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12章 スーミアの妖妃

 大陸東部屈指の歴史を誇るロラン公国が滅びてからx。誰もが激動を予感したこの中原には、しかしそれから奇妙な静けさが続いていた。
 衰退したとはいえ、未だに北の盟主であり続けるスーオン、アクリス戦役の打撃からようやく立ち直りを見せている南のアクリス、そしてロランを併合し、中部に勢力の拡大を続ける帝国。互いが互いの隙を伺いながら、しかし何れの国も「次」の行動を起こす決定的な力を欠いている。そんな微妙な力の均衡の上にこの静けさはあったとするのが、後世の歴史家の通説となった。そして多くの歴史家はこの期間に大した意義を認めてはいない。何故なら、それはほんの短い時間であったからだ…

「すごーい!」
 スーミアに入ってから何度驚いただろう。キョロキョロともの珍しげに見回すシアのおのぼりさんぶりに、ケンは呆れかえってしまった。
 既に衰退して久しいスーオンだが、かつて北の雄として君臨した大帝国の面影を首都スーミアはいまだ残している。その巨大な街の構えと人の多さは、シアが訪れた如何なる都市をも凌いでいた。立ち並ぶ露店にあふれんばかりに並べられた魚や肉、果物、織物、金物。押し合ながら流れる人並。耳が痛くなるような喧騒。穏やかなロランでは感じたことの無い活気がシアの心を浮き立たせる。
 もうひとつ、白魔術系のファモナ神教を国教とするスーオンでは、強力な結界が張り巡らされ、闇のつけいる隙がないので、余計な心配をする必要もないことが、シアをのびのびとさせていた。
「おい、あんまりキョロキョロするんじゃない。こっちが恥ずかしいじゃないか」
「うん…あっ、あれはなに?」
 ケンの忠告もシアの耳を素通りしている。
 仕方無い。ケンはそう思う。ロランからこのかた、シアの身に降り掛かった苦難は16歳の少女に、歳相応の振舞いを許しはしなかったのだから。
「とにかく、とりあえず宿を捜して落ち着くぞ」
 周りに気を取られているシアの腕をつかむと、引きずるようにして通りから引っ張っていった。

 酒場の二階に部屋を取った二人は、久しぶりにまともな食事にありつくと、早々に部屋に引き揚げた。身一つでガザの森から脱出した二人だったが、ケンがしっかりと有り金を身につけていたから、当座の生活には困らない。
「とは言ってもそのうちには金も無くなるしな」
 ケンは酒場で買い込んだ酒をあおりながら、ベットに腰掛けたシアに失敬してきた果物を投げた。
「どうして王宮にいかないの?シンシアなら何とかしてくれると思うんだけど」
「おいおい、こんな薄汚れた格好でのこのこ行ってみろ。相手にされないか、牢獄行きがおちだ」
 相変わらずの世間知らずぶりにケンは呆れた。
「おまえがシア・ロラン公女だと証明するものは何もないんだ。誰も信用してくれんよ」
「でも、シンシアなら私が分かるわ」
「王妃に簡単に会わせてもらえると思ってるのか。しかも戦争が近いってんで、城の連中はピリピリしてるぜ」
「そうかあ…」
「会えたら会えたで問題もあるし」
「どういうこと?」
「噂では今度のスーオン攻めにはルゴン、セラト、シエールの軍が動いているそうだ。そうなると占領下のロランの兵も狩り出されてくるだろう。その時の為におまえを押えとこうと思うだろうな」
「ロランの兵が…」
 シアの心が搖れた。ロランの兵もここを攻めにくるのか。小国の非情な定めを、恨めしく思う。
 想いに沈むシアをケンはじっと見つめていた。
(美しくなったものだ)ケンはそう思う。初めて出会ったときにはまだ子供っぽさを残していたシアも、最近はすれ違う人々が振り返るほどに女としての美しさがにじみ出してきている。
だがケンが魅かれるのは、そんな表面的なことばかりではなくシアの内面から感じられる気品と温かさであった。あらゆるものを包み込むような温かさ。それは闇に生きる者にさえも心地よいものだった。
あの男が彼女を欲するのも無理はないとさえ思えるのだった。
(シアならば出来るかも知れない)
 ケンが諸国を流浪してまで捜し求めた人物。そう、シアならば…
「ま、公式に会いに行くのは問題が多すぎるというわけ。ということで、今夜は運のいいことに月が出ていない。そっと会いに行くにはいい夜だ」
「えっ、本気?」
「おう、本気よ。会うだけ会って、貰えるん貰ったらとんずらする。この国もやばそうだからな。そうと決まったら、少し休んどけ」
 呆れるシアを後目に、ケンはさっさとベットに入る。
「決ってなーい!」
 やっぱりとんでもない人だとシアは思った。

 早春の夜風は、街の喧騒に火照った肌に心地良い。
 スーミアの王城キャガル城の後宮。今はシンシア王妃の故郷の名を取って、ライズ宮と呼ばれることもある。なだらかな丘まで含んだ広大な庭園の中に、それはあった。
森林の豊かなロランの妃を慰めるために植えられた木立が、シア達の侵入を容易にさせた。後宮の北側はほとんど森になっているから、警備の近衛兵に姿を見せることなく後宮に接近出来る。もちろん森の中には侵入者に備えた罠が幾重にも張り巡らされていたけれど、ケンの前には何の役にも立たなかった。
「この糸に触れないように気をつけろ」
 ケンが器用に出窓の鍵をはずすと、するりと中に潜り込み、シアを引っ張りあげた。
「シンシアの部屋はどこかしら」
「後宮の造りなんざどこでも同じさ。真ん中がホールになってるとすると、2階西側のホール寄りがたぶん王妃の部屋だ」
「えー、どうしてそうだと分かるの?」
「森が見える部屋で死の国を指す北東をはずすとだな…えーい、忍び込んでる最中に説明させるんじゃない」
 多分傍から見たらすごく間抜けに見えたであろう二人の会話に若干めげながら、ケンは先を急いだ。衛兵の巡回間隔は森の中から確認済みだ。
 人気のない廊下を急ぐ二人。
 ふと立ち止まったケンの背中に、シアはぶつかってしまった。
「いったあい!どうしたのよケン」
 したたか鼻をぶつけたシアは、少し赤くなった鼻をさすりながら、ふくれた。
「…結界か?」
 何かに触れた気がしたケンは、周囲に気を配った。だが、先ほど感じたと思った気配はもう消え失せている。
「気のせいか」
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
 こだわりを残しながら、ケンは先に進んだ。
 なんとか無事に王妃の部屋の前に辿り着いた二人は、扉をそっと開けると中の様子を窺った。
「うう…うぐう…」
 金箔をちりばめた豪華な垂れ幕の向こうから、女のうめき声が洩れてきた。恐らく幕の向こうに寝台があるのだろう。
「ひょっとして、国王陛下とあれの最中?」
 予想していなかった事態に、シアは情けない顔をしている。もしあれの最中であれば、どういう事情があるにせよ決して無事には済まない。
「いや、違うな。あれは猿轡をかまされた声だ」
 すうっと剣を構えたケンが、そろそろと寝台に近づく。その後をシアも付いていく。
 垂れ幕の隙間から寝台を覗いたシアは思わず声を上げそうになった。ケンの手が素早くシアの口を塞ぐ。
 その時シアが見たものは、拘束具で自由を奪われたシンシア王妃を弄ぶ妖艶な女の姿であった。

 そこは暗闇に包まれた深い森の中。
ひりひりと痛む喉からは、もう悲鳴のような息が洩れるだけだった。
 いったいどのくらい走ったのだろうか。体中を鉛のような疲労感が包む。でも逃げなければ…。
 そう、逃げなければ。
 でも、誰から?
 その時、目の前の繁みが突然弾けた。
「きゃっ!」
 思わず立ち止まったシンシアの前に立ち塞がる者がいた。見たこともない鎧を纏ったその戦士は、ゆっくりとシンシアに近づいた。
「どうして私を追いかけるの?」
 肩で息をしながら、シンシアは悲鳴を上げるように叫んだ。
 だが、その戦士はシンシアの問いを無視するように、その歩みを止めようとはしなかった。
「いや、こないで、お願い!」
 必死に叫ぶシンシア。だが、彼女の体は意志に反してまったく動けない。そう、まるで蛇ににらまれた蛙のように。
 やがて戦士はシンシアの目の前まで来ると、ゆっくりと彼女の肩を掴んだ。その手は、まるで死人のように冷たい。戦士はシンシアの体をぐいと引き寄せた。
 その時、シンシアは甲の下に隠された戦士の素顔を見て愕然とした。やがてその驚きは恐怖へと変わった。
「…いや、いや、いやあああ!」

 悲鳴を上げてとび起きると、そこは自分の寝室であった。
「ま、またあの夢を…見た…」
 全身水を浴びたようにぐっしょりと汗で濡らし、息もまだ荒い。
「いったい何故あんな夢を見るのかしら」
 ロランでは王族の姫として、スーオンでは王妃として何不自由無い生活を過ごしてきた自分なのに。
「陛下…何故おいでになってくださらない…」
 いつもなら優しく彼女を慰めてくれる男がいないことが、ことさらに彼女を不安にさせる。
 仲睦まじいことではこの中原でも有名な二人が、ここ一年疎遠な仲になっていた。夫であるコルト王が彼女を避けるようになったのだ。そう、あの女が現れてから…。
 その時、ドアの開く気配にシンシアは身を縮めた。寝台を囲む垂れ幕の向こうで、供の女官にさがるようにと指図する女の声がする。
 やがて黄金色の夜着を纏った女が現れた。
 少し赤身のかかった金髪、整ってはいるが毒々しささえ感じさせる妖し気な容貌。今やスーオン後宮の実質的な支配者、ライザ・バルキアその人であった。
「シンシア、二晩も待たせて寂しかったでしょう。今夜はゆっくりと可愛がってあげる」
 シンシアはベットの上で弱々しく首を振る。
「もうお願いです、放っておいてください」
「あら、なあにその口の利き方は?いつもよがって喜んでいるのは誰かしら」
 シンシアの顔に朱がさす。
「それに最初に欲しがったのは誰だったかしらねえ」
「あれはあなたが仕組んだことでしょう!」
「あら、私は王妃陛下を慰めて差し上げようとほんの少し飲物に媚薬を入れただけ。それがあんなに淫れるなんて」
「う、うそよ」
「熱い体を何とかしてって、泣きながら頼んだのは誰?私はあなたの望みを叶えて差し上げただけだわ」
 シンシアは言葉に詰まった。強力な媚薬を飲まされたとはいえ、あそこまで自分が淫れようとは思いもよらなかった。国王の寵愛がライザに移ったことへの寂しさばかりでは片付けられない、別のものが彼女の中にあるのを感じた。
「あっ、いや!」
 ライザはシンシアをベットに仰向けに押し倒すと、シンシアの顔の上に腰を屈めて覆いかぶさった。
「礼儀を知らないとレディとして失格ですよ。さあ、ちゃんと挨拶なさい。その可愛らしい舌と唇で」
 ぐいぐいと花唇をシンシアの唇に押し付ける。
「むぐう…」
 ライザの恥毛がシンシアの唇や鼻に当たる。ライザはゆっくりと腰を前後に動かすと、シンシアの唇に花唇を擦り付けていく。
「さあ、ちゃんと挨拶なさい。それともスーミアの闇宿にでも売り払って、汚らしい男どもの慰み者にしてあげようか」
 シンシアはぞっとして仕方なくおずおずと舌を出し、ライザの花唇に当てた。
「世話の焼ける方だこと。そんなものでは挨拶とは呼べませんわよ」
 ライザは、右手をシンシアの夜着の胸元に滑り込ませると、形の良い乳房を掴み出し、そのまま爪を立てた。
「うぐう…!」
 シンシアは慌てて舌を使い始めた。
「そう、温かくていい気持ち。さあ、舌をゆっくりと動かして私の感じるところを捜し出すのよ。ほら違う。さんざん教えたでしょう。あ、そう、そこ!そう、それでいいの」
 やっとクリトリスを舌でまさぐり出したシンシアが、舐めあげ、時々舌の先を硬くして責めると、ライザは顔をのけぞらせて声を上げた。
 ライザの右手が握っていた乳房を放すと、シンシアの股間に延びた。慣れた手つきで指を潜り込ませていく。
「むう…」
 たちまちライザのしなやかな指先が、シンシアのクリトリスをまさぐり出すと、時に優しくくすぐるように、時にきつくつねるように愛撫し始めた。シンシアは激しくライザの花唇を吸い、つつき、舐めつつ、自分もまたたちまち熱い蜜をにじませ始めた。
「あうぅ、いいっ!」
 みるみる官能の渦が自分を飲み込んでいくのをシンシアは感じるのだった。

「さあ、すっかり準備ができたわ。シンシア、これからもっと楽しませてあげるわね」
 シンシアは全裸で、両膝をベットの上について立たされていた。
 黒い首輪が象牙色の肌にかっちりと嵌められ、その首輪から延びた短めの鎖に後ろ手に嵌められた、やはり黒い手枷が繋げられていた。腕を動かそうとすれば、首が締まるので、上半身の動きはそれだけで封じられている。もっとも首輪は喉が隠れるほど幅の広いものなので、窒息することはない。しかもその首輪のためにシンシアはうなだれることも出来ない。
 口にはシルクのタオルが丸められて押し込められ、その上から黒革の紐で口を割るように結わえ付けられていた。
 自分も裸になったライザは、つんと突き出した美しいシンシアの乳房をすくい上げるように持ち上げると、左右の乳首を交互に舐めた。いとおしむように初めは軽く、次第に強く吸い、軽く歯を立てる。
 乳首を吸う度にシンシアの体は悶え、噛む度にビクンと搖れる。
「私の可愛い子犬ちゃん、そうやっているおまえが一番きれい…」
 ゆっくりとライザの左手がシンシアの身体を滑るように降りてゆき、シンシアの茂みの中へと消えていく。すでに湿りを帯びた恥毛を撫でるようにかき分けると、花唇に指を潜り込ませていった。
「うう…うぐう…」
 殆ど自由の効かない首を弱々しく横に振るシンシア。だが、その秘所はじわりと濡れそぼっていくのが自分でもよく分かった。
(もうこんな身体になってしまった)そんな想いがシンシアの切れ長の目に涙をにじませる。だが官能の渦は自分でもどうしようもない程身体中に拡がっていく。
 ふと、ライザの手が止まった。
「何者!?」
 叫んだかと思うと、ライザは寝台から飛び退き、寝台の側に垂れていた紐を引いた。
「ちっ!」
 ケンは舌打ちをすると、まだぼーっと見ているシアの手を引っ張った。
「気付かれた、逃げるぞ!」
 廊下に出ると、すでにあちこちから人の動く気配がする。ケンは窓を開けると、ロープを外に向かって投げ、ロープの端を頑丈そうな窓枠に素早く巻き付けた。
「シア、先にいけ」
 背中を押されるようにして、シアはロープを身体に軽く巻くと庭へ降りる。ケンもすぐに続いた。
「囲まれる前に森に逃げ込むぞ。俺の後をしっかりとついてこいよ!」
「うん!」
 ヒュッという風切り音と共に飛んできた矢を手で払うと、ケンは森目掛けて走り始めた。シアも遅れじと続く。何本もの矢が暗闇を裂いてシアの周りをかすめた。

 シンシアの寝所には、すでにライザの親衛隊長ザイネスが来ていた。相変わらずシンシアはあさましい格好のままで寝台の上に転がされていたが、ちらりと好色気な視線を送っただけで、ライザと共に警備兵の報告を聞く。
「賊は森の中へ逃げ込みました。現在包囲中です」
「うむ、決して逃がすな」
 報告した兵を下がらせると、ザイネスはライザの方を向いた。
「お怪我は?」
「ない。…賊の片割れがもう一人をシアと呼ぶのが聞こえた。ロランのシア姫かもしれん。おまえが直接指揮を取れ。決して殺すでない」
「はは!」
 一礼してザイネスは寝室を出ていった。
「シア姫か…もしそうであれば、よい獲物が舞い込んだものよ」
 喉の奥で小さく笑うと、ライザは寝台に腰を降ろし、シンシアの髪を撫でる。
「いとこになんとまあ。浅ましい格好を見られたものね、シンシア」
 顔を赤らめながら背けたシンシアをいとおしげに見つめると、ライザはぼそりと呟く。
「ほんと、良い獲物が舞い込んだわ…」

 警備兵がまだ包囲し切らない内に二人は森を突き抜け、城壁までたどり着いていた。そこにはまだ侵入した際に使ったロープが残っていた。
「ふう、なんとか脱出できそうだな」
「…ええっ…」
 シアの方は全力疾走してきたおかげで息絶え々々の状態である。
「だらしないなあ。ほら、もう一息だ」
 ケンに支えられるようにして、シアはロープを掴むと城壁を登り始めた。ようやく城壁の上に着くと、ぺたっと尻餅をついてしまう。すぐに追いついたケンがロープを引き上げて、城壁の反対側に投げる。
「なにやってんだ?」
「…ちょっと待ってよ」
「そらそら、こんな所にぐずぐずしてると矢の的になるぞ」
「お先にどうぞ」
 そう言ってもケンが押すので、シアは息が落ち着くのを待って降り始める。ケンもせかすように続いた。
 ちょうど城壁の半ばまで降りた時、ケンは下に微かな人の気配を感じた。
「気を付けろ!」
「えっ?」
 ケンはまだ下にぶら下がっているシアに注意しながら飛び降りると、シアを庇うようにして、剣を抜いた。
「誰だ」
 気配の消し方からすると只者ではない。ケンはレグレスを油断なく構えた。
 突然ボッという音と共に、ケンたち二人を囲むようにたいまつの火が灯された。その数五つ。
 その明りの下に浮かび上がった者たちの姿を見て、ケンは絶句した。赤いマントの下から覗く白い鎧。その胸当ての部分には、深紅のセリュウムの華が染め抜かれている。
 いつもなら軽く斬り抜けてしまうケンが動けないでいる。囲んだ者たちがいずれも相当に腕のたつ戦士であることがシアにも分かった。
 ちょうど中央にいた戦士がゆっくりと前に出ると、頭のフードを両手で後ろに除けた。
 たいまつの火に照らされたその戦士は、金色の髪をまん中で分けた美しい女性だった。
「おやおや、今宵の賊とはあなたでしたか」
「…エルザ…」
 ケンが苦し気に呟く。
「お久し振りですね」
「まさかスーオンくんだりまで派遣されてこようとはな」
「情勢はそこまで緊迫している、と言うところでしょうか。こんな時期に城に忍び込むとは、自殺行為以外の何物でもありませんよ」
 二人の会話から察して、旧知の間柄らしい。ケンの後ろから覗きながら、ふとシアには思い当たることがあった。あの鎧は…。
「ケン、まさかあの鎧は…」
 小声で話しかけるシアにケンは微かに肯く。
「…シア、紹介しよう…こいつがアクリス琉華騎士団長エルザ・サラファーンだ…」
「ええっ!?」
 驚くシア。そう、ケンが口にしたその名はこの大陸中に知らぬ者などいない、最強を唱われた戦士たち。
「そうか…琉華がきたか。ならば俺も動かねばならんか…」
 動くに動けない二人を、遅ればせながらスーオンの兵が幾重にも囲み始めていた。

「今時の姫は盗賊紛いのこともするらしい」
 少し冷たい笑いをその端正な顔に浮かべたスーオン国王コルト・キャガルの視線は、愚王の評判とは裏腹に鋭い。
 結局捕らえられた二人は、こうして次の朝、王の前に引き出された。
「ロイドよ、この者がシア・ロラン公女であること間違いないか」
 国王は傍らに立つ、壮年の男に訪ねた。
 ロイド・シクトス候。衰退しているスーオンを支え、他国に名宰相の誉れ高き人物。シンシア王妃の婚儀の際、何度かロランを訪れたことのある彼は、もちろんシアとも面識があった。
「御意。あのころよりもだいぶ美しくなられたが、間違いなくシア公女でございます」
「もう一人は何と言ったかな?」
「元アクリス琉華騎士団長、フロリア・アクレス殿とか」
 二人を捕らえた親衛隊長のザイネスが答えた。
「ほう、あのフロリア殿か。故国を捨てて野に下ったと聞いたが」
「一説には闇の軍に奔ったとも言われておりまするが」
「いや、一人闇の軍と戦っていると聞き及びますが」
 ザイネスの意地の悪い物言いに、ロイド候が助け船を出す。アクリスが世間に広めた噂と、真実との違いを彼はよく知っていた。
「国王陛下」
 その時、後ろに控えていた琉華騎士団長エルザが進み出た。
「その者については、我がアクリスの問題。我々にお任せくださるわけには参りますまいか」
「どうするつもりかな」
「この度の戦が済んだ後、本国に送還致します」
「ふうむ。まあ、援軍を出してもらった借りもあるからな」
 国王も薄汚れた格好のケンには、さほど興味を覚えなかったらしい。
「まあ、そちらはどうでもよい。問題はシア姫の方だな」
 再び向けられた国王の視線にシアはドキッとした。
「歴史を辿ればロランは元々は我が国の領土。王妃もロランの出だ。ロランを再興するまでは姫の面倒を見るのは我々の義務であろう」
 一見親切気な発言であったが、色々な意味に取れる言葉でもある。現在唯一の公国継承者であるシアを押さえるということは、極端に言えばロラン併合をも行うことが可能であるからだ。
「私はともかく、シア姫につきましてはご配慮御無用にお願い致しまする」
 それまで沈黙していたケンが口を開いた。
 その広間に通る声に、一瞬場はしんとなった。
「誰が発言を許した。無礼であろう」
 はっとしたザイネスが慌ててとがめた。
「よい。フロリア、そなたの申すこと、私にはよく分からんのだが、分かるように説明してもらえるかな。身一つの姫を親戚である私が庇護すると言っているのだが。それとも他に当てでもあるというのか」
「発言をお許し頂きありがとうございます」
 ケンはすっと腕を胸に当てて敬礼をした。
「シア姫は我が主であれば、危険が及ぶ場所にむざむざと置くわけには参らないのです」
「ほう、このスーオンが安全ではないと申すのか」
 ケンの辛辣な答えに、明かに国王は機嫌を損ねた。
「はい。私の見るところ、この国が安全とはとても思えませぬ」
「どういう意味だ」
 重臣の一人サーザ候がむっとして訪ねた。
「今度の戦のことを申しておるなら、心配無用だ。我がスーオンには15万からの兵がおる。民兵をも合わせれば軽く20万を越える兵が集まる。ロランのようにはならんよ」
 具体的な数字を出してロイド候が柔らかに反論する。
「我々はガザの森にて魔将軍の一人と遭遇し、これを倒しました」
 ケンの一声に、たちまち周囲がざわめいた。
「これがどういう事を意味するのか、お分かりのはず。皆様方は今度の戦、セラト、シェール軍との戦い程度に思われておられるようだが、敵は総力を挙げてスーオン侵攻を行うつもり。先程20万の軍勢と申されたが、帝国の正規軍相手にどこまで通用するか」
「帝国の正規軍が…」
 同じ様なつぶやきがあちこちから聞こえた。帝国軍の正規兵の強さは、すでに伝説と化している。僅か1千の兵に1万の兵が全滅させられただの、多少誇張されているが、いずれにせよ帝国軍の強さは各国に恐れられていたのだ。
 中原最強を歌われたアクリスでさえ、4年前のアクリス戦役で辛うじて帝国軍を退けたものの、英主ルクセイン国王が戦死、アクリス軍もほとんど再起不能と言われるところまで追い込まれことは、周知の事実であった。
 実際に剣を交えたことのあるケンや琉華騎士団の面々は、十分にそれを知っていた。
「ロイド候、正直に伺おう。候は敵の戦力をいかほどと考えておられるのか」
 しばらく考え込んでいたロイド候は、まっすぐにその鋭い目でケンを見た。
「これは今日の軍議の席で話そうと思っていたのだが、今朝わしの放った間者からあった報告では、敵は3方面より侵攻して来るつもりじゃ」
「3方面…南西のルゴン、南のロラン、もう一つは?」
 首都防衛軍司令官のオーム候が口をはさんだ。
「…東のギリックだ」
「ギリックですと!」
 第3軍司令官のアルコス将軍が思わず叫んだ。東部方面は、彼の第3軍の管轄だ。
「しかもギリックのみならず、バヌアも兵を出すらしい。ルゴン城下にはこの中原の者ではない兵が集結しているとの報告も受けた」
「ギリックの奴らめ、今度の戦に乗じてセルマ平野を奪うつもりだ」
「帝国軍が来るのは間違い無いのか」
 たちまち動揺の波が人々の間に走った。
「静まれ!」
 騒然とした場に苛立った国王が一喝した。
 国王はいかにも不興という顔で、ケンを見すえた。だがケンは恐れもせずにその視線を受け止める。
「続けよ」
「帝国の正規兵が出て来るとなれば、それに従う諸国もぎりぎりまで兵を出さねば面目が立たないでしょう。それに対してこちらには何の策もないようにお見受け致しました。それ故の先程の発言、私に非があるならばお詫び致しましょう」
 悪びれもせずケンは言った。
「うぬの言う通りかもしれん。今まで我々は、敵兵力を8万程度と考えておった。だが今朝の状況から考えると、ルゴンが5万、セラト、シェール、ロランの3国でやはり5万、ギリック、バヌアが3万というところらしい」
 そこまで情報を集めたのは、流石ロイド候というところか。だがその割には余りにも後手を踏みすぎている。ケンはそんな気がした。
 ロイド候はゆっくりと揃った重臣たちを見回した。
「この中原に進出している帝国軍は7個軍団余りと聞く。確実に勝つつもりならば4個軍団は投入してこよう」
「しめて17万か…」
 最後は国王が呟いた。
「お待ちください陛下、ロイド候」
 いつの間にか軍議の様相を帯び始めた朝の宮廷に、ザイネスの声が響いた。
「このような重大な話を盗賊紛いの者に聞かせる必要はございません」
 その巨体を震わせながら、彼はケンとシアの横に進み出る。
「重臣方はこの場を軍議の場と勘違いされておられるようですが、そもそもこやつらを詮議するための物であったはず。恐れ多くも王妃陛下の部屋に忍び込んだ盗賊。以前の身分など関係ござらん。スーオンの威厳にかけても厳重な処分を行うべきでございます」
「正論だな、ザイネス。取り合えず二人を牢へ。二人の取調べは後で行うこととしよう」
 国王が片手を上げると、控えていた衛兵がケンとシアを連行しようとした。
「待て、シア姫は一国の公女。粗末な牢ではなくゲストとして扱うように。見張りをつけてな」
「無用です」
 稟とした声が国王の声を遮った。
「シア姫…」
 今まで一言も口を開かなかったシアの初めての一声は、強い拒絶の意志表示だった。
「王妃の部屋に忍び込んだのは、身分の証を持たなかった故。なれど非礼であった事は確かなことです。この者は私の命令にしたがったまで。それに…」
 シアはちらりとケンを見る。
「ロランより脱出して以来、ずっと私を守り、私に剣を捧げた者と違う待遇を受けるわけには参りません。国王陛下、なにとぞ同じ処分を私にもお与え下さいますように」
 すっと頭を下げて礼をするシア。その見事な振舞いは、その場に居合わせた者全てに感銘を与えた。
 しばらく考え込んでいた国王は、今まで見せなかった優しい笑顔を見せた。
「よかろう、シア姫。ならばその者と同じ牢に入るがよい。なれど牢は決して居心地の良い場所ではないぞ。後悔せぬように」
「私はこのケンと身を寄せ合って夜露を凌いだ事もある身。決して後悔など」
 にっこりと微笑んだシアは、くるりと背を向けると戸惑う衛兵を促して部屋を出た。ケンもまた、唖然としているエルザに軽くウインクすると、忍び笑いを浮かべてシアの後を追う。
 静まり返った場で、国王とロイド候だけが厳しい表情で二人を見送っていた。

 二人が入れられた牢は、簡単な寝台もあり日の光も差す清潔な、牢としては上等の部類の部屋だった。
 シアは硬い寝台の上にちょこんと腰掛け、ケンは反対側の壁にもたれ掛かっていた。
「…」
「ケン、どうしてさっきから黙ってるの?」
「考え事」
「何?」
「変わったな、おまえ」
「ん?」
 ケンはふうと一息ため息をつく。
「ついこの間までは怯えた小鳥だとばかり思ってたんだけどな。…随分大人になったな」
「ちょっとは見直した?」
「あの面子の前であれだけ言えれば大したもんだ」
 確かにシアは変わった。あのガザの森以来。
 ケンはシアの目の前に来ると、膝をついてじっとシアの目を見る。
「俺には夢がある。そのために俺は故国を捨てた」
「えっ!?」
「アクリスのルクセイン王亡き後、我々は真の指導者を欠いたまま闇と戦ってきた。現在の中原を見てみろ。アクリスもスーオンも皆ばらばらだ。そして闇は徐々に浸透しつつある。闇が闇の王の元に一つであるように、我々もまた一つでなければ、決して彼らに打ち勝つことは出来ないだろう。だからだ…」
「だから?」
 小首を傾げるシア。
「この中原をまとめあげることの出来る人間が必要なんだ。わかるな」
「え、ええ」
「だからだ、おまえにそれをやって貰いたい」
「はあ?」
「おまえがまとめるんだ。スーオン、アクリス、マイン、サリア、サージオン、ソル、コチン、トプトル。現在闇と戦っている諸国を一つに」
 じっと見つめ合う二人。
「ぷっ!」
 シアはたまらず吹き出した。
「やだケンたら、そんな夢みたいなこと言って。小国の公女でしかない私がどうやってそんな大国をまとめられるってゆうのよ」
「今の地位が問題じゃない。その者の資質だ。そして俺はおまえにそれを見たんだ」
「…本気?」
「本気」
 しばらくして、真剣だったケンの顔に笑みが浮かんだかと思うと、それは大きな笑いとなった。
「はははっ、冗談さ、冗談」
「もう!」
 ちょっと本気にしていたシアは照れもあって顔を真っ赤にして怒る。
「もう、知らない!」
 プイと横を向いてだんまりを決め込んでしまうシアに、ケンはひたすら謝るだけだった。
「仲がよろしいことですね」
 その時、牢の外から女の声がした。
「エルザか」
 扉の小窓から覗いたのは、エルザだった。
「シア姫、私感銘しましたわ、あなたには」
「あ、ありがとう」
「何の用だ、エルザ」
「いえ、先ほどの団長とシア姫の言葉に感銘致したものですから」
「私の腹が読めたか?」
「いえいえ、あなたの腹を読めるほど私に才覚はございませんわ」
「よく言う」
「で、団長。スーオンの指揮系統に食い込んで、何をなさいます?」
「ちっ、読めてるじゃないか」
「少し物を考えられる人間なら気付きもしましょう。実戦経験の乏しいこの国で、あれだけご自分の才を売り込めば、国王とて心が動くもの。しかもあれだけ不利な条件を並べ立てれば。それが証拠に国王と宰相殿は苦い顔をされていましたわ」
「とりあえず、スーオンがこのまま負けるのはまずい。中原のバランスが一挙に崩れてしまう」
「ええ」
「こちらの目論見としてはだ、我々の力でスーオンを勝たせて、シアにスーオンの一州でも領地として貰い受ける」
「狙いは南部アルネス州」
「ああ。ロランを回復した後、返還するといえば無げに断わることもできまい」
「そしてセラト、シェール、ルゴンと順に片付ける」
「出来ればダズール、バーダもな」
 二人は共に微笑んだ。
 そんな二人の話についていけないシアはきょとんとしている。
「6ヶ国あわせれば17州、20万からの兵が集まりましょうな。ところで団長」
「ん?」
「先ほどのガザの森の話、本当ですか?」
「嘘だと思ったのか。本当のことさ。もっとも魔将軍を倒したのはシアだがな」
「シア姫が…それはまことですか、シア姫?」
 暗い思い出が蘇る。
「私グーラにさらわれて、あの…いろいろ…されて、それでケンが助けに来てくれて…でももうケンは疲れ切ってて…グーラがケンに気を取られて隙が出来た瞬間に私がシュライザーを…」
 だんだん小声になっていくシア。
「やめろ、シアにはつらい思い出だ」
「それとフロリア、あなたの持っていた剣の中にシュライザーがありましたが…」
「ケンと戦って、彼の右手の代わりに貰った。というよりは餞別代わりかな」
「まだ戦っていたのですね…もうそんな身体では…」
「自分の信じた生き方だからな」
 エルザの言葉を遮るようにケンは言った。遠くを見つめるような眼差しで。
 そんなケンを見つめるエルザの表情は、今までになく優しい。
「私たちも…その生き方ってやつについていってもいいですか」
「…」
「いやですか?」
「ケ、ケン…」
 ふっとエルザに背を向けたケンにシアが声を掛ける。
 やがてケンは大きく息を吸い込んだ。
「エルザ、何故琉華はこの地に派遣されてきた。アクリス王直属のおまえたちが何故」
「あなたの逃亡以来、我々は王に対する批判が過ぎるということで雇兵騎士団に格下げされましてね。厄介者払いという訳でここに派遣されたのです」
「琉華を格下げとはな」
 さすがにケンも信じられなかった。天下に知られた琉華騎士団を格下げするとは。
「あいつもそこまで愚かな王とはな。ところで、さっきのことだが…」
「はい」
「俺はこれからは急ぐぜ。あまり時間が無いからな」
「はい」
 エルザの表情が固く引き締まる。
「琉華の団長は常に只一人。王への忠誠の義務がなくなった今、我らが剣を捧げた方は只一人でございます」
「すまん、エルザ」
「どういたしまして。それからシア姫、自分の意志を固く信じ、良き王となられよ」
「あ、はい」
「それから、団長にはお気を付け遊ばせ。両刀ですから。あっ、もう遅いか」
「おまえなあ!」
 ケンは床に置いてあった木の食器をエルザめがけて投げつけた。
「団長、少し人間が雑になられましたね」
 笑いながら去っていくエルザをにらみながら、ケンは口の中で悪態をついた。
「ほんと、雑ねえ」
 つられてシアもこぼす。
「何?」
「いえ、こっちのこと。でもこれで味方が出来たわね」
「ああ。とにかくこれで事は楽になった。エルザの言葉を額面通りに信じるとすれば、琉華は我々の味方だ」
「額面通り?」
「人の上に立つものはあらゆる事態を考慮に入れなければな。彼女たちが思うように動かない場合も考えなければならん」
「深いわねえ」
「深いぜえ、世の中は」

 次の日の朝、二人は牢から出ることを許された。コルト国王の命令である。
「これからはわが国の非公式なゲストとして滞在して頂きます。ただし時期が時期だけに多少の無礼は許されよ」
 ロイド候自らが出向き、ケンたちに釘を刺した。
「うろちょろするなとよ、シア」
 ケンがそれを分かりやすく翻訳する。
 身体を洗い淨め、清潔な衣服に着替えた二人は、二人だけの遅い朝食を済ませると、どこにいればいいか分からずに、そのまま部屋でお茶をすすって(ケンはワインを飲んで)時間を潰していた。
「えーっ!?別に私に言った訳じゃないでしょう。注意するのはケンの方じゃない」
 ケンがロイド候の言葉を分かりやすく?シアに教えると、珍しくシアはやり返す。
「おまえ生意気になったね」
 誰も見ていないのを確認してから、シアの頬をつねるケン。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「今晩教育し直すとするか?」
 ぽっと顔を赤らめるシア。
「おまえな、一国の王にならんとする者がこういう場所でそういう反応するなよ」
 シアの反応を可愛いと思いつつ、今後の事を考えると頭が痛かった。
「とりあえずどうする?」
「まず、シンシアの所にいきたい」
「何故、あんな事が行われていたか、か?」
「うん。一国の王妃があんな目に遭っているなんておかしいもの」
「趣味かもな、おまえみたいに」
「あのねー!」
「何してる、いくぞ」
 怒ろうと思ったら、もうケンはさっさと部屋を出ようとしている。
「ちょっと待ってよー!」
 シアは慌ててケンの後を追いかけた。続きは夜にしよう、そうシアは思った。

 二人がわざわざロイド候がつけてくれた供の兵を従えて後宮に入ると、ケンはその時も、五感の隅でチリッと触れるものがあった。
 しばらく立ち止まって考え込んだケンは、シアや供の兵などまるで無視して後宮の入口を調べ始めた。
「ケン、何してるのよ」
 シアの言葉にも生返事を返したケンは、一本の柱の表面を撫でるようにして調べた。
「…これか」
 柱の根元に近い部分に出来ている微かな窪みを、指でなぞる。
「やはり何かの印か…。いつも影になる場所だから気付きにくいな」
 何度が指でなぞっていたケンは、いきなり立ち上がると唖然として見ているシア達に声をかけた。
「どうした。王妃の部屋に行かないか?」
 唖然としているシア達を不思議そうに見返すと、ケンはまたさっさと王妃の部屋へと歩き出すのだった。

 シア達をもてなすためにカリンという女官の出してくれたファステ紅茶が、なかなかいい香りの湯気を立てていた。
 表情の硬いシンシア王妃と向かい合うようにして、シアとケンはソファに腰を降ろしていた。
挨拶こそ交わしたものの、お互いに二日前の晩のことがあるから、気不味い雰囲気がある。
「お茶が冷めるわ、どうぞ」
 少し冷たい物言いで、シンシアが茶を勧める。
「えっ、ええ…」
 カップを両手で抱えるように持ったシアは、ぎこちなく口に運ぶ。きっと飛びきり極上のファステ紅茶も、今のシアにはただ苦い味にしか感じられない。
「あ、あの、元気でした?」
「ええ」
 シアがどんな事を話しても、会話はすぐに途切れてしまう。
 二人の不器用な会話を、ケンはじっと黙って聞いていた。二人ともあの晩のことが引っかかって、お互いに打ち解けられずにいるのがよく分かる。
 数年振りに会う従姉妹同士。シアの話では仲が良かった二人だ。積もる話もあろうに。そう思うと、不器用な二人に、ケンはしびれを切らした。
「王妃陛下、あの晩は申し訳ございませんでした。折角のお楽しみの所お邪魔して」
 ケンの遠慮の無い一言に、シンシアの抜けるような白い頬が朱に染まった。
「ケ、ケン、そんな言い方ってないでしょう」
 いきなりのケンの一言に、シアも慌てる。
「事実は事実だ。そうですな、王妃」
 その一言に、シンシアはキッとケンをにらんだかと思うと、たちまち粒らな瞳から大粒の涙が流れだした。
「ば、ばか!!」
 シアはシンシアの横に移ると、シンシアの肩を抱くようにして、ケンを詰った。
「シンシアだって好きであんなことしてるんじゃないわ。私、表情で分かったもの。無理矢理やらされてるんだって」
 そういう経験をイヤというほど重ねてきたシアの言葉には、妙に説得力がある。
「そうだよね、シンシア姉様」
 三歳年上の従姉妹を、まるで妹をなだめ透かすような口調で慰めるシア。そんなシアのやさしさに、シンシアはスーオンに来てからずっと押し留めていた全ての感情が堰を切ったように溢れ出した。それは止め処無い涙となって流れた。
 シアの胸に顔を埋めて泣き出した従姉妹の髪を優しく指ですきながら、シアはそっとシンシアの耳元でささやく。
「もう大丈夫、シンシア姉様。もう独りじゃないから」
「シア〜!!」
 声を上げて泣き始めたシンシアの様子に、ケンは肩をすくめて席を立った。
「王妃陛下、御無礼お許しください。私はこれにて下がります」
 丁寧に礼をすると、ケンはそのまま部屋を出ようとした。
「ケン」
「ん?」
 扉を閉めようとしたケンに、シアは言った。
「ありがとう」
「…俺はロイド候と話をしている」
 少しだけ照れて、ケンは扉をしめた。
 扉の外で、中で二人がぽつりぽつりと話し始めたのを聞いて、軽く安堵のため息を漏らすと、ケンはゆっくりとその前を去るのだった。

 ケンが後宮を出て長い廊下を歩いていると、王宮の方からロイド候がやって来るのに出くわした。
「おう、フロリア殿か。丁度良い。その辺でも散歩せぬか」
 どうやらケンが後宮の入口でしていた事がロイド候の耳に届いたらしい。
 供の者を下げると、ケンはロイド候に連れられて、広い中庭に出た。
「よろしいのですかな。宰相殿がこんな処でぶらぶらしておられても」
「なあに、お主の話を聞くことより重要なことはあるまいて。兵や兵糧のやりくりやつまらん大使どもの相手をするのはわしで無くとも十分じゃ」
 しばらく歩いていたロイド候は、丁度広い芝生のまん中に立つ一本の大きな広葉樹の下までくると、その歩みを止めた。
「何があった?」
 じっとその木を見つめたまま、ケンに問いかけた。
「入口の柱の根元に、印が刻んでありました」
「印か…」
「恐らく結界のためのものでしょう」
「あの中に魔導の者が潜んでおるか」
「恐らく」
「そうか…王宮にやはり闇の息がかかっておったか」
「魔導の者がいるとすれば、恐るべき者ですな。ファモナ神教の結界の張り巡らされたスーオンの、しかも王城の中に忍び込むとは」
「ああ。スーオンでは魔法は効かぬ、そう皆油断しておった。そこをやられたようだ」
「何か心当たりでも?」
「うむ。一年ほど前、宮廷付きのファモア神兵長が事故死した。なかなかの切れ者だったのだが。そして我々だ。王もわしも国政、外交に迷いがでた」
「確かにここしばらくスーオンの外交には不思議なことが多すぎますね。蜜月と言われたシコルカとの関係がこじれたり、ロランに救援の兵を出し渋ったり。それも呪縛のせいというわけですか」
「今思うと何故そんなことをしたのか、説明のつかぬ事が多すぎた」
「王やあなたの暗殺、国政への直接干渉は尻尾を出す恐れがある。もしそこまで読んでいるとすれば、潜り込んだ鼠は魔龍将軍クラスかも」
「我々がこんな事に気付いたのも、そなた達が現れてからだ。さすがフロリア殿だな」
「それは私の力ではありません。私は魔法の類はあまり得意ではないのですよ。シアが結界を破ったのでしょう。あの娘にはそんな力があります」
「シア姫がのう…」
 思案気のロイド候にケンは訪ねた。
「で、見当は?」
「…うむ、ある。ライザ・バルキアだ」
「私たちが王妃の部屋で見た女、ですか」
「恐らくな。あれが出仕してきたのも丁度一年前。神兵長が死んだのも一年前。我々の記憶が怪しくなっておるのもその頃だと思う」
「…一つ、罠を掛けてみますか」
「罠?」
「もし彼女が闇の者だとして、そう簡単に尻尾を出すとも思えません。けれどこのまま内部に毒を抱いたまま戦に入るのも危険。ならば餌を使ってそれに食いつくかどうか、試してみるしかないでしょう」
「餌は、誰を…」
「シアを使いましょう。特上の餌です」
「危険過ぎるのではないのか」
「なに、あの娘なら大丈夫。慣れてますから。その分、こちらが頂く見返りは大きくなりますがね」
「ふう、聞きしに勝る女だな、そなたは」
 仮にも主であるシア公女を平然と囮にしようとする。
 あまりの非情さに驚いたロイド候は思わずため息をついた。そんなロイド候を見て、ケンはにっこりと微笑んだ。
「この程度の事で驚いては、闇と戦っては行けませんよ?」
(この女も魔性か!?)内心ケンに恐れを抱きながら、ロイド候は渋々とケンの策に同意するのだった。

 もう日が傾きかけた頃、ケンはシンシアの部屋にシアを迎えに戻った。
 すっかり打ち解けたシンシアに夕食を共にする約束をして、シアはシンシアの部屋を辞した。
「ところで今まで何してたの」
 シアはケンと話ながら、部屋に戻る廊下を歩いた。
「ああ、ちょっとな」
 相変わらず、無愛想なケン。
 ちょっとためらうような仕草をして、ケンはシアに言った。
「シア」
「はい?」
「これからライザとかいう女の所に行ってみるか」
「ええ?」
 いきなり切り出されて、シアはびっくりした。そして珍しく不快気な表情を浮かべる。
「どうしてよ」
「そういやな顔をするなよ。なんとなく会ってみたいと思ってな。釘を刺す意味もあるし」
「そうねえ…」
 考え込むシア。従姉妹を酷い目に会わせている張本人だけに、文句の一つも言ってやろうかしら。
「そうね、私も言いたいことがあるし」
「よし、決まった。夕食前に一仕事してこい」
「ええ!?ケンもいっしょに来てくれるんじゃないの?」
「俺は別件がある。それにこれはおまえの身内のことだろ。俺が行ってもしょうがないだろう」
「でもう…」
「おまえももう一人前なんだから、それくらい一人でやれよ。国王の付けた護衛だっているだろう」
 後ろを指さしながら、ケンは言った。彼女達には、まだ護衛の名目で4人の近衛兵がへばりついていた。
「でもぅ…」
 心細気にケンを見るシア。
「俺はスーオン国内のロラン残党の召集の件で、ロイド候やエルザと話がある。こっちも急ぎだからな」
「わかったわよ。一人でやればいいんでしょ、一人で」
「今日もあんな目に遭ってるシンシア王妃の姿を見たくないんなら、しっかりやるこった」
 王宮の方へとすたすた歩いて行ってしまうケンの後ろ姿をしょぼんと見送りながら、シアは重い足取りで、歩き出した。どう話せばいいのか憂鬱さの余り、ケンがどうして突然こんな話を始めたのか、深く考えないシアだった。
 ライザの部屋は、後宮の中央ホールをはさんで、シンシアとは反対側にある。部屋の前には、いかめしいライザの親衛隊員が立っていた。
「何者か?」
「ロラン公国公女、シア・ロランが面会したいと伝えてくださいませんか」
 威圧的な物言いにむっとしながら、シアはそんなことはおくびにも出さず、にっこりと微笑んで言った。
「はっ、しばらくお待ちを」
 公女と聞いて慌てたその兵は、非礼を詫びると扉の内に消えた。
 すぐにライザ自身が扉の中から現われた。
「これはこれはシア公女、ようこそ。どうぞ中へ」
 まったく悪びれもせず、ライザはシアとケンを部屋へ通した。
 二人に席をすすめると、侍女に飲物を用意させる。
 侍女が飲物を用意する間、シアは部屋の中をさりげなく眺める。
 シンシアの部屋が主の性格そのものに清楚な雰囲気だとすれば、ライザの部屋はまさに成金趣味丸だしといったケバケバしさがある。その派手な飾り付けに半ば呆れかえっているうちに、軽めのワインが出された。
「私の方からご挨拶にお伺いしようと思っておりました」
 グラスを持って軽く揺らしながら、ライザはシアをじっと見つめた。
「それには及びませんわ。もうこうして参りましたから」
「ありがとうございます、公女陛下」
 言葉に刺を含ませたつもりだったシアだが、流石にライザは動じない。にっこりと笑って受け流した。
「私がこうして参ったのは他でもありません。シンシア王妃の件についてです」
「王妃陛下について、ですか?」
 白々しく首を傾げるライザに、シアは思わずかっとなった。
「あの晩のことです。いったいどういうつもりでシンシア姉様にあんな酷いことをなさるんです」
「酷いこと、ですか?」
「人を縛り上げて弄ぶ、これが酷いことでなくて何だって言うんですか」
「あら陛下、それは主観の相違ですわね。シンシア王妃は言わなかったんですか、ご自分がああいうことがお好きだと」
「あんなこと、好きでされたい人がいますか!」
 思わず語気を荒くするシア。
 そんなシアの様子を楽しむように唇に笑いを浮かべたライザは、軽くワインを口にすると、そのまま手に持ったグラスを眺めながらさりげなくシアに話しかけた。
「陛下は処女ですか?」
「えっ?」
 思わず聞き返してしまうほどに、ライザの次の言葉は唐突であった。

「公女陛下とフロリア・アクレス殿、お二人の関係はどうなんです?」
「え!?」
「私の見たところ、失礼ですがお二人も只の主従関係とは思えませんけれど」
「そ、そんなことは…」
 ありませんと言いたかったシアだが、嘘のつけないシアはもう反論できない。もっとも嘘をついたところで、真実の程ははっきりとシアの表情に現われてしまっていた。
「ふふっ、でしょう?私と王妃も、そういうこと。納得いただけました?」
「…」
 こうして言いくるめられてしまったシアは、情けなさと悔しさ一杯の顔で、ライザの部屋を後にすることになった。
 悄然としたシアの後ろ姿を見送ったライザは、妖し気な笑いを浮かべたまま、呟いた。
「…やっぱりね。今夜は楽しめそう」

 ケンとシアはその夜、国王の誘いで内々の夕食会に招かれた。
 テーブルに着いたのは、コルト国王、シンシア王妃、ロイド候、ロイド候夫人、そしてシアとケンの6人。
 いちばん最後に席に着いたケンは、シアにそっとささやいた。
「どうだった?」
「…」
 ちょっとふくれた表情をして、シアは頭を振った。
「ちぇっ、情けないなあ。まあいい、こっちはロランのスーオン駐在大使のロードン伯と連絡がついた。ロランの残党、2千はいるらしい。明日おまえに会いに来るから、そっちをしっかり頼む」
「…うん」
 シアにとって朗報であるはずの知らせも、今はライザにあしらわれた悔しさで上の空になっている。
 夕食の方は、久しぶりに元気を取り戻したシンシア王妃がコルト国王やシアと楽しげに話し、世話好きで有名なロイド候夫人の好奇心の的にされたシアとケンがしばらく閉口するといった和やかな雰囲気で終えた。
 ロイド候と夫人が席を辞した後も、しばらくは食後酒が続き、かなり遅い時間になってシアとシンシアが、コルトとケンの深酒につき合いきれなくなって寝室へと下がった。
 残された二人は、二人とも久しぶりに気分良く飲んだためか、呂律が怪しくなるほどに酔ってしまった。
「ケンよ、いやフロリアか」
「ケンで結構」
「まあ、飲め」
 コルト自らケンに酒を注ぐ。
 酒の瓶を置くと、コルトは自分の杯を取って軽く飲み干す。
「…行ったな」
「何のことでしょう」
「とぼけるな、二人のことだ」
「ロイド候が話されたか」
「ふっ、やつはそんな親切な男じゃない」
「護衛の兵から?」
「まあな。ケンよ、うまくいくと思うか?」
「シアに執心な奴がいてね。そいつが闇の王子ときたから、闇の奴らに狙われっぱなし。けれど奴らもシアの死体を持ってくわけにはいかないからシアに命の危険はない。シアを王子に献上すれば魔将軍クラスの出世も夢じゃないとくれば、ほっとく手はないと思う」
「ふむ…」
「結界に我々が気づいたこと、奴も薄々感づいているはずだ。それにこれからスーオンの出入りは難しくなるから、動くとすればここ2、3日だと思う」
 淡々と話していて、ケンはコルトが自分をじっと見つめていることに気がつく。
「…何か?」
「いや、こうしてみるとおまえも美形だなと思って」
「あのね〜!!」
 一気に力が抜けた。
「さて、そろそろ行くか」
 そんなケンを気にも止めないで、コルトは席を立った。
「ケン」
「はっ!?」
「事が片づいたら、一晩どうだ?」
「…」
 こいつ、本当に愚王なのかもしれん。そうケンは思った。

 シンシアの寝室に戻ったシアとシンシアは、酔い醒ましに冷たい水を飲みながらくつろいだ。
「あー楽しかった。こんなに楽しかったのって久し振り」
「もう私ダメー!」
 すっかり出来上がったシアがとなりのシンシアの膝の上に倒れ込む。
「調子に乗って、もう飲み過ぎよ」
 シンシアの膝枕で気持ち良さそうにしているシアを叱りながら、優しくシアの頭を撫でるシンシア。
 二人とも、本当に久し振りの安らぎに浸っていた。この時間がいつまでも続いてほしい。そう願わずにはいられないほどに。
 どれくらい時間が経ったのだろう。うとうととしていたシンシアはふと目を醒ました。シアは軽い寝息を立てて眠ってしまっている。開け放した窓からそよぎ込む夜風が冷たくて心地よかった。
「シンシア」
「えっ!」
 突然声を掛けられて、シンシアは驚いた。
 声のする方に振り向くと、口に指を当てたライザが立っていた。
「しーっ。シア姫が起きてしまうわ」
「どっ、どうして」
「あら、二人だけ仲良くするなんてずるいでしょ。私だけ仲間はずれにしないで」
 さっさとシンシアの横に腰掛けると、ライザはシアの寝顔を覗き込んだ。
「ふふっ、かわいい」
「やめて、シアには手を出さないで」
「あら、私に逆らえる?」
 ライザに見つめられたシンシアは、すーっと全身の力が抜けていくような気がした。
「いい子ね。ヒルザ、クレナ、シア姫を私の部屋へ」
 側に影のように控えていた侍女に命令すると、ライザはシンシアの顎を指で挟むようにして顔を上げさせた。
「シンシア、もうあなたはいいわ。最後のお勤めをさせてあげる。この剣で、コルト王を刺しなさい」
「…私がコルト王を…」
「そう、ほんのひと刺し。それで充分。この剣にはたっぷりと毒が塗ってあるから」
「は…い…」
 人形のように力なく肯くシンシアに目を細めながら、ライザはすっと席を立った。
「本当は我が軍を城に手引出来るまでいたかったけれど…。狂いに狂った私の目論見も、あなたを手に入れられれば帳尻も合うか」
 ヒルザの腕に抱かれて眠る、シアの可愛らしい唇を軽く指で撫でながら、ライザは呟いた。
「…あのケンが悔しがる所も見てみたかったけど…」
「呼んだかい?」
 部屋の扉の向こうから、ハスキーな声がした。
 シアを運びだそうと半開きにした扉の前で、侍女のヒルザとクレナがまるで石のように立ち尽くしていた。
 扉がゆっくりと開ききると、そこには片手に持った剣をヒルザの喉元に突きつけたケンが、コルト王と共に立っているのが見えた。
「…ケン、それにコルト王…」
 ライザは思わずうわずった声を上げる。
「ライザよ、今の話、もう少し詳しく聞かせてもらおうか」
 ヒルザの手からシアを抱き取ったコルトが、厳しい表情でライザに問う。
「この王宮で我らを操った腕前、大したものだ。おまえも只者ではあるまい」
「…どうやらすべて聞かれていたようですわね。ここで誤解ですわ、と泣き叫んでも無駄かしら」
「多分な」
 ケンは油断なく剣を構えたまま、ライザに近付いた。
 とその時、ライザの視線がふとケンたちから反れたかと思うと、ヒルザとクレナが懐中から出した短剣で、ケンたちに襲いかかった。
「ちっ!」
 シアを抱いたコルト王をかばいつつ、ケンはたちまち二人を斬り伏せた。
 ケンたちの注意がそれた瞬間、ライザはシンシアの方に走った。
「シンシア!目を覚ませ!!」
 シンシアを盾に取ろうとしたライザの肩越しにコルトが叫んだ。
「えっ!?」
 はっと気がついたシンシアの視界にまさに飛びかかろうとするライザの姿が飛び込んでくる。
「いやあ!」
「うぐうっ!」
 ライザの体がシンシアに被いかぶさった瞬間、二人の女の悲鳴が部屋中に響いた。
 ぽつり、ぽつり。血の滴る音が微かに聞こえる。
 コルトとケンは、シンシアたちの足元に、血の染みが広がっていくのを見た。
 やがて胸を押さえたライザが崩れ落ちた。
 呆然と立ち尽くすシンシアの手には、先ほどコルト王を刺すために渡された短剣が握られていた。
「…この私が…小娘なぞに…」
 うつ伏せに倒れたライザの口から、うめき声が洩れた。
 そのライザの前に、剣を抜いたままケンが近づく。
「スーオンにここまで入り込んだおまえだ、只者ではなかろう」
「…あと少しであったものを。…魔龍将軍カリューンともあろうものがしくじったわ」
 ケンの問いに、ごふっと血を吐きながらライザは答えた。
「魔龍将軍だったのか」
 操られたとはいえ、情を交わした女の死にゆく姿はさすがに辛いらしい。コルトはシンシアの肩を抱きながら、ぼそりと呟く。
 問うたはずのケンも、おし黙ったままその光景を見つめる。
 毒が全身に回ったのだろう。ライザはコルトとシンシアの方に手をのばすと、いままで見せたことのない悲しげな表情で空を掴むようにして、そして倒れた。
「…私…魔龍…ない…」
 それがライザの最後の言葉だった。

 数日後。
 ライザの親衛隊ザイネス以下約500名のほとんどが闇の手先であることがわかり、牢に押し込められ、また後宮に巣喰っていたライザ支配の者たちの処分も終わった。
 スーミアの王宮に巣喰った闇の勢力を一掃したコルト王は、ケン=フロリア・アクレスを正式にスーオン軍副司令官に命じ、軍師として迎えた。
 他国の者をこれほどの高い地位に就けることは、保守的なスーオンではまったく前例の無い事であったが、今回の事件での活躍ぶりや、琉華騎士団長としての知名度、何よりも身近にまで迫った闇への恐怖が、それを是と認めさせたのだった。
ここにスーオンは内患を一掃し、帝国軍へ備えて戦時体制へと入ったのである。
 そしてその日、スーオン全土から召集された将軍たちへ、フロリア副司令官のお披露目が行なわれようとしていた。
 広い謁見の間には数百のスーオンの将が集まり、フロリアの現われるのを期待と好奇の目で待っていた。中央には珍しく鎧を纏ったコルト王がきれいに正装をしたシアを伴い、鎮座していた。
 シアがコルト王と共に広間に入ってきた時、将軍たちは初めて見るロラン公国公女の美しさに目を見張った。
「フロリア・アクレス殿」
 やがてケンを呼ぶ近衛兵の声と共に、正面の扉が開いた。
「おお!」
 この日2度目のどよめきが広間に響く。
「ほう!」
 コルトもつられて感嘆の声を上げた。
 深紅のセリュウムの華が染められた白の鎧に身を固めたフロリアは、羽飾りのついた兜を小脇に抱え、深紅のマントを翻して広間に現われた。
 いつもぼさぼさにしていた赤みがかった栗色の髪はきれいに櫛ですかれてオールバックに整えられ、唇には朱がさされていた。それは遠慮がちな薄い色であったが、きりりとしたフロリアの表情にほどよく合って、女性らしさを引き立てていた。
「…ケン」
 シアは、頬が上気するのを感じた。相棒の整った顔立ちには気づいていたが、女性としてのフロリアの美しさはまた格別であった。
 フロリアは周囲から注がれる熱い視線を気にする事なく、エルザ以下、琉華騎士団の主だった者を引き連れて、コルトとシアの御前に進み出た。
「琉華騎士団長フロリア・アクレス、参りました」
 そう言って頭を垂れるフロリア。
「フロリア・アクレス。貴公を我がスーオン軍副総司令官に命ずる」
 コルトは厳かに言うと、バドスを差し出した。これは一種の錫杖であり、スーオンの将軍職の証であった。
「お受け致します」
 フロリアは、進み出てバドスをおし頂くと深々と礼をし、ゆっくりと下がった。
 満足気に諾いたコルトは、フロリアに言葉をかけるようにシアを促した。
 公式の場での振舞いにあまり慣れていないシアは席を立つと、少し緊張しながらフロリアに言った。
「フロリア殿、闇を打ち砕くためスーオンのために戦ってください」
 凛とした声が広間に響いた。
 するとフロリアは胸のセリュウムの紋様に右手を当て、膝をついた。他の琉華騎士の面々もフロリアに従う。
 再び広間はどよめいた。
 騎士が胸に手を当て、膝をつくのは最上級の敬礼であり、忠誠の証である。
 スーオンの総副司令官に任じたコルトにそれをせず、小国の一公女にそれをする。これはある意味ではスーオン国王を蔑しろにしたと取られても致し方無い行為である。
 だが人々はそんなことに思いを巡らすどころか、琉華騎士団を跪かせた美しい公女に敬意の念を覚えるのだった。
 思わず苦笑いを浮かべたコルトと、彼にしてやったりと笑いかけたフロリア。
 その時…。
「ご注進!」
 一人の伝令兵が飛び込んで来た。薄汚れたその姿は、伝令として到着したばかりであることを示していた。
「何事か」
 無礼をとがめようとした重臣たちを制して、コルトはその近衛兵に訪ねた。
「はっ!今朝、ルゴン国境を越えルゴン軍を中心に約7万の兵が我が国に侵入。現在国境守備隊が防戦に努めておりますが、敵の数が余りに多いため苦戦を強いられております」
 荒い息で報告する兵の言葉に、コルトの表情は引き締まった。
 いよいよ来たか…。
 その場に居合わせた者全てがそう思った。
「よし、下がってよい」
 コルトは立ち上がると、全員を見渡した。
「聞いた通りだ。このスーオンの命運を賭けた戦いが始まったようだ。皆の命、スーオンのために捧げてくれい!」
「おおっ!!」
「よし、行け!」
 集まった諸将が各自の持ち場につくため、あわただしく散って行く。
 その姿を見送りながら、シアはコルトに言った。
「始まりましたね」
「ああ、始まった。決して負けられぬ戦いがな」
 その日、後にスーオン戦役と呼ばれる戦いの火蓋が切って落とされた。

    <続く>


   次章予告

 戦いは始まった。激突するスーオンと帝国の軍。圧倒的な帝国の力の前に、フロリアの智謀は通じるのか。そしてシアに忍び寄る意外な魔の手。スーオンの大地を血に染めて、シアの、フロリアの戦いは続く。次章、「西から吹く風」にご期待ください。

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