吹く風を勿来関と思へども

忘月忘日 常陸国を訪れてみようと思い立った。天気予報は「日曜日の午後は雨」といっている。7時に出発して国立府中から中央道に入った。首都高速が渋滞しているというので、高井戸で下りて環八に入ったが、やはり渋滞していた。大泉で外環に入ってからは順調に走り、谷和原で下りて国道294号線を南下し、関東鉄道常総線の稲戸井駅の近くにある龍禅寺に行った。平将門の愛妾桔梗御前の墓「桔梗塚」に参拝するためである。寺には室町後期の建築といわれる茅葺き屋根の三仏堂があり、釈迦如来、薬師如来、弥勒菩薩が鎮座しているらしい。しかし、桔梗塚らしきものが見つからないので、深紅色の牡丹が見事に咲いている庫裏の玄関で井戸端会議をしている大黒らしき老婆に尋ねたところ、「昔はあそこも境内だったかも知れないが、今は国道沿いにマツダオートがあり、その前にある生垣がそうです」という。言われたとおりに国道に戻ってみたら直ぐに分かった。妙な形の小さな石の塚があり、説明板には「将門の戦勝を三仏堂に祈願しての帰路、この地で敵将藤原秀郷に討たれたと伝えられている」と書かれている。
 更に国道294号線を南下して、取手駅の近くにある長禅寺を訪れた。路次を入った所にある駐車場に車を停めて坂道を登った。平将門が創建したと伝えられる古い寺で、縁起に「過去現在未来之三千仏を安置し三世堂と号し候」とある三世堂はさざえ堂方式の珍しい建物であるが、中に入ることが出来ないのが残念である。車を出すときアンケートに答えたら駐車料金が只になった。
 国道6号線を北上して牛久大仏に向かった。世界最大の大仏で「奈良の大仏が掌に乗ってしまう程の大きさ」というから、どんなものか見ておきたいと思った。「もうそろそろ大仏が見えるかな」と思った辺りに「理想科学筑波工場」があった。我が社でもRISOGRAPHを使っている。印刷を意味する英語はLITHOGRAPHである。この会社はLITHOとRISOを掛詞にしているらしいが、この洒落は国内専用である。牛久大仏は広大な公園墓地である本願寺牛久浄苑に建立されている。高さ120mというからもの凄い大きさである。「奈良の大仏が掌に乗ってしまう程の大きさ」というのはまんざら法螺ではなさそうである。因みに奈良の大仏の高さは約15mである。
 阿見町にある予科練の記念館を見に行く途中の道路脇にある神社の鳥居に変わった形の注連縄があるのが目にとまった。横一文字の左端が下向きに折れ曲がって┏━━の形をしている真ん中に手桶のような形のものがぶら下がっている。どういう神様が祀られているのかしら。
 途中に「廻戸」という交差点があった。「めぐりど」と読むのかと思ったら「はさまど」だった。
 「若い血潮の予科練の・・・」で知られるかつての土浦海軍航空隊は、現在は陸上自衛隊土浦駐屯地になっていて、予科練記念館「雄翔館」はその中にある。受付で記名してバッジをもらい、立ち入り禁止区域の説明を聞いた。かなり広大な敷地であるが、民間人が入れるのはごく一部に限られている。旧式の戦車、ヘリコプター、ジェット戦闘機などが並んでいる先に、「雄翔館」がある。予科練出身の英霊18564柱の慰霊を目途として予科練生存者などの寄金により1968年に建立されたという。中には英霊達の写真や遺品などが展示されている。出身県が記されているが、大勢いる県と殆どいない県とがある。何故か長野県出身者が多い。建物の外には日本列島を丸く形作った「雄翔園」があり、予科練の碑が建っている。我々が帰るのと入れ違いに阿見ライオンズ倶楽部のメンバー達が続々と入構してきた。
 国道125号線を北上して土浦一高へ行った。ここにある旧土浦中学校の本館は国指定の重要文化財である。その前には校歌が石碑に刻まれている。

校 歌

作詞  堀越 晋 作曲  尾崎 楠馬 1 沃野一望数百里     関八州の重鎮とて   そそり立ちたり筑波山  空の碧をさながらに   湛へて寄する漣波は   終古渝らぬ霞浦の水 2 春の彌生は桜川     其の源の香を載せて   流に浮ぶ花筏      葦の枯葉に秋立てば   渡る雁声冴えて     湖心に澄むや月の影 3 此の山水の美を享けて  我に寛雅の度量あり   此の秀麗の気を享けて  我に至誠の精神あり   東国男児の血を享けて  我に武勇の気魄あり 4 筑波の山のいや高く   霞ヶ浦のいや広く   嗚呼桜水の旗立てて   わが校風を輝かせ   亀城五百の健男児    亀城五百の健男児
 日本全国を念頭に置いて作られている我が母校の校歌にはスケールの点で及ばないけれども、実に格調高い歌詞である。尚、現在は「五百」を「一千」に替えているらしい。
 重要文化財の旧本館があり、校歌が立派であるのみならず、敷地が広大で実にゆったりとしている。我が母校は校歌以外は完敗である。生徒達が見るからに利口そうな顔をしている。土浦一高がこれ程素晴らしい学校であるとは知らなかった。重要文化財の前で昼食を食べながら感歎これを久しうした。
 更に6号線を北上して石岡にある常陸国分寺跡に行って見た。ここには都々逸の創始者である都々一坊扇歌を祭る扇歌堂がある。堂の前には
   たんと売れても売れない日でも同じ機嫌の風車
と書かれた歌碑がある。
 水戸には見るべき所がたくさんあるが、今回は先ず徳川博物館へ行った。2000年に改築したばかりのきれいな建物であるが、入場料も1000円と高い。「徳川斉正 定礎」と書かれている。ここはかつて第2代藩主光圀公の茶室「高枕亭」があった場所である。「葵の御紋が目に入らぬか」で知られる黄門様の印籠を始めとして、水戸徳川家に縁の品々が数多く展示されている。「大日本史」は光圀が江戸に彰考館という編纂所を設けて以来約250年かかって1906年に完成したというから、編集期間の最長記録であろう。
 茨城県立歴史館に行って、旧水海道小学校本館と旧水戸農業高等学校本館を見学してから、市の北部にある常磐共有墓地・水戸殉難志士之墓へ行った。ここには「格さん」の墓がある。格さんは本名を安積澹白という。同じ墓地に藤田東湖の墓もある。この墓地には神道の墓が多く、「・・・大人命」「・・・刀自命」という墓誌銘が目に付く。中には「・・・神去」「・・・帰幽」というのもある。「神去」が本来はこのように使われる言葉であることを改めて知った。墓地の脇に白山吹が咲いていた。ここには天狗党に縁の回天神社がある。

 宿の玄関の前には
   松風の毎日わたる太平洋
という駄句の碑がある。宿の隣には海抜21.2mの天妃山があり、その頂には弟橘媛神社があるが、参拝は省略した。直ぐ近くに「吉田松陰先生遊歴之地」の碑がある。
   下田にて松陰芯まで疲れ果て
というのは良く知られているが、松陰先生が天妃山まで来たとは知らなかった。
 国道を渡った先に野口雨情の生家がある。瓦葺きの立派な家が新・旧2棟並んでいる。古い方の家は、明治10年頃に、野口雨情の父野口量平によって建てられたもので、雨情は明治15年にここで生まれ、15才頃に上京するまで育ったという。現在は子孫が居住している。新しい方が資料館である。「10時から」と書いてあり、時計を見たら9時20分だったので諦めて帰ろうと思ったが、玄関が開いているので覗いていたら、御主人が現れて「どうぞ」というので入館料100円を払って中に入った。雨情作詞の童謡をバックに「雨情は3000曲ほど作詞した」というような説明を聞きながら資料を見ていると、もう一組見学者が現れた。野口雨情と中山晋平のCDがあり、記念にどちらかを買おうと迷っていたら威勢のいいオバサンが登場して「中山晋平の方が曲数も多いし歌手も良い・・・」と自信たっぷりに勧めてくれたので、野口雨情記念館ではあるが中山晋平の方を買った。晋平が3000円、雨情が2500円であるが、晋平は信州人であるから、晋平を選ぶに躊躇うことはない。辺りが騒がしくなったと思ったら団体客が到着した。ガイドは「本日は特別に雨情の孫の不二子さんが説明して下さいます」と言っている。先程の威勢のいいオバサンが不二子さんだった。不二子さんは「雨情の孫は何人もいますが、私がこの家を継いでいる直系の孫です」と前置きして、説明を始めた。このやり手の孫の才覚でこの立派な資料館が建てられたのだろうが、それにしても100円の入場料は安い。野口家の系図によれば、雨情の先祖は楠正成の弟正季である。「青葉繁れる桜井の・・・心残りはあらずやと 兄の言葉に弟は これ皆かねての覚悟なり 何か嘆かん今更に・・・水泡と消えし兄弟の 清き心は湊川」を歌いながら雨情生家を後にした。
 国道6号線を北上して五浦海岸に行き、茨城大学五浦美術文化研究所を訪れた。五浦は「いづら」と読み、五浦海岸は「いつうらかいがん」と読むらしい。ここ五浦は日本美術院が移転してきたことによって岡倉天心、横山大観、菱田春草、木村武山等が美術活動に勤しんだ地であり、日本近代美術史を彩る舞台である。天心記念館に展示されている大観、春草、観山、武山が並んで絵を描いている写真は壮観である。天心邸の前には横山大観が揮毫した「亜細亜ハ一な里」の大きな碑がある。海を見下ろす崖の上には天心が尊敬する杜甫の草堂に倣って作ったという「六角堂」が建っている。
 袋田の滝へ向かって走り出したが、「ここまで来たからには「な来そ」といわれても勿来関に寄らないわけにはいかない」ということになり、山桜を見に勿来の関へ行った。県境を越えてほんの一走りである。福島県に入った途端に巨大な鬼瓦を載せた立派な家があった。陸奥が板東に向かって睨みを利かせる意味があるのかも知れない。関に着いてソフトクリームを食べてから、勿来関文学歴史館に入った。前回訪れたときには改修中ということで入れなかったので、再訪を期していたのであるが、入ってみてがっかりした。勿来関に係わりのあるものは短歌だけである。園原、大鹿以来親しみを感じている宗良親王の
   あつま路とききしなこその関をしも我か故郷に誰かすゑけむ   (李花集)
が目にとまった位のものだった。飾り付けや照明に工夫を凝らした積もりらしいが、凡そ勿来の関に相応しいものではなく、悪趣味の極みである。これなら外に並んでいる歌碑を見る方が遙かに風情がある。近世の関所(横川関所文書の世界)展と称する特別展示があり、昔のパスポート(通行手形)や旅日記などが展示されていた。文学歴史館にはがっかりしたが、きれいに咲いている八重桜を楽しむことが出来た。今年は春の訪れが異常に早かったので、山桜は既に葉桜になっていたが、八重桜は満開だった。
   吹く風を勿来関と思へども道もせに散る山桜かな   源義家
 前に来たときにも、勿来関が何故海岸ではなく山の上にあるのか不思議に思ったが、その後もこの謎は解けていなかった。先程来るときに、国道から曲がる所に「古関蹟」と書かれた碑があったのが目に付いたので、文学歴史館の窓口で訊いてみたら、「江戸時代からは山の上にあったが、その前は海岸にあったという説もある」という説明をして、簡単な資料をくれた。それによれば、紀貫之の
   をしめどもとまりもあへず行く春を名こその山の関もとめなん
の歌もあるから、随分昔から山の上にあったのかも知れない。「文学歴史館」というからには、こういうものをこそ展示すべきである。帰りに国道沿いにある「古関蹟」と長塚節の駄歌碑を見て、6号線を南下した。
 雨情の「波浮の港」のモデルだといわれる平潟港ににある鈴木主水屋敷に寄ってみた。海岸通に「主水屋敷 霽雲閣 裏千家茶の湯 小原流いけ花教室 岸宗園」と書いた看板が出ていて、少し坂を登った所に茅葺きの家がある。見たところ茅葺きであること以外は何の変哲もない普通の家屋である。人の気配もないので一旦坂を下りて海岸縁で世間話をしていたお婆さんに「主水屋敷と言うのはあそこですか。誰もいないようですが。鈴木主水とはどういう方ですか?」と訊ねてみたら「私ら子供の頃からもんど様もんど様って言ってね。さてね、江戸時代のお侍さんなんでねえべかね。岸さんは茶の湯教えてるから留守にしていることが多いのじゃないかね」ということだった。帰ってから調べてみたら、頼房が藩主の時初代主水を襲名した当主が、不公平過ぎる藩政に憤り脱藩してここに住居を移したという。口説節「鈴木主水という侍は、女房持ちにて二人の子供、二人子供のあるその中で、今日も明日もと女郎買いばかり、・・・」の鈴木主水とは全くの別人である。入口に「北白川宮御上陸遺蹟」の石柱が立っているのは、戊辰の役の際、会津へ向かう輪王寺宮(北白川宮能久親王)が平潟港に上陸し、この屋敷で休息したことによる。
 あちこち寄り道したが、いよいよ袋田の滝へ向かうことにしよう。6号線を南下し、高萩から右折して461号線に入り、茨城県観光百選第2位の花貫ダムで一休みして眠気を覚まし、国道ではあるが「対向車が来たらどうしよう」というような所が屡々ある山道を走り、久慈郡里美村を抜けて水府村に入った。「先に竜神峡に寄った方が良さそうだ」ということで、県道50号線を南下して竜神峡大吊橋に行ってみた。橋に近い駐車場は並んで待っている車がかなりいたので諦めて、少し下にある駐車場に停めて歩いた。龍神川を堰き止める龍神ダムの上に架けられた長さ375mの吊橋は歩行者専用の吊橋としては日本一の長さだそうであるが、それにしても随分立派な橋である。高さが100mというからダムの水面が遙か下に見える。橋を渡った向こう側は行き止まりであるから、完全に観光用に造られたものらしい。橋もさることながら、谷を跨いで橋に並行に張られた2本のロープに吊り下げられている800匹の鯉幟が圧巻である。どうやって吊り下げたのだろうか。雨が降り始めたので急いで車に戻って、袋田の滝へ急いだ。
 車を駐車場に停めて、傘を差して滝に向かった。餓になったので滝の入口の前にある茶店によって味噌焼き串団子を食べた。円盤形の団子が3個と小さな蒟蒻が一切れ刺してあって、なかなか美味しかった。「サービスです」と言って出された蒟蒻の刺身もなかなか良かった。300円払ってトンネルに入って行くと、先ず観音様があり、一番奥には不動様が祀られていて、その右が開けていて目の前に滝がある。滝は、高さ120m、幅73mで、岩壁を4段に落下することから、別名「四度の滝」とも呼ばれているが、一説には、その昔西行法師がこの地を訪れた際「この滝は四季に一度ずつ来て見なければ真の風趣は味わえない」と絶賛したことによるとも伝えられているという。今は春の新緑がきれいだが、秋の紅葉も素晴らしいに違いないし、結氷期には全く違った趣を呈するだろう。トンネルの出口は滝の一番下の高さにあるので、一番上の段はよく見えない。小さな吊橋を渡った対岸に階段が付いていて、上に登れば滝を見下ろすことが出来るというが、雨が降っているので割愛することにした。外に出て見たら、トンネルは1979年の開通で276.6mと書いてあった。
 水郡線に沿って国道118号線を南下して山方町役場を右折して緒川村松之草に行き、風車の弥七の墓に参拝した。道路脇の石垣の上に弥七の墓と女房お新の墓が並んでいる。煎餅の入っていた金属の箱に解説文が入っていた。それによると、松之草に小八兵衛という盗賊の頭領がいて、捕らえられたが、光圀によって助命され、隠密となって光圀に仕えたという。道路を挟んだ畑には「弥七・お新の住居跡」という柱が立っている。隣の松之草分教場跡地に建てられている真新しい便所には「弥七」「お新」の札が掛けられている。
 同じ緒川村にある百観音に行ってみたら、山に登らなければならないことが分ったので、雨が降っていることでもあり、断念することを即決して、帰路に就いた。
 昨日は「茨城県は何処まで行っても平だ」と思ったが、今日は「茨城県北部は全て山の中である」というのが実感である。今回訪れた常陸の国は、平地ではハナミズキ、山地では八重桜が満開で素晴らしかった。