水戸黄門漫遊せず

忘月忘日 黄門様の国を訪れてみようと思い立った。天気予報は「土曜日の夜から日曜日にかけて雨」といっている。7時40分に家を出て国立府中から中央道に入り、首都高速6号線を経由して常磐道に入った。幸いにして渋滞がなく、順調に都内を抜けることが出来た。「自然」に呼ばれたので守谷で休憩して団子とお茶を仕入れた。常磐道を谷和原で下りて、水海道市にある一言主神社を訪れた。ナビゲーターの指示に従って辿り着いた所は裏門だった。809年の創建と伝えられるこの神社の祭神は一言主神、別名を事代主神といい、言行一致の神として知られている。境内には欅や藪椿の巨木があり、神さびた雰囲気を醸し出している。おばさんが店を出して霞ヶ浦特産の川エビや菊の鉢植えなどを売っている。社伝によれば、809年11月13日に今の社殿のある辺りに奇しい光が現れて、数夜の後に雪の中に忽然と筍が生じ、三岐の竹となったという。その後も時折三岐の竹が生えたので「三竹山」と呼ばれるようになったそうである。霊竹殿のガラス張りの中には既に枯れている三岐の竹が7本飾られており、庭には現役の三岐の竹が2本植えられている。縁結び社に参拝してみると社に小さな釘が何本か打ってあり、それに紐のついた勾玉が下げられていた。殆ど枯れかかっていてほんの少しだけ枝葉が残っている「スダジイ」というぶな科の巨木におみくじが結ばれている。それにしても「スダジイ」とは妙な名前である。
 次に大生郷天満宮へ行ってみた。大生郷は「おおのごう」と読む。何故かここも裏門から入ることになった。926年の創建というから一言主神社ほどではないが十分古い神社である。「日本三大天神」といわれているらしいが、恐らく1、2、3、3、3、3、・・・に違いない。即ち、1番が太宰府、2番が北野、その他は全て3番ということだろう。菅原道真公御神忌千百年大祭事業として、総事業費2億円で菅公廟などを建設しているところだった。菅公廟はほぼ完成しているらしかったが何とも安っぽい印象のものである。天神様といえば学問の神様として「合格祈願」「学業成就」などが専門だとばかり思っていたら、ここの天神様は家内安全、交通安全、商売繁盛、成長祈願、病気平癒、厄除等々実に多岐にわたって御利益があるらしい。昨今は神様も多角経営に努めているということか。親鸞上人が立ち寄った際に植えたという杉の枯れ木が「親鸞上人礼拝の杉」として保存されている。明治35年の台風で折れ、大正8年の社殿炎上の際に類焼したという。
 岩井市の国王神社を訪ねてみた。平将門を祀る神社であるが、茅葺き屋根がかなりボロボロになっている。将門の3女如蔵尼が刻んだと伝えられる将門の木像が秘蔵されているという。
 石下町の地域交流センターである豊田城は大阪城を小型にしたような5層7階建ての天守閣モドキである。前に当地出身の長塚節の像が立っている。将門公苑に行こうと思って石下町民俗資料館に行ってみたら何と潰れていた。
 下妻市に向かう途中で将門川を渡った。小川に毛が生えた程度の川であるが、橋に書かれている「将門川」の表示が目にとまった。川縁には蘆が茂っているが、セイタカアワダチソウが蔓延って黄色い花が咲き乱れている。今回通った所は何処もセイタカアワダチソウの花盛りであった。密生して一面に黄色の花が咲いているのはきれいではあるが、その繁殖力には恐れ入谷の鬼子母神である。セイタカアワダチソウの花言葉は「生命力」だそうだが、この分では茨城県は遠からずセイタカアワダチソウに制覇されてしまうのではなかろうか。
 下妻市の大宝八幡に行って驚いたことには門前の客引きの凄さである。門前に近付いたら威勢良く駐車の誘導をされた。何のことはない、2軒の土産物屋が自分の駐車場に停めさせようと必死に誘導合戦をしたのである。勢いにつられて手前にある「なべや」の前に停めた。この神社は誉田別命、足仲彦命、息長足姫命が祭神である。境内では11月1日から始まる菊祭のための作品が既にかなり展示されているが、未だ花は咲いていない。本殿までの間に9対の狛犬が並んでいる。何れも中国式に、左側の雌は子供を、右側の雄は玉を踏んでいる。高橋虫麻呂と大舎人部千文の真新しい万葉歌碑が並んでいる。八坂、愛宕、浅間、春日、道祖などの神社のエイリアスが並んでいる間に、直径150cm位の大きな釜が置いてあった。社務所の前には大きな恵比寿・大黒が並んでいる。帰ろうとして出てきたら、「えびすや」と「「なべや」のオバサン達の客引き攻めに遭ったが、一宿一飯の恩義がある「なべや」に寄った。すかさず団子とお茶を出された。団子を勧められたが、350円の蕎麦せんべいを買ってお茶を濁した。下妻市立大宝小学校は大宝神社の鳥居の内側にあるが、文句を言う人がいないのかしら。
 真壁町の公民館に車を停めて、古い造りの家が残る町を歩いてみた。村井酒造という老舗の造り酒屋が目にとまった。「公明」という名前の酒を醸造している。恐らく、社長が信者に違いないが、面白いので清酒一本と名入りのぐい飲みを買った。後日信者の友人に進呈して驚かしてやろうと思うが、彼の住む土浦と真壁は筑波山を挟んで隣町であるから、ひょっとしてお互いに旧知の間柄かも知れない。「沃野一望数百里 関八州の重鎮とて そそり立ちたり筑波山」と土浦一高の校歌に歌われている筑波山は、残念ながら今日は雲に隠れて頂上までは見えない。それにしても、信者でない者がこの酒を飲めばきっと悪酔いするに違いない。
 真壁町から大和村にかけて石材店が並んでいる。何十軒あるか分らないが、大変な数である。中にはとんでもなく大きな石灯籠を飾っている所もある。近くの山を見ると石を切り出しているらしい所があるが、これ程多数の石材店があれば、程なく山が姿を消してしまうのではないだろうか。大和村には雨引山楽法寺、即ち雨引観音がある。坂東観音霊場第24番札所であり、587年に梁の国からの帰化人法輪独守居士によって開かれたという。2層の多宝塔がある。境内に直径が3m程もある「宿椎(スダジイ)」の巨木がある。一言主神社のスダジイより遙かに大きく、葉が生い茂っている。
 笠間稲荷を訪ねた。町の中にあるので駐車場も有料である。500円。日本三大稲荷の一つといわれている。伏見、豊川、祐徳などが有名であるが、天満宮ほど序列がはっきりしないのではないかしら。651年の創建というから1350年も前のものである。祭神は稲荷大神即ち宇迦之御魂神で食物の神様であり、狐は神使である。境内では今日から菊祭が始まっている。すっかり暗くなったので、本日の見学はこれでお仕舞いということにした。

 目が覚めてみると雨は止んでいたが、雲が垂れ込めている。午後は自衛隊の航空観閲式が予定されていて、それに出席することにしているが、この空模様では実施されるのかどうかがはっきりしない。8時30分にラジオで「予定通り決行」との放送があったので、それに合わせて行動しなければならない。我ながら物好きだという気もするが、折角の招待だから後学のために行って見ようと思う。
 東海村の原子力関係の施設を右に見ながら国道245号線を北上し、久慈川を渡った所で国道293号線に入って、常陸太田市に向かった。先ず正宗寺へ行って、「助さん」こと佐佐介三郎宗淳の墓参りをした。「十竹居士佐佐君之墓」と書かれた小さな石塔に草鞋が供えられていた。「助さん」は15才で京都妙心寺の禅僧となったが、後に還俗し35才で光圀公に仕え『大日本史』編纂所「彰考館」の教授になり、資料蒐集のために関西、九州、中国、北陸などを訪問している。光圀公の命を受けて湊川に楠公の碑を建てたのも「助さん」である。後に「彰考館」総裁になっているが、黄門様と「格さん」とで諸国を漫遊したことはない。前回「格さん」の墓参りをしたときにも、茨城の墓の特徴を幾つか「発見」したが、今回も配偶者の碑銘に「夫人」「婦人」「内助」「配」などが使われているのが珍しかった。
 次に、光圀公の墓参りをしようと瑞龍山を訪ねてみたら、「管理人高齢化のため6月1日より公開休止」となっている。事務所の番をしているおじさんはそれ程高齢ではなさそうに見えるのだが・・・。
 残念ながら御老公の墓参りは他日を期すことにして、西山荘へ行った。光圀公が1691年から1700年に没するまでの晩年を過ごした隠居所である。質素な茅葺屋根の木造平屋建で、御老公は書斎の丸窓から築山や心字池を眺めたことだろう。屋根のてっぺんに草が生えているので「人手不足で手入れが行き届かないのか」と思ったが、そうではなく、根張りによって屋根の崩れを防ぎ、乾燥状態を見ることによって火災防止に役立てるために植えた「いちはつ」だという。ここは「大日本史」編さん事業の監修が行われた場所である。創建当時は現在の3倍程の規模だったという。資料コーナーには「大日本史草稿本」が展示されている。御老公直筆の書も展示されているが、字は上手いとはいえない。光圀公といえば「水戸黄門漫遊記」が余りにも有名であるが、実際に黄門様が歩いたのは、北は勿来の関、東は銚子、南は安房勝山と鎌倉、西は日光の範囲である。領内は隈無く巡見しているが、「諸国漫遊」は事実ではない。「水戸黄門漫遊せず」が史実である。因みに「黄門」という呼び名は、光圀公が隠居したときに任じられた権中納言が唐代の官職「黄門」に相当することによる。水戸家には光圀公を含めて歴代7人の権中納言即ち黄門がいる。建物は質素であるが、敷地は広大で、竹林、杉、梅、かりん、山査子などが茂っている。「学問に励めば梅が咲く」という晉の武帝の故事に因んで、光圀公は窓際に梅を植えたという。ついでながら水戸の偕楽園にある「好文亭」は梅の別名「好文」に因んで付けられた名前である。御老公が耕したという門前の御前田には収穫された稲が掛けられていた。きれいな写真集が売られていたので1200円で買った。
 国道6号線を南下して水戸の弘道館へ行った。水戸には今までに何回も来ているが、弘道館には行ったことがなかった。第3日曜日は「家庭の日」ということで、入場料が安い。100円である。約17.8haの敷地を有し、江戸時代最大の藩校として知られる弘道館は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公によって1841年に創設された。斉昭公は、藩主になると内外の困難を打開するために徹底的な藩政改革を行ったが、その際の最重要政策が、実践的で有為な人材を養成するための藩校の設立だったという。弘道館では教科内容が極めて多彩で、兵学、漢学、和学から天文、地理、数学、医学など広汎に及んでいた。本邦初の総合大学というべきか。教授達の肖像画や教科書、学則、松延年筆の「尊攘」の額、斉昭公筆の「游於藝」の額、大日本史などが展示されている。第15代将軍慶喜公も幼少期ここに学び、大政奉還の後館内の至善堂に謹慎した。
 航空観閲式の時間が近付いてきたので、大急ぎで着替えをして、小川町にある百里基地へ向かった。正面ゲート近くまで来たら渋滞していて動かない。どうやら右翼が来て通行の邪魔をしているらしい。裏門を開けて導入され、金属探知器で車輌検査を受けてから、会場近くに設けられている駐車場まで基地内を走った。会場には入れずに柵外から見物しようとして待機している人も大勢いる。駐車場に着いたら、案内係が受付まで誘導してくれた。そこで空港より遙かに厳重な検査を受けた。特に身体検査は厳重で、女性自衛官に全身を隈無くチェックされた。爆発物や凶器を隠し持っていないかどうかを調べているのであろう。「この方はミサイルを所有していますが、玩具のような物で爆発力、飛距離など全く危険はないと思われます」などと報告されなくてよかった! 検査が終わり、使い捨てのカイロやレインコートなどをもらいリボンを付けて、やっと会場に入ることが出来た。時間になったので国歌が流れ、国旗の掲揚が行われている。観覧席まで別な案内係が付いてきてくれて、横に長く設けられている観覧席のほぼ真ん中の一等席に案内された。総理大臣達の席の斜め後ろである。今日は約8000人が来場しているという。間もなく輸送機、戦闘機、偵察機などが飛来して低空飛行で眼前を通過し、最後に政府専用機が飛来した。小泉首相による観閲式が終了した後、飛行展示が行われる予定であったが、天候不良のため、F15戦闘機とF4戦闘機の滑走とF15戦闘機2機の離陸が行われただけで本日の式典が終了となった。飛行展示が見られなかったのは残念だったが、F15戦闘機の離陸は迫力があった。旅客機の離陸とは全く別物である。地上展示されているF15戦闘機を見学したが、コックピットが狭いのに驚いた。幸いにして雨に降られることなく式典が終了した。この空模様にも拘わらず「決行」と決断した司令官の適切な判断に敬意を表しつつ基地を後にした。
 既に日暮れ間近になっていたので、帰ることにして走り出したところで、「折角ここまで来たから佐原に寄っていこう」ということになり、常磐道の千代田・石岡に向かって右折すべきところを左折して国道355号線を霞ヶ浦に沿って南下した。土浦一高の校歌に「空の碧をさながらに 湛へて寄する漣波は 終古渝らぬ霞浦の水」「霞ヶ浦のいや広く」と歌われている霞ヶ浦は日本3大湖の第2位だけあって、流石に大きい。残念ながら泣き出しそうな空模様で「葦の枯葉に秋立てば 渡る雁声冴えて 湖心に澄むや月の影」というわけにはいかなかった。北利根橋で常陸利根川を渡って横利根川沿いに国道51号線を進み、新水郷大橋で利根川を渡れば佐原である。「この前に寄った鰻屋へ行こう」といって、記憶を辿って歩いたがなかなかそれらしい匂いがしてこない。「誰かに聞いてみよう」「店の名前が分からないから聞きようがない」と言っているうちに、記憶が蘇ってきた。店の名前は「山田」だった。「鰻重とじか重があった。じか重というのが珍しいので覚えている」などと言いながら歩いていくと、遠くに「山田」という看板が見えた。創業300年の「山田」は以前のままで、蒲焼きと御飯が別々になっているのが「鰻重」、御飯の上に蒲焼きが乗っているのが「じか重」であり、値段は同じである。前回は「上」を食べたと記憶しているが、今回は「上」が売り切れだったので「並」で我慢した。
 佐原に来たからには「大利根月夜」の歌碑に敬意を表さずに帰るわけにはいかない。歌碑は小野川沿いの線路に近い小さな公園「入船緑地親水広場」にある。