北京珍道中日記98

1998年5月、都立大学山住総長、茂木俊彦教授と私の3人ではからずも北京を訪れる機会に恵まれ、非常に愉快に6日間の旅をした。以下、総長の“酒仙”ぶりを紹介しつつ旅日記を綴ってみる。[文字をクリックすると写真が見られます]

5月22日(星期五):

2時過ぎに成田空港第1ターミナルに着き早速ユナイテッド航空のカウンターで搭乗手続きをし、荷物を預けて身軽になった。出国手続きに入ろうとしていたら妙齢の御婦人から「山住さん」と声をかけられた。コーラス仲間の御夫妻でこれからアメリカへ出掛けるところだという。「奥様にはコーラスでよくお会いします」等といっていたが、総長は専らカラオケであるからコーラスの方はとんと御無沙汰に違いない。出国手続きは並んでいる人が少なく直ぐに順番が来たが、先程記入した出国カードが見当たらない。後の人に先に進んでもらって全てのポケットを調べたが出てこない。「もう一度書いた方が早いでしょう」といっていたら「あったよ」ということで無事出国できた。免税店の前で「喉が渇いたね」といってロ卑酒を飲む。

UA853便は定刻に出発。総長は機内ではまずロ卑酒、食事の時にもロ卑酒。その後威士忌等を売りに来たが眠っていて気が付かなかった。降りてからその話をしたら「何故起こさなかったか」と目をむいていた。今回、私と茂木先生は“当局”から「ロ卑酒以外は絶対に飲ませないように厳重に管理せよ」という“辞令”をもらっての同行である。

首都機場には北京市教育委員会外事処の藩芳芳さんと首都師範大学の黄先生、谷先生、沙さんが出迎えに来てくれた。黄先生は都立大学と北京市所管の大学との研究者交流協定で最初に来学され、その後首都師範大学の国際文化交流部長として活躍された方、谷先生は3年前に来学されその後首都師範大学の化学系主任として活躍していらっしゃる方、沙さんは首都師範大学の国際文化交流部で交流の実務を担当して下さり、年来の親友である。乗用車2台に分乗して民族飯店に向かう。チェックインを済ませ打ち合わせをして黄先生達はお帰りになった。その後芳芳を交えてホテル内のレストランで夕食を食べたが、総長は食べるよりロ卑酒が主だった。

5月23日(星期六):

ホテルの食堂で人民日報を読みながら朝食を食べる。お粥が美味しかったので滞在中毎朝食べた。7時30分に芳芳が旅行社のワゴン車で迎えに来てくれた。黄先生も地図と飲み水を持って来て下さった。今日は250km程離れた所にある承徳市へ行くことになっている。車に乗ろうとしたら、タイヤがパンクしたので待ってくれといわれて出鼻をくじかれたが、直ぐにタイヤを交換して出発した。

市内の渋滞を抜けて首都機場へ通じる高速道路を走り途中から分かれて京承道路に入った。白樺に似た並木が続く片側2車線の道路を80km/h位の速度で走り続けた。白樺モドキの根本から1m位までの部分が白く塗られている。「あれは何故でしょう」「虫除けだろう」「一番道路寄りの木だけが塗られているから衝突防止のためでしょう」 道路脇で西瓜を売っている農家の人がたくさんいる。並木の間にロープを張って車の夏用のシートカバーを吊して売っている人も多いが、どちらも殆ど売れてはいないようだ。「加油」と書かれた看板が出でいるが給油所は道路からかなり入ったところにあるのが面白い。

今日は朝から薄曇りだったが、密雲という町にさしかかったら文字通り雲が濃くなった。密雲を過ぎると片側1車線の山道になった。左手の彼方にダムが見え、間もなく北京市の水瓶である人造湖密雲水庫が見えてきた。殆ど人家はなさそうであるが、道路脇で湖でとれた魚を売っている人がいる。

長城が見えたと思ったら間もなく収費站があり北京市から河北省に入った。収費站を出た所は古北口という町である。休憩してトイレに行ったり長城を眺めたりしていたら「喉が渇いたね」というので芳芳が目の前にある食堂に入って聞いてきて「ロ卑酒はないそうです」というが「そんな筈はない」というのでもう一度入って行ってロ卑酒を買ってきた。

山間の道を走り続けると、高さ2m長さ数十m程の土手が無数に並んでいる村落に出た。明らかに人工の物であるが何だか見当が付かない。「火薬庫かも知れない」等と言っている中に道が曲がって土手の“裏側”が見えるようになり、正体が判明したら、北側が土手で南側がビニール張りの温室だった。間もなく承徳の街に入り、「雲上飯店」という総長に相応しい名前のホテルに着いた。承徳市中国青年旅行社日本部の王峰さんが玄関に出迎えてくれた。王さんは以前は承徳の医学校で日本語を教えていたこともあるということで、日本語がペラペラである。チェックインしたがまだ時間が早く部屋の準備ができていないので町に出て昼を食べた。鹿や山羊の肉等を食べ、当然の如くロ卑酒を注文したら出てきたのは密雲産の「雲湖」印のロ卑酒だった。この辺りで作られる杏仁ジュースが美味しかったが、総長には「よくそんな物が飲めるね」と軽蔑の眼差しで見られた。

そのまま避暑山荘を見学しに行ったが、土曜日とあって相当な人出である。皇帝が夏の間使用した別荘というだけあって実に広大である。一通り建物を見てから庭園に行ったが、庭園は広すぎてとても全部は回りきれない。池に映える木々の緑が実に美しい。芝生の上では日傘を広げた若いカップルが逢瀬を楽しんでいる。書画や印鑑を扱っている売店があり、王さんが「この人はこの町で一番の腕前です」といって主人を紹介した。総長は掛け軸と十二支の印鑑を衝動買いした。印鑑は一本足りなかったので直ぐに彫って後程ホテルに届けるということにして掛け軸だけ持ち帰った。

歩き疲れてホテルに帰り、暫く休んでから承徳銀座の横町にある「大通酒楼」という名前の割には汚いレストランに案内された。醤牛肉、牛の尾等例によって食べきれない程の料理が用意され飽極了になった。ロ卑酒は「雲湖」ロ卑酒である。密雲湖の近くで作っているから「雲湖(Yunhu)」ロ卑酒であるが、これを日本に輸入しても全く売れないだろう。因みに、密雲には「雲湖酒楼」というレストランがある。食事が終わって外に出てみたら、銀座通りは身動きができない程の人出だった。

ホテルに戻って、売店で土産物を買ったりしてから部屋に入った。ここのホテルでは部屋に酒が置いてないから安心である。

5月24日(星期日):

早く起きて朝食を食べにレストランへ行くと大変な賑わいで、やっと席を見つけて座ることができた。ここもバイキング方式であり、一通り集めてきて食べてみたが、豚肉の角煮かと思って食べた醤豆腐は物凄い味であった。

「気分は如何ですか」「2日酔いでないと実に爽快だね」というわけで早速車に乗り、先ず磐錘峰へ行った。山の上に瓶を逆立ちさせたような奇景であり、倒れないのが不思議である。スキー場のリフトのようなロープウェイに15分程乗って頂上の近くまで登った。高所恐怖症の総長も芳芳と一緒で御満悦。ロープウェイを降りて頂上まで歩く道には土産物を売る人達がたくさんいる。面白い合成写真を撮る写真屋も多数店を出している。総長は「Tシャツを持ってくるのを忘れたからここで買おう」といって絵入りのTシャツを買った。「岩に触ると御利益がある」というので人をかき分けながら触りに行った。ここからは避暑山荘やこれから訪問する寺等が一望できる。

承徳には多数の寺院等があるが、先ず小布達拉宮へ行く。喉が渇いたと思ったら「お茶をどうぞ」といって棗のお茶と杏仁粉を溶かしたジュースを出してくれた。どちらもなかなか美味しかったので土産に買ったが意外に高価だった。次に普寧寺へ行く。通称大仏寺といわれ木造の巨大な大仏の立像が安置されている。奈良の大仏が立てばどちらが大きいか分からないが高さ22.28mでとにかく巨大である。

次にチベット仏教の寺院普陀宗乗寺へ行った。芳芳はチベットの衣装を着て写真を撮り、総長も御満悦。茶色の大きな箱のような建物に囲まれた中に隠れるように金ぴかの屋根の本堂が建っている。ここから先程行った磐錘峰や避暑山荘の裏山がよく見える。外に出て総長はロ卑酒を買い、芳芳はリスを買った。

ホテルへ戻って昼食を食べたが、うっかりしている隙に紹興酒を瓶で注文されてしまった。「我々は当局からロ卑酒以外は飲ませないように監視する任務を仰せつかって来ていますから困ります」「うるさいね」 半分程飲んだところで瓶を“没収”した。

昨日と同じ道を逆に走って北京に戻ったが、総長は途中殆ど寝ていた。今日は素晴らしい晴天だったが密雲を通るときだけ雲がかかっていた。民族飯店の近くに数日前に「図書大厦」が開店したと聞いて「是非行って見たい」ということだったので、そちらへ直行した。ホテル位の大きさの建物である。書店としては中国一、東洋一、いや世界一かも知れない。中に入ると先程までの眠気はどこへやら、いきいきとして十数冊を購入した。中でも「中国教育年鑑」と「李白辞典」は分厚く帰りの荷物がさぞ大変だろうと心配であった。

ホテルに寄って荷物をおいて、近くのしゃぶしゃぶの店「大三元酒家」へ夕食を食べに行った。牛肉と羊肉のしゃぶしゃぶを飽極了になるまで食べ、酔極了になるまで生ロ卑酒を飲んだ。私はやっと「菓茶」即ち山査子のジュースにありつくことができた。これは中国独特の飲み物で実に美味しい。総長には「よくそんなものを飲めるね」といわれるが、総長の飲む“雲液”と違って眠くもならなければ2日酔いにもならず美味しくかつ健康にも良い飲み物であり、日本にないのが残念である。

5月25日(星期一):

朝食に行こうと誘いに行って部屋のドアを開けてビックリした、ななな何だこの臭いは!!!!!!!ここはアルコール工場だったのか。当局のお墨付きがあるので有無をいわさず踏み込んで“査察”をしたところ、部屋に置いてあった威士忌や白蘭地の小瓶が5本全て空になっているではないか!!!!!!! 昨日飲み残しの紹興酒を没収したけれども部屋の小瓶までは手が回らなかった。これでは当局に申し開きができない。与えられた任務を全うできなかったからには切腹物である。

「カードキーが見つからないんだよ」といってポケットを探している。カードキーの紛失は昨年も2回経験しているから驚かない。3人がかりで部屋中を探し、ポケットももう一度点検した。ズボンのポケットも空港の検問の要領で実施したが、何処にも見当たらない。時間が迫ってきたので、先ず食事をしてからフロントへ行ってキーを再発行してもらおうということにして食堂へ行った。食堂では入り口でカードキーを見せてサインをして中に入るのであるが、「部屋に忘れてきた」とか何とかいいながら言葉が通じないのを良いことに入り込んでしまった。食べている中に「あったよ」といってキーを取り出した。「何処にあったのですか」「ズボンのポケットにあった」 他は厳重にチェックしたがズボンのポケットは空港方式で済ましたのがいけなかった。然し見つかって良かった。一部始終をつぶさに見ていた茂木先生から「荻上さんの話は大げさかと思っていたけれどこれでよく分かりました」と感心された。

午前中は北京建築工程学院を訪問することになっている。芳芳が迎えに来てくれて予定通り出掛けた。会議室で学長達と懇談した後学内を見学した。大きくはないが設備はかなり充実しているようだ。老朋友の王教授にもお会いできた。車で近くのホテルに移動して昼食宴となり、ロ卑酒や白酒で「乾杯、乾杯」を繰り返すのをはらはらしながら眺めていた。

午後は最初に北京市副市長を表敬訪問することになっている。昨夜の分が抜け切らない中にしこたま補充したので、副市長閣下の前で居眠りをされたら大変である。茂木先生と「眠りそうになったら蹴飛ばしましょう」といっていたが、応接室に通されて「これは困った」と思った。中国で首脳会談が行われる場合の様子をテレビ等で見ると何時でもそうであるが、椅子と椅子の間にサイドテーブルが置いてある。これでは蹴飛ばすことができない。とんでもない所で居眠りをした“実績”の持ち主だけに心配であるが、運を天に任せて“巨頭会談”が始まった。林副市長は50代半ばの女性で清華大学出身の工学博士である。この後訪問する教育委員会の新しい責任者である範主任も同席して、会談は約30分程度だったが、総長は実に立て板に水の見本のような素晴らしい出来映えだった。「総長、今までで抜群の出来ですよ、95点です」「酔っていないことが分かっただろう」 お土産を頂き、玄関で記念写真を撮って退出した。

そのまま教育委員会へ直行した。範主任は先回りして帰っていて我々を出迎えて下さった。範主任も清華大学工学部の出身で林副市長の後輩であり、昨年までは精華大学の教授をしておられた。教育委員会外事処の丁処長を交えて都立大学と北京市所轄の大学との交流について意見交換が行われた。途中で総長は「少し休憩しましょう」といい、範主任の執務室へ行ってくつろぎながら雑談をした。主任の執務室には風呂が付いていて(大理石ではなかった)簡易ベッドも置いてあり、仕事が遅くまでかかれば泊まり込むこともあるとのこと。我が総長の執務室には風呂もベッドもないけれど、酒盛りをしている中に終電がなくなって夜を徹して飲み明かすことはあるらしい。長い“休憩”のお陰で話が終わらない中に夕食会の時間が近付いたので「話の続きは食事をしながら」ということにして車に乗った。

夕食会の会場は「紅楼夢」の撮影が行われた大観園の中にあるレストランである。門を入って広い庭を通って随分歩いて行った所に大観楼酒家があった。教育委員会の前主任で現在は中国共産党北京市常任委員で教育関係の実力者である徐錫安氏も駆けつけて下さって珍しい御馳走を頂きながら時の経つのを忘れて談笑した。食事をしながら続ける筈だった交流の話は適当に済ましたことにして、紅楼夢に縁のある強烈な酒で「乾杯、乾杯」を繰り返していた。写真を撮ってお開きになり、紅楼夢の雰囲気を味わいながら提灯を持った美姫に先導されて暗い道を千鳥足で歩いて門まで辿り着いた。紅楼夢の酒をお土産にもらったが、飲み残して半分程残っている瓶も気になって持ち帰った。ホテルに帰って部屋に入る前に飲み残しの瓶を“没収”しようとしたが、敵もさるもので前回の“失敗”に懲りて対策を練ったらしく、素早く部屋に入って鍵を掛けてしまった。

5月26日(星期二):

朝食に行くために部屋に誘いに行ってドアを開けて驚いた。前回より遙かに強烈な臭いである。果たせるかな飲み残しの瓶が空になっている。50%以上の強烈な酒を夜中に瓶半分空にしてしまったのだから並大抵ではないが、これが当局に知られたら唯では済まない。

部屋に戻って着替えをしてロビーに降りていったら黄先生が迎えに来て下さっている。車が走り出して間もなく「北京八中」の看板が目に付くと「北京四中へ行ってみたい、以前来たときに寄ったが非常に良い学校だったので是非もう一度行ってみたい」と仰る。「今日は予定が詰まっているから無理です」「何とかならないかね」「無理です」

先ず首都師範大学本部を表敬訪問した。新しく学長になられた楊学礼先生には初めてお目にかかるが、張副学長や呉国際文化交流部長等は老朋友であり再開を喜び合った。首都師範大学は中国で100校の重点大学の一つに指定されて今後の発展が楽しみである。

次に首都師範大学外国語学院を訪問した。ここは総長にとっては3度目の訪問で老朋友が大勢いる。先生方と懇談した後日本語学科の教室を訪れ、1年生と2年生のクラスを覗き、3年生のクラスでは学生達と懇談した。日本語学科は1クラスが20人前後で、1年生でもかなり上手に日本語を話しているのには感心させられた。車に分乗して少し離れた所にあるレストランに行き外国語学院の先生方と昼食宴を楽しんだ。

芦溝橋を間近に見ながら京石道路を走って房山の雲居寺へ向かった。京石道路を出ると道の両側に白樺モドキの並木が続き、一番車道に近い木は根本から1m程が白く塗られている。「ここでも衝突防止のために白く塗ってありますね」 やがて山に近付くと石灰石を切り出して運ぶトラックに出会い、石を加工している工房もある。雲居寺は石経即ち石版に刻んだ教典が一万数千枚出土したことで知られている。掘り出された石経は整然と棚に並べられているが、全て同じ字体で書かれていて実に見事な物である。大型の石経もある。境内はかなり広く仏舎利等もあり総長は椅子に腰掛けたり石段に座り込んだりしながら歩いた。仏舎利と称する物は日本にも随分あちこちにあり、もし全てが本物だとすれば釈迦は随分骨太な御仁だったらしい。境内にある白樺モドキも根本から1m程白く塗られているではないか。総長はにやにやしながら「ここも自動車がたくさん通るらしいね」といって嬉しそうである。残念ながら白く塗るのは「衝突防止」のためではなかった。があったので総長は早速撞いてみた。「収費」と書かれているから有料である。ゴーンゴーンと2撞きして1元出したら「2撞きしたから2元」だという。売店でくるくる回る子供の玩具のような形をした経筒を衝動買いし、駐車場の露天で喉を潤す“雲液”を買って安心して車に乗った。来た道を引き返して最後の晩餐が開かれる金帝都美食庄園へ向かった。

茂木先生は今日は別行動で、芳芳が長城、明の十三陵、頤和園等へ案内し、晩餐会の会場で合流することになっている。少し遅れて茂木先生達が到着して宴が始まった。今日は、首都師範大学の張副学長、黄先生、谷先生、呉国際文化交流部長、沙さん、鄭成人教育学院長等老朋友ばかりだから最初から打ち解けた雰囲気である。総長は李白の詩「山中與幽人対酌」を首都師範大学の書道の教授が揮毫して下さったものを贈られてこの上なく御満悦。酒仙である総長は詩仙李白のこの詩が特にお気に入りで「一盃一杯又一盃」を繰り返すので、今では「一盃一杯又一盃」の先生として広く知られるようになった。

土産を買う時間がなかったので、宴の後ホテルに近い西単のデパートへ行って大急ぎで買った。ホテルに戻って「さあ、明日は朝が早いから、荷造りを済まして寝て下さい」というと「今夜が最後だから芳芳と一杯やりたい」といってさっさとバーに入って行く。仕方なく少しだけおつきあいして無理に部屋へ連れ戻したが、明朝が心配である。

5月27日(星期三):

意外にもちゃんとお目覚めで荷造りもできているが、心配した通り荷物が多すぎて鞄に入り切らず大きな紙袋が2個できている。急いで朝食を済ませて予定の時刻にロビーに降りて行ったら黄先生と芳芳が来て下さっている。北京も車が増えて朝は相当な渋滞であるが、余裕を見ているので心配はない。

搭乗手続きを済ませて免税店で買い物をした。総長は当然の如く茅台酒を買う。「喉が乾いたね」といわれるが「今日は当局の検査を受けなければなりませんから自重して下さい」といって“危険地域”に近付かないようにしたが、搭乗待合室に行くと目の前に“止まり木”があり「やっぱり喉が乾いている」といってロ卑酒を飲み、隣に座っていた日本人客と意気投合して「乾杯」している。UA852便は定刻より少し早く出発。総長は機内ではまずロ卑酒、食事の時にもロ卑酒。その後威士忌等を売りに来た時一瞬目を開けたので「まずい」と思ったが直ぐに又眠ってしまったのでほっとした。順調に飛行して予定より少し早く成田に着いた。入国手続きを済ませて「喉が乾いた」というのを無視して迎えの車に押し込んだ。


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