戦いだった」
 そう、アクリス戦役として知られるあの戦いの時、二人はアクリス精強の鳳燐と琉華の二大騎士団の団長だった。「ケン」の鳳燐騎士団はパスティア峠で帝国主力軍とぶつかり全滅し、ケンの琉華騎士団もパスティア神殿の夜戦で半数を失った。
「あの時…神殿の中をたった二人でよく戦ったものだ」
「ええ。もう倒れかけていた私を庇いながら、闇の王に立ち向かったあなた。あなたがアクリスを救ったのです」
「何を言うのです。あの時あなたが魔狼や魔龍将軍と戦ってくれたからこそ、闇の王に辿り着けたのです」
 またほんの少しの沈黙。
「どうして、あなたが…」
 俯き加減に目を伏せたケンの2度目の問いかけに、「ケン」の口からため息が洩れた。
「本当は…あなたとて知っているはず。いや忘れられはせぬはず」
 そう、何故自分が目を伏せたのか。
 それは全てを知っている自分に気付いていたからかもしれない。
「あなたは何時もそうだ。たとえ己が分かっていても、必ず人の口から言葉を紡がせようとする。時にそれが人にとってとても残酷な事だと知りながら…」
 「ケン」の優しい笑みが怒りの無表情の裏に隠れていく。
「フロリア、あなたは問うた。私が何故闇の側に走ったかと。あなたにとってどうかは知れない。けれど私にとってあの日、ウロの月のサルナの日を忘れる事は出来ない。」
 何時も冷静な「ケン」の口調が少しずつ熱みを帯び始める。
「アクリスの英雄と呼ばれ、瀕死の身体でアクリスに戻った我々に何が起こったか。それはあなたが一番良く知っているはず」
「…もういい…止めて…」
 ケンは己の耳を塞ぐように頭を抱え、うなだれた。
「我々の身体は帝国軍との戦いでぼろぼろになっていた。一度闇に傷ついたその傷は決して癒える事がない。表面的には治ったように見えて、闇は少しずつ蝕む。内側から少しずつ、肉体を、そして心までも」
 その言葉に無意識に反応したのか、ケンの両腕が自分の身体を抱きしめる。
「あの日を忘れられようか。アクリスを救った我々に、かつて戦友であった者達が襲いかかったあの日を」
 「ケン」の端正な顔は今や憎悪に歪んでいた。
「イスト寺院の回廊で、傷つき横たわっていた鳳燐の騎士達が動く事も間々ならず刺し殺されていく様を忘れはしない。「闇に傷つきし者、即ち闇」。それは真実だったかも知れない。けれど祖国のために戦った者達を、あそこまでする権利はアクリス王とてない筈」
 無理矢理に心の奥底に閉じこめて忘れようとした、そして古傷が痛む度に思い出す悲しき過去。泣きながら切り捨てたかつての友達。助けを乞いながら殺されていった仲間達。
「満足に動けなかった私は殺されていく彼らの悲鳴を聞きながら、悔しさに涙を流すしかなかった。…あの日鳳燐騎士の私は死んだのだ。あの回廊で…」
(琉華騎士の私も…あの時死んだ。仲間を斬り、アクリスを逃げ出したあの時に)
 いつの間に流れだしたのだろうか。止めどない涙が寝具を濡らす。
「殺された筈の私が目を覚ますと、そこには「闇の王」が立っていらっしゃった。あの方は私に訊ねられた。「お前達の信じたものとはいったい何だったのか」と。私は既にその時その答を失っていた。あの方は私を、ほんの少し前まで敵であった私を抱きしめられるとこう仰られた。「お前の心が今「空」なれば、今度は私の信ずるもののために戦ってはくれまいか」と。あの時、憎悪に染まっていた私の心は既に闇に捕らわれていたのかも知れぬ。だが、私は思った。あの方は、かつての我々の王、ルクセオン陛下に匹敵する、いや凌駕する程の器量を持っておられる。たとえそれが鏡に写すように、光と闇、陽と陰の性質のものであろうと。あの時から私の忠誠はあの方に捧げられたのだ。そう、私は逃げたかったのかも知れない。忠誠という名のもとに安らぎを欲したのかも知れない。狂おしいほどの絶望と憎悪から逃げるための…。もしあの時ルクセオン陛下が生きておられれば決して迷い込みはしなかったろう、闇の迷宮に…私は足を踏み入れた…」
 自嘲的な笑みを浮かべる彼の、歪んだ心が、憎悪が、哀しみがケンの心を同じ色に染めようとする。彼女の身体がまた疼きを覚え始めた。
「むっ!」
 ケンは隠し持っていた細い鋼の針を、「ケン」の喉元に突きつけていた。
「私にも分かる、あなたのその想い。私とてそうでしたもの。でもその後、放浪の旅を続けて知りました。やはり闇は人を、この世を不幸にする事を。自分の身に起きた事と闇との戦いを混同してはならぬ事を」
「私を刺せるのか、あなたは」
「ええ、…あの頃の私なら出来なかった。でも今の私なら出来る。フロリアではない、ケンとしてならば…」
 けれどケンの手元はその言葉とは裏腹に、小刻みに震えていた。
「私と来ないか、闇の王の元へ。あなたなら魔狼将軍になれる」
「あなたのように…ですか。あの時は、もう戻りませんわ。愛を誓い合ったあの時間は」
 ケンの首が弱々しく横に振られた。
「あっ!」
 その時、「ケン」の手が針を握るケンの腕を掴んだ。ほんの一瞬の出来事。力強い男の手に捕らえられた己の手を見ながら、ケンは驚きと、ほんの少しほっとした気持ちを感じた。私にこの男を刺せただろうか。
「フロリア…」
 「ケン」はケンの手から針を取り上げると、申し訳程度に胸を覆う下着とその下の胸の膨らみを隠すためのさらしを引き裂いた。
「やっ!」
 押さえつけられていたケンの乳房が跳ねた。
 「ケン」は乳房を覆い隠そうとしたケンの左手も捕らえると、彼女の細い両手首を左手で押さえ、寝台に彼女をうつ伏せに抑え込んだ。
「何を…」
 彼女の問いに答える代わりに、「ケン」はケンの背中に残っていた下着の残片を剥ぎ取った。
 彼の異様なほど冷たい指が、背中を這う。
「あうっ。」
 彼の指が昔受けた傷跡に触れた時だった。ケンの身体がビクンと動いた。脳髄を貫くような、苦痛とも快感とも取れる衝撃。
「やはり…。あなたがこんなに消耗していたのは、やはりこれのせいだった」
 男の指が傷口に沿って動く。
「んんっ!」
 この世のものとは思えぬ激痛と快感。余りの痛みに止めどなく涙を流しながら、ケンは己の股間が濡れそぼっていくのを感じていた。
「あの時魔龍将軍に受けた傷が、真っ赤に腫れ上がり、まるで生きているように脈打っている。強い闇の波動を受けて活性化しているようだ。私がほんの少し、闇の力を注ぎ込むと…」
「うぐっ!…止めろ…」
 またケンの身体がビクンと動いた。
「もう背骨にまで根が張っている。心臓に届くのも時間の問題か…」
 「ケン」の手が、ケンの下半身を申し訳程度に覆う下着の中に潜り込んだ。その指がケンの花唇を摘み、擦り、揉み上げる。
 部屋の中に女の漏らす微かな悲鳴と、湿った肉の音が木霊した。
「濡れているぞ、フロリア。まるで淫魔に取り憑かれたように…。あなたの身体の中で闇の力が大きくなっている証拠だ」
 男の指が、女の身体を割って潜り込む。ゆっくり、そして深く。
「逆らうな。快楽に身を任せるのだ。逆らえば地獄の苦しみ。従えば天の快楽。身を任せろ、闇の力に…」
 「ケン」はケンの身体を仰向けにすると、更に激しく花唇に潜り込んだ指を動かした。
 もう女の口からは言葉は出ない。途切れ途切れに悲鳴が洩れるだけ。
「こんなにぼろぼろになって…。あなたの負った闇の傷は深過ぎた。このままではあと数年も生きられぬ。私はあなたを失いたくはない。一緒に行こう、闇の世界へ。もう何も失うものなど無いのだから。二人で永遠の命を分かつのだ」
 女の瞳からすうっと意志の光が引いていき、ただ空虚な光だけを写すようになった。
「…シア…」
 最後の意志がそうさせたのか、彼女の口からシアの名が洩れた。
 「ケン」はその言葉に少し顔を曇らせた。彼の指が更に激しくケンの秘所を責めたてる。
 女は背を仰け反らせ、やがて最後の気を放つと、気絶した。喘ぎを漏らしながら、豊かな胸が上下する。
 「ケン」は彼女の股間から指を抜き取ると、そのびしょびしょに愛液にまみれた指を女の口に近づけた。
「舐めろ」
 男がそう命じると、気絶した筈の女の口が開き、男の指にしゃぶりついた。
 ぴちゃ、ぴちゃ。
 意識の無い無表情な女の口が、淫らな音を立てて己の愛液を嚥下していく。
「あと少し…。身体はもう闇のもの。もうすぐお前は全て私のものとなる。フロリア、もうお前を離さない。共に生きるのだ、闇の世界で…」
 男は愛しげに気を失った女の顔を撫でると、呟いた。その言葉には、ほんの少し、哀しい色がついていた。

− 封印の都 −

「起きろ」
 その朝、シアは無愛想な男の声で目を覚ました。
「んー?」
 寝起きの良くないシアは、ぼうっとした声でその声の主に返事を返した。
 瞼が重い。
 まだ頭の中は眠ったままの状態で、いつもの習慣で両手を上にして背伸びする。
 その途端。
「あた、あたたたた」
 シアは余りの痛さに、情けない悲鳴をあげた。
 身体の節々、というよりも、もう身体中が痛い。
「そうかあ、椅子の上で寝ちゃったんだ」
 自分自身に納得させるように独り言を言うと、もう一度背伸びする。
「あた、やっぱり、あたたたたた」
 しつこいけれど、やっぱり悲鳴をあげる。
 無理もない。昨日は半日以上歩き詰めの上(しかもほとんど未開の森の中を)、そのまま椅子で寝てしまったのだ。
「むう、でも首のこの痛さは寝違えたかなあ…」
 男の笑い声がする。
 シアが特に痛む首筋を押さえながらその声の方を見やると、昨日とほぼまったく同じ姿勢で、右の肘をテーブルについて顎を支えて、こちらを見ているグーラの姿があった。
「何がおかしいの?」
 痛みと眠さで少々気が立っていたシアは、自分の今の立場もまるで考えずに怒った。
 グーラはそのシアの剣幕に少し口を歪めると、なおさらおかしげに笑う。
「おめえを見てると飽きねえなあ」
 改めて感心したように言う。
「俺もいろんな偉え奴らと会ってきたが、お姫様でおめえみたいなのは初めてだぜ」
 90幾つパーセントは皮肉で、残りは素直な感想だろう。でもそのほんの僅かの素直な感想に、シアはドキリとして顔を赤らめた。確かに今の行動は良くない。
(ケンの行儀の悪さがうつったかしら)
 慌てて身なりを整えて、椅子に座り直す。その拍子に彼女に掛けられていた毛皮が床にずり落ちた。
(あら?)
 毛皮を床から拾うと、シアはグーラの方に向き直る。
「これ、あなたが?」
「…森の夜は、冷えるからな」
 鼻の頭辺りをポリポリかきながら、グーラは答えた。
(ふーん)シアは多分少し照れた素振りを見せているのだろう、グーラを見ながら心の中で呟いた。
(今までで一番まともな敵の人だわ。少し可愛いし)
 変態ばかりとつき合いの多かったシアは、久し振りに自然な反応を見て心が和んだ。
「ったく…。飯を食ったら表にこい」
 シアの視線にいたたまれなくなったのか、グーラはテーブルの上にてんこ盛り(火で炙った肉や、果物がそれこそ盛り付けなど考えずに積まれている!)にされた食べ物を目で指すと、さっさと椅子から立ち上がって出ていこうとした。
「見張ってなくていいの?私、逃げるかもしれないわよ」
 シアはグーラの背中に話しかけた。
「ここは黒迷宮のド真ん中だ。女一人で抜けられるもんじゃねぇ。それに言ったろ、俺は鼻が利くんだ」
 まったく気にも止めていない、そんな風な言葉を残してグーラは立ち去った。
 少し馬鹿にされたようで悔しくなったシアは、骨つきの肉を取ると思いっきりかぶりついた。
「もう、これ火を通し過ぎよ。固くて食べられやしない」
 シアはぶちぶちと文句をたれながら、お世辞にも上品とは言えない勢いで朝食を平らげていくのであった。

 食事を終えてだいぶ元気の回復したシアが神殿の表に出ると、そこにはグーラが一人で待っていた。
 空はどんよりと曇って、今にも泣き出しそうな様子。
 シアはこの森に入る前にケンから聞いた言葉を思いだした。黒迷宮の森では、いつも空は晴れる事無く、そのため迷い込んだ者は太陽の位置で方角を計る事もできない。それがこの森を迷宮と化している要因の一つだと言う。
 なんとなく空を見上げていたシアは、こちらに近づく気配に気付いた。
 「ケン」とケンである。
 シアは二人をみて、思わず息を飲んだ。
 二人ともすっぽりと黒いマイトで身を包んでいる。
 昨夜は暗闇の中で良く判らなかったが、「ケン」はかなりの美形であった。一見優しげなその端正な顔だが、少し厳しい目をしている。髪は黒。その髪に艶はない。まさに闇を写すような黒。
 ケンと並ぶと、頭一つ出ている。
 それよりもシアが驚いたのはケンの変わりようである。
 いつもは意地の悪い言葉しか出てこないかさかさの唇が、しっとり艶やかな紅みを帯びている。少しきつめの目も泣いているかのように潤んで、しかも妙に優しい光をたたえていた。
 いつもの傭兵くずれのケンではない。
 そこには女がいた。
 ひっそりと男の後ろに従うケン。
 シアは見知らぬ人を見ているような気分だった。
「シア姫、昨夜は良く眠れましたか」
 「ケン」は人当たりの良い笑みを浮かべながらシアの方に近づいてきた。どんな女性でも、たちまち虜になってしまうような笑みだ。けれどシアは近づいてくる男に身構えて、ほんの半歩後ずさる。
 その笑みには、感情が無かったからだ。
 むしろ彼の目に浮かぶ影に、シアは怯えた。
 陽の元に生ける者全てを怯えさせる、深い闇の影に。
「え、ええ…」
「それは良かった。ではさっそく、ご案内いたしましょう」
 手招きする「ケン」の、その先には、昨日見た巨大な三角錘の建物、ピラミッドがあった。

 ピラミッドの中は、シアの予想していた通り複雑な迷路と化していた。一辺はわずか100マール程の建物なのだが、もう数カーマは歩いた気分。しかも登ったり下ったり。曲がった角の数を数えるのはとうに諦めている。もし「ケン」やグーラとはぐれたら、シアには生きてここを抜け出せる自信はまったく無い。
 黙々と歩き続けると、やがて小さな広間に出た。
 ゴブリンやオークの類が数十、屯している。その奥に小さな、がっちりとした造りの扉が見える。
 4人の姿を見て、オーク達は挨拶もそこそこに脇に退いた。彼らは明らかに魔狼将軍を恐れている。
 人垣がきれいに左右に分かれると、扉の周囲を固めている魔狼騎士団の正規兵の姿が見えた。
 漆黒に深紅の文様の鎧を纏った、精強無比の騎士達。
 10人程の騎士が左手を胸に当て礼をすると、「ケン」達も礼を返す。
「異常、などあるまいなあ」
 つい格式張った言葉をかけそうになった「ケン」は、苦笑を浮かべながら右手を上げた。
 二人の騎士が深々と礼をすると、その扉を開いた。
「さ、どうぞシア姫。中へ」
 躊躇する間もなく中へ入る「ケン」達に、半ば引き込まれるような形でその部屋に脚を踏み入れた。
 
 部屋は薄暗い。
 しかし松明もないのにその部屋には光があった。
 高い天井の四隅から、部屋の中央に光が差し込んでいる。
 そこにそれはあった。
 もう何百、何千年という年月、そこにあった筈なのに、それはまるで生まれたてのように美しい輝きを発していた。
 まるで虹のような輝き。
 それは、透き通るようなクリスタルの剣。
 ぴかぴかに磨かれた鏡石の床に突き立っている。
 それしかない。
 見事な造りのその部屋には、その剣しかなかった。
 シアは不思議なその剣の輝きを、まるで時を忘れたかのように見つめる。
 「ケン」は後ろから優しくシアの両肩を掴むと、そっと囁いた。
「あれを、抜いて頂きたい」
「えっ「」
 シアは「ケン」の言った意味がすぐには判らない。
「あの剣を抜いて頂きたい。お判かりかな」
「抜くっていったって…」
 改めてその剣を見る。
 剣は床から丁度シアの胸の辺りまでの高さがある。常識から言えば床に埋まっているのは三分の一程度か。簡単そうだし難しそうだし…
「あなたなら出来る。あなたなら」
 相変わらずむずむずとしてきそうな「ケン」の優しい声に、シアは少し引っかかるものを感じた。
「そんなに簡単なら、あなたが抜けば良いではありませんか」
 丁重な言葉の端々に反抗の意志を覗かせながら、シアは「ケン」を見返した。
 「ケン」の軽いため息が顔にかかった。
「あなたなら出来る、そう私は言いました。もっと判り易く言いましょうか?あなたしか抜けないのです、あの剣は」
 シアの肩を握る手に少し力が入った。
「勿論試しましたよ、私もグーラ殿も。ただ力を込めるだけでは抜けませんでした。連れてきた魔導士達にも試させました。魔法で抜けないものかとね。どうなったと思います?彼らは全てをあの剣に吸い取られて、廃人となって死んでしまいました。あの剣は魔法も、彼らの命さえも吸い取ってしまったのです。まさに完璧な封印です」
 「ケン」はクリスタルの根元を指さした。
「あの剣を取り巻くように、円形に古代呪語が彫られています。それが封印を解く鍵だとは思うのですが…。それを唱えた魔導士達が死んでしまってはもはや定かではありません」
 「ケン」はシアをくるりと自分の方に向かせると、彼女の目をのぞき込む。
「ではどうしたらあの封印を解く事が出来るか?結論は一つしかない。封印を施した者しか解けない、そう考えるしかありません。伝説に拠ればあの封印は、「帝王」自らが施したと言います。判りますか?」
 シアは語りかけてくる「ケン」を見ながら、内心、うんざりしていた。また、「帝王」の話だ。何の恨みがあって、次から次へとこの話が出てくるのだろう。大体話の結論は見えている。お前は「帝王」の血を引くから、お前なら出来る。もうそればっかり。冗談ではない。もし魔導師達のように命を吸い込まれたらどう責任を取ってくれるのだろう。
「一つお聞きしてもよろしい?」
 自分でも感心するほどふてぶてしい態度で、シアは訊ねた。でもそんな態度もシアがするとただ可愛いだけになってしまうのがおかしい。脇で見ていたグーラが鼻で笑う。
「それほどまでに厳重な封印を施してまで封じなければならなかったもの。それは一体何です?」
「それは秘密です、と言ったら機嫌を損ないそうですね。お答えいたしましょう。あの剣が封じているもの、それは…」
 一瞬「ケン」の言葉が途切れた。
「それは?」
「…それは、「闇」そのものです」
「「闇」そのもの…」
「そう。この大陸の生き物の半数以上を滅ぼし、「帝王」と白の勢力がその生涯を捧げてようやくに平らげた、伝説の「闇」の残滓がここにあります。何故「帝王」があれを滅ぼさなかったのか、未だに謎なのです」
「あるいは…滅ぼせなかったのか…」
 ぼそりとグーラが呟く。
 シアの思考を司る部分が「ケン」の話の途中から、麻痺していたらしい。ぼうっとした頭の中で、少しづつ彼の話の内容が分かってきた。
「ちょ、ちょ、ちょっと」
 話が飲み込めてくると、シアは慌てた。
「そ、そんなもの復活させて、どうするの?」
「我が王の御心のままに」
 すうっと礼をする「ケン」を見て、シアはぞっとした。こいつら、何も考えていない!
 「闇」の恐ろしさについてはもう伝承しか残っていない。触れただけでこの世に生を受けたものは命を落とすだとか、化け物に変えられてしまうとか…もっとも恐ろしいのは、あまたある伝承のどこにもこの「闇」を撃退する方法が伝えられていない事である。もし復活させてしまえば、どうすればいいのか…
「冗談ではありません。そんなこと、させる訳にはいきません!」
 逆らえる状況ではなかったが、断固とした口調でシアは断った。
 「ケン」は肩を竦めると、相変わらず後ろに控えていたケンを呼び出す。
「やはりだめですか」
 睨みつけるシアの視線に、「ケン」は軽いため息をついた。
「ま、正常な人間ならば、当然の反応でしょうね」
 彼は側に近づいたケンに、腰に差していた短剣を渡した。
「フロリア、これで自分の腕を刺しなさい」
「えっ「」
 シアが止める間もなく、ケンはまるで人形のように従順に命令にしたがう。
 ケンはシアの目の前で、己の左腕に銀の短剣を突き立てた。
 ずっ。
 短剣が肉に食い込む音が聞こえたような気がする。みるみる溢れ出す鮮血を見て、シアはふうっと気が遠くなった。
 ケンは微かに眉を動かしただけで、相変わらず無表情だ。
「シア姫、どうです?」
 シアの目をじっと見つめながら、「ケン」が訊ねた。もうシアが折れるしかないと分かりきっている、自信たっぷりの口調。
 実際シアは従うしかない。次に逆らえば、彼は躊躇無くケンに死を命じるだろう。
 くやしい。くやしいけど、ケンの命には代えられない。
 こっくりと肯いて肯定の意志を示すと、シアはゆっくりとあの剣に近づいた。
 部屋にいる、全ての者の視線が自分の背中に集まっているのが判る。
 一歩一歩その剣に近づく度に、緊張が高まっていく。
(気持ち悪い…)
 最初の内は、極度の緊張から来るものだと思った。だが剣に近づく事に、不快感が高まっていく。
(闇の瘴気?)
 剣まであと数歩まで近づいて、シアは不快感の正体に気付いた。思わず口を押さえる。胃の中のものが逆流しかけてる。
(なんなの、これは)
 吐き気を懸命に堪え、ようやく剣にたどり着く。
 人として、光の下で生まれた生き物としての本能が警告する。この剣を抜いてはならないと。
 ケンならばどうするだろう。
 決して闇を解放するなどという事はしないのかもしれない。例え自分を見捨てても…。
 でも…。
 自分には、ケンを見捨てる事は出来ない。
 それだけは確か。
 今更ながら、シアは自分の中に占めるケンへの想いの深さに驚いた。こんな状況でも、迷うほどに…。
 恐る恐る剣に手を伸ばした。
(きっとケンは怒るだろうな…)
 今自分の心の中で、余りにも都合の良すぎる打算が生まれたのを感じた。
(もし私がこの剣を抜けるなら、戻す事も可能なのでは。ケンさえ取り戻す事が出来たなら…)
 どうやったらケンを取り戻せるのか。どうしたら闇を再び封印出来るのか。
 そんなことにまで考えも及ばずに、シアの両手は剣を掴んだ。
 まるで引きつけられるように。
 生理的な嫌悪感。
 べっとりとした中に、ぞわぞわ、あるいはもぞもぞと蠢くような、まるで蛆虫の群れる汚物を掴む感覚が、シアの中に広がる。
(これを抜けって言うの「)
 胃がむかむかとし始めた。
 少しでも気を緩めたら、それこそ胃の中のものを残らず床にぶちまけてしまいそう。
 鳥肌の立つ両手に力を込める。
「あれっ?」
 動かない。
 剣はぴくりとも動かなかった。
 こんなことをグーラが聞いたら鼻で笑われるだけだろうが、渾身の力をこめてもう一度試してみた。
「うーっ。」
 もちろん後ろの「ケン」達には聞こえないような小声ながら、声を漏らすほど力を込めて引っ張ってみた。
(やっぱり抜けない)
 半ばほっとしながら、視線を床に落とす。
 確かに、床には環状に古代呪語が彫られていた。多分北を示しているであろう所に見たこともない紋章がある。ここが呪文の始めを示すのだろう。
(ゼラ…ラズ・トゥス…スネル…)
 呪文と言うのは口にしなければ、言霊の効力を発揮しない。魔術の師であるアーフェスの言葉を想いだし、心の中でそれを読もうとした。無論優等生ではなかったシアの事だから、己の不勉強さを改めて呪いながら、だったが。
「ルウゥトレモス・ルェフ・ナアメ…ウペカ…?」
 いくら不真面目だったとは言え、当代一流の魔術師に指導を受けたのだ。それなのに…全然意味が理解できない。
(いったい…どういう意味?)
 その時…
 ずる。
 音にすればこんな感じだろうか。
 固い床から、固いクリスタルの剣が抜けるにはふさわしくない音。
 剣は動いた。
(抜いて…いいの?シア)
 この剣は、自分には抜く事が出来る。そう確信した時、シアの心は揺れた。
(本当に抜いていいの?)
 迷ったのは一瞬。いや、正確には迷う事が出来たのは一瞬だったのだ。
 ずっずっずっ…。
 剣はまるで下から押し上げられるように、せり上がりだした。
 そして…
「だめー!」
 必死に剣を押さえつけようとするシアの絶叫と共に、闇が溢れた。

 闇が溢れた。
 ケンも、「ケン」も、グーラも、たった今まで差していた光さえ見えない。
 闇が身体にまとわりついた。
 粘り付くような感覚。
「ヒッ!」
 シアの口から悲鳴が洩れた。
 粘り付いた闇が、不気味な動きを始めたのだ。蠢くような震え。
 やがてその震えは物の形を取り始めた。
 部屋や広間から男達の叫びが聞こえる。剣が床か壁にぶつかる音。
 まるで何かと戦っているような気配。
 だがシアはそれがなんなのか、すぐに知る事になる。
 まとわりついていた闇が、蠢きながらシアの身体を包み始める。
 悲鳴を上げた口に闇がするりと入り込むと、それはたちまち野太い塊となってシアの喉を突き上げた。
 慌ててそれを取り出そうとすると、シアはすでに両手両足とも闇に絡みつかれて動けない事に気付いた。
「うぐう!」
 余りの苦しさに、涙をこぼして呻く。巨根とも言える闇が出入りする度に、息を吐くために必死で開く口から唾液が飛沫となって飛散した。
 耳や鼻に侵入した闇は、まるで子供が遊んでいるかのように、こねくりまわしてシアを弄ぶ。
 さらにシアの衣服の隙間から、液体とも固体ともつかない感覚で闇が侵入してくる。それはまだ成熟し切らない乳房を揉み上げ、乳首を噛む。
「ううっ」
 新たな呻きが苦しげな喉から洩れた。
 しゅるしゅると足元から侵入したそれは、蛇のように太股に絡み付きながら股間目掛けて登ってきた。
 一旦太股の付け根まできて止まったそれは、まるで動物の舌の様な感触で股間を舐め上げると、ぶるぶると小刻みに震えながらシアの股間をまさぐる。
「うがああ!」
 必死に身体を動かそうとするが、締め上げられた身体はびくともしない。
 シアにとって永遠とも思える時間、股間を責めていたそれはついに侵入する場所を見つけた。
「!」
 まるで弾けたかのように、シアの華奢な身体が弓なりに仰け反った。
 膣口とアヌス。それだけならシアにも経験があった。だが尿道にまでそれは侵入してきたのだ。
 三箇所の穴を三本の棒が突き上げる。しかも微妙にタイミングを変化させて。肉襞を擦り上げ、それぞれが擦り合う感覚。まるで何人もの男に同時に嬲られているよう。そういえば口や乳房を責める動作も変わってきてる。そう、子供の残酷ないたぶりから大人の執拗な愛撫へ。
 闇は嬉しそうに身体を蠢かせた。まるで相手の苦悶の様が極上の快楽であるかのように。
 股間を生暖かいものが流れた。
 多分私の血なんだろうな。
 苦痛とも、快楽とも、そんな感情の一切から切り放された状態で、それを感じていた。
 大きく見開いた瞳から渇れることの無い滴をこぼして、シアは己の正気を手放した。

 ケンもまた闇に嬲られる状況はシアと大差無かった。ただ違ったことは、最初から彼女が正気で無かったと言う事である。
 全身に絡みつき、侵入する闇がいくら彼女を嬲ろうと、虚ろなその瞳には何の感情も宿ることはなかった。
 いくら責めても人形のように反応を示さない彼女に興味を覚えなくなった闇が、
彼女を縛める触手を緩めたその時、別の触手が彼女の背中に触れた。
「!」
 この世のものとも思えぬ激痛が背中を走る。無意識に身体が動いた。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
 聞くに耐えないとは正にこのことを言うのだろう。棲まじい悲鳴を上げて闇が裂けた。
 不快な臭いの体液らしき物をまき散らかしながら崩れていく闇。ぽっかりと開いたその空間には、退魔剣レグレスを抜きはなったケンの姿があった。
 それは戦士としての本能の成せる技だった。
 身体を突き抜ける激痛から身を守る。それだけの動きだ。
 体液の飛び散った床から、きつい刺激臭とともに白煙が立ち昇る。
 壁にもたれてうつ向いたケンの顎先から、一筋の汗がこぼれた。それはすでに鏡石とは呼べない、ぼろぼろの床で弾ける。
 己の両腕で抱きしめるケンの身体が、小刻みに震えていた。
「…」
 紅い唇が微かに動く。
 ポタリ。
 また一滴の汗。
 未だ激痛の癒えぬ背中を壁に擦りながら、ケンは床に腰を落とした。
 立ちこめた瘴気を押し退けるように、彼女の身体から棲まじい気が立ち昇るのが見える。いや、見えると錯覚してしまうほどの気。
「…なめるな…、なめるな、この私を!なめるな、フロリア・アクレスを。」
 絶叫と共に、ケンが立ち上がる。まるで自分の内と外に纏い付く黒い鎖を断ち切るように、聖剣レグレスが闇を薙ぎ払う。
 部屋の中の、全ての動きが沈黙と共に一瞬止まった。
 シアが闇に抱かれて正気を手放したように、ケンは闇に抱かれてそれを取り戻した。
「…シア…シアあぁ。」
 命を絞り出すような叫びが、木霊した。

 誰かが呼んでいる…
 うっすらと霞みに閉ざされた心が、その叫びに震えた。
 とても懐かしい声。
 呼ばれたのなら、返事を返さなければ。その人に…
 虚ろな瞳が光を、取り戻した。
「ケン…」
 部屋の沈黙を破ったのは、震える、しかし歓喜に満ちた少女のか細い声。
 シアの視界は、溢れ出した涙で曇ってぼやけた。
「ケン!」
 両手を頭の上で押さえつけられ、乳房も露に辱められているのに、シアの口からは、歓喜の叫びが繰り返された。
 シアとの間に立ち塞がる、暗黒の闇を切り伏せながら、ケンはシアに向かって突き進む。
 かなり消耗しているのだろう。普段の風のような動きと違い、もつれるような足取りだ。
「ひぎゃっ!」
 シアを凌辱していた魔物を一刀両断にすると、ケンはシアと並ぶように壁にもたれ掛かった。
「待たせたな」
 少し上向き加減に息を弾ませながら、ケンは笑った。
「もう少し楽しんだ後が良かったか?」
「冗談!」
 泣いているのか、笑っているのか、自分でも判らない。もうくちゃくちゃの顔で、シアは答えた。
「もう大丈夫だ」
 それは己自身に向けた言葉だったのか、シアに向けたものだったのかは分からない。ケンが一言そう言って頬の涙の後に軽い口づけをすると、今まで経験したこともないほどの安堵感が広がる。
「うん」
 シアは素直に肯いた。
(とは言え…)
 シアを己の背中に庇ったケンは、新鮮な獲物を見つけて群れ集い始めた「闇」を見て困惑した。
 つい先ほどまでは正に闇の塊であったそれらは、次第に物質的な形を持ち始めていた。手や足、頭らしき物が湧き出すように出来上がっていく。
 だがその姿を見て、何かに似ているかと問われれば、誰もが答に窮すだろう。そもそもその姿はこの世界の法則に著しくかけ離れていた。それはまったく対称性のない姿をしているのだ。
 気の弱い者なら発狂しかねない奇妙な造形。修羅場をくぐり抜けてきたケンでさえ、軽い目眩と吐き気を催した。
(あの時の感覚は…呪縛を解いたせいならいいが…)
 ケンは先ほど闇を斬り捨てた時の感覚を思いだし、一抹の不安を感じていた。
 あまりにも無防備に、二人に近づいてくる闇。
 その中の一体がすぐそばまで近づくと、ケンはすっと踏みだしそれを一気に縦割りに斬り裂く。
「うぐう…」
 仕掛けたケンの方がよろめいた。
 一気に床まで斬り裂かれた闇は、しばらく苦しげにゆらゆらと身悶えていたが、二つの胴体の断面からわさわさと黒い触手が伸び、忽ち何事もなかったかのように結合してしまった。
(やっぱり…)
「ケン!」
 片膝をつき、肩で息をするケンの姿を見ても、何事が起こったのかシアには分からない。
「レグレスの退魔の力が効かねえ」
 シアに肩を貸して貰ってようやく立ち上がれたケンは呻いた。
「で、でもさっきは…」
 闇を斬れたのに、という言葉をケンの左手が止めた。
「確かにさっきは斬れた。たが今はレグレスの剣先から、俺の生気を吸い取りやがった」
「そんな…」
「くっそう、ちょっと時間がたったらこれかよ。こいつらが成長しきったら…どうすりゃいい?」
 初めて見るケンの困り果てた顔に、事態の深刻さを感じながらシアはただ首を振るだけ。
 再び二人は壁際に追い詰められた。
 じりじりと近づいてくる闇の群れ。その非対称な歩みは二人の神経を逆なでし、後少しでシアが恐慌に陥ろうとした時。
「シア、あの剣はどうした?」
「えっ「」
「あのクリスタルの剣だ」
 シアははっとして辺りを見回した。封印が解けた瞬間に手放してしまった事は憶えている。
「あの封印の所に…」
 言い終えない内に、ケンはシアの手を握ると弾けるように走った。
「くっ!」
 小さな呻きを漏らしながら、ケンは闇を斬り裂いて駆ける。数体の闇の足元の垣間にクリスタルの剣が見えると、シアの手を離し滑り込むようにしてそれを掴んだ。
「シア、封印の言葉を憶えているか「」
「何とか」
「上等」
 シアに剣を預けて二人は背中合わせになった。ほぼ部屋の中央に来てしまった二人目掛け、目眩がするような足取りで闇が集まり始める。
「ここからは…相当いい加減な感だが、シア。封印の言葉、逆に唱えてみてくれ」
「えっ「」
 確かに相当いい加減。
「そんな虫のいい話しがある訳無いでしょ!」
「ダメでもともと。今はそれしか思いつかないんだから、とっととやれよな」
 焦りがたっぷりと含まれた毒舌がシアの耳元に返ってきた。
 目の前まで押し寄せてくる闇に、シアも気が狂いそうなほど焦りながら、一応それらしく剣を両手で構えると、もつれるような口調で言葉を紡ぐ。
「カペウ…メアナ・フェル・スモレトゥウル…光と影、雄と牝、太陽と月、其は即ち一つ…?あれ、読めた「」
 その途端、クリスタルの剣が小刻みに震えだした。
 クリスタルが甲高い反響音を発し始めたかと思うと、目映いばかりの光りを放つ。
「ちょ、ちょっとお!」
 ぶるぶると震える剣を保持し切れない。そう思ったとき、後ろからシアを抱くように剣を支える腕が伸びた。
 剣から発する光が闇を絡め取り、クリスタルに引きずり込む。
 まるで鞭のように自在に伸びる光は、抵抗してもがく闇を軽々と持ち上げると、次から次へと闇を封じ込めていった。
「嘘みたい」
「助かったあ」
 激しく振動する剣を支え合う二つの口から、本当に正直な言葉が洩れる。
 最後の一体が剣に吸い込まれた時、二人は惚けたように床にへたりこんだ
 いつの間にか光は消え失せ、後には漆黒の闇に染まったクリスタルの剣だけが残った。
「闇の気が…洩れてる」
 鈍い音と共にそれは床に転がった。
「上手くいくとは…思わなかった…」
 まだ小刻みに震えている少女の身体がきゅっと抱きしめられると、その耳元に深い安堵のため息がかかった。
「…ほんと…」
 シアの口から出た言葉はほとんど喘ぎに近い。彼女の視線はまだ己の手の上にある。
「…封印はしたけど…完全じゃないみたい。闇の気が伝わってくる…」
「そうか…」
 シアの言葉に、ケンはクリスタルの剣に視線を落とした。剣からは、立ち昇る瘴気が見えるような気がした。

 今までの出来事が嘘のように「ケン」は平然と壁に寄り掛かり、懐かしそうに二人を見つめていた。
(フロリア、あなたは少しも変わらない。あの頃と…。頑固で意地悪で悪知恵が働いて…でもそれは溢れるような優しさへの照れ隠し。必ず人を虜にする)
 郷愁と羨望の想い。
(あの頃には…もう、戻れない…か)
 全てを振り払うように、彼は剣を抜いた。
「じゃれ合うのもそこまでにして頂きましょうか」
 すうっと近づく「ケン」に、ケンもまたシアを庇うようにして、立ち上がる。
 その何事も無かったかのような悠然とした歩みに、ケンはかつてない緊張と…恐れを覚えた。
 その時。
 「ケン」の首筋に、背後から鋭い刃が突きつけられた。
「これは、どういうことかな、グーラ殿」
 ぴくりとも動かずに、彼は背後の人物に語りかける。
「これがお前らの言う「闇」なのか」
 唸るような、明らかに怒りを含んだグーラの声。
 必死に闇と戦ったのだろう。美しい毛皮が、汗でぐっしょりと濡れているのが見える。
「これじゃあ話が違うじゃねえか。お前らがもしこの世をこんなものに変えちまったら、今この世にいる生き物はとても生き残れねえ。人虎族もな」
「生き残る必要はない」
「なに?」
「生き残る必要はない、そう申し上げた。誤解されないで欲しい。私は決して人虎族に滅びよと言っているのではない。闇を受け入れ、「変化」すれば良いのだ」
「貴様のようにか!」
 誇り高き戦士は、怒りに吠えながら剣を降り降ろす。
 火花を飛び散らせながら、「ケン」は片手の剣でそれを受けた。山のような巨体から降り降ろされた剛剣を、何事もないかのように。恐るべき腕力。
「俺は知っているぞ、お前が何者なのか。そんなものに…変化れるか!」
「なに、さほど難しいことではない。この場を収めたら、お教えしましょう」
「なんだとぉ!」
 「ケン」はグーラの剣をはね上げると、何事もなかったかのように剣を鞘に戻した。
「私の目は、帝都の遠視の間につながっています。これ以上問題を起こせば…お分かりですな、グーラ殿。人虎族に懲罰が加えられる事になります」
 グーラに言葉はない。
 ただ固く握り締めた拳から、血が滴り落ちる。
 グーラの涙。
 血の涙だ。
 シアはこぼれて床に弾ける紅い飛沫を見て、そう思った。
「あなたが倒すべき相手は、そう彼女です」
 平然とした口調の「ケン」は、ケンを指さした。
「殺しなさい、彼女を。彼女は帝国にとって危険すぎます」
 グーラは「ケン」の指の指し示す先をじっと見つめた。その目に浮かぶのは、余りにも素朴な心の色。
 それは絶望に縁どられた哀しみの色。
 剣を握り直す鈍い鋼の音がシアの耳を打つ。
 次の瞬間、まさに獣の唸り声を上げて、グーラの剛剣がケンに襲いかかる。
 それは行き場の無い怒りを込めた一撃だった。
 
 中略
 
「その程度か、琉華のフロリアの剣は」
「ちっ!」
 嘲るような「ケン」の声に、ケンは舌打ちする。
 状況は、すこぶる悪い。
 部屋の隅に追い詰められた二人を囲むように、二人の魔狼将軍と「殻」を纏った闇が十数体。
 一人で相手をするにはかなり絶望的な数だ。
 背中を握るか弱い手が震えた。
 そう、私はこいつを護らなくてはならない。
 状況は絶望的。だが…
 人は護るべき者を持ったとき、強くなれる。それをケンは知っていた。
「「ケン」。アクリス戦役の時、どうして私が魔狼や魔龍に勝てたか、今こそ教えよう。私の奥義の全てを!」
 右手で正眼に構えたレグレスの両刃を床と平行に寝かせる。
「はっ!」
 短い気合いと共に、ケンは動いた。
 とても女性とは思えぬ腕力で、ケンはレグレスを右手だけで操る。
 わずか数合で八人の「闇」が、床に溶け去った。
 「ケン」の端麗な眉が訝しげに動く。
 グーラも低い唸りをあげた。
 不思議な動きだ。両手がちぐはぐな動きをした。それしか分からない。
「面妖な…」
 「ケン」がすうっと前に出る。直に当たらなければ、ケンの使う技の正体が分からない。そう判断しての動きだ。
 

中略

 ケンは肩で息をしながらシアを見た。
 紙のように白くなった顔に幾筋もの汗が光る。
「シア、いいかよく聞け」
 いつもは憎まれ口しか叩かないケンの口から、息絶え々々に言葉がこぼれた。
「俺はあの剣を使う。判るな?あの剣を使うんだ」
 一つ一つ噛みしめるようにケンは語りかけた。
「あの剣て…まさかあれを使うの?」
 意外なケンの言葉に、シアは思わず聞き返してしまった。
「だめ…だめよ!あれは人が使えるモノじゃない。あれは「闇」そのものなのよ!」
「…わかってる。だから使う。あの剣の力を借りねば魔狼将軍二人を相手には出来ないんだ。判るな?」
 シアはあの剣の棲まじい「闇」の気を思い出して、身体が震え出しそうになった。
 あれを持ったら、その人は人でなくなる。
 それだけは確信できた。
「判らない。判りたくないわ。もし魔狼将軍を倒せても、ケンがケンでなくなっちゃう。もし…」
最悪の場合のことが脳裏をよぎったシアは言葉を途切らす。
 もし魔狼将軍を倒す前にケンの魂が「闇」に捕らわれたなら…
 シアの訴えるような視線に、ケンは弱々しい微笑みを返した。
「俺はそんなに弱くない。知ってるだろ?」
「…」
 否定も肯定も出来ないシアには、ただケンを見つめるだけしか出来なかった。
「俺はお前を助ける。騎士が剣にかけて誓った事だから。だが敵を倒しても元の俺に戻るかどうか、判らない。だからだ」
「だから?」
「もし剣の力に俺が負けそうだと思ったら…このレグレスを使え」
 ケンは自分の愛剣をシアに差し出した。
「この剣で俺を殺せ。完全に「闇」に取り込まれる前に。わかったかシア!」
 ケンは叱りつけるようにシアに言った。
「俺が俺で無くなる前にケリをつけるんだ。いいな」
 つぶらな瞳に涙を一杯に溜めながら、シアは最後までケンの言葉を聞く事が出来なかった。
退魔剣レグレスを小さな胸に抱き抱え、まるで子供のように首を振った。
 涙がきらきらと光りながら飛び散る。
「判らないわ…判りたくないっ!」
シアの叫びが途切れた。
 ケンがシアをきつく抱きしめたから。
「泣くなよシア。お前は帝王の娘だ。いつまでも護られている訳にはいかないんだ。いつかはお前自身が戦わなければならない時が来る」
「…」
「グーラの叫びを聞いたか、シア、奴の魂の叫びを。帝王の現れる事を渇望する悲鳴を。あれは人虎族だけの叫びじゃない。この世全ての叫びだ。闇は今はもう滅んだ神々の哀しみと絶望の欠片。それは鋭く、痛い。この世の全てはその苦しみから逃れたいと願っている」
 ケンの心臓の鼓動が聞こえてくる。温かさと一緒に。
「シア、見せてみろ。帝王の力を俺に。誰かがやらねばならん。おまえにとってそれが激しい痛みであったとしても」
 ケンはシアの肩を持つとぐっと引き離した。
 笑っている。
 今まで見た事の無い優しい微笑み。
 言葉を紡ごうとしても、紡ぐ事が出来ない。心の中では狂いそうになるほど叫んでいるのに。
「俺は感謝している。お前に巡り会えた奇跡を。俺は捧げよう、この俺の剣を、そして魂を」
 涙に濡れたシアの頬にケンの唇が触れた。
 吐息が掛かるほどの間近のケンの笑み。
 そしてもう一度ケンは、今度はシアの唇に唇を重ねた。
 もう涙で曇って見えない目をシアは閉じた。
 長い、長い口づけ。
 やがてシアの身体中の力が抜け、床に崩れ落ちた。
「約束だ、シア」
 ケンはシアに背を向け、祭壇へと歩きだした。
「俺の魂はもうお前のものだ。俺が闇に捕らわれる前に…救ってくれ」
 いかないで…
 叫びたい。大声で。
 けれどシアの口が開く事は無かった。
 ただ見送るだけ。
 今ほど己の力の無さを、そして己に流れる血を呪った事はない。
 
 ケンの手が床に突き立てられた「帝王の剣」にかかる。
 ビクン。
 ほんの一瞬、ケンの身体が脈打った。
 シアは惚けたようにそれを見つめる。
 その時、部屋の扉が打ち砕かれた。
 舞い上がる煙の中から、二人の男の姿が現れる。
 ケンはゆっくりと「帝王の剣」を抜き取った。
 もう封印の役目を終えたそれは、あっさりと床から抜けた。
「フロリア!」
「ケン…」
シアと、「ケン」が叫んだ。
 闇がまるで抱擁するようにケンの身体を包み込む。
 ケンの赤みがかった髪が、みるみる伸びていく。
 まるで深紅の血潮が滝の如く流れるように。
 やがて、床に流れる程にまでに達すると、ケンの髪は伸びる事を止めた。
「死と戦を司る女神、セーレン…か」
 グーラが呟いた。
 その声に、初めて二人の存在を知ったかのように、ケンが振り向いた。
「まさしく…その通りだ…」
 「ケン」は息を飲んだ。
 そこには彼の知る「フロリア」はいなかった。
 まるで別の、人でない存在。
 紅の瞳は、視線を合わせると魂を吸い取られそうなほどの深い闇をたたえている。
 やはり深紅の唇には、微笑みがたたえられていた。それはつい先ほどまでシアに向けていた優しい微笑みではない。残忍な、死の香りの漂う笑み。
 ケンは、気だるげに「帝王の剣」を引きずるように祭壇から降りてきた。
 二人の魔龍将軍は戸惑った。
 目の前にある者が、究極の「闇」の女神、セーレンであれば、同じく「闇」の配下である彼らは戦う必要がない。
 「ケン」が戸惑いを含んだ声で話しかけた。
「あなたは…何者か?」
 返事はない。
 ケンはシアに一瞥をくれると何事もなかったかのように、シアの側を通り過ぎた。
 二人の視線がほんの一瞬交差した。
 ケンのその暗い「闇」の瞳が僅かに輝きを見せる。
 大丈夫。
 そうシアに語りかける。
 シアの身体にケンの深紅の髪が触れた。
「!」
 身体の力が、体温が、魂が、根こそぎ奪われるような感覚。シアはまるで深い々々穴に落ちていく様な気がした。
 ゆっくりとグーラと「ケン」に近づくケン。
 二人は思わず後ずさる。
「私が何者か…だと」
 ケンはゆっくりと話した。
 媚薬のように甘く、毒々しい声。
「私は…」
 答える間もなく二人は吹き飛ばされた。
 「それ」が「帝王の剣」を棲まじい勢いで横にないだのだ。
 流石に二人はとっさに抜いた剣で受け止めはしたが、その棲まじい勢いに弾き飛ばされた。剣を抜くのがあと一瞬でも遅ければ、二人の首は胴についていはしなかったに違いない。
「ほほう、少しは出来るようだ。「存在せし者」にしてはやる」
 弾き飛ばされた二人の姿が余ほど面白かったのだろう。ころころと「それ」は笑った。

短い中略

「うぐう」
 長剣が弾き飛ばされた。それは宙を舞い、二人の側に突き立った。
 グーラは痺れる右腕を押さえて、短い呻きと共に片膝をつく。
「死ね」
 冷たい言葉と一緒に、ケンは剣を振り降ろした。
「ケン!」
 とっさの行動だった。
 シアは床に転がっていたレグレスを掴むと、振り降ろされる剣に身体ごとぶつかった。
 レグレスがぼうっと青白く輝く。
 聖なる光。
 甲高い金属音が部屋中に響き渡る。
 その時、誰もが己の目を疑った。
 闇を封じたクリスタルと退魔剣レグレス。二つの剣がぶつかり合った時、二つの剣は目映いばかりの光を放ち、そして粉々に砕けた。
 その光は封印の間の隅々まで満ち、闇の残垢を拭き払う。
 ただその光の中を、舞い降りる剣の欠片。
 まるでここだけが時間の歩が遅くなったような感覚。
それは清らかな光を煌めかせながら、雪のように舞う。
「…闇を浄化出来るのか、この娘は…」
 「ケン」はその身を震わせた。
 恐怖。
 闇に身を委ねて、初めて感じる恐怖。
(…危険…危険、殺せ!)
 心の中で闇が叫んだ。
 
 「ケン」は

中略

「「ケン」!」
「!」
 背後からの声に、「ケン」はびくりとした。
 冷や汗にまみれた顔から、恐怖と興奮の影が引いていく。
 ゆっくりと振り向いた「ケン」の表情からは、一切の影が消えていた。そこにはかつて敵味方何れをも恐れさせた鳳燐騎士の面影のみ。
「決着をつけよう」
 部屋一杯にまで立ちこめた殺気に、戦士の心が動揺を制したようだ。
 ケンもまた、あらゆる感情をその顔からぬぐい去る。
 その手には、グーラの長剣が握られていた。
「レグレスを失った今、あなたは私に勝てない。ましてその身体で、その剣を扱えるものか」
「御託はいい」
 ケンは己の背丈ほどもある長剣を持ち上げると、右肩に背負うようにして構えた。
 「ケン」もまた、グーラの血を啜ったばかりのシュライザーを青眼に構える。
 
 
 薄靄が日の光に融けていく。
 爽やかな朝が訪れた。
 シアのたっての願いで築いたグーラの墓の前に、二人はいた。
 土盛りしただけの粗末な墓だった。グーラの長剣が突き立てられ、朝日に鈍い光を放っていた。
 その墓の前で膝を突き、静かに祈るシアを見つめながらケンは長かった夜を思い返す。
 闇の扉の事、剣の事、グーラの事、そして「ケン」の事。
「我々は一度死んだのだ」
 「ケン」の言葉が思い出される。
 そう、私ももう死人なのだ。死人に過去は無い。アクリスも「ケン」も無い筈の過去の出来事。
 ロランの公女時代を捨てきれぬシアに何度も苛立ったが、過去を捨てきれなかったのは自分の方だったようだ。
 時は移る。
 「ケン」は魔狼将軍となり、敵として立ち塞がるだろう。
 ケンはシアの小さな背中を見つめた。
(もう…逃げるのは終わりにするか。敵からも、過去からも)
「シア」
「なに?」
 ケンの言葉にシアは振り返った。
 笑っている。優しい微笑み。けれどその微笑みの奥に、今まで見た事もない強い意志を感じる。
「もう逃げ回るのは飽きたな」
「??」
「お前のロラン再興の夢、果たさせてやろう」
 シアは突然の言葉に、ポカンとした。
「全知全能を傾けて、お前の夢を叶える」
 足に着いた土埃を払いながら立ち上がるシアの肩を軽く叩きながら、ケンは笑った。
「突然どうしたっていうの。まだ熱あるの?」
 不思議そうなシアの肩を抱くように、ケンは歩き始める。
 雌伏の時は終わった。過去の呪縛を振り払ったケンは、そう思った。
 今一度賭けてみよう、シアに。
 目的を失った人生の虚しさをこの4年の月日が教えてくれた。
 そしてシアのまだ熟し切らない王としての器が、ケンの野望を刺激して止まない。
 中原に覇を…。
 ケンは久し振りに己の身体を流れる騎士の、戦士の血が熱くなるのを感じた。
 かつて紅い魔女と敵味方から恐れられたケン=フロリア・アクレス。眠れる獅子が現在目覚めようとしていた。

「で、全知全能を傾けると、どうやったらこの森から抜け出せるの?」
「うるさい。自然の前には人の知恵など歯も立たない時もある」
 不満気に後ろを歩くシアを叱りながら、ケンは怒鳴った。
 彼らは結局黒迷宮の森に迷ってしまったのだ。
「くっそう、だいたいあんな黒迷宮のど真ん中に連れ込んだ帝国の奴らが悪い」
「あーあ、これじゃロラン復興の前に遭難死しちゃう」
「文句を言う元気があるなら少しは手伝え」
「お腹空いたあ!」
「さっき食べたろ!」
 由緒正しき聖剣、シュライザーで森の道を切り開くケンの姿を見て、シアはぼそっと呟いた。
「前途は多難、か…」
 彼女らが黒迷宮の森を抜け出したのは、それから3日後であった。

11章黒迷宮の森 終わり

予告

 シアとケンは、シアのいとこシンシアの嫁ぐスーオン王国の首都スーミアへと足を踏み入れた。戦うための力を得るために。だが、すでにそこには闇の魔手が忍び寄っていた。かつてアクリスと中原を二分する力を誇った大国、スーオン。その宮廷で繰り広げられる、熱き戦い。二人の行く手に立ちふさがる者は…

 次回、「スーミアの妖妃」をお楽しみに!

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