UA837便は予定より約1時間遅れて出発。飛行機は最新鋭のボーイング747-400だが、この日は気流の状態が悪く、日本上空と韓国上空で随分揺れた。特に韓国上空で食事が出されたときにはテーブルの上の物を両手で押さえた。総長は機内ではまずビール、食事の時にワイン。
空港には北京市教育委員会外事処の丁処長と首都師範大学の黄先生と谷先生が出迎えに来てくれた。黄先生は都立大学と北京市所管の大学との研究者交流協定で最初に来学され、その後首都師範大学の国際文化交流部長として活躍された方、谷先生は一昨年度に来学されその後首都師範大学の化学系主任として活躍していらっしゃる方で、年来の親友である。乗用車2台に分乗して民族飯店に向かう。チェックインを済ませ次の日の打ち合わせをして黄先生達はお帰りになった。
昼食後、ホテルの隣の民族文化宮で開かれている絹製品展示即売会を覗いてみた。総長はカーペットを衝動買い。「そんな物を買って帰ると当局から馬鹿にされますよ」「その恐れはあるね」、然し、結果は意外にも好評だった由。カーペットをホテルにおいて、西単のデパートへ行ってみる。
出かけてくる前から「京劇を見たいね」ということだったので予め予定に入れておいてもらって、夕食後老舎茶館に京劇を見に行く。前から2列目の席に座ると、テーブルに一杯に小吃が並べられた。総長は夕食の時飲んだ老酒が利いて座るが早いか居眠り、演奏が始まっても高鼾。ところが、私が黄先生に「胡弓はどれですか」と聞いた途端に目を覚まして「胡弓はあれだよ」と指さして直ぐに又眠ってしまった。長年に亘って鍛えた特技で、眠っていても肝心なことは聞こえている。
朝食後、8時30分に教育委員会外事処の藩芳芳さんが迎えに来てくれた。李さんの運転する車で石花洞へ向かう。石花洞は北京の南西の郊外にある鍾乳洞である。芦溝橋の先で高速道路を出て一般道を走る。何故か道路に一定の間隔で警官が立っている、「総長、すごいですね、護衛の警官ですよ、居眠りなんかしていられませんよ」。山が近くなるといつの間にか警官の姿がなくなった。切り出した石灰石を運ぶトラックに何台も出会いながら山道を走って石花洞に着いた。
洞の入口で持ち物を全部預けなければならない。身軽になって洞に入る。大きな鍾乳洞で随分地中深く入って行った。自然が何万年もかかって造った様々な形の鍾乳石の芸術を鑑賞して地上に出ると、何とも日差しが眩しい。
昼の時間になっていたので、洞の入口に近いところにある食堂に入る。次々と出されてきた皿の一つには何と親指程もある巨大なバッタの空揚げが10匹並んでいる。胴体は飴色に透き通っているが、芳芳も李さんもとても食べ物とは思えないという顔で眺めていると、総長がやおら箸を取って一匹を摘んで口に入れた。これには一同目を丸くしたが、一気に飲み込んでしまった様子。「本当に食べたんですか」「コリコリしてなかなか美味しいよ」「じゃあもう一匹どうですか」「いや、一匹でいい」。蠍、蛇、海鼠等は勿論些かでもゲテモノらしいものは一切口にしない総長がバッタを食べたのは未だに謎である。総長が食べたのを見て芳芳と李さんは小さいのを選んで恐る恐る口に入れていた。
ふとした話題の弾みで「博物館ができてから行ってないから芦溝橋に行きたいね」と言い出した。芳芳と李さんは前日に今日のコースを下見して予定をたてているので「朝来るときに寄ってくれば良かったけれど、今から寄るのは無理だと思います。2つ行く予定の寺を片方だけにしますか」「寺も両方行きたいね」、というようなやりとりがあって、ともかく予定通り潭柘寺へ行く。色とりどりの牡丹が咲き乱れていた。「牡丹散て打ち重なりぬ二三片 という蕪村の句がありますね」「蕪村は全く知らないね」
次に、戒壇寺へ行く。「九龍松」という名前の幹が十数本もあるような大きな木と「臥龍松」という名前の横向きに生えて昼寝をしているような松の木があった。「臥龍松」の遥か彼方に発電所の煙がもくもくと立ち登っているのが見える。この寺も牡丹が満開だった。
芳芳と李さんはいろいろと相談していたが、「行ってみよう」ということになったらしく、予定を変更して芦溝橋に向かった。残念ながら博物館は閉館中で見ることができなかったが、夕暮れ近い芦溝橋をたっぷりと見物することができた。「日本軍の弾丸の跡が残っている壁を見たい」というので随分探したが結局分からなかった。芦溝橋の土産物の露店では“赤い本”を売っている。何故か他では売っていないので3冊買った。赤い本を買うことができたのは総長のお陰である。
ホテルに戻って芳芳と李さんの労をねぎらいながら夕食をとる。李さんは車を運転して帰らなければならないのでお酒は飲めないが、総長は芳芳を相手に「乾杯」を繰り返しながら「これを明日の朝FAXで都立大学の秘書室に送って下さい」とお願いする。
徐主任から歓迎の挨拶があって、その後各大学の学長が自分の大学の紹介をした。一通り紹介が終わったら総長は小学校の話を始めた。「今大学の話をしているところですから、小学校の話は後にした方がいいですよ」と言いたいけれど立て板に水で割り込むことができない。北京市教育委員会は小学校から大学まで北京市立の全ての教育機関を所管しているから、徐主任は総長の時ならぬ質問にも的確に対応していたが、学長達は面食らったに違いない。
教育委員会の一室で昼食会が催された。総長が途中で居眠りをしたのであわてて写真を撮ったら、黄先生曰く「中国では学長が居眠りしているところを写真に撮ったら首になります」と教えてくれた。私も首を洗っておかなければならない。
午後は首都師範大学を訪問する予定になっていたが、総長が「3年前に訪問した外国語学院にも行ってみたい」と言い出したので関係者は大慌てで外国語学院に電話して急遽歓迎の態勢を整えるように手配して下さった。早速車に分乗して外国語学院に向かった。居合わせた日本語学科の先生方が快く歓迎して下さり、総長は旧交を温めることができて御満悦。
寄り道をすることになったために、予定より大分遅れて首都師範大学に到着、校務委員会主任の于洸氏、午前中教育委員会に来て下さった張副学長、国際文化交流部の呉部長、化学系主任の谷教授等と懇談した後、黄先生と谷先生に学内を案内して頂いて化学系、美術系、音楽系、図書館等を見学した。
夜は首都師範大学主催の夕食会が大学の近くで開かれ、研究者交流で都立大学から首都師範大学を訪問中の人文学部の佐竹靖彦教授も同席された。中国前近代史が御専門の佐竹先生は中国語が堪能で中国人と話すときは全て中国語で通していらっしゃる。食卓に並べられた皿の中に見たことのない料理があったので「これは何ですか」と聞いたら「まあ、食べてご覧なさい」といわれ、恐る恐る食べてみたら、意外に美味しかった。「それは蛇です」といわれてびっくりしたが、美味しかったので何回も箸を運んだ。総長は蛇は勿論のこと、海鼠も食べない。帰りがけに金網の篭に入ってとぐろを巻いている蛇が目についた。きっと、次の客の口に入ることになるに違いない。
夕方教育委員会で開かれる“調印式”までの時間を利用して、琉璃廠へ行って栄寶斎で注文しておいた印鑑を受け取って出てきたら、栄寶斎の向かいの商店の間にある「琉璃廠小学」と書かれた小さな看板が目に留まった。総長は目を輝かせて「小学校ではないか」と言われたが、どう見てもそれらしくなさそうだった。総長はあきらめきれない様子なので、狭い路地を入ってみたら、商店の裏に校庭があって小学生が体育の時間で体操をしているではないか。暫く様子を見ていたが、「中に入ってみたい」と言われる。藩芳芳さんは準備のために先に教育委員会に帰ってしまったので通訳がいない。事情を察した李さんが中に入っていって校長先生を連れて来てくれた。然し、言葉が通じない。校長先生が戻っていって英語の先生を連れてきてくれたが、中国人と日本人が英語で話をするのは何とももどかしい。今度は校長先生が表の商店の方へ行って日本語を喋る店員を探して来てくれた。その店員さんを通訳にして校内を案内して頂いた。小学校で英語を教えているのに驚いたが、コンピューター室があってパソコンの授業が行われているのにも驚かされた。
総長は「あそこで小学校を見学できたのは非常によかった」と大喜びだったが、予告なし通訳なしで飛び込んだ心臓は相当なものである。
いよいよ“調印式”である。今回は交流協定10周年で、この10年間の実績を踏まえて、今後に向けて協定を再確認するのが目的である。教育委員会の主任室には徐主任をはじめ各大学の代表者達が集まって、重々しい雰囲気が漂っている。大きな机の上には中・日両国の国旗が飾られている。総長は複雑な心境ではないだろうか。主任と総長が調印文書に署名し、乾杯をして儀式は滞りなく終了した。北京市政府外事処の田処長も駆けつけて下さった。田さんの妹さんは総長の教え子で、田さん自身も嘗て都立大学で勉強したことがあり、現在は北京市の外交の責任者である。
教育委員会に近いレストランで徐主任主催の晩餐会が催された。総長は主任の車に同乗するように言われたが、李さんがすっかりお気に入りで李さんの車に乗った。李さんは日本語は全く分からないけれども総長の“酒仙”ぶりは完全に理解できたらしく、総長が昨日書いて李さんに渡した李白の「山中與幽人対酌」をダッシュボードに貼り付けて総長を喜ばせていた。総長は酒の話が出ると必ずこの漢詩を書いて自慢する。適当な紙がなければ箸袋を広げて書く。「この詩ばかり書いているとこれしか知らないと思われますよ」「もう一つ位暗記しておかないといけないね」
宴会の席で総長は1961年に初めて中国を訪問したときの話をした。私は「その話は何度聞いても面白いですね」といいたい位何回も聞かされている。その時以来親しくしているという中国人の名前を聞いた徐主任は「その人なら自分はよく知っているから電話してみましょう」といって席を立って行かれた。暫くして戻って来られて「今自宅にいることを確認したから電話をかけてみられたら如何ですか」といって電話番号をメモして渡して下さった。北京市の予算の20%を意のままに動かせる北京市の教育行政の最高責任者の機敏な行動力には舌を巻いた。我が国でもこのような指導者が望まれるところである。早速総長と田さんは電話をかけに行った。戻ってきて「いやー、実に懐かしかった、電話できてよかったよ」と大喜びだったが、「その方は日本語がお分かりですか」「全然分からない」「では先生が怪しげな中国語で話をしたのですか」「田さんが通訳してくれたんだよ」、要するに総長は「ニイ・ハオ」と言っただけで後は全て田さんが取り次いだということらしい。
ホテルに帰って「荷物をしっかりまとめて下さい」といって、自分の荷物をまとめていたら、「荷物はもう大丈夫だ、君の部屋で一寸飲もう」といって芽台酒の瓶を抱えて藩芳芳さんとやってきた。芳芳は我々の世話をするためにずっとホテルに泊まり込んでいる。芳芳を相手に実に満足そうに「乾杯」を繰り返している。芳芳は「こんなにお酒を飲んだのは初めてです」と言いながら総長の口車、ではない、勧め上手に乗せられて飲み続けたが、流石にトイレに駆け込む羽目になった。総長は上機嫌でそんなことには勿論気が付かない。芽台酒の瓶が空になっても未だ飲みたそうであったが「明日は朝が早いから寝て下さい」と部屋に連れ戻した。
搭乗手続きを済ませて免税店で買い物をして、総長は“喉の乾き”を癒す。UA838便は順調に飛行して予定通り成田に帰ってきた。入国手続きを済ませて迎えの車を待つ間荷物を腰掛け代わりにしているので「大分お疲れのようですね、飲み過ぎですよ」といったら「喉が乾いた」というので“水代わり”の飲み物を差し入れた。