中秋節訪中記

 東京都立大学工学部は北京化工大学と学術交流協定を結んでおり、昨年11月に王学長をはじめとする5名の先生方が都立大学を訪問して下さった。北京化工大学は「化工」という名前にも拘わらず文系の分野も擁しているので、大学間協定に発展させたいと希望している。2002年9月に化工大学で応用化学の交流シンポジウムが開催されることになり、それに参加する応用化学科の先生達に同行して北京と西安を訪れた。以下はその時の旅日記である。

9月20日(星期五):

 10時40分発のJL781便に乗るために家を6時前に出て、新宿7時7分発の成田エクスプレスに乗った。同行の古川工学部長も眠そうな顔をしている。チェックインを済ませてラウンジで軽く腹ごしらえをした。搭乗機JA8912はJAL Dream Expressと呼ばれ大変に派手なデザインであるが、乗ってしまえば普通のBoeing 747-400と変わりない。2階席に陣取った。素晴らしい秋晴れで富士山が眼下にくっきりと見える。
 北京空港には化工大学講師で現在都立大学工学研究科の博士課程に在学中の王峰君とかつて私の学生だった孫華飛君が迎えに来てくれた。孫君は都立大学で学位を取ってから2年間九州大学で学振の特別研究員として研究を行った後、北京理工大学に職を得て帰国し、この度教授に昇進した。2人に案内されて化工大学が用意してくれた車で化工大学の隣にある貴州大厦に向かった。勝手知ったる懐かしい高速道路を走り、30分足らずで北三環東路にある貴州大厦に着いた。三つ星ホテルである。案内された5018号室は立派なスイートルームである。一泊980元らしい。
 暫く休んでいると孫教授が姜教授を伴って再登場した。姜教授は都立大学の岡教授の下に客員研究員として滞在した後化工大学に戻り、この間から理学院の副院長になったという。3人で近くの和平街を散歩した。高層アパートが建ち並ぶ静かな住宅街である。公園には太極拳をしている一団がいた。家の前に机を持ち出して麻将を楽しんでいる姿があちこちに見られた。
 北京は4年間訪れなかったが、自動車が倍増していることと携帯電話が普及していることに驚いた。因みに携帯電話は「手机」である。随分きれいなバスが走っている。しかし「面包車」が走っていない。かつては黄色い「面包車」のタクシーがたくさん走っていたが、禁止になってしまったのは残念である。この前乗っておいてよかった。2008年にオリンピックが開催されることもあって、北京の発展振りは凄まじい。建物がどんどん建っているし、道路も四環路、五環路が出来て六環路が工事中である。しかし、何故か地下鉄は増えていない。北京に最も必要なものは地下鉄網だと思うのだが。
 応用化学の山岸、金村、渡辺3先生は王君と共に昨日北京入りしている。夕方彼等と合流して化工大学に行き、「会議中心」で王学長達と顔合わせをしてから、学内にある招待餐庁でレセプションパーティーが催された。出席者は双方5名ずつに王君である。古川氏は蠍や蛇などが出されるのではないかと恐れていたが、幸いにしてその心配はなかった(らしい)。
 飽極了になってホテルに帰ると間もなく孫教授一家がやって来た。驚いたことには息子が孫教授より遙かに背が高くなっている。お茶と月餅を持ってきてくれたのは有り難いのだが、どちらも大きな箱に入っている。孫教授達と話していると黄先生から電話が掛かってきた。黄先生御夫妻が登場するのと入れ替わりに孫教授一家が帰った。黄先生もお茶と月餅と山査子ジュースと椰子のジュースを持ってきてくれた。明日は中秋節で月餅を食べる日である。山査子ジュースは「菓茶」といわれ私の大好物であるが、何故か日本では売られていない。早速一本飲んだ。
 たくさんお土産を頂いたが、さてどうやって荷物を纏めるかが問題である。
 テレビでは「寅さん」を放映していた。勿論中国語に翻訳してある。費用の関係らしいが、部屋から国際電話が掛けられないようになっていたし、部屋のミニバーにあるはずの酒瓶も冷蔵庫の中身も全て片付けられている。私は酒は要らないが、これが山住総長だったら眠れなかったに違いない。しかし、電話が掛けられないのは実に不便である。公衆電話はあるけれども専用のカードしか使えない。やむを得ず王君の携帯電話を借りて掛けた。

9月21日(星期六):

 今日は「中秋節」である。朝食後、学内見学をした。先ず図書館。一つの建物の東側を「会議中心」、西側を図書館に使っている。館長から説明を聞いた。6階建て14000m2の真新しい図書館に65万冊の蔵書があるという。開館は平日が8時から22時、土日は9時から16時となっている。IDカードを使って出入りが出来、鞄を持って入ることが出来るのが特徴であるという。6階は情報センターになっている。6階の廊下に漢詩等が書かれた紙が貼られている中に「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋聲」があるではないか! しかも「朱熹」と書かれている! 説明役の中国人に聞いてみたら「これは中国では皆勉強している」という。この漢詩は朱熹の「偶成」として日本では誰でも知っているが、何故か中国人は知らなかった。最近の研究によれば、この漢詩は日本製である可能性が高いというのだが・・・。逆輸入かも知れない。
 次に、応用科学研究所や納米研究中心などを見学した。イギリス人のDavid Evans教授が主に説明してくれた。ここには学長の10倍の給料を取っている教授もいるという。節電のために廊下の電気が自動消灯になっていて屡々消えるが、手を叩けば再び点灯するようになっているのが面白い。時々柏手を打ちながら説明してくれた。
 この11月に工学院大学で開かれるシンポジウムに参加するメンバー達と招待餐庁で昼食を食べた。昨夜と同じような料理が並んでいて量が多い。皆はロ卑酒を飲み、私は菓茶を飲んだ。出された月餅を全て食べてみたが、一つ一つ味が違っていて楽しい。またまた飽極了である。
 午後は「会議中心」で両大学の学術交流について会議が開かれた。先ず、王学長から化工大学の概略が説明された。それによると、化学工業系の単科大学として1958年に開学した化工大学は、現在約1万人の学部生と約2000人の大学院生がいるという。3つのキャンパスがあり、学部の1、2年生はこことは別のキャンパスで教育を受けている。所謂重点大学に指定されていて、40何番目かにランクされているという。工、理、経済、人文の4系統の教育・研究を行っているが、「化工大学」という名前の通り現在は理系が中心であり、化学系が約25%を占めている。総合大学化を目指していて、大学院の入学定員を修士約1000名、博士約200名に増やす予定であるという。国際交流に力を入れていて、現在20校と協定を結んでいる。日本の大学では東京理科大や工学院大と協定を結んで交流を進めている。都立大学とは工学部と協定を結び、理学部とも交流があるが、大学間の交流協定に発展させることを期待しているということである。11月にシンポジウムで訪日する際に協定締結を実現することを目指して努力することを約束した。
 学内では卓球を楽しんでいる学生達がいた。台はコンクリート製、ネットは煉瓦であるが、台が彎曲しているのが可笑しい。
 ホテルに戻って着替えをして、招待餐庁で夕食を食べてワゴン車で空港まで送ってもらった。西安へは国際交流部の耿副部長が同行してくれる。ミシガン州立大学で学位を取ってきた若手である。CA1205便19時30分発の西安行は1時間半足らずの飛行であるが、月餅付きの食事が出された。これなら乗る前に食べる必要がなかった。
 北京空港でも機上からも満月がきれいに見えたが、西安に着いてみると一段ときれいに輝いている。その昔阿倍仲麻呂が故郷を偲んで眺めた月を、今こうして西安で眺めることが出来るのは感慨深いことである。西北工業大学の国際交流部副部長が出迎えてくれた。
 迎えに来てくれた西北工業大学のワゴン車はもの凄い運転で「快走」し約50分で大学の迎賓館に着いた。北京で「快走」には慣れていたつもりだったが、全くレベルが違う! それにしても、北京に比べれば西安では古い車が多い。
 3階の6319号室に落ち着いた。昨夜の貴州大厦と同じ位の大きさのスイートルームであるが、冷蔵庫がない。1泊480元らしいからやむを得ない。6階建てで、3階から上がアトリウムになっている。3階の私の部屋の前が「憩園茶秀」というラウンジになっている。そこで軽く酒盛りをしてから部屋に引き上げた。風呂の温度調節が難しかった。「手紙」が配給制になっていて、一日分が極少ない。

9月22日(星期天):

 7時半に2階の食堂に集合して朝食を食べた。極めて質素な食事であるが、飽極了続きで胃が疲れているから、この方が有り難い。新入生達は「軍事訓練」のために軍服を着て整列行進をしている。石原知事が見たら喜びそうな図である。
 8時30分に出発して兵馬俑に向かった。車も運転手も昨日と同じである。日曜日とあって兵馬俑は相当な人出である。日本人の団体もかなりいる。日本語の出来るガイドを雇って見学した。博物館には世界遺産に指定されている兵馬俑の様々な出土品が展示されている。兵馬俑は写真やテレビなどで何度も見ているが、現場に来てみると迫力がまるで違う。秦の始皇帝は長城と兵馬俑を後世に残した。「人民に莫大な犠牲を強いて何の役にも立たない物を造った」という批判をする人がいるが全くの的外れである。長城や兵馬俑によって後世の人々は莫大な富を得ているのである。即ち、現在の中国は始皇帝の遺産で食っているようなものである。この兵馬俑は1974年に井戸を掘っていた農民達が偶然に発見したものであるが、現在までに一号坑二号坑、三号坑の3つが発掘されている。その発見者の一人が日曜日には売店に出て買った案内書に署名してくれるという。その気になって日本語版を買い、発見者の楊さんから署名してもらった。兵馬俑の模型を売っているコーナーでは「園外で農民達が同じような物を売っているが、土が違うから柔らかくて直ぐに壊れてしまう」というので、またまたその気になって買ってしまった。外に出ると子供達が寄ってきて「兵馬俑。50元。30元。20元。1500円」などといっているが、本物を買ってきたので贋物には見向きもしない。
 兵馬俑で時間を使い過ぎたので、始皇帝陵は車で走りながら眺めるだけにして、華清池へ急ぎ、食事をしてから見学した。池の中に真っ白い楊貴妃の像が立っている。物の本の伝えるところによれば、中国の代表的美人では楊貴妃が「胖」、西施が「痩」である。白居易は『長恨歌』の中で「春寒賜浴華清池 温泉水滑洗凝脂」と歌っている。楊貴妃が凝脂を洗ったという「海棠湯」は湯が入っていないせいかも知れないが、楊貴妃のイメージとはかけ離れていた。玄宗皇帝と楊貴妃は冬の間をここで過ごしたという。『長恨歌』は「春宵苦短日高起 従此君王不早朝 承歓侍宴無閑暇 春従春游夜専夜 後宮佳麗三千人 三千寵愛在一身」と詠んでいるが、これでは反乱が起こってもやむを得ないだろう。今でも43度の温泉が豊富に湧出している。園内には毛沢東筆の『長恨歌』もある。ここは1936年12月12日に起きた「西安事件」の舞台でもあった。
 空海が修行した青龍寺に寄ってみた。何と!ここにも「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋聲」があるではないか! 日本風の庭園が広がる境内では何人かの花嫁達が記念写真の撮影をしていた。そういえば、今日は途中で結婚式の車に何十回も出会った。単なる日曜日ではなく余程日柄が良いらしい。随分親切にこの寺や空海に関する説明をしてくれると感心していたら次の間に案内され、参拝者名簿に署名するよう勧められ、成り行きで筆と墨を買ってしまった。うまく乗せられたものである。空海記念堂でも参拝記念の署名をした。空海記念碑も日本の仏教界の寄贈である。
 夕食は大学の近くにある「永明岐山面」という拉面屋に登楼した。当地の名物だという拉面と中華ハンバーガー(「大餅」といわれる「ナン」のようなパンの間に羊肉を挟んである)を食べた。拉面は細い麺で、「辣」「中辣」「不辣」とある。金村先生と王君は「辣」を注文したが、私は勿論「不辣」を注文した。これは好吃だったが、ハンバーガーが少し辛かった。7人で92元! 

9月23日(星期一):

 朝食を学生食堂で食べようと思って行ってみたが混んでいたので諦めて、昨日と同じく迎賓館の食堂で食べた。8時30分に出発して、陝西歴史博物館を訪れた。唐代の伝統的な宮殿建築様式の館内には先史時代の彩陶瓶、殷・周時代の青銅器、唐代の金器や銀器、唐代の墓の壁画や唐三彩などが展示されており、中国文化の質の高さに圧倒される。次に大雁塔へ行った。大雁塔三蔵法師が天竺から持ち帰った教典を翻訳した所である。塔は少し傾いている。塔に登って市内を展望した。どの方向にも山は見えない。陝西省は山の多い所かと思っていたが、西安のある盆地は広大である。奈良や京都とは比較にならない。
 昼食は「坊上人清真飯庄」で「羊肉泡糢(正しくは食偏)」という当地独特の料理を味わった。各人が「大餅」を細かくちぎり、羊肉スープで煮込んでもらって出来上がりというものである。古川先生だけは牛肉を選んだが、羊肉はなかなかに好吃であった。王君と運転手が話していて「羊肉泡糢」の発音が北京と西安とで違うことが分った。「西安」の発音も違う。西安の発音は抑揚が少なく日本語(つまり、私の発音)に近い。王君が「これは西安の方言です」というから「とんでもない。西安は唐の都であったのみならず東洋一の大都会だった。北京とは歴史が違う。従って、中国語は西安が標準語で北京が方言だ」とたしなめた。
 午後は西北工業大学を訪問して副学長達と懇談した後、学内見学をした。ここも重点大学であり、巨大なキャンパスを持っている。キャンパス内の道路には総てプラタナスの街路樹が植えられているが、面白いことにどの木も3m程の高さで枝分かれしている。
 西安における最後の晩餐は運転手夫妻(運転手と国際交流部副部長とは夫婦だった。どうも怪しいと思っていたのだが・・・)を招待して、「文豪雑糧食府」に登楼した。実際にはこの店を推薦したのも我々を運んでくれたのも運転手夫妻である。彼等の薦めで羊の血で造った豆腐を始め実に珍しく好吃な料理が食卓に並んだ。高粱で作った団子は懐かしい味だった。1000元位かなと思ったら大違いで、284元だった。9人で284元は実に安い!很好!
 今回も連日好吃な料理で飽極了になったが、一つだけ不満があった。それは、トマト(西紅柿、番茄)が美味しくなくなってしまったことである。数年前まで、中国のトマトは数十年前の日本のトマトと同じく、十分に陽光を浴びて育まれた「本物のトマト」であったが、今回は出されたトマトが総て現在日本で食べ(させられ)ている「トマトもどき」と全く同じ物だった。昨今日本は中国から大量の野菜を輸入しているが、その影響で中国の「本物のトマト」が姿を消してしまったのではないかと気になる。そうだとすれば、グローバル化による(食)文化の破壊である。グローバル化断固反対!
 初めて中国に行ったとき、ジュースの空き缶を捨てようと思ったら「果皮箱」ばかりで戸惑った。今回は「廃棄箱」「回収箱」などゴミ箱の種類が増えていた。また、以前は便所は「厠」と表示されていたが今回は殆どが「手洗」に変わっていた。これらも日本からの輸入文化かも知れない。
 いつもの事ながら、今回も様々な表示を楽しんだ。「駐車禁止」「厳禁逆行」「小心地滑」「頭上注意」「麦当労」「肯徳基」「可口可楽」などなど・・・。また、「行車道」「超車道」「禁止長時間専用超車道」など高速道路の標識は実に分かり易い。しかし、タクシーの運転席が厳重にガードされているのには驚いた。余程治安が悪いのだろう。

9月24日(星期二):

 いつものように朝食を食べて8時30分に出発し、先ず碑林を見学した。1090年(北宗時代)に創建された館内には7つの陳列室があり、漢代から近代までの石碑と石刻が2300点以上展示されている。拓本を採る作業があちこちで行われていた。ここには孔子の墓もある。碑林に車をおいて城壁に登り南門まで歩いてみた。随分立派な城壁を造ったものである。明の時代にレンガを積み重ねて築いたもので、一周13.7kmの長方形、高さ12m、上部の幅12m、底部の幅15mである。近々城壁の上でマラソンが行われるらしい。帰りは電気自動車に乗った。その後鼓楼に行って直径3mほどの太鼓を叩いた。1380年の建築というから随分古い建物である。市の中心にある鐘楼などを眺めて今回の歴史探訪を終了した。西安は東洋文化の中心であり、日本文化の故郷である。
 南門の近くにある文房四宝横町に行って印泥と筆を買った。丁度小学校の下校時間に当たり、子供達が歌を歌いながら校門から出てくるところだった。大勢の母親が門前まで迎えに来ているのは一人っ子政策の為せる業か。
 シルクロードの東の起点であった西門をくぐって空港まで送ってもらい、すっかり馴染みになった運転手と別れを惜しんだ。「快走」にはすっかり慣れた。西安も北京と同様に道路は素晴らしく広いが、全員が守っている交通規則は「厳禁逆行」だけであるということが分かった。それ以外は全て「自由」らしい。それにしては一度も事故を目撃しなかったし、傷ついた車も殆ど見掛けなかった。中国人の運転技術は凄いというべきだろう。日本では「規則を守っていれば事故は起きない筈である」と思って運転しているが、中国では絶えず他車の動きを見極めながら一歩でも先に出ようとしているように見える。日本のように規則ずくめではなく、中国では何事によらず自由である。中国は共産主義体制・資本主義経済、日本は資本主義体制・共産主義経済であることを改めて確認することが出来た。

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