Weekend Thoughts

番外編3

私にとってのオウムのテキストって?

--- オウムに関するテキストの渦の中で私は何を感じ始めたか ---


今私はポークシチューを煮込んでいる。最初は雑多な味の集合体。 それが徐々に調和し一つの味となっていく。...特になにをするでもない、 ただ熱を加えるだけ。そんな時間が味を紡ぎ出していく。

この連載も2月以上アップデートしていないことになる。 他のことで忙しかった所為もある。が、べつにこの連載に飽きたわけでもな い。オウムを取り挙げるにあたり、その間も静かに熱は加えつづけてはいた。

  1. イニシエーション
  2. えんじょい はぴねす NO.14
  3. 井上順孝 / 新宗教の解読
  4. 宮元啓一 / 仏教誕生
  5. 清水雅人(編) / 新宗教時代3
  6. 清水雅人(編) / 新宗教時代2
  7. AERA Mook 11 宗教学がわかる
  8. アジット・ムケルジー / タントラ 東洋の知恵
熱...当初の方針とは異なるが、こんな本を読んでいた。そして、
  1. imago Vol.6-8 特集 カルト
  2. imago Vol.6-9 総特集 オ ウム真理教の深層
なんてのも読みなおしたりもしていた。

ただ、あまり考えたりはしなかった。けっして体系的に比較検討作業を行わない。 ただ、漫然と読み進む。 積極的、体系的、論理的に考えを作り出すより、まわり道、より道をしながら、 考えの熟成を待つ...。オウムのテキストに対峙していくためには、そんなや りかたが相応しい、最初、なんとなくそう思った。(今のところ、時が、どれ ほど私の考えを一つのものとしてまとめてくれたのかは、よくは判らないが。)

あの事件からちょうど一年が経つ。この連載を始める大きな切っ掛け、それは、なぜあ んな事件が起こったのだろうというということに、自分なりに答えを見つけた いと思ったことが一つにある。私自身は神も仏も信じる気にはなれけれど、 なぜ(一部の)人は「信仰」というものを持つのだろうということに、なんとな く興味があった。特にオウムについては、その 活動内容にどこかしらシンパシーを感じていた部分があった。そのシンパシー を感じた部分と事件には、どこかしら接点があったんじゃないか?その疑問を 明らかにしたい、そう思った。

最初はオウムの出版物を読むことで、おぼろげながらでも、その一端が判るん じゃないかと思っていた。が、実際に読んでみると逆に疑問は深まって、なか なか考えがまとまらない。しょうがなく上に挙げたような本を読み続けていた。 そして、サティアン渋谷にも2度ほど足を運んだ。

既に多くのもの書きさんたちが、彼らなにり様々な「答え」を示している。 おおざっぱに言えば、以下の3つのアプローチが見られるようだ。

  1. 多くの大衆的なマスコミが口にする、「麻原」個人と幹部連中 のパーソナリティに求めるもの。
  2. サブカル系の人たちが好む、社会状況...特 に「おたく」世代と時代の空気とのリンクを辿るもの。
    そして、
  3. 教団の教義そのものの危険性に着目するもの。
1のアプローチは、あまりにも通俗的な語り口が多かったので、とりあ えず私は無視していた。 新宗教の解読に詳しいのだが、宗 教団体批判として、教団幹部のスキャンダル...特にセックスと金についての... を糾弾するやりかたは、明治から行われてる手法で、よくもまぁ飽きもせず同 じとをやってきたものだ、といった感じ。こと自分との接点から、事件を見よ うとしたとき、今更何か新しい知見が得られるものとも思われない。
2と3 のアプローチ。これには、意識/無意識に影響を受けた。特に2のアプロー チに関しては、私自身 オウムの教団幹部よりは少々若いが(1968生まれ)、おたく世代で、まぁ、 彼らの考え方、感じ方には、判らないでもない点もあり、一方、我が身を振り 換るようでもあり、彼らとの接点をその点から捉えることは、ごく自然なこと でもあった。

ただ、麻原個人がテクノロジーに感心が高かったこと、そして、その影響が大 きかったとはいえ、理科系の教育を受けていた幹部が多くおり、彼らがどのよ うにオウムにのめりこみ、そして事件に荷担していったかについては、あまり 納得がいく「答え」は今のところ見つけていない。近代科学、特に化学が 錬金術から起こったように、オカルティズムと科学の親和性を指摘する声は 良く聞く。たしかにその側面も無視できないであろう。ただ理科系オウム幹部 は科学者というよりは、技術者であったことに対する認識が、このような声に は、不足しているような感じがする。「自然科学」の究極の目標は世界を知り 尽くすことだとしても、それは原理的に不可能なことである。また、ある事象 が、誰かによって解き明かされたとしても、それには「検証」を経て定 説とされる。その定説とて、かなり時間を経た後、覆ることも多々ある。 そのような自然科学のプロセスの中にも人間の「意思」や「思想」が色濃く影 響を落すことも多いだろう(逆に個人の「意思」や「思想」なしに、研究は 前進するものでもないだろう)。しかし、「検証」され、時を経るにつれ、 得られたある事象の「解明」は、その「思想」の部分がそぎ落とされ、客観化 されていく。少なくとも、人間にとって理解できる範囲では、疑う必要のない 「事実」と高められるものであろう。

しかし、テクノロジーのアプローチは異なる。ぶっちゃけた言いかたをすると、 何か物を作って、動いて、安くでできれば、それでいい。個々 の事象の厳密な検証よりは、「動く」ものが作れるという事実のほうが重要だ。 オウムの修行システムも似た側面があるだろう。彼らなりの「真理」の検証 (例えば原始仏典の翻訳)を行ってはいたとはいえ、基本的には、麻原が開発し たヨーガの技法(彼らはそれを真理に至る道としている)の、その即効性を強調 し、それゆえに彼らの教えが正しいとしている。これは、麻原が開発した変性 意識を得るためのテクノロジーの「有効性」の証明ともいえる。これは、ある 意味、工学的なアプローチに重なる。「科学者」ならぬ「技術者」たる理系オ ウム幹部たちが、このようなものに惹かれていったのも、そう考えればまるで 不思議なことではない。もっとも彼らは自分達を「技術者」というよりは、 真理を探求する「科学者」であるとアイデンティファイしていたんじゃないか なぁとは思う。その誤解故に、麻原に付いて行く過程で、あのような事件にま で突っ走ったんじゃないかなと思う(この点については、今後の本編のほうで すこし詳しく見ていくことになるだろう)。他に日本にグルはいなかったとは いえ、彼らは多角的検証を怠り、そして、麻原の開発した「テクノロジー」に 急速にのめりこんでいった。彼らは、その「テクノロジー」が与えてくれる、スピー ドに快感に惹かれていった。未知の真理を即席に与えてくれると信じて...。

未知のものに性急に理由を求めなければいられない心性は理解できないでもな い。しかし、 未知のものに性急に答えを見付けだそうと、無理に理屈付けすることは、多く の誤謬の元であろう。麻原と彼の幹部達はそれを繰り返していた。 テクノロジーとサイエンスの(修行の技法と真理のと言いかえてもいいだろう) 本来持たなければいけない緊張感も、そのスピード感の前には霞んでしまう。

この原稿を書き始めた時に煮込み始めたポークシチューは、時間を経るにした がい、まろやかな味となり、私の舌を楽しませてくれた。

変化するためには時間がかかる。人の内面も然り。 そしてその時の進み方は人それぞれだ。速いからより良い、真理だとは限らな い。 それを一般化し、それを真理としたところに、麻原達のとった行動の遠因があっ た、そんなようにに感じはじめている。とりあえず、オウムのテキストは私に そんなことを与えてくれたようだ。

今まで、特になにも考えずに、ただ本を読んできたが、その過程でも私の考え もなんとなくまとまり始めているようだ。そろそろ論理的に考え始めなればい けないだろう。


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