長岡や無法の誉花楽居士

 弓削道鏡について調べていたら、栃木県に「道鏡塚」があることが分かり、随分前から行って見ようと思っていた。そろそろ雪の心配もなくなったので出掛けることにしようと思っていたら、4月1日に関東北部にはかなりの雪が降ったが、4月の雪だから直ぐに解けるだろうとたかをくくって予定通り出かけた。
 青梅から圏央道に入り関越道を本庄児玉まで行き、国道462号線を進み板東大橋で利根川を渡った。50m程下流に新しい橋を架ける工事をしていたからやがて立派な橋が出来ることだろう。伊勢崎市を抜けて佐波郡東村国定、昔の国定村に向かった。両毛線の国定駅を過ぎて少し行った所にある天台宗の養寿寺という寺に国定忠治の墓がある。境内に入って直ぐの左手に鐘楼があるが、楼は傾いているし鐘がない。坊主が後家狂いをして鐘を売ってしまったに違いない。
   かす坊主鐘売り飛ばし後家狂い
 墓地の方へ行って見ると、大きな石碑が建っていて「長岡忠治之墓」と書かれている。その脇に石塔があるがかなり石が削り取られていて戒名を読み取ることは出来ない。忠治の墓の周辺には長岡一族の墓がたくさん並んでいて、どれもかなり立派な戒名が刻まれている。メモを取りながら熱心に見学している小柄なおばさんがいたが作家かも知れない。本堂の横に「国定忠治遺品資料館」があるが、12時から1時まで閉館となっているので先に昼を食べることにして国定駅の近くまで戻った。食堂らしきものは何軒もなかったが「国定食堂」と書かれた店に入って野菜定食を食べた。当地一流の食堂と思われるが、大きな皿に山盛りの野菜炒めと丼飯だった。他にいた2人連れの客は「○○です、付けておいて下さい」といって出ていった。
 寺に戻ってみると資料館の扉は閉まったままであり、建物の前に雪が少し残っている。呼び鈴を押して暫くすると母屋からお婆さんが出てきて開けてくれた。この人が鐘を売って逐電した坊主の後を細々と守っているのかも知れない。忠治の遺品や関係のある資料がいろいろ展示されていて、回し合羽が意外に厚手であることを知ったが、残念ながら三度笠と「さあ張った張った、張っちゃいけねえ親爺の頭、張らなきゃ食えねえ提灯屋」といって振る「壺」がなかった。忠治は国定村の名門の出で、石塔では読めなかった戒名は「長岡院法誉花楽居士」であることが分かり、辞世の歌は
   惜しむより恨み大戸の我が身故あの世に行くぞ楽し長岡
であることも分かった。忠治は、中山道板橋宿にて
   今までは暗き故郷の山桜散り行く末は武蔵野の土
大戸宿にて
   見ては楽しては苦労の世の中にしまじきものは賭の諸勝負
という辞世の歌を残しているから、捕まってから処刑されるまでの間に何首も詠んだらしい。長岡一族の方々はこの“偉大な”先祖をどのように見ているのであろうか。
   長岡や無法の誉花楽居士
  直ぐ近くに岩宿遺跡があるので寄ってみることにした。公園が作られ立派な資料館ができていて花見客と合わせて大変な人出である。今日は春休み最後の週末で桜は満開で汗ばむような陽気とあれば多数の人出は当然である。資料館を見物して早々に桐生へ向かった。
 「桐生明治館」という明治11年に建てられた建物を見に行った。当初は衛生所兼医学校だったがその後小学校や役場に使われたとのことである。
 足利学校を見学できる時間に間に合うかどうか分からないが、足利へ急ぐことにした。途中かなり時間がかかったので足利学校には入れず、外から眺めただけで、隣にある鑁阿寺に行った。足利氏の居宅兼菩提寺であったというに相応しい立派なもので、境内には樹齢1000年を越す巨木がある。
 市内が一望できる織姫公園がある丘に登ってみた。織物の町ということで織姫神社があり、丘の上には古墳がある。当地出身の偉人で名誉市民・新居善太郎氏の頌徳像が立っていて、説明を読むと確かに偉人らしいが、顔はどう贔屓目で見ても田舎の小学校の校長先生以上には見えない。
 今日の宿は足利市の郊外にある「厳華園」で、足利氏の一族である中島家の屋敷である。丘の麓にある白壁と黒門・黒塀の風格ある建物で、門前の桜が満開である。ここには、渡辺華山、高野長英、佐久間象山、西郷隆盛、檀一雄、坂口安吾、武田泰淳、尾崎士郎、山本健吉等多数の名士達が来遊しているという。和室に通されたので「洋室を予約した積もりですが」というと、帳場に行って聞いてきて「今日は部屋が空いていますから、お食事をこちらでして、2階の洋室でお休み下さい」といって2階に案内してくれた。2階には洋室が2室あり「どうぞお好きなようにお使い下さい」といわれたが、1階の和室の方が遙かに良さそうだったので、折角の好意だったが和室を使うことにした。蔵を改造した部屋で廊下との境には御簾が掛けられていて、床の間には満開の桜が活けてありなかなかに風情がある。温泉ではないが風呂はいつでも入れるということだったので、先に食事をすることにした。部屋にも風呂が付いているが使えないらしい。
 「庭園と料理」を標榜するだけあって、食事は高級料亭風に一品ずつ運んできて説明をしていく。先ず、食前酒、鮪と甘海老の山掛け、雲丹豆腐、胡瓜とナメコの霙合えが並べられた。食前酒は近くの障害児学校で作っているワインである。次に、こんにゃく・舞茸・筍・麩・南瓜と里芋の炊き合わせ。次は、揚げ物で、たらの芽・とろろ芋の磯辺巻・肉詰め椎茸・がんもどき・茄子の田楽。次は、アルミフォイルの茶碗蒸し。次は、じやが薯のグラタン。次は、貝柱を餅で包んだもののあんかけ。次は、芹のおひたし。最後は、鮎の朴葉焼とゆで卵に雲丹を乗せたものに、焼きおにぎりと味噌汁。これらの料理は3人の仲居さんが代わる代わる運んで来た。
 風呂は1つであるが空いているときに入ればいい。今は空いているというので、早速行ってみた。「坂口安吾の湯 花の下には風ばかり」と書かれている。成分分析の表示がしてあるところをみると水道の水を沸かしているのではないようだ。タオルとバスタオルは脱衣場にたくさん用意してある。温泉のように常時お湯が流れていて、水位が下がると流量が増すように設定されている。

 ぐっすり寝て目が覚めたら6時頃だった。部屋の洗面所には使い捨ての歯ブラシが20本程用意されている。朝食はシャーロックホームズラウンジという名前が付いているアンティークで囲まれ鎧まで飾ってある部屋に用意されている。卵焼き、銀鱈の照焼、厚揚げと切り干し大根の煮付け、納豆、椎茸・ナメコ・菜のお浸し、海苔、漬物、御飯、味噌汁。
 朝食後に庭園を散歩した。築山があり墓地もある。石塔を見ると、男1人に女2人というのがある。
 宿を後にして、南河内町の道鏡塚へ向かった。佐野市、栃木市、国分寺町を通って東北線の小金井駅の近くで国道4号線に出て北上し、自治医科大学病院の近くにある下野薬師寺跡に辿り着いた。足利時代以降は安国寺として現在に至っているが、発掘によって当時の規模が確認されているところでは随分広大なものだったらしい。竹の密林の奥にある六角堂を見てから、700m程離れたところにある龍興寺にある道鏡塚へ行った。満開の海棠と大きな白樫の樹の後ろにある高さ3m程の小山が道鏡の古墳である。写真で見たのと立て札や柱の位置が違っているところをみると、新しく立て替えたらしい。立て札の記述が随分道鏡に好意的な内容だと思ったら「道鏡を守る会」と書かれていた。それにしても、晩年この地に流された道鏡の心境を察すると涙が出る思いである。境内に水琴窟があり水を落としてみると非常にきれいで大きなな音がする。「マイクロホンとスピーカーを埋設してあるに違いない」と疑ったが、確かめることは出来なかった。道鏡水琴窟というべきか。
 隣の石橋町に孝謙天皇神社があるというので行って見ると、真新しい神社で「孝謙天皇が道鏡を追ってこの地に来て・・・」と書かれている。廃帝された孝謙天皇が失脚した道鏡を追ってこの地に来て残り火をかき立てて燃え上がったとすれば素晴らしいことであるが、孝謙天皇に肖りたいと願う女性はいないとみえて参拝者はいなかった。
 次の訪問地は“川と蔵のある町”栃木である。餓になってきたのでどこかに入ろうと思ったが、手頃な所が見つからないまま栃木市に着いてしまったので、岡田記念館に車をおいて香取屋で三色せいろ蕎麦を食べた。大通りに出て駅に向かって歩いてみたが、確かに蔵造りの家が多いし、観光客も多い。巴波川の舟運による商業の町、日光例幣使街道の宿場町として栄えたこの街の特色は黒塀、黒壁等「黒」が多いことである。
   栃木では黒壁黒塀黒瓦
蔵の街観光館の外壁が足助で見たのと同様に簓子で押さえた黒板壁であるのに気付き店の人に聞いてみたら「今は飾りであるが、本来は火事の時に簓子を外して壁板を下に落とすようになっていた。昔は土壁だったので、直接雨が当たらないように板が必要だった」とのことであった。三河と下野で同じ建築様式が見られたのは興味深い。その向かい側に今にも崩れそうなオンボロな蔵があり金物屋を営んでいるのには驚いた。横町にある郷土参考館に入ってみた。昔は質屋だったとのことである。巴波川沿いにある塚田記念館に行って見たが、中には入らずに柳が芽吹き始めた巴波川の対岸から黒板塀と蔵の並ぶ風景を満喫した。塚田家は木材回漕問屋で、原木を筏に組んで巴波川から渡良瀬川、利根川を経て江戸の深川まで3日3晩かかって運んだという。巴波川に沿って歩き、左半分が銀行で右半分が麻問屋という横山郷土館に入ってみた。軒先の瓦斯燈や石造りの蔵が印象的。巴波川にもその支流にも鯉がたくさん泳いでいる。旧県庁に寄って、巴波川沿いに岡田記念館に戻った。先程から餓になったのか何となくふらふらするので、桜餅を買って食べた。時間の都合で別邸の「翁島」を先に見ることにした。こじんまりした2階建てであるが、廊下に欅の一枚板を使っているのを初めとして、徹底的に材木に凝っている。岡田家の本宅に戻って蔵や展示品を見学した。10年程前まで営業していたという理髪店がそのまま保存されているのも珍しかった。
 まだ5時前だったので、館林の茂林寺に寄って狸に挨拶ができるかも知れない。急いで東北自動車道に乗って館林まで行き茂林寺へ駆けつけた。少し暗くなりかけてはいたが境内に並んでいる狸達の様子は十分に拝むことが出来た。どの狸も“嚢”を地に引きずっているが、巨根ではないから皆に可愛がってもらえるのかも知れない。「ぶんぶく茶釜」の「ぶんぶく」は「文福」ではなく「分福」が正しいらしい。