台湾貴賓道中記

 2004年12月、台日高等教育改革国際シンポジウムに参加するために、筑波大学の北原前学長とともに台湾を訪れた。以下はその時の旅日記である。

12月9日(星期四):

 11時30分発の日本アジア航空EG203便に乗るために、新宿発8時3分の成田Expressに乗った。成田空港に着いて、カウンターを探していると、近畿日本ツーリストの人達が目ざとく見つけて声をかけてくれた。「北原先生は道路が空いていて予定より早くお着きになり、チエツクインを済ましてラウンジに行かれました」という。早速チエツクインして後を追い、ラウンジを覗いてみたが、姿が見えない。キョロキョロしていたら、後ろから声をかけられて「土産物を見てからエスカレーターに乗ったら後ろ姿が見えました」といわれた。
 十分時間があると思って、ゆっくり新聞を読んだり喉を潤したりしていると、11時10分過ぎに「EG203便の最終案内・・・」というアナウンスが聞こえたので、慌てて搭乗口へ急いだ。我々が乗り込むとドアが閉められた。定刻より早い11時20分の出発である。予め指定されている席は北原先生御夫妻が4Hと4K、私が5Hであるが、随分空いていて半分以上が空席である。私は荷物を預けずに機内に持ち込んだが、「隣の席が空いていますから、そちらの座席の下に置いて下さい」という。珍しいことに、客室乗務員の一人は白髪初老の男性である。機内の放送は日本語、英語、中国語、台湾語で行われている。
 右下に見える高い山々の頂は雪を冠っている。12時に飲み物が出され、12時35分に昼食が用意された。和洋3種類ある中で、私は子牛肉の洋食を選んだ。13時30分頃に、左下に桜島がきれいに見えた。
 台北の国際空港は中正国際機場と呼ばれている。英語名はChiangKaiShek International AirPortである。「中正」は蒋介石の本名である。14時20分(日本時間では15時20分)に着陸した。この空港は、飛行機を降りてから外に出るまでの距離が短く、実に楽である。北原先生は「パスポートをどこに入れたかな」「入国カードが見つからない」などと私の前任者の酒呑童子と同様なことを仰る。「大先生の条件を備えていますね」と冷やかしてはみたが、失せ物が直ぐに見つかるところを見ると、まだ大先生の域には達していないようだ。
 出口に我々の名前を書いた2枚の紙を持っている人がいたので、直ぐに分かったが、彼等はシンポジウムの関係者ではなく、ホテルから迎えに来た人達だった。しかし、迎えの車はベンツのS600である。走り出すと「湯島の白梅」「夢追い酒」など日本の演歌で歓迎してくれた。予め我々の好みを調査してあったらしい。昨日まで悪かった天気も、今日は我々を歓迎して晴れ上がっている。
 空港は海の近くにあり、台北市は空港の東に位置する。台北に向かう途中の丘陵は緑の木々に覆われていて、紅葉の気配は全くない。かなり走って市街地に入り、赤い建物が見えてきた。「見えた、見えた」と北原先生御夫妻は歓声を上げていた。曾て何度も泊まったことがあるという。圓山大飯店は英語名をGrand Hotelといい、地上13階、地下1階の大きなホテルである。小高い丘の上にあり、鳥居のような門をくぐって玄関に辿り着いた。柱は全て太い朱塗りの円柱であり、玄関を入ると、一面に赤絨毯が敷き詰めてある。大理石がふんだんに使われているが、台湾は「大理石の島」といわれるほど大理石が豊富らしいから、当地では廉価な建材なのかも知れない。神社のような雰囲気があるが、かつてここには北白川宮能久親王を祀る台湾神社が建っていたという。
 チェックインして、金属の大きなキーホルダーに付いた鍵とメッセージを受け取った。メッセージはシンポジウムの主催者蓋浙生所長からのもので「今晩18時30分にロビーで会いましよう」と書かれていた。私の名前が「Ogigami」と登録されていたらしく、パスポートと見比べて首を傾げていたが、直ぐに訂正してくれた。私は415号室、北原先生は405号室である。北原先生は部屋がどちら側にあるかを気にして「この部屋は街側か山側か」と聞くと、「山側です」という。「山側は景色が良くない。街側の部屋はないか」と粘ったが「満員です」とかわされた。部屋が必ずしも番号順に並んでいないので、探すのに手間取ったが、405、407、409、415と続いていた。後で分かったことであるが、日本から招かれた4人がこの4室に泊まることになっていた。
 部屋は50m2以上ある大きなtwin roomで、バルコニーが付いている。机の上には果物(バナナ、台湾オレンジ、キイウイ)を盛った皿と当ホテルの社長からの歓迎メッセージが置かれている。メッセージの宛名が「Dear Prof. Ogigami」となっているのは已むを得ない。TVを付けたら、同じ歓迎メッセージが出たが、当然「Dear Prof. Ogigami」だった。
 18時30分にロビーに行って見ると、長崎外国語大学長の光田明正先生と立命館アジア太平洋大学学長補佐の甲賀光秀先生もお揃いだった。光田先生には10月末に八王子の大学セミナーハウスで開催した大学職員セミナーでお目にかかったばかりである。孔子のDNAを受け継いでいるような漢民族でありながら、大和魂を堅持する日本人である。光田節は「立て板に水を流すような」というべきか「機関銃のような」というべきか分からないが、明快な論旨が実に軽快なリズムで語られる。「グローバル化と国際化の違い」「アイデンティティの重要性」など思わず拍手を送りたくなる。立命館大学は総長が太閤様こと長田豊臣秀吉で、その家来が明智甲賀守光秀とくれば「鬼に金棒」であろう。
 フロントに大きな「福」の字が掲げられているが、何故か倒立していないので訊いてみたら、「好みの問題だ」という素っ気ない返事だった。「福到」(福が来る)と「福倒」(福の字が逆立ちする)をかけた洒落はなかなか面白いと思うのだが・・・。
 裏2階のレストラン金龍庁で蓋浙生所長主催の歓迎夕食会が催された。眼下に淡水河の支流である基隆河の鏡のような流れに映る街の灯を見ながら食事を楽しんでいると、河の直ぐ向うを超低空で飛行機が着陸していくのが見える。先程我々が着いた中正国際機場に着陸する飛行機がこんなに近いのは変だと思って訊いたみたら、直ぐ近くに国内線用の松山機場があり、今見えるのはそこに降りる飛行機だという。台湾に多くの親戚を持ちかつ豊富な人脈を有する光田先生と、台湾で活躍している教え子達が大勢いる北原先生の話に目を丸くしながら、初めて口にする台湾の食事に舌鼓を打った。
 食事が終わって、明日の資料を渡されて驚いた。「同じものが2冊ある」と思って開いてみたら、1冊は中国語、もう1冊は日本語で書かれている。予め提出された全ての講演の原稿や資料が中国語と日本語に翻訳されていた。「講演は日本語でいい」といわれていたので、通訳が付くのかと思ったが、通訳も用意しているが「同時通訳」ではなく、参加者はどちらかの資料を見ながら講演を聞くことになるという。私が送っておいた資料も全て中国語に翻訳されている。随分大変な作業だったと思われる。
 食後1階のロビーで光田先生と明智殿と3人でお茶を飲みながら、台湾生まれの台湾育ちで孔子のDNAを受け継ぐ日本人、つまり光田先生の台湾に関する講義を拝聴した。光田先生は元文部官僚であるから、その筋の話題も豊富である。

12月10日(星期五):

 6時半に1階の食堂松鶴廰へ行った。ヴァイキング形式である。私はお粥、パン、干した果物、生野菜、生ハム、豆腐、ヨーグルト、干筍、梅干し、パパイア、西瓜、ジユースなどを食べて、飽極了になった。
 7時50分に蓋所長がDodgeの立派なリムジンで迎えに来てくれた。このDodgeは滞在中の我々の足として運転手付きで借り上げた車らしい。空港の送迎はベンツS600、それ以外はDodgeのリムジンである。国際シンポジウムに相応しいというべきか。Dodgeに乗り込んで、シンポジウムが開催される淡江大学へ向かった。北京は自転車が多いが、台北はバイクが多い。
 沿道には人名を書いたたくさんの旗が立てられていて、ところどころで若者達が懸命に旗を振っている。明日は立法委員(日本の国会議員に相当)の選挙の日であり、今日が選挙運動の最終日であるから、応援に力が入っているらしい。
 淡江大学は1950年に創立された台湾で最初の私立大学であり、淡水江の河口に近い丘の上にある。今回のシンポジウム「中日両國高等教育改革國際學術研討會」は、中華民国教育部、つまり文部省の指導の下に、淡江大學教育政策與領導研究所と高等教育研究與評鑑中心が主催して、淡江大学淡水キヤンパスの覚生國際會議廰で開催される。大学に着いて、外が見えるガラス張りのエレベーターに乗って会場に案内された。
 会場にはきれいな中国服の姑娘達と黒のスーツに身を固めた女子学生達が大勢いて、会場整理や案内、サービスなどに携わっている。受け付けで胸に名札を付けられ、部屋に入ると、最前列の真ん中の机の上に「中日両國高等教育改革國際學術研討會 演講人 荻上紘一總長」と書かれた名札が置かれていた。北原先生と光田先生には随分大勢の朋友達が挨拶をしている。北原先生は全て日本語であるが、光田先生は相手によって日本語と中国語を使い分けている。
 会場からは淡水江の河口が眼下に望め、その向うには観音様が寝ているように見えるといわれる観音山がきれいに見えている。
 9時に会議が始まり、先ず淡江大学の張校長家宜が大学の紹介を兼ねて、通訳付きで、開会の挨拶をした。大変な美人である! 彼女の名前は張家宜であるが、台湾では張家宜校長ではなく張校長家宜と書くことが多いという。淡江大学では世界の70以上の大学と交流があり、その中で日本の大学は14校、毎年50名以上の学生を派遣しているという。伝統文化が西洋文化に侵略される風潮に苦言を呈したのには全面的に同感であるが、その例として紹介された「本学の真面目な学生が日本に留学して茶髪になった・・・」には爆笑。
 次に予定されていた淡江大学創立者で美人校長のお父上である張建邦博士の挨拶は「健康上の理由」で省略された。張建邦博士は現在は中華民国総統府資政である。
 次に、このシンポジウムの支援者である台湾日本研究学會・亜太文経學術基金會理事長許水徳氏の挨拶があった。許水徳氏は東京教育大学に留学したことがあり、高雄市長、台北市長、国民党秘書長、中央政府内政部長(日本の自治大臣に相当)、台北駐日経済文化代表処代表(駐日大使に相当)などを歴任した大物である。許水徳氏も中華民国総統府資政を務めている。
 休憩を挟んで、1つ目のテーマ「大学行政法人化」が始まった。司会は元教育部長(日本の文部大臣に相当)の楊教授朝祥、パネリストは台湾側が淡江大学の周教授志宏、日本側が北原学長保雄である。楊朝祥氏は現在淡江大学教授である。パネリストの講演が60分、質疑応答が15分に設定されている。
 続けて2つ目のテーマ「大学学術水準の向上」に入り、元教育部長の黄教授栄村の司会で嘉義大学の楊学長國賜と私がパネリストを務めた。黄栄村氏も現在淡江大学教授である。楊学長は主として台湾における研究水準の向上について報告し、私は日本の大学の現状と「質の保証」、「競争と評価」、「個性輝く大学づくりの支援」などについて報告した。
 昼食は弁当が配られた。我々は別室で弁当を食べ、果物を楽しんだ。昼休みキヤンパスを見学した。淡江大学のシンボルであるイルカの後ろに見える高い建物が会場である。
 3つ目のテーマ「大学経費の調達」は2時から始まった。司会は前教育部長の毛教授高文、パネリストは台湾大学の陳校長維昭明智殿である。台湾では、選挙の度に大学が増えて、この10年間に大学数が倍以上になったというが、政府による財政支援は大幅に減っているらしい。陳校長は台湾のNo1大学の学長の立場から、明智殿は日本の私立大学の立場からの発言で非常に面白かった。教育部長経験者達に対して私立大学関係者達から様々な不満がぶつけられたのに対して「自分が教育部長の時には・・・を実施した」と実績を強調していたのが可笑しかった。どうやら台湾でも国高私低らしい。
 最後のテーマは「大学生の価値観」である。司会は元教育部長の郭教授為藩、パネリストは台湾大学の黄教授俊傑光田学長明正である。歴史学が専門の黄教授は「伝統」と「現代」の対話、「科学技術」と「人文」の交流、「グローバル的視野」と「現地文化」の融合の重要性を説き、自ら実践している「東亜人文伝統」と題する講義の紹介をした。一方、今日の光田節は中国語で演じられたが、名調子は日本語の場合と少しも変わりがなく、グローバル化の進展によって伝統の軽視、歴史観の欠如が進み、自身喪失、自信喪失に繋がっていることに苦言を呈した。両先生の主張に全面的に賛成の私は、質疑応答の中でエールを送った。
 最後は許理事長水徳による閉会の挨拶で締めくくられた。
 淡江大学創立者張建邦博士主催の歓迎夕食会が催される福華大飯店(Howard Plaza Hotel)までDodgeで移動した。福華大飯店は台北市の中心に近い復興南路にあり、途中渋滞もあったのでかなり時間がかかった。大きなグラスと小さなグラスがあり、大きなグラスに好みに応じてジユース、烏龍茶、水などが注がれた。「今夜はアルコール抜きかしら」と思ったが、さにあらず。小さいグラスにヰスキイが注がれた。張建邦博士の歓迎の挨拶に続いて「乾杯」が繰り返された。誰かが「張校長は凄い美人だが、お父上に似ていませんね」というと、張建邦博士は「母親が美人ですから」と嬉しそうだった。美人校長は日本人達に向かって「日本式の乾杯をしましょう」という。杯を飲み干して傾けて見せなければならない。次々と素晴らしい御馳走が運ばれてきたが、中でも伊勢海老(こちらでは台湾海老というのかしら)は絶品だった。北原学長保雄夫人は「こんな幸せはありません」と絶賛した。
 美人校長父娘と許理事長がそれぞれベンツに乗って帰るのを見送ったが、我々のDodgeは一向に現れない。いつの間にか誰もいなくなってしまい、心細くなりかけた頃にDodgeが登場した。別の出口で待機していたらしい。復興南路は街路樹が立ち並ぶ分離帯で3分割され、幅が100m位ありそうな素晴らしい道路であるが、南行の車線は真ん中にあるバス専用の1車線だけである。バスの車線が真ん中にあるのは、道幅が広いので、どちら側からも不平が出ない様に中をとったということかしら。

12月11日(星期六):

 7時に朝食を食べ、9時半にDodgeに乗って国立故宮博物院へ向かった。光田先生と明智殿は別な約束があるということで、Dodgeに乗ったのは北原先生御夫妻と私だけだったが、案内役として淡江大学日本語学科の闕文三講師と学生の陳元貴君が来てくれた。博物院は圓山大飯店の北東に位置し、20分程で着いた。博物院大規模改修中とのことで、横門から入場した。大変な賑わいである。工事中ということで本来の1/4程度しか解放していない様であったが、初めて訪れた私にとっては很好であった。陶磁器、銅器、鉄器、書画、玉器、皇帝の印章などなど様々な展示品があったが、有名な翠玉白菜、赤壁之賦を刻した虫、17重の球などは特に素晴らしかった。それにしても、17重の球を如何にして彫ったかは「地下鉄をどうやって地下に入れたか」などとは比較にならない程不思議である。
 大規模改修中で見られる部分が少ないせいだろうが、入場券に「当参観券をお持ちの方は本日より2006年12月31日まで、再び無料参観が出来ます」と書かれていた。
 館内を一回りして外に出ると、12時15分前だった。北原先生が「忠烈祠に行って見よう。衛兵の交替が見られそうだ」と言われ、大急ぎで圓山大飯店の直ぐ近くにある忠烈祠に駆けつけた。丁度12時で、衛兵の交代式が始まったところだった。ここには国民革命、抗日戦争、中国共産党との戦いなどで戦死した将兵屋久3万の英霊が祀られているという。本殿は紫禁城の太和殿を模して造られている。衛兵は本殿2名ずつが直立して警備に当たり、1時間で交替するという。12月というのに随分暑かった。
 昼食は、蓋所長浙生が小籠包の店「鼎泰豊」に招待して下さるのであるが、この店は余りにも有名で席が取れない。そこで許理事長水徳が「私も行きます」ということになり、3階の個室が確保された。1階にある調理場はガラス張りである。待ち人数が表示されているので、隣の本屋で順番待ちをするらしい。蒸籠で運ばれてくる小籠包と餃子を心ゆくまで楽しむことが出来た。好吃かつ飽極了。筑波大学で北原学長保雄から学位記を授与され、現在は国立政治大学日文系主任、台湾日語教育学会理事として活躍している于教授乃明女史も加わって、楽しい昼食会だった。
 北原学長保雄夫人が買い物をするというので見学した。飛行機内にあったパンフレットに載っている中国服の店である。行ってみると銀行だか保険会社だかのビルの中にある小さな店だった。夫人が試着するのを文句を言いながらも嬉しそうに見守る北原学長保雄のやさしい旦那振りをとくと観察することが出来た。夫人が2枚のうちどちらにしようかと迷っていたので、「私は迷ったときには両方買うことにしています」と提案したら即座に採択された。この提案が有効活用されて、結局3枚買う結果になった。優しい旦那は文句を言いながら嬉しそうだった。
 これから同窓会を開くという北原学長保雄夫妻と于教授乃明女史を圓山大飯店に送り届け、再び市の中心に戻って、中正記念堂を訪れた。天安門広場の毛沢東記念堂と同断である。蒋介石の座右の銘だった「大中至正」を冠した正門を入ると、左右に国家音楽廳と国家戯劇院があり、正面に記念堂が建っている。音楽廰の前には黄衣を纏った宗教宝林(法輪功)の一団が座っていた。日本から来た修学旅行の高校生もいた。隣には国民党本部があり、その先には台湾大学医学部がある
 直ぐ近くにある総統府、別名介壽館へ行った。1919年に建設された日本統治時代の総督府を修復したものである。内部開放は午前中だけらしいので、外観だけ眺めて龍山寺へ行った。
 1738年に建てられた台北最古の寺院だという龍山寺は狭い境内が人で一杯だった。門を入ると右手にがあり、前殿(三川殿)の脇の門から中に入ると、机の上に花や供物が並べられ、線香の煙が立ちこめていた。本殿の前では大勢の熱心な信者達が赤い本(経典)を手にして、きれいなリズムで観音経を合唱していた。毎日9時と4時に読経をするらしい。本尊は観世音菩薩である。本殿の裏には道教の神々を祀る社が幾つかある。闕文三講師陳元貴君は「これは学問の神様ですから私達は拝まないといけません」といって、一つの社に参拝していた。外に出たら、先程中正記念堂にいた修学旅行の高校生がバスから降りてきた。
 直ぐ近くにある華西街観光夜市を歩いてみた。台北の仲見世といったところである。ここは許理事長水徳が台北市長をしていたときに整備したという話を昨夜聞いていたが、そのことが石碑に記されている。「北海道新鮮尤魚」と書かれた看板が掲げられている。「尤魚」とはスルメイカのことらしい。日本語の看板も混じっている。マツサージ屋が何軒かあり、蛇を売る店や蛇料理屋もあるが、まだ時間が早いせいか人が少なかった。チンドン屋が通った。「檳榔」の看板を掲げた屋台があちこちに出ている。椰子科の常緑高木檳榔樹の実を青いうちに採ったもので、噛むと一種の覚醒作用があるらしい。
 5時半に圓山大飯店に戻って北原学長保雄夫妻をピックアップし、許理事長水徳主催夕食会に向かった。今日一日ガイドを務めてくれた若者2人が途中で下車した後、淡水江沿いに南下した。淡水江は大河である。着いたところは先程までいた華西街観光夜市ではないか。曽遊の地である。「台南担仔麺」という店の中は夜市街とは別世界の様に豪華だった。通されたベルサイユの間で、100万元というガラスの大きな丸いテーブルを囲んで座った。許理事長水徳夫人もお見えになっている。明智殿は朝から別行動だったが、流石は甲賀流、迷わずにここに辿り着いたという。海鮮餐廳というに相応しく、海老、あわび、みる貝、貝柱など様々な海の幸を楽しむことが出来た。刺身も出されたが、これも素晴らしかった。北原学長保雄夫人は今夜も「こんな幸せはありません」と絶賛したので、「昨夜と同じ感激ではいけません」と異議申し立てをした。「どういえばいいのでしょうか」「明日の飛行機が墜ちても悔いはありません」「それはいやですよ」・・・。許理事長水徳には昼も夜もおつきあい頂き恐縮の極みであった。
 外に出てみると、夜市街は大変な人混みである。蛇や鼈を売る店も繁盛している。マッサージ屋にもたくさん客が入っていた。龍山寺まで歩いて行き、もう一度参拝した。先程の様に人が多くはなかったが、夜間照明がきれいだった。Dodgeが待機しているところまで戻るために、夜市街を引き返した。これで龍山寺を2回、華西街観光夜市を3回訪れたことになる。圓山大飯店に戻ったら10時だった。

12月12日(星期日):

 7時半に朝食を食べ、周辺の散策などをして、10時50分にベンツS600で中正国際機場に向かった。関西空港に向かう明智殿は出発が我々より遅いので、「また日本でお会いしましょう」といって分かれた。途中かなり渋滞があり、機場に着いたのは11時50分だったが、我々の乗る日本アジア航空EG204便は14時10分発だから、十分過ぎるほど時間がある。ところが、掲示板を見ると、何と!出発時刻が15時30分に変更されているではないか。「機材到着遅れのため」という。こんなことなら何処かを見物してくることが出来たではないか。已んぬる哉!何か嘆かん今更に。チェックインカウンターでは「ホテルに御連絡致しましたが、お出かけになった後でした」ということで、空港内のレストランで使える1人250元の「お食事券」が渡され、レストランが並んでいるところまで案内された。「汚職事件」になりませんかなどといいながら、私は牛肉うどん、北原学長保雄夫妻は海鮮うどんを食べた。どちらも180元だった。機内で食事が出るから軽いものをということでうどんにしたが、結構飽になった。土産物店に入って見ると、様々な品々が並べられているが、日本人向けに作られた物が多い様に見える。「買六送一」と書かれている菓子があった。「六個買えば一個オマケ」という意味である。北原学長保雄夫妻は六個買った。七個持ち帰るのは大変だろうと他人事ながら心配したが、流石に旅慣れた先生は違う!鞄から小さく畳んだ南京袋を取り出して、七個の菓子箱を難なく収納してしまった。やがて、先程の職員が迎えに来てくれて、出国手続きを済ませ、ラウンジまで案内してもらった。それにしても時間があり過ぎる。やがて明智殿が現れた。我々がいるのに驚き、意外に早い再会を喜んで、搭乗口へ向かった。明智殿の便は定刻15時05分の出発である。
 やっと15時になり、搭乗することが出来たが、「2名の方が搭乗していないので、荷物を下ろします」・・・「2名の方が見つかりました」などというアナウンスがあって、実際に離陸したのは15時40分だった。機内は往路と同様に空いていた。我々の乗ったEG204便JA8154機はジエツト気流に乗って順調に飛行し、成田空港に近付いた。「着陸する飛行機が多いので暫く待機します」という機長からのアナウンスがあり、雨雲の中を飛行していたとき、突然「ドーン」という音がして閃光が走った。何かがぶつかったのかと思ったが、暫くして機長から「機体が雷に撃たれた」という説明があった。北原学長保雄夫人から「怖かった。先生が昨夜あんなことをいったからですよ」と怒られた。空港に着いたら、近畿日本ツーリストの人達が迎えに来てくれていた。

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