日本全国を念頭に置いて作られている我が母校の校歌にはスケールの点で及ばないけれども、実に格調高い歌詞である。尚、現在は「五百」を「一千」に替えているらしい。校 歌
作詞 堀越 晋 作曲 尾崎 楠馬 1 沃野一望数百里 関八州の重鎮とて そそり立ちたり筑波山 空の碧をさながらに 湛へて寄する漣波は 終古渝らぬ霞浦の水 2 春の彌生は桜川 其の源の香を載せて 流に浮ぶ花筏 葦の枯葉に秋立てば 渡る雁声冴えて 湖心に澄むや月の影 3 此の山水の美を享けて 我に寛雅の度量あり 此の秀麗の気を享けて 我に至誠の精神あり 東国男児の血を享けて 我に武勇の気魄あり 4 筑波の山のいや高く 霞ヶ浦のいや広く 嗚呼桜水の旗立てて わが校風を輝かせ 亀城五百の健男児 亀城五百の健男児
宿の玄関の前には
松風の毎日わたる太平洋
という駄句の碑がある。宿の隣には海抜21.2mの天妃山があり、その頂には弟橘媛神社があるが、参拝は省略した。直ぐ近くに「吉田松陰先生遊歴之地」の碑がある。
下田にて松陰芯まで疲れ果て
というのは良く知られているが、松陰先生が天妃山まで来たとは知らなかった。
国道を渡った先に野口雨情の生家がある。瓦葺きの立派な家が新・旧2棟並んでいる。古い方の家は、明治10年頃に、野口雨情の父野口量平によって建てられたもので、雨情は明治15年にここで生まれ、15才頃に上京するまで育ったという。現在は子孫が居住している。新しい方が資料館である。「10時から」と書いてあり、時計を見たら9時20分だったので諦めて帰ろうと思ったが、玄関が開いているので覗いていたら、御主人が現れて「どうぞ」というので入館料100円を払って中に入った。雨情作詞の童謡をバックに「雨情は3000曲ほど作詞した」というような説明を聞きながら資料を見ていると、もう一組見学者が現れた。野口雨情と中山晋平のCDがあり、記念にどちらかを買おうと迷っていたら威勢のいいオバサンが登場して「中山晋平の方が曲数も多いし歌手も良い・・・」と自信たっぷりに勧めてくれたので、野口雨情記念館ではあるが中山晋平の方を買った。晋平が3000円、雨情が2500円であるが、晋平は信州人であるから、晋平を選ぶに躊躇うことはない。辺りが騒がしくなったと思ったら団体客が到着した。ガイドは「本日は特別に雨情の孫の不二子さんが説明して下さいます」と言っている。先程の威勢のいいオバサンが不二子さんだった。不二子さんは「雨情の孫は何人もいますが、私がこの家を継いでいる直系の孫です」と前置きして、説明を始めた。このやり手の孫の才覚でこの立派な資料館が建てられたのだろうが、それにしても100円の入場料は安い。野口家の系図によれば、雨情の先祖は楠正成の弟正季である。「青葉繁れる桜井の・・・心残りはあらずやと 兄の言葉に弟は これ皆かねての覚悟なり 何か嘆かん今更に・・・水泡と消えし兄弟の 清き心は湊川」を歌いながら雨情生家を後にした。
国道6号線を北上して五浦海岸に行き、茨城大学五浦美術文化研究所を訪れた。五浦は「いづら」と読み、五浦海岸は「いつうらかいがん」と読むらしい。ここ五浦は日本美術院が移転してきたことによって岡倉天心、横山大観、菱田春草、木村武山等が美術活動に勤しんだ地であり、日本近代美術史を彩る舞台である。天心記念館に展示されている大観、春草、観山、武山が並んで絵を描いている写真は壮観である。天心邸の前には横山大観が揮毫した「亜細亜ハ一な里」の大きな碑がある。海を見下ろす崖の上には天心が尊敬する杜甫の草堂に倣って作ったという「六角堂」が建っている。
袋田の滝へ向かって走り出したが、「ここまで来たからには「な来そ」といわれても勿来関に寄らないわけにはいかない」ということになり、山桜を見に勿来の関へ行った。県境を越えてほんの一走りである。福島県に入った途端に巨大な鬼瓦を載せた立派な家があった。陸奥が板東に向かって睨みを利かせる意味があるのかも知れない。関に着いてソフトクリームを食べてから、勿来関文学歴史館に入った。前回訪れたときには改修中ということで入れなかったので、再訪を期していたのであるが、入ってみてがっかりした。勿来関に係わりのあるものは短歌だけである。園原、大鹿以来親しみを感じている宗良親王の
あつま路とききしなこその関をしも我か故郷に誰かすゑけむ (李花集)
が目にとまった位のものだった。飾り付けや照明に工夫を凝らした積もりらしいが、凡そ勿来の関に相応しいものではなく、悪趣味の極みである。これなら外に並んでいる歌碑を見る方が遙かに風情がある。近世の関所(横川関所文書の世界)展と称する特別展示があり、昔のパスポート(通行手形)や旅日記などが展示されていた。文学歴史館にはがっかりしたが、きれいに咲いている八重桜を楽しむことが出来た。今年は春の訪れが異常に早かったので、山桜は既に葉桜になっていたが、八重桜は満開だった。
吹く風を勿来関と思へども道もせに散る山桜かな 源義家
前に来たときにも、勿来関が何故海岸ではなく山の上にあるのか不思議に思ったが、その後もこの謎は解けていなかった。先程来るときに、国道から曲がる所に「古関蹟」と書かれた碑があったのが目に付いたので、文学歴史館の窓口で訊いてみたら、「江戸時代からは山の上にあったが、その前は海岸にあったという説もある」という説明をして、簡単な資料をくれた。それによれば、紀貫之の
をしめどもとまりもあへず行く春を名こその山の関もとめなん
の歌もあるから、随分昔から山の上にあったのかも知れない。「文学歴史館」というからには、こういうものをこそ展示すべきである。帰りに国道沿いにある「古関蹟」と長塚節の駄歌碑を見て、6号線を南下した。
雨情の「波浮の港」のモデルだといわれる平潟港ににある鈴木主水屋敷に寄ってみた。海岸通に「主水屋敷 霽雲閣 裏千家茶の湯 小原流いけ花教室 岸宗園」と書いた看板が出ていて、少し坂を登った所に茅葺きの家がある。見たところ茅葺きであること以外は何の変哲もない普通の家屋である。人の気配もないので一旦坂を下りて海岸縁で世間話をしていたお婆さんに「主水屋敷と言うのはあそこですか。誰もいないようですが。鈴木主水とはどういう方ですか?」と訊ねてみたら「私ら子供の頃からもんど様もんど様って言ってね。さてね、江戸時代のお侍さんなんでねえべかね。岸さんは茶の湯教えてるから留守にしていることが多いのじゃないかね」ということだった。帰ってから調べてみたら、頼房が藩主の時初代主水を襲名した当主が、不公平過ぎる藩政に憤り脱藩してここに住居を移したという。口説節「鈴木主水という侍は、女房持ちにて二人の子供、二人子供のあるその中で、今日も明日もと女郎買いばかり、・・・」の鈴木主水とは全くの別人である。入口に「北白川宮御上陸遺蹟」の石柱が立っているのは、戊辰の役の際、会津へ向かう輪王寺宮(北白川宮能久親王)が平潟港に上陸し、この屋敷で休息したことによる。
あちこち寄り道したが、いよいよ袋田の滝へ向かうことにしよう。6号線を南下し、高萩から右折して461号線に入り、茨城県観光百選第2位の花貫ダムで一休みして眠気を覚まし、国道ではあるが「対向車が来たらどうしよう」というような所が屡々ある山道を走り、久慈郡里美村を抜けて水府村に入った。「先に竜神峡に寄った方が良さそうだ」ということで、県道50号線を南下して竜神峡大吊橋に行ってみた。橋に近い駐車場は並んで待っている車がかなりいたので諦めて、少し下にある駐車場に停めて歩いた。龍神川を堰き止める龍神ダムの上に架けられた長さ375mの吊橋は歩行者専用の吊橋としては日本一の長さだそうであるが、それにしても随分立派な橋である。高さが100mというからダムの水面が遙か下に見える。橋を渡った向こう側は行き止まりであるから、完全に観光用に造られたものらしい。橋もさることながら、谷を跨いで橋に並行に張られた2本のロープに吊り下げられている800匹の鯉幟が圧巻である。どうやって吊り下げたのだろうか。雨が降り始めたので急いで車に戻って、袋田の滝へ急いだ。
車を駐車場に停めて、傘を差して滝に向かった。餓になったので滝の入口の前にある茶店によって味噌焼き串団子を食べた。円盤形の団子が3個と小さな蒟蒻が一切れ刺してあって、なかなか美味しかった。「サービスです」と言って出された蒟蒻の刺身もなかなか良かった。300円払ってトンネルに入って行くと、先ず観音様があり、一番奥には不動様が祀られていて、その右が開けていて目の前に滝がある。滝は、高さ120m、幅73mで、岩壁を4段に落下することから、別名「四度の滝」とも呼ばれているが、一説には、その昔西行法師がこの地を訪れた際「この滝は四季に一度ずつ来て見なければ真の風趣は味わえない」と絶賛したことによるとも伝えられているという。今は春の新緑がきれいだが、秋の紅葉も素晴らしいに違いないし、結氷期には全く違った趣を呈するだろう。トンネルの出口は滝の一番下の高さにあるので、一番上の段はよく見えない。小さな吊橋を渡った対岸に階段が付いていて、上に登れば滝を見下ろすことが出来るというが、雨が降っているので割愛することにした。外に出て見たら、トンネルは1979年の開通で276.6mと書いてあった。
水郡線に沿って国道118号線を南下して山方町役場を右折して緒川村松之草に行き、風車の弥七の墓に参拝した。道路脇の石垣の上に弥七の墓と女房お新の墓が並んでいる。煎餅の入っていた金属の箱に解説文が入っていた。それによると、松之草に小八兵衛という盗賊の頭領がいて、捕らえられたが、光圀によって助命され、隠密となって光圀に仕えたという。道路を挟んだ畑には「弥七・お新の住居跡」という柱が立っている。隣の松之草分教場跡地に建てられている真新しい便所には「弥七」「お新」の札が掛けられている。
同じ緒川村にある百観音に行ってみたら、山に登らなければならないことが分ったので、雨が降っていることでもあり、断念することを即決して、帰路に就いた。
昨日は「茨城県は何処まで行っても平だ」と思ったが、今日は「茨城県北部は全て山の中である」というのが実感である。今回訪れた常陸の国は、平地ではハナミズキ、山地では八重桜が満開で素晴らしかった。