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13章 西へ渡る風


− 西から吹く風 −

「陛下、軍議の用意が整いました」
 紅い羽飾りを揺らめかせたきらびやかな鎧を纏った近衛兵が、膝を折りながら告げた。
「む、今行く。ヘルメスも着いたか」
 手伝おうとする側付きの近衛兵を手を振って下がらせると、自分で鎧を纏いながら、スーオン王コルト・キャガルは顔を伏せたままのその兵に訊ねる。
「はっ、既にお集まりでございます」
「そうか」
 軽い返事を返すと、コルトは部屋を出た。
 コルトがスーオン軍主力を引き連れてスーファに到着して二日が過ぎていた。
 スーファは、ルゴンからスーオンの首都スーミアを経由して中原北部に抜けるシルフ街道と、アクリスからバーダ、セラト、ロラン、そしてスーオンを貫くアクリス−スーオン街道、通称「黄金ロード」の交差点に当たるスーオンの貿易の中枢である。
 スーオン軍はこの二つの街道を北上してくる帝国軍を迎え撃つ場所としてこのスーファを選んだ。
 コルトが軍議の部屋に姿を見せると、その場にいた全員が重々しい鎧の音と共に立ち上がり、戦いが始まってからすっかり見違えるように逞しくななった彼らの王に敬礼をする。
 再び重い鎧の音を響かせて、全員が席に着いた。
「軍議に取り掛かろう。ヘルメス、遠路ご苦労だったな」
 コルトは末席の騎士に声をかけた。
「遅参申し訳ございません」
 顔中髭で覆われたその騎士は王の言葉に恐れ入りながら、軽く頭を下げる。スーファに到着してそのままこの場に出たのであろう。彼の鎧は僅かに埃で汚れていた。
「そう畏まるな。遥々北のラファダムから来てくれたのだ。戦に間に合ったのだから何の不都合がある。で、どれほど連れてきた?」
「はっ、北部や西部の守りもあります故、1万がやっとでございました」
「東部の第3軍はヌービア、バヌア軍に備えて動けませぬ。ここに集まった兵で戦うしかないでしょう」
 近衛軍を預かるワイザール将軍の言葉にコルトは軽く頷く。
 半数の兵力を東、北、西の国境に張り付けにしている今、スーファに集結した兵力がぎりぎりの所だと言える。
「帝国軍の様子はどうか」
「ルゴンよりシルフ街道を北上する帝国軍はおよそ8万。指揮するはサルザン候かと」
「闇の王の片腕と言われたあのサルザン候か」
「いや、サルザン候はすでに亡くなっているはず。恐らくそれはサルザン家唯一の孫姫、ジェスフィーナの軍でしょう」
 情勢に疎いスーオンの将軍達に代わり、ケン=琉華騎士団長フロリアが答えた。
「姫か。スーオンもなめられたものよ」
「左様、サルザン候の一門に武功の一つも立てさせようという腹ですな」
「そうでございましょうか」
 フロリアが小首を傾げると、全員の目がこの美しい女騎士に集まる。
「帝国において一軍を指揮する者は、魔龍、魔狼将軍を問わずその道に秀でた者。例え名門の血を引くとは申せ、無能な者は帝国では生き残れません」
「油断するなと申すのだな」
 楽観論を一蹴するフロリアの言葉にコルトは頷く。
「とにかく8万の軍勢は誰が指揮するにしても無視できぬ。だがそれにしても帝国の主力軍はどうしたのだ」
「先鋒がサルドを陥してから三日、後続がスーオンに侵入する気配がありません。3万の先鋒軍もそのままサルドに留まっております」
 フロリアが答えた。配下にロラン兵6千を持つ彼女が帝国主力に対する先鋒部隊の指揮官であり、ためにこの方面の情報は彼女に集まっていた。
「妙だな。我々がサルザン軍に引きつけられる間にスーミアを衝くつもりだと思ったのだが…」
「そうだとしても、我々は動かざろうえないですな。このスーファで二軍を相手に戦は出来ますまい。総力を投入して各個に撃破する、それしか方法はない」
 ワイザールの言葉にコルトはちらりとフロリアを見る。彼女はその視線にこくりと頷いた。
「よし。かねてからの手筈通り、フロリアはサルド前面にて帝国主力に備える。その他の部隊はシルフィス州境まで進出し、サルザン軍を撃滅する。よいか、この戦、時間との戦いである。サルザン軍に手間取れば我々は腹背に攻撃をうけることとなろう」
「はっ!」
 立ち上がり一礼を返すと、集まった武将たちはそれぞれの持ち場へと散っていった。その中でフロリアはコルトに呼び止められた。
「もしロランに集結した敵主力が出てくれば、そなたの軍は壊滅するだろう。それでよいのか」
 誰もいなくなった部屋で、コルトが訪ねた。言葉には例えスーオン軍副総司令となったとはいえ、あくまで客将でしかないフロリアへの気遣いだけではなく、違う別の感情が含まれていた。
「陛下、この戦を勝つつもりであればそのような気遣いをなさるものではありません。誰かがやらねばならぬこと。大丈夫、私は負ける事が嫌いな女です」
 フッと笑いかけたフロリアは、軽く手を振りながら部屋を出ていった。
 その姿を見送りながら、コルトは呟いた。
「この歳で諭されるとはな。困ったものだ」

 部屋を出たフロリアを、副官のエルザが待っていた。
 二人は肩を並べて歩いた。
「如何でした?」
「他愛もない。スーオン軍は情報収集能力が低すぎる」
「ではアクリスのことを話さなかったのですか?」
「ああ、教えて得は何も無いからな」
「団長、ますます人が悪くなりますね。アクリス北部軍がバーダに進攻して帝国主力軍が動けなくなったことを知れば、コルト陛下も団長をサルドに派遣しない」
「そして我々は先鋒としてサルザン軍と当たらねばならなくなる。例え琉華騎士団といえどもかなりの犠牲がでる」
 フロリアの戦術は悪辣と言っていい。自軍を無傷のまま温存し、帝国軍を撃退、なおかつスーオン軍の力も弱めてロラン軍、即ちシアの発言力を大きくしようという一石三鳥を狙うものだったからだ。
 事実フロリアは、帝国軍撃退の後に起こりうる事態までを予測して今回の作戦を立案していた。
 もしスーオンが勝利した後、ロランがスーオンに取り込まれるような事があってはならない。
 そのために、スーオン側に入る情報もある程度コントロールしていた。
「だが戦というのは時として考えられない展開をするもの。今度の戦とて、アクリスがバーダに攻め込んだ時点で帝国軍が何故作戦を中止しなかったのか、不思議なぐらい。その為の用心、怠ってはいないな」
「無論です。すでにサルドにはエリスを向かわせました」
「そうか、エリスが行ったか。我々も展開を急ごう。サルドの敵、先鋒とはいえ4万の兵力だ。油断すると思わぬ火傷を負うやもしれぬ」
「はい」
 優しげな微笑みを浮かべていたエルザの表情が引き締まる。
「コルトの言葉はある面で正しい。サルド攻略に手間取れば、帝国の主力軍を呼び込む呼び水になりかねん」
「はい。そうなれば我々はまさに進退窮まります」
「そうだ。琉華は風のように動き、風のように戦い勝たねばならないぞ」
 二人はコルトが聞けば裏切り者と呼ばれかねないような話をしながら、彼女らの部隊に追いつくべく、急ぐのだった。

 窓の扉さえも閉め切っているのだろうか。昼だと言うのに薄暗いその部屋に射す唯一の光は、部屋の真ん中に置かれたテーブルの上から洩れていた。
 黒い水晶の珠に風景が映し出されている。その光に珠を操る者の姿が微かに浮かび上がる。
「ふふっ…何もかも思い通りと言うわけ?フロリア。でも全てを動かしているつもりで己が動かされていると知れば…」
 すっと手を翳すと水晶に映し出されていた光景が消えた。
「スーオンも、琉華騎士団も、フロリアも、そしてデューク王子さえも我が手の内で舞う。舞って伝説を紡ぐ鮮やかな糸となる。まもなく闇の王のお望みの伝説が織り上がるであろう」
 ゆっくりと立ち上がった影。
 今まで部屋中に立ちこめていた妖気がその影に吸い込まれるように消える。
 窓の扉がゆっくりと開く。まるで見えない力に引かれるように。
 差し込む光の眩しさに、思わず手で眼を庇った。
 純白のドレスが、微風に舞う。
「ジーナ、あなたはどう舞ってくれるかしら」
 窓から見える美しい街並。それは紛れもなくスーミアの光景だった。

 シルフィス州の州都、シルファンを攻略したジェスフィーナ指揮下の帝国軍は、シルファン北部、東にガザの大森林、西にセルジュのなだらかな山地を望む平原でその動きを休めていた。
 広く展開した野営の天幕の群れの間を人馬が忙しそうに動き回る。
 帝国軍の陣は、平原に広く赤茶色の鎧を身に纏うルゴン軍が展開し、そこから南の小高い丘に移るにつれ、やがて碧の帝国方面軍、漆黒の帝国中央軍へと色の帯を描く。
 そんな平原に描かれた色の帯を、帝国軍ルゴン方面司令官ジェスフィーナは丘の頂上の本陣からただ何となく眺めていた。
 漆黒の鎧には銀の美しい紋様が何重にも施され、風に黒いマントが軽く靡いている。
 風で顔にまとわりつく銀色の髪をやや鬱陶し気にかきあげると、見た者をはっとさせずにはいられないような美しい顔に日差しが差し込む。
 それは完璧に近い美貌である。
 一度見たなら二度と忘れない。まさに女神の容貌っといっていい。
 だが彼女を見た者はすぐに気付くはずである。彼女の美は男の欲情を誘うものでもなければ、女の羨望を招くものでもないことに。
 晴れた日の極寒の雪原の、身を切るような澄んだ空気のごとき清廉清冽な美しさである。
 そして彼女に接した者は、彼女のそんな雰囲気は彼女の内面そのものである事を知ることになる。
 陰謀、中傷、嫉妬。様々な邪悪の想いの渦巻く帝国の中で、この特異な存在を、彼女の部下達は畏れと敬愛を込めてこう呼ぶ。「氷姫」と。
 兵達は彼女の号令が下るのを待っていた。
 
 ジェスフィーナは無意識に爪を噛んでいる自分に気がついた。苛立っている時の悪い癖だ。
 今噛んだ辺りを軽く舌で舐めると、彼女は後ろに控えていた男に声を掛けた。
「デューク閣下は進軍せよと申されたか」
「はっ」
 少し後ろに同じように立っていた男が答える。男はつい今しがたロランから戻った副官のラスコフ将軍である。
「帝国の誇りにかけて勝つべしと」
「勝ってどうする?」
「はっ?」
「勝ってどうするかと聞いたか」
「いえ」
 ラスコフはジェスフィーナの問に困惑した。
「そうか…」
 自分の言葉の意味を解せぬ男に、いつもの軽い失望を憶えながら、彼女は口を閉ざした。
(デュークには数の計算しか出来ぬのか。この軍は帝国正規兵や魔龍、魔狼軍団だけで構成された己の軍とは違うのだ。ルゴンやシェールの寄せ集めの軍でどこまで戦えると思っている。例えスーオン主力に勝てたとて、恐らく殲滅するには至るまい。こちらの被害を考えれば、スーファやスーミアに篭もって持久戦に持ち込まれたなら勝ち目はない。攻城戦では攻める側は守る側の三倍の戦力がいるのだぞ)
 まさに帝国東部方面軍のスーオン侵攻を見計らった、アクリスのバーダ侵攻は絶妙なタイミングで進められていると聞く。当初東部軍司令のデューク王子らが予期していたものより遥かに本格的な侵攻軍である事が明らかになるにつれ、ロランに集結した帝国主力は動きが取れなくなり、一部はバーダへ移動を開始したとの噂も伝わっていた。
 ルゴン、セラト、シェールの予備兵力もことごとくバーダ方面に取られ、占領地にも気を配らなければならないジェスフィーナの軍は先に進む毎に戦力が細る一方であった。
 事実当初10万はあった彼女の軍は、ここシルファンで8万を割り込んでいた。
 ジェスフィーナは、このままスーオン侵攻を続行する事の不利を思い、何度となくスーオン侵攻の中止をデューク王子に進言してきた。
 彼女の論理は簡潔である。
 今回の作戦は、ビルガァファ及びフェトラ州の確保を持ってよしとし、アクリス軍の脅威を排除した後、後顧の憂い無く改めてスーオン侵攻を行うべし。
 だが彼女のそんな進言も、デューク王子には受け入れられなかった。
 その理由もまた単純である。
 これまで順風満帆できたデューク王子の経歴に傷をつける事はならない。
 これだけである。
 デューク王子を取り巻く重臣達はこれまで派遣した使者の口を通してジェスフィーナを揶揄した。
 貴公には10万を越える兵力がある。ロランから侵攻する4万の別動部隊もある。さらにスーオン首都スーミアに潜入させた兵までいて何故弱音を吐くのか、と。
 自分自身がその場に行けぬ現在、一度下った命令を覆す事は叶わぬ。やはり戦うしかないか。
 ジェスフィーナは無意識にまた爪を噛む。
 鈴の音のような鎧の音を鳴らして振り返った彼女は、その美しい素顔に無表情という冷たい仮面を纏い、命じた。
「休息は終わりだ。全軍に進軍を命ぜよ。敵はスーオン軍主力。シルフィスの州境に陣を引く」
「御意」
 帝国軍はしばしの休息を終え、新たなる戦場へと動き出した。

 パチ、パチッ。
 松明の木の弾ぜる音が城壁に沿って微かに響く。
 見回りの兵が歩いているのだろう。時折鎧の鳴る音がする。
 新月の闇が、サルドの街を覆い尽くしていた。
 帝国スーオン侵攻部隊ロラン軍指揮官のレイダンは、床に着いてからもう随分と時が移ろうというのに、未だ眠れぬ身体に寝返りをうった。
 部屋の中には油の炎が外から吹き込む風にゆらゆらと揺れる影を創っていた。
 ふとその影が静止する。
 何者かの気配が部屋の中に発生する。
 レイダンはゆっくりと己の剣を引き寄せた。
「何者か」
 ゆっくりと身体を起こしながら、彼は気配のする方に声を掛けた。
「琉華」
 小声だがハッキリと聞き取れる声が、彼のすぐ後ろから答えた。
 さすがにレイダンも、予想もしない場所からの答にびくりと身体を震わせた。声は女のようだ。
 振り返るには距離が近過ぎる。相手がその気なら、剣を抜く間もなく斬られるだろう。
「琉華?あの琉華騎士団か」
「御意。その琉華です」
 相手の間合いにいる緊張の為だろう。微かに震えた声に相手がクスリと笑うのを感じた。急に緊張していた気が遠のき、ふっと気の抜けたレイダンの身体から、冷や汗がどっと溢れた。
 そして遠のく気に引きつけられるかのように振り向いたレイダンの視野には、薄暗い闇が広がるだけであった。
「閣下…」
 再び掛けられた声に、レイダンの心臓はまさに喉から飛び出さんとするほどに驚愕する。
 声は彼の正面からした。
「儂とて若くはない。この臆病な老人を驚かせんでくれんか」
 苦笑いを浮かべながら、レイダンはため息を吐く。
 彼の前に片膝をつき、畏まる女の姿がある。
 漆黒のマントを纏い、僅かに覗く胸元からはやはり黒い鎖帷子が薄暗い灯の元に鈍い光を放っている。
 小柄である。ゆったりとしたマントの下に隠された華奢な体型が容易に想像出来た。
 短く刈り込んだ髪はこの辺りでは珍しい紫。まさに少女と言っていい容貌をしている。
「申し訳ありません。これを」
 少女は胸元から巻物を取り出すと、レイダンに差し出す。
 レイダンは一瞬躊躇ったが、手を延ばし、それを受け取る。
 ゆっくりとその巻物を開いた彼は、少女の方を伺いながら目を通す。
 読み進むほどに彼の眉間に皺がよる。
「やはり…生きておられたか」
「はい。スーオン王の庇護の元、健やかにあられます」
「そうか…で、この老耄にどうせよと申すか」
「閣下のお心のままに。私は只このシア陛下の書状を渡せとの命を受けたのみ」 少女はすっとレイダンの手元から巻物を取り上げると、右の掌に立てる。
 ぽっ。青白い炎が巻物を包むと、瞬く間に灰と化した。
「儂に任すと、そう申すのだな。それではそなたの役目は果たされまい。儂が帝国を裏切…」
 レイダンの言葉を少女の指が遮った。
 少女はすっとレイダンの耳元で囁く。
 レイダンは一瞬驚愕の表情を浮かべたが、やがていつもの穏やかな表情を取り戻した。目には優しい光をたたえている。
「そなた、名は何と言う?」
「エリスと申します」
「そうか…」
 まるで己の愛孫を見るかのような優しい微笑みを浮かべるレイダン。
「ではシア陛下に伝えてくれい。儂の返事は…これだ!」
「ちっ!」
 レイダンはいきなり剣を抜くとエリスに斬りつけた。
 エリスは間一髪の間合いでその剣を避ける。
 飛び跳ねた身体がふわりと部屋の隅に着地した。驚くほどに身が軽い。
「そう…それが閣下のご返事と言うわけですか」
 息一つ乱さずに、エリスは小猫のような笑みを浮かべた。
「ロランを裏切るという訳ですか」
「おまえとて知っておろう。いや、琉華の騎士なれば儂より知っておるはずだ、帝国の力を。もはやロランは帝国の一部としての生き方を探すしかない」
「そのような考え、シア陛下とロランへの重大な裏切りですね。あなたではお話にならぬようです」
 エリスはゆっくりと背中からレイピアを引き抜く。
 少女の顔から表情が引いていく。
 レイピアの細身の白刃が鈍く煌めいた。
「あなたにはここで死んで頂きましょう。もう少し忠誠心のある方かと思いましたが、所詮あなたもその程度の方。あなたの代わりに副官のモース殿辺りをあたるとしましょう」
 ふっとエリスの姿が消えた。
 次の瞬間、部屋に刃のぶつかる音が響いた。
 息が掛かるほどの懐に飛び込んできたエリスの一撃を半ば偶然にレイダンは剣で振り払った。
「うぐっ!」
 白い夜着の左肩に紅い筋が走る。躱し切れなかったらしい。
可愛い暗殺者の腕前に、背筋が凍る想いがした。
 次の太刀はかわし切れまい。そうレイダンが観念した時。
 ばん!
 扉を蹴破る音と共に幾人もの兵士達が飛び込んできた。
 兵士達の動きに淀みはない。
 数人がレイダンを庇うように人垣を作る。さらに7、8人がエリスの前に立ちはだかる。
 いずれも黒い下地に血を浴びたような色の鎧を纏っている。レイダンは彼らが帝国軍精鋭中の精鋭、魔狼騎士である事に気がついた。
「そこまでだ、琉華の鼠め」
 蹴破られた扉から数人の騎士を従えて、男が部屋に入ってきた。
 男は鎧を纏ってはいなかった。全体に細身の身体をしている。痩せた顔には神経質そうな表情を宿していた。
「我々が結界を張り巡らしている事に気がつかなかったようだな。貴様が侵入してからずっと監視していたのだ」
 自信たっぷりの口調で、男は憎々しい笑みを浮かべた。
 男は帝国軍先鋒部隊の指揮官、ガルモス将軍だった。
「おまえ達がレイダン将軍に接触しようとすることは予想済みということよ。わざわざ罠に飛び込んでくるとは琉華も大した事はない。おかげでレイダン将軍の忠節ぶりも分かった事だしな」
 じりじりと間合いを詰める魔狼騎士達に、エリスは部屋の隅に追い詰められた。
 跳ぶには天井が低すぎる。窓もない。どうするか。
 エリスは一瞬躊躇した。
 右か…左か…。
 エリスの身体が床を跳ねた。天井に衝突せんばかりに跳び上がったのだ。
「跳んでいない!」
 誰かが叫んだ。
 意表を衝くエリスの動きに惑わされた魔狼騎士達の狭間を、エリスは切り抜けようとした。上に跳んだのは彼女の見せた幻である。
 最初の二人をすり抜けると、立ち塞がる騎士の首をレイピアが斬り裂いた。
 びしっ!
 エリスの右腕に鞭が絡みつく。
 振り降ろされる剣を彼女は辛うじて両手で支えた。
「しまった!」
 エリスの動きが止まった。鞭に絡みつかれたまま、両手で握ったレイピアで相手の剣を支える。
 鞭をふるったのも、エリスに剣を振り降ろしたのもガルモスを護る騎士であった。流石に将軍を警護する騎士達はエリスの動きに惑わされなかったらしい。
 エリスの首に、左腕に、足に鞭が絡みつく。
「そこまでだ、女鼠」
 今まで剣を交えていた騎士がすうっと剣を引くと、身動きの取れない彼女の鳩尾に思い切り拳を入れる。
「うぐう!」
 思わず前屈みになった彼女の首筋に加減なく肘を落とす。
 エリスは床に叩きつけられたまま、ぴくりとも動かなくなった。
「いかが致します?」
「そうよな。何かの役に立つかもしれん。生かしておけ」
 エリスを地に這わせた騎士の問にガルモスはけだるげに答えた。
 魔狼騎士達に油断はなかった。一人がエリスの首筋を、もう一人が両足首を踏みつけ、別の騎士が用心深くエリスの両腕を後ろ手に縛り上げる。
 それが済むと、二人の騎士が両脇を抱えるようにしてエリスを立たせ、まだ気絶している彼女の髪を掴んで顔を上げさせた。
「ほう、なかなかに可愛い顔をしている。これは楽しみだな」
「閣下、迂闊に顔を出すと危険でございます。含み針や何かを持っているやもしれませぬ」
 ぐったりとしているエリスの顔を覗き込んだガルモスに、騎士の一人が声を掛けた。
 慌てて顔を引っ込めたガルモスだが、その慌て様が恥ずかしくなったのか、咳払いを一つしてエリスを引き立てるように命じた。
「身体の隅々までよく調べよ。武器となるものは一つも残すな」
 引き立てられていくエリスを見送ったガルモスはレイダンに振り返った。
 レイダンは痛々しげな表情でそれを見ていたが、ガルモスの視線に気付くと深々と頭を下げた。
「危ういところ、忝ない。ガルモス閣下には夜分お騒がせしました」
「なに、大した事はない。ロランの名将レイダン殿に何かあったでは指揮に関わるからのう。特にロラン軍の」
 皮肉たっぷりのガルモスの言葉にレイダンはまた深々と頭を下げる。
「それにだ、そなたの忠節ぶりが分かっただけでも私は嬉しい。もしあそこでそなたが我々を裏切る素振りを見せようものなら…」
 彼は首筋を軽く手で叩く。
「そなたの命、この場で無くなっていただろうからな」
 人を不快にさせる笑いを残して、ガルモス達はレイダンの寝所から引き揚げていった。
 レイダンは頭を下げたまま、しばし動こうとはしなかった。

 次の朝、レイダンはガルモスから呼び出しを受けた。
 唐突な呼び出しであった。一人で来い。それだけである。
 普通の軍議であれば、副官を一人も参加させないなどということは有り得ない。
 レイダンは厭な予感を胸に秘め、案内の兵に従った。
 (儂もこれまでか…)昨夜の出来事が彼の脳裏をよぎった。疑わしき者は抹殺せよ。これが帝国の掟だったからだ。未然に終わったとは言え、琉華騎士団との接触の事実は彼らの猜疑心を刺激するに充分な出来事だ。
 レイダンは薄暗い地下室に通された。
 少し寒気を憶えるひんやりとした空気にはかび臭い匂いが混じっている。階段を降りきると、頑丈そうな扉の前に衛兵が二人、不動の姿勢で立っていたがレイダンの姿を認めると、一言も発しないままその扉を開いた。
 さらに二つの扉をくぐる。また衛兵の守る扉があった。ここがこの地下の一番奥の部屋らしい。
 先ほどと同じように衛兵が黙って扉を開けた。
「むっ!」
 レイダンは思わず左腕で口と鼻を覆った。
 噎せ返るような匂い。扉を開けた途端、レイダンは己の脳髄が痺れるような感覚を憶えた。
 これは人を狂気に追い込む匂いだ、そう彼は思った。
「そのままお進みください」
 何事もないように言う使者の言葉に僅かに躊躇いながら、レイダンはその部屋に足を踏み入れた。
「…!」
 そこにはレイダンの予測していた最悪の光景があった。
 少女が一人。
「エリス…」
 拳を固く握り締め、外に洩れそうであった己の言葉を飲み込む。
 薄暗い闇の中に白い肢体が浮かんでいた。
 天井から鎖で吊り下げられている。両足は大きく開かれ、それぞれ足首を床に鎖でくくりつけられている。
 身体には一片の布も纏っていない。股間の暗い茂みまでが露に晒されていた。
「将軍、そんな所につっ立っていないでこちらに来たまえ」
 白い肢体の背後から声がした。
 引き延ばされた少女の華奢な身体が時折ひくひくと波打つ。死んではいないようだ。
 レイダンが近づくと、小さな乳房を覆い隠すように男の掌が揉みあげる。
「あ…あうぅ…」
 うなだれていた少女の顔がのけぞる。苦痛とも快楽とも取れる表情を浮かべて少女は呻いた。
 男の左手が股間に伸びと、少女はさらに激しく仰け反り、もがいた。細い身体が弓ぞりになる。
「…い…いやぁ…いいぃぃぃ…」
 仰け反った少女の唇が男を探す。闇の中から現れたガルモスが厭な笑みを浮かべてそれに答えた。
 静寂の中に鎖の鳴る音と、唇を吸う音だけが木霊する。
 昨日出会ったばかりの少女のあられもない姿に、レイダンは思わず顔を背けた。
「どうだね将軍、君も相手をしては。昨日君を殺しかけた女だ、好きにしていいぞ」
「この老耄にもうそのような元気はありませんわい」
 吐き捨てるような言葉しか彼の口からは出ない。
「それにしても酷い…」
「酷い?流石将軍は温情家だな。昨日殺されかけたばかりだというのに」
 ガルモスは少女を弄ぶのを止め、彼女の髪を掴むとレイダンの方を向かせた。
「親衛隊の尋問であればこの女、今ごろ生きてはいない。身体中切り刻まれて女かどうかも判らぬ姿にされて、死んでいるぞ。それに比べれば私の尋問など子供騙しというものだ。薬しか使わん。二度と正気には戻れんが、殺しはしない」
 確かにエリスは白痴同然の恍惚とした表情しか浮かべていない。うっすらと開かれた目には理性の欠片もなかった。
「この女は全身が性感帯と化している。薬が全ての器官を過剰に敏感にしているのだ。だからほんの少しの刺激でも…」
 ガルモスの指が花唇を軽くなぞると、少女の身体はビクンビクンと仰け反った。
「…い、いい〜!」
「ほれこの通り。琉華騎士と言えども所詮女。下の口はびしょびしょだ」
 指に付いたエリスの愛液が滴り落ちる様を見せる。
 レイダンは吐きたくなるような嫌悪寒を憶えながら、辛うじて平静を保った。少なくとも自分では保っていると思った。
「で、これを見せるために私を呼び出したのですか」
「ま、それもあるが、面白い情報が手に入ったのでな。エリス、先ほどの話をもう一度してみろ」
 ガルモスはエリスに囁くように話しかけた。
「…ロラン方面にはフロリア様指揮下の琉華騎士団、傭兵騎士団併せて1万5千しか来ない。スーオン主力軍がジェスフィーナの帝国軍を破ってこちらに来るまで時間稼ぎするつもり…もしこの軍が北上するようであれば支えきれない。それゆえその時にはレイダン将軍のロラン軍の裏切りが必要となる…」
 微かに涎さえ流して、辿々しい口調で答えるエリスに残酷な視線を投げかけてガルモスはレイダンの反応を伺った。
「貴公はこの言葉、どう思う?」
「…」
 ガルモスの問いかけに彼はしばし考え込んだ。
 妥当な線と言えない事もない。ジェスフィーナの軍を確実に破るつもりなら、今のスーオンの戦力から言えばこちらにまわってくる兵力としてはそんなものだろう。
 自分を呼んだのは、形勢が帝国に絶対有利である事を誇示して自分に釘を刺すのが目的のようだ。裏切っても無駄。そう言いたいのだろう。
「嘘をついているとは…思えませんな」
「だとしたら我々はどうするべきかな」
「敵を引きつけ一気に叩き、北上する。そしてスーオン軍主力のわき腹を衝くか、あるいはスーミアを陥す」
「その通り。本来囮である我々がこの戦の主導権を握るのだ。成功すればこの戦争の英雄となれるぞ。斥候からの報告ではスーオン軍はスーラム州境に間もなく着く。数は1万数千。明日は記念すべき日になるぞ。このガルモスが琉華騎士団を打ち破るのだ」
「では…」
「明日の夜明けとともに出撃する。全軍を持って一気に進撃するぞ」
「御意」
 そう言って笑うガルモスに追従するかのように微かに笑みを浮かべたレイダンは心の中で呟いた。
(こやつ自分の言葉に酔っているわ。だが琉華のフロリアが計算違いをするとも思えん)
 惚けた表情のエリスを見ながら、自分の笑いが苦々しいものに変わっていくのに気付くレイダンであった。

 フロリア麾下の軍は、ガルモスの予想通りスーラム州境に到着していた。
 フロリアは「黄金ロード」沿いの州境の小さな町、コレオに琉華騎士団とロラン軍、それにスーオン第4軍の一部からなる主力軍1万5千を持って布陣した。
 休む間もなく幾つもの部隊がコレオから散っていく。偵察部隊や敵の偵察、撹乱に備える警戒部隊だ。
 州境の前線に向かう部隊よりも両翼の守りに向かっていく部隊が多い。
 彼らはフロリアから一つの厳命を受けていた。
「我が主力は敵に見せてやれ。だが…コレオより北には絶対に入れるな」
 彼女が恐れたのは、自軍の全容を知られる事だった。全容を知られれば敵はサルトという穴蔵に閉じ込もる。閉じ込もられては短期決戦の目論見が崩れ、文字通り彼女の軍はサルドに釘付けになる。
 敵をサルドから引きずり出すために、彼女は自軍の戦力をわざと少なく見せかけ、噂をまいた。警戒を緩め、敵の偵察部隊を近づけさえした。
 現在の所敵が疑う様子はなかった。
 夕闇が迫る頃、フロリアは最後の指示を下すため琉華の主だった面々を集めた。
「エルザ、スーオン軍の集結の様子はどうだ?」
「先ほどヒルハゼーナの守備隊が到着しました。でも団長、いいんですか?スーオン第3軍から2万程かき集めはしましたが、これでスーラム、ゼルナの両州は国境警備隊を除いてほとんどがら空きですよ」
 後ろにまとめた髪から解れた前髪を気にしながら、エルザは笑った。どう見ても本気でフロリアに訊ねているようには見えない。
「なあに、勝てば文句は出ないさ。いざとなったら副総司令を辞めればいい。で、使えそうか?」
「何しろ寄せ集めですから、あまり期待しないでください。士気は上がってます」
 エルザの言葉にフロリアは軽く肯いた。
 スーオン東部を固める第3軍から兵を集めたのは、純粋に兵力を増強する為だけではない。隙を伺うバヌア、ヌービア2国に対する誘い水でもあった。それはスーオン戦役後をにらんだ、フロリアの戦略だった。
「ケリィ、そっちはどう?」
「上々です」
 末席に座っていた男が言葉少なげに肯いた。女性の比率がよそに比べて圧倒的に多い琉華騎士団で唯一の男性大隊長であるケリニス・グーシンは、居心地が悪いせいもあって極端に言葉数か少ない。フロリアが見込んだだけあって腕は勿論超一流。他の騎士団からよく声が掛かるのだが、一介の傭兵から名だたる琉華騎士団の大隊長に抜てきしてくれたフロリアに恩義を感じ、心底惚れているから耳も貸さない。
 フロリアも彼の実直な性格を信頼しており、今回も傭兵騎士団1万を彼に任せていた。実際の所、寄せ集めのスーオン軍2万より、戦い慣れた傭兵騎士団1万の方がよほど頼りになる。
「しかしよくこの瀬戸際に1万も集まりましたね。ほとんどは隣りのギリックから流れてきたみたいですけど」
 第1大隊長のルフィア・コーレスが口を挟んだ。フロリアの故郷に近い場所の出身のため、彼女も赤味がかった栗色の髪と、フロリアより少し薄い朱色の瞳をしている。よくフロリアの影武者を勤めた彼女は、しとやかな雰囲気のエルザと対照的な陽気な姐御肌で、兵達に人気があった。
「だてに4年もさすらってた訳じゃない。マインにスポンサーがいてな。裏で手を回して貰った」
 淡々と話ながら、フロリアはアイザル・キャスバートからの手紙を思い出していた。マイン共和国最大の実力者の息子である彼に、彼女は傭兵の件を頼んでいたのだ。
 手紙の最後はこう結んでいた。「この貸しはでかいぜ。今度は寝かせねえからな」
 フロリアは思わず笑いがこみ上げてくるのを押さえる。
「まあそれはいいとして、明日にでも敵が出てきたら左翼はエルザのスーオン軍、右翼はケリィの傭兵軍、そして本隊は私の琉華、ロラン軍連合で当たる。何か質問は?ないようだな。それでは解散する」
 何がいいのかしら、よくなーいという声が第2大隊長アニス・チェンや第3大隊長マーナ・エルナフといった若手から出たが、フロリアはまったく無視して会議を締めた。
 軽めの夕食を取り、少し飲んだ後、彼女達はそれぞれ自分の部隊へ戻って行った。
 後にはフロリアとエルザだけが残った。
「フロリア、エリスからは何も?」
 後片付けを兵に任せて外に出た二人は、星を見上げるようにしてしばらく歩いた。
「何もない。今「零」はロランやアクリスに出払っていて一人もいないからつなぎもつけられない。エリスのことだから大丈夫だとは思うが、明日は最悪の事態を想定して動かねばならん」
「敵のロラン軍1万が寝返らない、そんな事態というわけですか」
「その時はその時だ。何とかなるだろう」
 少し間の抜けたフロリアの物言いに、エルザはクスリと笑った。
「緻密な戦略で恐れられていたフロリアともあろう人が、ほんと、雑になられましたね」
「そうかな」
「そうです」
 ふと、エルザが立ち止まる。
 エルザは少しだけ下を向き、フロリアを見た。
「皆嬉しくて…恥ずかしくて、逃げちゃいましたけど…皆を代表して、一つだけ言わせてください。…おかえりなさい、団長」
 ほんの少し涙に濡れた声が、そう言った。
 フロリアはつい今し方の軍議を思い出す。
 明日は戦になるかも知れぬと言うのに、騎士達の顔には笑みがあり、言葉には安らぎがあった。
 皆の想いは一つ。
 そう、私は帰ってきた。帰るべき場所に。傷つくとも、死するとも共にあろうと誓った友の元へ。
「ああ。…長い間留守にして済まなかった…」
 手を伸ばせば掴めそうな満天の星空。
 その星空を見上げながらフロリアは、それ以上の言葉を口に出す事が出来なかった。

 頑丈な扉の覗き窓から差す僅かな光に、浮き上がる白い肌。
 捕らえられてから丸一日。
 女は相変わらず「人」型に拘束されてる。休む間もなく嬲られた股間からは、拷問者達が残した白い滴が垂れていた。白い肌はよく見ると、幾筋もの赤い鞭の跡が残っている。二つの小振りだが形の整った乳房には、くっきりと指跡が浮かんでいた。
 女への責めは深夜にまで及んだ。それは情報を引き出すための責めではない。ただ拷問者達の悦楽の為。それだけの行為だった。
 彼らがが立ち去ったのはつい今し方の事である。
 女はもう、ぴくりとも動かない。拷問者達はこれを彼女の命の炎が燃え尽きる証と思った。彼らは充分それに値する責めを与えていたのだから。
 ゆらり。
 外の灯の火が揺れた。部屋に長く差した外の光もまた左右に揺れる。
 もしそこに何者かが残っていれば、ある奇妙な光景を目にした事だろう。
 女の影は微塵も動かない。いかに光の差す角度が変わろうとも。
 よく見ると女の影の周りに液体の染みがじわじわと広がって行くのが判る。つい先程まではなかった染みだ。
 やがてその染みは広がる事を止めた。
 ゆらり。
 また光が揺れた。
 いつの間にか女の影の向きが変わっている。不思議な事に影は光の方向に伸びた。
 すーっと伸びていく影は、やがて固い扉の下に潜り込んで行く。
 ごとっ。どさっ。
 扉の向こうで音がした。短い間隔であったが、音が二つ。
 ガチャン。
 今度は音は一つ。
 誰かが扉の鍵を外したらしい。
 しばらく辺りの様子を伺うようにしてから、扉の外の伸びていた影が戻ってきた。
 さらに不思議な事が起こった。
 影がゆっくりと立ち上がった。縛られて動けない女の前に、その女の影は立ち上がったのだ。
 しばらくその影はじっとしていた。まるで自分の身体を隅から隅まで確かめるように。
 やがて影は動いた。まったく厚みの無い右手が左足の鎖をすっと通り過ぎる。
 チャリン。
 いままで女の左足を拘束していた鎖が音を立てて床に落ちた。
 チャリン。
 影の手が今度は右足の鎖を通り過ぎた。先程と同じように鎖が落ちる。
 両足が自由となった女の身体が惰性でぶらんと揺れる。
 爪先が床に擦れ、やがて揺れは止まった。女の身体が止まるのを待って、影は女の両手を吊り下げていた鎖を切断した。
 とん。
 女は片膝をついて、床に降りた。今まで意識を失っていたとは思えない、軽やかな動きだ。
 影はいつの間にか自然な位置に戻っていた。
「あーあ、こんなにべとべと。うー、お風呂に入りたい」
 エリスは股間に着いた凌辱の跡をその白く細い指で拭うと、その匂いに顔をしかめた。
「薬も抜けたし、とっとと行きますか」
 彼女の後ろにちょうど影の周りだけ湿った床をちらりと見やった。どうやら床の染みは彼女の身体から薬を抜いた跡らしい。
 軽く首を左右に振ると、エリスは躊躇いもなく牢の扉を開ける。
 そこには血の海と、その中に横たわる衛兵の首と身体があった。首は信じられないような表情を浮かべて血の海の中に沈んでいる。
「こいつじゃあサイズが大きすぎるわねえ」
 しばらく両手を腰に当てて衛兵の骸を眺めていたエリスだが、ふうとため息を吐いた。
「しゃあない。もう一人を当たりますか」
 確かここには衛兵が二人。扉は4つ。
 一人はここに倒れ、扉の一つは開いた。
「行け!」
 彼女が2番目の扉を指さすと、彼女の影はすーっとその扉の向こうに伸びて消えた。
 そう。彼女は影を使う魔術士。不思議な技を使う琉華騎士団第零大隊、通称「零」の一人。
 その夜エリスは、地下牢から煙の如く消え去った。

 朝が来た。
 相対するスーオン軍が予想外に小勢であることを知った帝国軍は、サルドに3千の後方部隊を残すと全軍を持って「黄金ロード」を北上した。
 サルドから北はなだらかな丘のうねりが続く草原地帯で、大軍を伏せられるような場所はない。ガルモスは余計な支隊を展開して奇襲に備える必要はないと判断し、ごく小数の偵察隊を出すに止めた。
 偵察部隊からは、コレオを発進したスーオン軍の動きが途切れなく知らされた。
 日がだいぶ登った頃、見通しのよい平原でガルモスは進軍を止め、全軍を布陣してスーオン軍を待ちかまえた。
 今まで波がうねるような丘の続いていたのが嘘のように、そこだけは視界が開けていた。
 そこはシャンニール盆地と呼ばれる場所。
 広々とした草原のあちこちに牧場が点在している。
 万を越える部隊がぶつかる場所はここしかない。そうガルモスが思っていた場所だった。ここで待てば必ず敵はやってくる。そう確信していた。
 ガルモスは兵を幾人か出し、草原の足場を確かめさせた。こういった盆地では、湿地帯ができて、騎馬の動きの妨げになる事がよくある。流石に魔狼騎士団の指揮官だけあってまめである。
 戻ってきた騎士達から報告を受けていると、偵察隊の指揮官が馬を寄せてきた。話を聞くとここに布陣を始めた頃から、兵が戻らなくなっていると言う。
「敵がかなり近くまで近づいた。ただそれだけだ」
 そう言って、全軍の布陣を急がせた。
 前衛にはレイダン将軍麾下のロラン軍1万、左翼にセラト軍5千、右翼にシェール軍同じく5千を配し、中央に第21軍団を核とする帝国軍本隊が各5千ずつ3段に備える。さらに後方部隊としてセラト軍5千が控えた。
 各隊から布陣を終える報告が次々ともたらされる。如何に連合軍とはいえ、厳しい帝国軍の軍律の元、各隊の動きに淀みはなかった。淀みが生じれば誰かの首が落ちるのだ。
 やがて全軍の布陣を終え、彼らはじっと敵が現れるのを待った。
 空はまるで彼らの勝利を早々と祝すかのように晴れ渡っていた。

 爽やかな草原の風が渡る。
 じっと地平を見つめる兵達のマントが小さな音を立てて靡く。
 レイダンはほとんどシャンニール盆地の中程まで前進したロラン軍の本営で、他の兵達と同様に風に吹かれながら北の地平を見つめていた。
「少し遅いな…」
 彼は独り言のように呟いた。
「なにか?」
 その呟きに、背後に控えたロランの副官が聞き返した。
 帝国の支配下にある軍ならどこでも同じように、レイダンの元にも二人の副官がいる。
 一人はロラン軍の、もう一人は帝国から派遣された副官である。
「遅い、と言った」
 レイダンは不機嫌そうな声を出した。
「偵察兵の話ではスーオン軍はとうにここについていなければならん。儂はてっきりスーオン軍の方が先に布陣しているものと思っていたが」
「退却したのかも知れません。数の上で圧倒的に不利な事は敵も知っているはずですから」
「そうならば初めからコレオまで出てくるかな。我々に対する防衛線ならもっと北に引いた方がいいことは明らかだ。本隊と連絡がすぐに取れるぐらい北がな」
 ぼんやりと呟くレイダンの胸中は、この戦いで帝国を裏切るべきか否か、その選択に迷い、揺れ動いていた。
 もし裏切って、スーオン軍がそれでもなお負けたとすれば、もうロランに未来はない。ロランに残した家族の事も気にかかる。裏切りを知った帝国は、少なくともここにいる将官クラスの家族を見せしめに処刑するだろう。何時の時代も裏切りには罪の無い者の血の代償が必要となる。
 それ以前に裏切った瞬間に、ここにいる指揮官は帝国の監視兵に抹殺されるだろう。裏切りが成功するだろうか。
「どう思うかね」
 レイダンは沈黙を守っている帝国軍副官に訊ねた。
「…」
 答はない。
 いつも無愛想な男だとは思っていたが、今日は一言も口を聞かない。
 振り向いてそちらを見る。
 帝国軍の魔狼騎士の鎧に身を固め、顔の表情は兜の影でよく見えない。
 まったく返事がないので、レイダンは少しバツの悪そうな表情を浮かべて前に向き直った。
 くすっ。
 誰かが思わず漏らした笑いが聞こえた。
 後ろから誰かが近づいてくる。
「琉華騎士団の罠です」
 その声にレイダンははっと振り返る。
「そなた…」
 魔狼騎士の姿をした小柄な騎士が馬を寄せた。
 少し大きめの兜の奥から、猫のようにいたずらっぽく輝く瞳が覗いていた。
「やはり無事だったのか」
「少しは心配して頂けました?閣下」
「少し、な。しかしよく無事に抜け出せたものだ」
 レイダンの表情が緩む。
「わざと捕まってあげたんです。あの程度の所、抜け出せなくてどうします」
 エリスはにっこりと笑う。
 その笑みに邪気は無い。
「琉華ともなればこれくらいのことはします。ねっ!」
 彼女の言葉につられるように、帝国軍の兵が一斉に肯いた。
 周りで二人の様子を伺っていたロランの将兵たちが思わず驚く。
「もう彼らは生きてません。ここにつくまでに全て片づけました。もう閣下の邪魔をする者はいません」
「しかし、どうやって」
「それは、秘密です!」
 信じられない。そんな表情のレイダンに軽くウインクを送ると、エリスはくすくすと声を出して笑った。
 つられてレイダンも笑みをこぼした。少しひきつった笑い。
 よく考えてみれば恐い女だ。あれだけ昨日嬲られて、今はもう平気な顔をしている。しかもいつの間にか帝国兵を殺し、その死体を手足のように操っている。
 琉華騎士団とはこういうものなのか。
 帝国が過敏とも思えるほど琉華騎士団を恐れる理由が、分かるような気がした。

 日がちょうど真上まで登りきった頃、ようやくスーオン軍が北のなだらかな丘の稜線に姿を見せた。
 ゆっくりと丘を下り、布陣していく。
 前衛に2千、右翼、左翼軍も同様に2千。
 やがて本隊が姿を現した。草原にとけ込むような若草色のスーオン軍に挟まれて、鮮やかな白い騎士団が姿を見せる。
 その数、1千。スーオン軍と合わせても3千に満たない本隊であった。
「精強を誇った琉華もあれだけとなったか」
 ガルモスは勝利を確信して、戦鼓を叩かせた。
 前衛のロラン軍が前進を始めた。
 1万の軍が一斉に動き出す。

「ははん、いるいる」
 前衛軍の指揮官、ルフィアは眼下に見える敵の様子を見て嬉しげに笑った。
 フロリアによく似た美しい顔が、桜色に上気している。
 周りの騎士達はわざと見ぬ振りをしているが、ルフィアの腰が軽く動いているのが分かる。自分の秘所を鞍の背に擦りつけているのだ。
 自他共に認める野戦の天才、ルフィアの唯一の欠点。
 戦場に立つとそれだけで欲情してしまう。敵を切り、血を浴びれば桃色の吐息を吐くという、殺人狂。
 だが戦の指揮だけは冷静さを失わないのが、琉華の7不思議の一つと呼ばれていた。
「奴さん動きが鈍いな」
「予想外にこちらの数が少ないので油断しているのでしょう」
 側に控えた副官が答えた。
「ふっ、これがただの前衛だとすぐにわかる」
 腰の動きを止めたルフィアは、正面に充満している敵を見つめる。 
「あんなに前衛と本隊が開いちゃって、あんまり戦の上手い奴じゃないな」
 鼻で笑いながら、これから起こる殺戮の甘美な予感にゾクゾクと身体を震わせるルフィアであった。

「前衛と本隊との間が開きすぎるのでは」
 副官が忠告したが、ガルモスは気にする素振りも見せない。
「レイダンの軍は精強。慌てて後詰めする必要はない。こぼれ出た敵をゆっくり始末せよ」
 そう言って本隊は動かさない。
 本隊の犠牲は少ないに越した事はない。
 やがてゆっくりと進んだ両軍がまさにぶつからんとした時。
 もう突撃体型に移ってもよい距離になってもその速度をあげないロラン軍が左右二つに分かれた。
 まるで前進してくるスーオン軍を避けるかのように、二つに分かれたのである。
 スーオン軍はそれが当然かのように少しも揺らがない。
 ロラン軍はスーオン軍の両翼と前衛軍の間をすり抜けるようにしてスーオン軍本隊の後ろについてしまった。
 帝国軍は呆気に取られた。
 戦場での堂々とした寝返り。これほど見事な寝返りは古今聞いた事がない。
「あれは、あれは…」
 ガルモスの口からはうなされたような言葉しか出ない。
 狼狽した心は、やがて激しい憎悪の炎を燃え上がらせた。
「おのれレイダンめ、生かして捕まえて嬲り殺しにしてくれる」
 怒りに我を忘れた彼は、全軍に突撃を命じた。
 戦鼓を鼓舞し、声をあげ、3万の兵が動き出す。
 スーオン軍は既に前進を止め、じっと息を潜めているかのようだった。
 この盆地は実はすり鉢状になっており、スーオン軍は北からのなだらかな坂を降りきっていなかった。
 フロリアはこの坂で帝国軍の勢いを削ぐつもりで、わざとゆっくりと自軍を進ませたのだ。
 帝国軍が盆地の中程まで進んだ頃、フロリアは戦鼓を叩かせた。
 その音を合図に、いままで稜線の向こうに隠れていた部隊が姿を見せ始めた。
 右翼にはケリニス率いる傭兵軍1万、左翼からはエルザの指揮するスーオン軍5千、そしてフロリア自ら率いる本隊、琉華騎士団と、スーオン軍、そして今や1万3千に膨れ上がったロラン軍の合わせて2万余。
 みるみる膨れ上がる敵の姿に、帝国軍の足並みが乱れ始めた。
 隊形の乱れた帝国軍に、ルフィア麾下の前衛軍が襲いかかった。
 激しい刃と人馬のぶつかる音が戦場に響く。
 この時まだ、ルフィアの琉華騎士大隊は動かなかった。スーオン軍の、祖国は自らの手で守りたいという願いを受け、あくまで援兵としての立場を取っていたのである。
 祖国を守る。その一点で団結したスーオン軍の戦いは、経験の少なさを補って余りあるものがあった。劣勢の兵力で、帝国軍を相手に優勢に戦いを進めていたのだ。
 だがその勢いも、しばらくして大きな壁にぶつかりせき止められた。
 漆黒の壁。
 魔狼騎士団が前進してきた。
 必死に剣を振るうスーオン兵をあざ笑うかのように、彼らは重い一撃でスーオン兵をなぎ倒し、切り裂き、しとめていく。
 レイダンの裏切りによりスーオンに傾きかけていた戦いの流れが、逆転しようとしていた。
「潮時か…」
「はっ」
 ルフィアは純白の兜を被ると、きりりと顎紐を結わえた。
「我々は琉華だ」
「おう」
 ルフィアの言葉に周囲の兵が答える。
「ソルティアを思い出せ」
「おう」
「ハルマハルを思い出せ!」
「おう!」
「ギルナームを思い出せ。」
「おう。」
「パスティアを思い出せ。!」
「おう。!」
 ルフィアが琉華が駆け抜けてきた戦場の名を叫ぶ度、兵達もそれを思い出すかのように大声で叫ぶ。それはルフィアの大隊全てに広がっていった。
「我が琉華は無敵なり。。」
 そう叫ぶと、ルフィアはすらりと剣を抜き、駆け出した。
 まるで白い鏃のように、琉華は突撃を開始した。
 ルフィアは自ら陣頭に立ち、剣を振るう。白い鎧がみるみる血に染まる。
 数で圧倒的なはずの、黒い壁のような魔狼騎士の戦列がじりじりと押されていく。
 ルフィアは満面に笑みを浮かべ、欲情に潤んだ目で敵を切り倒した。
「鮮血の騎士めえ!」
 憎しみをこめて振り降ろす魔狼騎士の切っ先を躱してなぎ倒す。
「何故琉華が鮮血の騎士団と呼ばれるのか、あの戦いで分かった。純白の鎧がな、相手の返り血で染まるのだ。紋章のセリュウムの華に劣らぬ程に」
 のちにレイダンが人に漏らした言葉である。
 中央の戦列を突破されかけて、鉄壁の魔狼騎士団に動揺が広がり始めた。
 押しまくられていたスーオン軍に勢いが戻り、
「セラトとシェールに戦意はもう無い。両翼を突撃させるよう本隊に伝えよ!」
 戦いながら彼女は叫んだ。背後に控えた伝令がすぐさまそれを伝える。
 ルフィアは薄い戦力を手足のように動かしながら、戦線を押し上げていった。
 すかさずフロリアはエルザ隊とケリニス隊を両翼に投入する。
 今や5万対3万と、圧倒的に不利になった帝国軍、特に徴用されたセラト、シェール軍の崩れるのは早かった。
 投入された両翼部隊は魔狼騎士団を削り取りながら、ガルモスの本隊を目指した。
 蜘蛛の子を散らすように両翼を失って、左右からの攻撃を受け始めた帝国軍本隊は防戦一方となる。最精鋭部隊である魔狼騎士団抜きに考えれば、帝国軍も普通の軍隊と変わらない。
 優勢な敵兵力をを受けて、みるみる数を減らしていく。
 戦いの行方が見え始めると、フロリアは本隊からスーオン軍3千を抜き出し、大きく戦場を迂回させて敵の退路を塞ぐ動きを見せた。
 見通しのよい戦場だから、その動きは戦っている帝国軍にもよく見える。
 退路を絶たれることを恐れた帝国兵はじりじりと下がり始めた。
 無論これはフロリアの計略だった。今から兵を敵の後方に動かしても、完全に退路を絶つことは出来ない。むしろ退路を絶って、死兵と化した軍を死にもの狂いにさせるのは兵法としては下策。味方の犠牲が大きくなるばかりである。
 帝国軍本隊を動揺させて切り崩すのが目的だった。
 崩して敵が逃げるところを殲滅する。
 その為に、フロリアは敵が逃げたら徹底的に追撃し、殲滅するように指示を出していた。
 フロリアは自軍が帝国軍を戦場の中程まで押し戻すと、坂の途中に止めておいたロラン軍、レイダンの兵を併せて1万3千程に膨れ上がった、と琉華本隊を突撃させ、一気に勝負に出た。
 征服された記憶の新しいロラン軍は、その屈辱を晴らすかのように口々に「ロラン万歳」と叫びながら突撃していく。
 精強を恐れられた帝国軍も、こうなっては脆い。戦線を支えていた魔狼騎士団の黒が次々に押し寄せる新手の鎧の波に溶けていく。
 ガルモス麾下の帝国軍はみるみると減っていき、ついに彼自身も剣を取って戦わねばならなくなった。
「ここは退却すべきです」
 何本かの矢を鎧に立てながら、副官が叫んだ。
「だめだ、ここで引けば崩れる。全滅する」
「引かなくとも全滅してしまいます」
「こんな…馬鹿な」
 信じられぬ、というような顔をしてガルモスは周囲を見渡した。
 すでに味方の姿より敵の姿のほうが多い。
「フ、フロリアだ。敵の将を討てば勝てる…」
 すでに理性を失ったガルモスは、止めるのも聞かず馬に鞭を当てると本陣を飛び出した。慌てて護衛の兵が数十騎それを追いかけた。
「われは帝国軍司令ガルモス、フロリアと勝負がしたい!」
 声を枯らさんばかりに叫びながら、ガルモスは突き進んだ。
 周囲を守る騎兵が1騎、また1騎と倒されていく。
「ここだ!」
 もう周囲に味方の兵が見えなくなった頃、ガルモスの叫びに答があった。
「道を開けろ」
 ガルモスの正面を埋め尽くしていた兵達がさっと左右に分かれた。
 数騎の騎馬を従えた、騎士が正面に現れる。
 純白の鎧。そして胸に鮮やかに朱で染め抜かれたセリュウムの花弁。
 紛れもなく琉華騎士の鎧。
 兜は着けていない。
 紅い髪が日差しに輝いて、まるで炎のように見えた。
「私が琉華騎士団長、フロリア・アクレスだ」
「俺は第21軍団長ガルモス。勝負だ、フロリア」
「よかろう」
 駆けてくるガルモスに軽く肯くと、フロリアは聖剣シュライザーを抜いた。ぺろりと舌で唇を舐める。
 ガルモスが叩きつけるように剣を振り降ろす。
 フロリアはすっと身体を反らすと、まともに剣で受け止めずに躱した。勢い余ったガルモスは馬の手綱を引き絞り、頭を返す。
「いやーっ!」
 かけ声と共にシュライザーをふるう。
 ガルモスはとっさに剣を構え直すと、その一撃を受けようとした。
 キン!
 鈍い金属のぶつかる音がして、ガルモスの剣が折れた。
 手元の折れた剣を、驚いて見つめるガルモス。
 やがて己の視界が暗くフェードアウトしていく。
 ガルモスの首筋に赤い筋が入り、次の瞬間、彼の首は身体から離れた。
 一撃で剣ごと敵を切り倒す。その棲まじい剣技に、周囲は一瞬戦を忘れたかのようにしんと静まり返った。
 静寂の中で、浮かび上がるフロリアの騎士姿。
 息一つ乱していない。
 つまらぬ者を斬った。そう言わんばかりに、美しいその顔には不機嫌そうな表情が浮かんでいた。
 兵達は、まさに戦いの女神の姿をそこに見ているような錯覚を覚えた。
「フロリア・アクレス、ガルモス将軍を討ち取った」
 フロリアが叫ぶと、周囲ははっと我に還り、叫び始めた。
「ガルモス将軍を討ち取ったあ!」
 もはや帝国軍は散り々々になって崩れた。
 踏み留まる者も、たちまち幾重にも取り囲まれて討ち取られていく。
「サルドまで一気に敵を掃討する。遅れるな!」
 敵将軍を討ち取ったフロリアは全軍に追撃を命じた。
 勢いに乗るフロリア麾下のスーオン軍は、その日の夕方にはサルドを奪回、帝国軍の壊滅に成功した。
 スーオン南部、シャンニールの戦いでは、スーオンは圧倒的な勝利を納めた。

第13章 西へ渡る風(前編) − 西から吹く風 − 終わり

 次回予告

 決戦の火蓋は切られた。スーファの草原を血に染めて、戦いは続く。だがそれは帝国の壮大な罠の一部でしかなかった。スーファの戦いが終わる時、新たな陰謀と、そして冒険が始まる。
 次回、第13章西へ渡る風(後編)− 西へ渡る風 −をお楽しみに!

第13章 西へ渡る風(後編)

− 西へ渡る風 −

 スーオン軍本隊はスーファの南の平原をゆっくりと南下していた。
 二日前のシャンニールの戦いでフロリアの軍が圧倒的勝利を収めた事を知ると、コルト王はすぐさまスーミアに残してあった予備軍3万にスーファへの移動命令を出し、自らも動いた。
 アルコス、シュリムードら慎重派の将軍達からは、予備軍の到着まで待つべしとの意見が出たが、ジェスフィーナ本隊が戦力を温存して退却すればスーオンは依然大きな脅威を南方に抱える事になる。シルザ州の州都シルファンに篭もられ、その攻略に時間が掛かるようであれば、他の敵の侵攻を呼び込む事になりかねない。しかも長い間実戦を経験していない現在のスーオンの戦力では攻め陥とす事すら難しいであろう。これではこの戦に勝ってもシルザ、フェトラ両州を失う事となる。まして周囲四方の諸国全てが敵対している現状では、長期間大軍を一箇所に集中は出来ない。
 この為コルト王は、多少の犠牲を払ってでもジェスフィーナ軍を叩くつもりだった。
 十二万の軍が地響きをあげて進軍していく。
 
 シャンニールの戦いの結果はすぐさまスーファで対峙していた両軍にもたらされた。スーオン軍は伝令兵により、帝国軍は牙狼兵により伝えられる。その差は帝国軍が先んじる事ほぼ1日。これがスーオン戦役中盤の明暗を分ける事になる。
 ジェスフィーナはガルモス敗退の報を受け取るとすぐさま兵を動かし、一気にスーオン軍本隊との距離を詰めた。
 撤退すべきだ。そう、彼女は思った。だがそれは重大な命令違反となる。冷静な自分の判断と鉄の規律。二つが彼女を悩ます。そしてそれは彼女に彼女らしくない熱い賭けを取らせた。
 敵が勢いづく前に決着を。それがジェスフィーナの目論見だった。
 帝国軍は輸送部隊や攻城部隊など、足の遅い部隊を残して身軽になると、それまで北上していたシルフ街道を外れ、大きく西から迂回する進路を取った。残した部隊はそのままシルフ街道を北上して敵の目を引きつける囮とした。
 今日1日で決着をつける。
 全軍にこのジェスフィーナの言葉が伝えられた。
 バージル将軍麾下のルゴン軍が分厚い隊列を成して前進する。
 ルゴン軍は、戦術の秀才と言われたジェスフィーナが手塩にかけた部隊だった。国境警備隊の指揮官でしかなかったバージルを抜擢し、帝国正規軍と分け隔てない待遇を与える事により、ルゴン軍のジェスフィーナに対する忠誠は厚い。4万という大軍にも係わらず、見事な動きを見せている。特にバージルが直接指揮する前衛軍1万は、帝国軍に劣らぬ精鋭である。
 右翼にはケネス将軍率いるシェール軍1万が、左翼にはジェスフィーナの副官ラスコフ率いるルゴン・シェール連合軍1万が配されていた。
 ケネスはやはりジェスフィーナが抜擢した男で、守りに強いと定評がある。
 左翼にはラスコフを配して、戦闘中に邪魔されないようにした。勿論この左翼が崩れるのは計算済みである。そのためにラスコフ軍の後方に帝国正規軍の一部、第24軍団1万を置く。
 本隊は前衛にルゴン軍1万を置き、ジェスフィーナ自ら指揮する帝国、ルゴン連合軍1万、そして殿に精鋭中の精鋭、ジェスフィーナ直属の第17軍団1万が控えている。第17軍団はサルザン家子飼いのシャロン将軍が率いる。シャロンはジェスフィーナがいつ魔狼将軍になってもおかしくないとこぼすほどの男であった。
 寡黙な、それでいて見る者に何かしら安心感を与えるような男だ。
 全軍合わせて8万。それが見事に展開している。
「シルフ街道の封鎖は順調。今日だけで5百を越えるスーオン兵を処分。未だスーオン軍は我が軍の位置を把握出来てはおりません」
 息を切らせて駆け込んできた伝令兵の報告に、労いの言葉をかけて下がらせると、ジェスフィーナは傍らに控えていたシャロンを見た。
「スーオン主力の兵力の確認は出来たのか」
「はっ、12万ほど。スーミアから更に3万の兵が南下しているとの情報もあります」
「多いな」
 ジェスフィーナの言葉の端に、不満のため息が洩れる。直轄のルゴン軍を加えているとはいえ、スーオンほどの大国と決戦するには兵力が、特に帝国正規軍の数が極端に不足しているのは明かである。
「南をのぞく3方の守備を固め、スーミアにある程度の戦力を残すとなればスーオンと言えどもこれが限界でしょう。しかしコルト王は戦はこれが始めてですが基本になかなか忠実のようで」
「戦は敵を圧倒する事で勝つ、か。では私が教科書通りの戦など滅多に起こらぬ事をコルト王に教えてしんぜよう」
「御意」
「だが増援3万を待たずして進軍するとは、コルト王、焦ったな」
 ジェスフィーナは傍らに控えていた従者から銀色の兜を受け取ると、結い上げた銀色の髪の上からすっぽりとそれを被った。
「参る」
 ジェルの月ハーラの日、シャンニールの戦いの4日後、決戦の幕が切って落とされた。

 その頃、戦場から離れたスーオンの首都スーミアでは、シャンニールの戦勝の報せに、安堵の空気が流れていた。
 王宮でも、昨夜までのピンと張り詰めた空気が少し緩んだようだ。
 シアはシンシア王妃の部屋にシャンニールの戦勝の祝いを述べるという表向きの用件にかこつけて、遊びにきていた。
 ケンがいないため、シアはひどく退屈していたのだ。
 二人とも白い清楚な感じのドレスを纏い、傍から見るとまるで本当の姉妹のように見えた。
 シアとシンシアが並んでお茶を飲んでいる長椅子の後ろには、ひっそりと目立たぬように琉華騎士が立っていた。危なっかしいシアを一人にするのを心配したケンは、何があってもシアの側を離れるなとその騎士に命じてある。最初は少し鬱陶し気だったシアももう慣れてそれが当たり前になっている。
「ケンが勝つのは当然として、あとはコルト陛下が帝国軍を打ち破るのを待つだけですわね、姉様」
「そうね。陛下にお怪我が無ければ良いのだけれど」
 コルト王を案じて、ほっとため息を吐くシンシア。
「ケンが言っていました。用心深く戦えば負けないだけの戦力はコルト王に残したって。ケンが大丈夫って言ったら、まず大丈夫だわ」
「シアったら、余程あの方を信頼しているのね」
「こういう事に関してはケンは凄いわ。まずあの悪知恵にかなう人はいないでしょうね」
「まあ、ひどい言い方。あなた随分口が悪くなったわよ」

(中略)

 スーファの草原に立ちこめていた霧がゆっくりと晴れ始めた昼前、スーオン軍はようやく西から迂回してきた帝国軍に気付いた。
 それは余りにも遅きに失した。
 突撃を開始した帝国軍騎馬隊の蹄の音が間近に迫った頃、初めてスーオン軍の前衛が右回りに大きな弧を描き帝国軍にぶつかる動きを見せた。その間にコルトは全体の陣形を90゜回転させようとする。
 あくまで最初に立てた陣備えにコルトがこだわったから。だがそのため、折角のその陣形が大きく乱れる事になった。
 ザート将軍率いるスーオン前衛軍は充分な密集陣を取れないまま、ルゴン軍に斬り崩されていく。
 ルゴンの騎兵はバラバラのスーオン兵を取り囲んでは、屠殺する。包囲された部隊を助けだそうとすると左右から挟撃され、自分らも包囲に陥り、斬殺された。
「押せえ、押せえ!」
 猛将として聞こえたザートが声の限り兵を叱咤、激励する。
 3万の兵が2万に討ち減らされた頃、ようやくスーオン軍は立ち直った。一気に崩れてしまわない所、実戦経験の少ないスーオン軍にしては流石である。
「流石大国の兵だけある。ただでは勝てんか」
 バージル将軍は楽しげに側近に笑みを漏らした。
 突然ルゴン軍の中央が崩れ始めた。正確には崩れたように引いて見せたのである。
 激しくぶつかり合っていた圧力の一方が弱まる。自然スーオン軍は、その中央部で突出する形となる。先頭に立ち、剛剣を振るっていたザートも後ろから押し出される形になった。
 一瞬ザートの前を遮っていた兵馬の波が途切れ、視界が開けた。その瞬間、スーオン軍は激しい矢や投槍の雨を浴びる事になった。
 バージルは崩れた中央部に、すっぽりと蓋をするように兵を配した。その蓋の中に飛び込んだ1千程のスーオン軍は、無防備のまま姿を晒す。
 引き返そうにも素早く回り込んだ敵兵に退路は断たれていた。右往左往するスーオン軍はなす術を知らない。指揮を取るべきザート将軍もその副官もすでに針鼠のように矢を全身に立てながら、絶命していたからだ。
 ほぼ一瞬にして中枢を失ったスーオン前衛軍は、組織的な動きを失い、崩れていった。


(中略)

 閉ざされた部屋の中は昼間だと言うのにうっすらと暗い。もう夏の気配が漂い始めたスーミアの湿った暖かさも、ここでは鳥肌が立つほどの冷気に換わった。
 その冷気の源は部屋の中央にあった。
 ゆらゆらと海中を漂う海草のように、漆黒の闇がいた。
 その闇の前に膝間づく、白く滑らかなシルクを纏う若い女の姿があった。黒と白。鮮やかなほどのコントラストを浮かべている。
 その女が顔を伏せたまま、闇に話しかけた。
「全て御意のままに。スーオン軍は勝ち、ジェスフィーナ将軍は捕らえられました」
 淡々とした口調に、感情はない。。
「よくやった、虹龍。さすが第三位の魔龍」
「陛下、よろしいのですね、このまま事を進めても」
 虹龍と呼ばれた女は、ふっと面を上げ、ほんの僅かの戸惑いをのせた言葉を漏らす。
「よい。それがあれの役目」
 揺れ動く影は、言葉自体が氷かと思えるような冷たさで、答えた。
「本当に…本当によろしいのですね。あの方に…陛下の唯一無二の姫であらせられるジェスフィーナ様にこのような仕打ちをしても…」
 女の言葉には明らかに苦悩の影がある。
「虹龍よ、そなたが人並ならぬ情をあれにかけてくれることに感謝している。だがその情は我々の目的のためにならぬぞ。敗北と屈辱があれには必要だ」
 影は一度言葉を切った。
「「帝王」を継ぐ者は一人しかおらぬ。それは我が娘か、それともあの娘か…。これは大いなる賭け。「白き光の血」が「帝王」となるか、「黒き闇の血」が「帝王」となるか。二人は旅立ち、そして一人がその資格を手に入れる」
「けれど陛下、私には判るのです。あの二人が一度出会ってしまえば、どうする事も出来ずに惹かれ合う事が。二つの正反対の魂は、融け合うほどに互いを欲するでしょう。それは全てを無にするかも…」
「フッ」
 影は微かに笑いをこぼした。それは自嘲とも、嘲笑ともとれた。
「虹龍よ、気付かぬか。もう一人の存在を。「光」と「闇」の両方に属する女を。私はこの為だけにあれを創り上げた。4年前、殺そうと思えば出来たものをそうせずにな」
 女は影を不思議そうに見た。
「その女とは…?」
「今は「白き光の血」の娘の側にいる。だが…もうすぐあの女は「黒き闇の血」、我が娘に出会う。そして3人は互いに惹かれ合う。わかるか虹龍よ、3人だ。互いが嫉妬という鎖に縛られ、もがき、苦しむのだ。二つの正反対の魂は融け合う事無く、我が伝承を成就させるであろう」
 人の形を保っていた黒い影は、やがてゆっくりと周囲の空気に溶け始め、消えていく。
「「宝珠」を使うが良い。伽面が三種の神器と崇める「あれ」を。ジェスフィーナが在処を知っておる。責めて、漏らさせよ」
 影は消え失せた。
「…西で私は待つ…」
 残された女はしばしそこに佇んだ。僅かに、うなだれるようにして。
 まだ迷いがある。
 それは彼女に残された、人としての最後の欠片。
「ふう!」
 深いため息を吐いた女は、すうっと右手を上げた。
 いつからそこにいたのか、二人の若い女が彼女の後ろに膝まづいていた。
「カリン、シャーミス」
「ははっ」
「時は来た。かねてよりの手筈通り事を進めるように」
「はっ!」
 王宮の辺りから騒がしい気配が洩れてきた。
「王妃様、フロリア・アクレス殿が帰城なされました」
 ドアの向こうから、側付きの女官が伝える。
「更にアクリスなど各国からの祝賀の使者も参っております。陛下が王妃様にも王宮に渡られるようにと…」
「判りました。支度が整い次第すぐに参ります」
 カリンが優しげな声で、答えた。外の女官をそのまま下がらせると、女は控えていたカリン、シャーミスに着替えを命じる。
 二人の手に拠って着飾られる自分の姿を鏡で見ながら、呟いた。
「役者は揃った。あとは…時が動くだけ」
 美しく整えられた衣装に、満足気な微笑みを浮かべた女は、カリンの導くままに部屋を出る。待機している他の女官に知らせるため、シャーミスの声が廊下に響いた。
「シンシア王妃様の御成に御座います」

 この日、のちに「ロラン・サーガ」として伝承される事となる物語の主人公の全てが、スーミアの王宮に集うこととなった。

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