御命講や油のやうな酒五升

 関東一円にはかなり明るくなったが、手近なところで甲斐の国の東部が未踏の地である。忘月忘日、休暇を取って出かけることにした。朝起きてみると雨が降っていたが、天気予報を信用して出発したら、9時前頃には殆ど止んだ。
 早速走り出して、八王子から中央道に入った。大月から分かれて都留文科大学を左手に見ながら走り、河口湖から国道136号線に入った。天気予報通り天気はすっかり良くなり雨の心配はなさそうである。間もなく鳴沢村に入り、最初に国指定特別天然記念物「鳴沢の溶岩樹型」に寄ってみた。立木が溶岩で燃えた後にできた溶岩樹型と水蒸気が吹き出した後にできた溶岩水蒸気噴気孔が十数個ある。後者の方がやや大きいが、要するに穴である。「田中収教授が調査した」と書かれている。蚊が多くて大変だった。
 次に「コウモリ穴」へ行こうと思ったが場所が分からなかったので割愛して、天然記念物「鳴沢氷穴」を訪れた。要するに溶岩の洞穴であるが、天井が低くて大男は通れそうもないような場所もある。あちこちに氷が積み上げられているのには驚いた。昔は夏にこの氷を切り出して将軍に献上したという。冬にできた氷が解けずに残っているのだろうが不思議な気がする。「皆さんが立っている足下は氷でできています・・・」と放送が流されているが実感できない。氷がたくさんある場所で写真を撮ろうとして柵の前に立ったら足が滑り出して自由が利かなくなった。何事が起きたのかと思っているうちにスローモーションカメラで撮影したような感じで尻餅をついた。私の立っていた足の下が氷だったのだ。モンゴルで「総長の川流れ」を笑った報いかも知れないが「氷穴の尻餅」は頂けない。
   鳴沢の氷の穴で餅をつき
必死で笑いをこらえながら仲間が助け起こしてくれた。見ると左手の指の関節の外側と肘から血が滲んでいる。左手に荷物を抱えていたので外側を打ったらしい。穴から外に出ると途端に暑くなり眼鏡が曇ってしまう。水で傷口を洗ってみるとかなり皮が剥けている。持っていた絆創膏を貼って応急処置を済ました。痛みはそれ程でもないがかなり出血している。全治2週間かも知れない。
 西へ向かって足和田村に入り「富岳風穴」を見に行った。「鳴沢氷穴」と同じようなものであるが、昔種繭や種子の保存に使ったという説明があり見本が展示されていた。壁を転がり落ちてできたという縄状溶岩が珍しい。ここにも大男は通れそうもないような場所がある。うっかり頭をぶつけた。一瞬地球が揺れたような気がしたが、幸い瘤にはならなかった。
 この辺り一帯は青木ヶ原樹海である。穴から出て樹海を歩いてみた。相当数の人がこの樹海の中で御名御璽になるというが不思議な気がする。しかし、ここで白骨になるといけないので、死んだ真似をして写真を撮って引き上げた。もろこし入りのソフトクリームを食べて出発した。
 少し回り道をして西湖の「蝙蝠穴」に寄ってみた。ここでは入口でヘルメットを貸してくれた。穴としては似たようなものであるがここはそれ程気温が低くなく氷はない。残念ながら蝙蝠はいなかった。子供が「あんなに蝙蝠がいるとは思わなかった」といっていたのが可笑しかった。
 富士山麓穴巡りを終えて、オウムで一躍有名になった上九一色村に入ったがそれらしい表示は一切見当たらない。国道139号線を走った限りは誠に平穏な村である。精進湖をかすめて本栖から国道300号線に入り、本栖湖を半周し葛折りを過ぎて身延線沿いの平坦な道に出た。身延線を3両編成のきれいな列車が走っている。後で調べたら特急「ふじかわ号」である。身延線を特急が走っているとは知らなかった。しかも一日7往復もある。
 下部温泉を過ぎて富士川を渡り、上沢で国道52号線に入った。「身延山入口」を曲がり土産物屋等が並ぶ門前町を進み、立派な山門の脇を通り抜けて、宿坊等が並ぶ坂道を登った所に駐車場がある。その上に日蓮宗総本山久遠寺の本堂、祖師堂、真骨堂等が並んでいる。平成14年が開宗750周年というから、我社の開学50周年とは桁が違う。境内には大きな枝垂れ桜が何本もあり、春には素晴らしい眺めに違いない。白装束に身を固めた信者の団体が一定のリズムで「南無妙法蓮華経」と唱えながら奥の院へ登るロープウェイの方へ行進して行く。本堂は黒い建物、祖師堂は赤い建物で、どちらも堂内にはキンキラキンの飾りが一杯に吊り下げられている。どちらも坊主が勢揃いして勤行する席が用意されている。「一番後ろの高い席が二十坊主でその前が十坊主、横向きに座るのはカス坊主だね」「カス坊主はここには入れないだろう。総本山で昇殿が許されるのは・・・」・・・。 縦に7人ずつ6列に“本省課長”が座り、それぞれの列の後には“局長”の席があり、局長席の真ん中に“審議官”、その後ろに一段高く“次官”の座る席がある。各席には“教科書”の納められている朱塗りの箱が置かれている。次官席と審議官席にはマイクロフォンが付いている。ここに坊主が勢揃いして大合唱する様はさぞかし壮観だろうと思われる。日蓮宗では“次官”つまり二十坊主のことを「法主」というそうである。
 祖師堂に白いロールスロイスのリムジンに乗ってきたパチンコ屋の社長らしき人物が入ってきた。彼が祭壇の前に座り、十坊主が壇上に登って金色の扉を開けて、壇上の坊主席に座って読経を始めた。暫くすると御簾が自動的にあがり中の日蓮像が姿を現した。本堂の日蓮像は常時姿を見せているが祖師堂の方は朝夕の勤行の時とお布施を払って拝んでもらう人がいる時以外は隠してあるらしい。
   日蓮を出し惜しみする身延山
 大枚を投じてロープウェイに乗り、標高1153mの身延山頂にある奥の院へ行ってみた。全長1665m高低差763mを7分で登る。流石に下界よりかなり涼しい。富士山がかすかに見えているが、思ったより遠くにある。ロープウェイの乗客は大半が先程の白装束達であり、「霊友会平川支部」等と書かれた襷を掛けている。小さな子供も交じっているのが痛々しいような感じである。山頂には、日蓮がここに登って遠く房州を望み親を思ったことに因んで「思親閣」があり、境内には日蓮手植えの杉が4本ある。「父」「母」「立正安国」「師範道善」のために植えたといわれ、いずれも立派な大杉である。
 最終便で下山したら駐車場のオバサンが「これで帰れます」といって料金を大まけにしてくれた。行きには居眠りしていた何樫君が帰りにはぱっちりと目を開いていて、山門の少し下にある芭蕉の句碑
   御命講や油のやうな酒五升
を見つけたのは大手柄だった。「御命講」は日蓮の忌日(10月13日)を中心に日蓮宗の寺で営まれる法会である。この句は日蓮が信徒からの贈り物への礼状に「新麦一斗笋三本、油のやうな酒五升、南無妙法蓮華経と回向いたし候」と認めたのを踏まえている。それにしても日蓮宗の宗徒達は日蓮の忌日にどんな法会を営むのだろうか。
 国道52号線を戻る途中、上沢で「さかさ銀杏」という看板を見て法喜山上沢寺に寄った。天然記念物上沢寺御葉附銀杏という樹齢700年の大銀杏がある。日蓮がここで毒入りのぼた餅を食べさせられそうになったとき、身代わりになった白犬の塚に立てた銀杏の枝から芽を出して育ったと伝えられている枝垂れ銀杏の大木である。境内には百日紅の大木もあり、見事に咲き誇っていた。
 身延山と七面山の往還の宿として栄えた赤沢宿に寄ってみようと思い、ナビゲーターをセットした。国道52号線から南アルプス街道に入って西に向かって走っている中に、最初にセットした場所は間違いであることが分かり、早川町の役場でセットし直した。驚いたことに早川町の役場は木造2階建ての今では珍しい程のオンボロだった。少し行き過ぎていたので引き返し、ナビゲーターの「後300mで右折です」という指示に従って右折した。「七面山登山口」と書かれているので安心して進み、段々険しくなる狭い道を登って行くと、ナビゲーターの画面では赤沢宿は川向こうで、既にその近くを通過していることになっている。「おかしいな」と思いながら、ベンツでは通れないような狭い山道を大分登ったところに宿屋があったので聞いてみたら「ここから10分程かかる」という。何故かこの山奥の宿は満室らしかった。川を渡った所に「白糸の滝」があり、更に狭い道を10分程走ったところにある集落が赤沢宿だった。「これは秋山郷以上の凄い秘境だ。一体どうやって暮らしているのかしら」と驚くばかりだった。重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。薄暗くなってきたし「この道を引き返すのは怖いから今夜はここに泊まろうか」等と話しながら集落を歩いてみた。集落は山の中腹の急坂に位置し、殆どが歴史的建造物である。昔は19軒宿屋があったといいい、「江戸屋」と「大阪屋」は今でも営業しているが今日は客がないらしく閉まっている。こうなれば決死の覚悟で帰るしかない。ナビゲーターをセットして走り出してみるとどうも先程とは違う道であり、あっという間に南アルプス街道に出てしまった。後で分かったことだが、ナビゲーターの指示より一つ手前を曲がってしまったらしく、川の反対側を遙か上流まで行ってから橋を渡って対岸を引き返して赤沢宿に辿り着いたのである。帰りに通った道ならば何のことはなかった。やれやれ。
 甲府南から中央道に入り、談合坂で団子を食べて帰宅した。