目が覚めてみると雨は止んでいたが、雲が垂れ込めている。午後は自衛隊の航空観閲式が予定されていて、それに出席することにしているが、この空模様では実施されるのかどうかがはっきりしない。8時30分にラジオで「予定通り決行」との放送があったので、それに合わせて行動しなければならない。我ながら物好きだという気もするが、折角の招待だから後学のために行って見ようと思う。
東海村の原子力関係の施設を右に見ながら国道245号線を北上し、久慈川を渡った所で国道293号線に入って、常陸太田市に向かった。先ず正宗寺へ行って、「助さん」こと佐佐介三郎宗淳の墓参りをした。「十竹居士佐佐君之墓」と書かれた小さな石塔に草鞋が供えられていた。「助さん」は15才で京都妙心寺の禅僧となったが、後に還俗し35才で光圀公に仕え『大日本史』編纂所「彰考館」の教授になり、資料蒐集のために関西、九州、中国、北陸などを訪問している。光圀公の命を受けて湊川に楠公の碑を建てたのも「助さん」である。後に「彰考館」総裁になっているが、黄門様と「格さん」とで諸国を漫遊したことはない。前回「格さん」の墓参りをしたときにも、茨城の墓の特徴を幾つか「発見」したが、今回も配偶者の碑銘に「夫人」「婦人」「内助」「配」などが使われているのが珍しかった。
次に、光圀公の墓参りをしようと瑞龍山を訪ねてみたら、「管理人高齢化のため6月1日より公開休止」となっている。事務所の番をしているおじさんはそれ程高齢ではなさそうに見えるのだが・・・。
残念ながら御老公の墓参りは他日を期すことにして、西山荘へ行った。光圀公が1691年から1700年に没するまでの晩年を過ごした隠居所である。質素な茅葺屋根の木造平屋建で、御老公は書斎の丸窓から築山や心字池を眺めたことだろう。屋根のてっぺんに草が生えているので「人手不足で手入れが行き届かないのか」と思ったが、そうではなく、根張りによって屋根の崩れを防ぎ、乾燥状態を見ることによって火災防止に役立てるために植えた「いちはつ」だという。ここは「大日本史」編さん事業の監修が行われた場所である。創建当時は現在の3倍程の規模だったという。資料コーナーには「大日本史草稿本」が展示されている。御老公直筆の書も展示されているが、字は上手いとはいえない。光圀公といえば「水戸黄門漫遊記」が余りにも有名であるが、実際に黄門様が歩いたのは、北は勿来の関、東は銚子、南は安房勝山と鎌倉、西は日光の範囲である。領内は隈無く巡見しているが、「諸国漫遊」は事実ではない。「水戸黄門漫遊せず」が史実である。因みに「黄門」という呼び名は、光圀公が隠居したときに任じられた権中納言が唐代の官職「黄門」に相当することによる。水戸家には光圀公を含めて歴代7人の権中納言即ち黄門がいる。建物は質素であるが、敷地は広大で、竹林、杉、梅、かりん、山査子などが茂っている。「学問に励めば梅が咲く」という晉の武帝の故事に因んで、光圀公は窓際に梅を植えたという。ついでながら水戸の偕楽園にある「好文亭」は梅の別名「好文」に因んで付けられた名前である。御老公が耕したという門前の御前田には収穫された稲が掛けられていた。きれいな写真集が売られていたので1200円で買った。
国道6号線を南下して水戸の弘道館へ行った。水戸には今までに何回も来ているが、弘道館には行ったことがなかった。第3日曜日は「家庭の日」ということで、入場料が安い。100円である。約17.8haの敷地を有し、江戸時代最大の藩校として知られる弘道館は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公によって1841年に創設された。斉昭公は、藩主になると内外の困難を打開するために徹底的な藩政改革を行ったが、その際の最重要政策が、実践的で有為な人材を養成するための藩校の設立だったという。弘道館では教科内容が極めて多彩で、兵学、漢学、和学から天文、地理、数学、医学など広汎に及んでいた。本邦初の総合大学というべきか。教授達の肖像画や教科書、学則、松延年筆の「尊攘」の額、斉昭公筆の「游於藝」の額、大日本史などが展示されている。第15代将軍慶喜公も幼少期ここに学び、大政奉還の後館内の至善堂に謹慎した。
航空観閲式の時間が近付いてきたので、大急ぎで着替えをして、小川町にある百里基地へ向かった。正面ゲート近くまで来たら渋滞していて動かない。どうやら右翼が来て通行の邪魔をしているらしい。裏門を開けて導入され、金属探知器で車輌検査を受けてから、会場近くに設けられている駐車場まで基地内を走った。会場には入れずに柵外から見物しようとして待機している人も大勢いる。駐車場に着いたら、案内係が受付まで誘導してくれた。そこで空港より遙かに厳重な検査を受けた。特に身体検査は厳重で、女性自衛官に全身を隈無くチェックされた。爆発物や凶器を隠し持っていないかどうかを調べているのであろう。「この方はミサイルを所有していますが、玩具のような物で爆発力、飛距離など全く危険はないと思われます」などと報告されなくてよかった! 検査が終わり、使い捨てのカイロやレインコートなどをもらいリボンを付けて、やっと会場に入ることが出来た。時間になったので国歌が流れ、国旗の掲揚が行われている。観覧席まで別な案内係が付いてきてくれて、横に長く設けられている観覧席のほぼ真ん中の一等席に案内された。総理大臣達の席の斜め後ろである。今日は約8000人が来場しているという。間もなく輸送機、戦闘機、偵察機などが飛来して低空飛行で眼前を通過し、最後に政府専用機が飛来した。小泉首相による観閲式が終了した後、飛行展示が行われる予定であったが、天候不良のため、F15戦闘機とF4戦闘機の滑走とF15戦闘機2機の離陸が行われただけで本日の式典が終了となった。飛行展示が見られなかったのは残念だったが、F15戦闘機の離陸は迫力があった。旅客機の離陸とは全く別物である。地上展示されているF15戦闘機を見学したが、コックピットが狭いのに驚いた。幸いにして雨に降られることなく式典が終了した。この空模様にも拘わらず「決行」と決断した司令官の適切な判断に敬意を表しつつ基地を後にした。
既に日暮れ間近になっていたので、帰ることにして走り出したところで、「折角ここまで来たから佐原に寄っていこう」ということになり、常磐道の千代田・石岡に向かって右折すべきところを左折して国道355号線を霞ヶ浦に沿って南下した。土浦一高の校歌に「空の碧をさながらに 湛へて寄する漣波は 終古渝らぬ霞浦の水」「霞ヶ浦のいや広く」と歌われている霞ヶ浦は日本3大湖の第2位だけあって、流石に大きい。残念ながら泣き出しそうな空模様で「葦の枯葉に秋立てば 渡る雁声冴えて 湖心に澄むや月の影」というわけにはいかなかった。北利根橋で常陸利根川を渡って横利根川沿いに国道51号線を進み、新水郷大橋で利根川を渡れば佐原である。「この前に寄った鰻屋へ行こう」といって、記憶を辿って歩いたがなかなかそれらしい匂いがしてこない。「誰かに聞いてみよう」「店の名前が分からないから聞きようがない」と言っているうちに、記憶が蘇ってきた。店の名前は「山田」だった。「鰻重とじか重があった。じか重というのが珍しいので覚えている」などと言いながら歩いていくと、遠くに「山田」という看板が見えた。創業300年の「山田」は以前のままで、蒲焼きと御飯が別々になっているのが「鰻重」、御飯の上に蒲焼きが乗っているのが「じか重」であり、値段は同じである。前回は「上」を食べたと記憶しているが、今回は「上」が売り切れだったので「並」で我慢した。
佐原に来たからには「大利根月夜」の歌碑に敬意を表さずに帰るわけにはいかない。歌碑は小野川沿いの線路に近い小さな公園「入船緑地親水広場」にある。