影か柳か勘太郎さんか

忘月忘日 久し振りに伊那谷を訪ねてみようと思う。霜月も末とあって少々寒いかも知れないと恐れていたが、果たせるかな寒波が南下し雪が降るかも知れないという予報である。随分心配したが、起きてみたら晴れているしそれ程寒くもない。安心して9時に出発した。先月納車された車は未だ500キロ程度しか走っていないから、今回が初走行といっていい。国立・府中から中央道に入り、談合坂に寄って給油した。
 自然に呼ばれて八ヶ岳SAに寄った。富士山はかすかに見えただけだったが、八ヶ岳の眺めは素晴らしい。南アルプスの山々は既に雪を戴いている。東北出身の大師を相手に「信州では、頂上まで木に覆われているのは山とはいわない。丘である。信州人の感覚では、東北地方には山がない」と山学を展開しながら走った。
 諏訪南で下りて国道20号線を進み、茅野から国道152号線に入って杖突峠へ向かった。教科書には「杖突峠から見る諏訪の眺めは素晴らしい」と書かれているが、茶屋が眺めを独占していて、茶屋に入らないと眺めが楽しめないようになっている。諦めて152号線を南下して高遠町へ向かった。伊那は七谷・・・というがこの辺りは相当な山の中である。今年は秋の訪れが遅かったために今でも紅葉が十分に楽しめる。
 高遠では先ず町立歴史博物館を訪れた。桜シアターで高遠城趾公園の桜のビデオを見たが、城趾一帯が色の濃いコヒガンザクラで覆い尽くされている様子は実に見事である。展示室には当地出身の伊沢修二・多喜男兄弟に関する資料が多い。兄修二は大学南校出身の大秀才で、24才で愛知県師範学校の校長になり、東京音楽学校、東京高等師範学校等の校長を歴任し、弟の多喜男は和歌山・愛媛・新潟の県知事、警視総監、貴族院議員、台湾総督、東京市長、枢密顧問官等を歴任している。社会的には弟の方が出世したといえるだろうが、歴史上の人物としては兄の方が評価が高いようである。「ペンは剣より強し」というべきか。武田信玄の5男仁科五郎盛信はここで織田信長に討たれ、「信濃の国」に歌われているが、我々信州人にとっては彼を信州の偉人として讃える理由は全くない。
 高遠といえば「絵島」であるが、高遠に遠流されて28年間囚われの身として暮らした「絵島囲み屋敷」が博物館の屋外にある。絵島は
   浮世にはまた帰らめや武蔵野の月の光のかげもはづかし
と詠んでいる。
 城跡公園に登ってみたが
   高遠城花がなければただの丘
である。何も字が書かれていない大きな石碑があり、文字通り「無字の碑」と説明がある。伊沢多喜男を顕彰する碑を建てようとしたところ本人から「生存中で評価の定まらぬ者に頌徳碑などまかりならぬ」といわれてこの碑を建てたという。「天下第一桜」と書かれた大きな碑もある。
 焼きおにぎりを3個食べて昼にした。伊沢修二・多喜男兄弟の生家に寄ってから、日蓮宗蓮花寺にある絵島の墓を見に行った。絵島は日蓮宗に帰依し、遺言は「もし相果て候はば日蓮宗にて候」、戒名は信敬院妙音如大姉である。
 伊那市の春日公園に勘太郎の碑があるというので、勘太郎月夜唄を聴きながら国道361号線を西へ向かった。公園は春日城跡で小高い所にあり、天竜川の河岸段丘がきれいに見渡せる。一角に永田雅一書の「伊那の勘太郎碑」と「勘太郎月夜唄の碑」がある。勘太郎は幕末に実在した(?)人物で、やくざであったが天狗党に加わっていたというから、「形はやくざにやつれていても、月よ見てくれ心の錦」「菊は栄える葵は枯れる」等の歌詞は実に良くできている。
 冬は日の暮れるのが早い。伊那から松川まで中央道を走り、松川町役場から小渋川に沿って怪しげな県道を進んで行くとダム湖を経て大鹿村に入った。村役場から国道125号線を少し南下して狭い山道に入り、急な坂を登った所に今夜の宿「右馬允」があった。既に真っ暗になっていたが、車の気配を察して御主人が出迎えてくれた。この宿は1晩に2組しか泊めないという。既に1組は到着していて、我々は1階の2間続きの部屋に案内された。室内には炬燵と石油ストーブが置いてある。雪の心配は全くなかったが結構寒い。炬燵に入っていると、御主人のお母さんが作ったという栗の茶巾絞りが運ばれてきた。絶品である。
 部屋の向かいにある食堂へ行って見ると、低い大きな食卓が置かれている。
「これは何ですか」
「裏門の扉でした」
 成る程、よく見ると、大きな釘が付いているし、金具の跡も残っている。分厚い大きな扉である。大正年間に火事に遭ったが裏門は焼け残ったという。扉の上で食事をするのは戦場で軍議をしているような気分である。倶利伽羅峠にあった大きな石の軍議卓を思い出す。我々は先に来たために大きな扉を占領することができた。遅れてもう1組の客が登場した。見ると三十代らしい夫婦で、旦那はデブで駱駝のシャツと股引、夫人は戦後間もなくのようなヘアースタイルをしていて黄色い声で名古屋弁を喋っている。彼等は何回目からしく「この前来たときは・・・」というような話をしている。
 夕食は、馬刺、雉鍋、鯉甘煮、岩魚の蒸し焼、蜂の子・銀杏・柚入り柚餅子・葱・小鮒甘露煮、茶碗蒸、柿とアスパラの和え物、栗茸の酢の物、五平餅、ざる蕎麦等盛り沢山であった。五平餅は篦状かと思っていたら地域によって違うらしく、ここのは丸かった。
 大鹿村は後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が30余年を過ごした所だという。宗良親王といえば園原の箒木の所に歌碑
   まれに待つ都のつても絶えねとや木曾の神坂を雪埋むなり
があったのを思い出す。園原では宗良親王に何の感慨もなかったが、ここに来てみて、神坂峠を越えて大鹿村に来た親王の悲しい姿が目に浮かぶ。若くして天台座主になり、征夷大将軍になり、歌道にも明るかった親王は兄たちに疎まれたのではないだろうか。その後この地は幕府の直轄領となり、馬や岩塩の産地だったという。「右馬允」というのは役職名だったらしい。そういえば「左馬助」等というのもあったっけ。当地では今でも岩塩が少量採れているという。
 風呂は立派な檜風呂である。風呂から上がって部屋に戻ってみると、お茶と大きなリンゴが用意されていて、布団が敷かれている。こんな薄い布団では寒くて寝られないと思ってよく見ると、電気シーツである。

 朝食は、岩魚の一夜干、油揚げの納豆詰、生卵、朴葉味噌、野菜サラダ、海苔、梅干、漬け物、御飯、味噌汁である。部屋に戻って昨夜食べなかったリンゴを食べた。
 支度をして庭に出てみると、我々の泊まった部屋に「梟鳴庵」という看板が掛かっている。昔は造り酒屋だったというだけあって、軒先には古びた杉玉が懸けられているし、蔵が幾つもある。綺麗な紅葉の落ち葉が敷き詰められた庭の一角にはかなり大きな稲荷もある。その昔大いに羽振りが良かったらしく、吉原の大門を閉めたのは紀文と右馬允だけだといわれているそうである。現在の当主前島幸雄氏は38代目だという。「家内が交通事故で入院中ですので行き届きませんで・・・」といわれたが、全く不満のないもてなしを受けることができた。
 大鹿村には中央構造線博物館がある。鄙には稀な博物館である。10時の開館を待って10人程が入館した。展示を見て驚いた。何と!中央構造線は日本を東西に走っているではないか!中央構造線は糸魚川と静岡を結ぶ断層のことだと思い込んでいた。「中央」という名前から極自然にそのように思っていたのである。皆から散々馬鹿にされた。
 直ぐ近くにある重要文化財松下家の住宅を見て、国道152号線「秋葉街道」を南下した。地図では上村との境にある地蔵峠が越えられないようになっているが、右馬允の御主人の話では「全部舗装されましたから大丈夫です」とのことだったので、行って見ることにした。騙されたのではないかと心配になるような酷道を進んで行くと、村外れの安康という所に出た。ここでは中央構造線の露頭が見られる。中央構造線は大体において東西に走っているが、この辺りでは北に盛り上がる形になって南北に走っているので、我々は昨日からずっと中央構造線に沿って走ってきたことになる。地蔵峠は舗装されたばかりの立派な道だった。更に秋葉街道を進んで上村から南信濃村に入り、遠山郷土館和田城に寄ってみた。徳川家康と遠山土佐守の対面像に参加して“3人で”写真を撮った。「出陣炊き出し釜」という風呂桶よりも大きな釜があった。
 国道418号線に入って天龍村に行き、先ず役場に寄ってみた。随分立派であり、「村民憲章」の碑も立っている。次に、天龍村立天龍中学校に行った見た。天竜川沿いのなかなかいい場所にある。
 更に418号線を西に進んで大河内へ向かったが、これが又酷道である。「おきよめの湯」に入っていこうかと思ったが、超満員だったので割愛して大河内へ向かった。坂道を登って分教場跡に着いた。海抜855m、東経137.45、北緯35.14と書かれている。当然ながら記念碑と寄付者名碑は前回のままである。Lincoln の生家を訪ねてみたら、軽自動車が停まっていて姉上一家とおぼしき人達が掃除をしていた。西開土百貨店によってフィルムと干芋を買った。店の前には「史跡お萬様」という案内板があり、前回から気になっていたが雪がちらついてきたので割愛した。走り出そうとしたら、一人が「怪しい石がある」という。見れば店の玄関前に3個並んでいる庭石の一つが「道鏡石」である。早速写真を撮った。
 国道151号線を北上して下條村から県道に入り、阿智村駒場にある廣拯山長岳寺を訪ねた。ここは武田信玄終焉の地といわれている。着いて車から降りようとしたら手提げ鞄がない!「しまった!大河内に置き忘れた!」分教場跡で写真を撮るときに下に置いたまま忘れてきたのだ。已んぬる哉!あの中には財布や免許証が入っている。直ぐに引き返さなければならない。折角ここまで来たから、大急ぎで見物し、写真を撮った。境内には武田信玄公灰塚の13重の塔や新田次郎の句碑
   木枯やいまはた遠き信玄公火葬塚
がある。この句は一見字余りに見えるが、「信玄公火葬塚」は「かそうづか」と仮名が振ってある。
 大急ぎで先程の道を引き返し、新野峠側から大河内に入った。当地の主要産業であったLincoln の伯父上が経営する漁業が全滅している様子を見ながら祈るような気持で分教場跡へ向かった。Lincoln の家には既に軽自動車はいなかった。分教場跡に着いて見ると、鞄は先程置いたままの状態であった。よかった!よかった!大河内は治安の良いところである。図らずもこれで大河内を3回訪れたことになる。
 長岳寺の後飯田を見物する予定だったが、鞄を置き忘れたためにすっかり遅くなってしまった。暗くなりかけているので、予定を変更して「おきよめの湯」に入っていくことにした。先程通ったときに比べるとかなり車が少なくなっていた。早速入湯して、五平餅とラーメンを食べた。ここの五平餅は篦状であり、前回も食べて美味しいことが分かっていたが、こういう所のラーメンは美味しくないだろうと思って恐る恐る頼んでみたら、意外に美味しかった。