公立はこだて未来大学訪問記

忘月忘日 文部省関係の仕事を済ませてから新宿の都民ホールで開催される公開講座に出席し、その途中で抜け出して羽田に駆けつけて、函館行きの最終便 JAL 547 便に乗ることになっていた。公立はこだて未来大学の開学記念式典に出席するためである。昼過ぎに入った情報では、天候不良の影響で1時間半乃至2時間遅れて出発の予定であるという。当日は発達中の低気圧が接近して台風のような天気だった。出発が遅れているなら講演を最後まで聞いていこうかと思ったが“万一”の場合を慮って、前半が終わって休憩になったところで出発した。
 羽田に着いて表示を見ると「定刻」となっている。「おかしいな」と思って念のために確認したら「飛行機が入っていますので定刻に出発します」とのことだった。代替の機材を用意して定刻に出発することにしたらしい。危うく乗り遅れるところだった。前後して、錦君と影本君も登場した。
 我々の乗った JAL 547 便ボーイング777型機は定刻に出発して、雲の絨毯を踏み続け、まだ明るい函館空港に着陸した。♪ はるばる来たぜ函館へ・・・
 タクシーで駅前飯店へ向かう途中で松風町を通った。♪ 灯りさざめく松風町は・・・ まだ明るいので灯りさざめいてはいないが、何となく寂れているような気がする。運転手に聞いてみると、最近は街の中心が五稜郭の近くに移ったためにこの辺りは以前のような活気がなくなってしまったという。
 6時前にチェックインすることができた。約束の時間まで少し間があったので、函館駅を覗いてみた。北海道の玄関というにしては随分小さい駅である。湿度の高い東京から来たせいか非常に爽やかである。電光板には気温15度と表示されている。
 6時半に未来大学の伊東学長と佐野先生が迎えに来て下さった。佐野先生は未来大学の開学準備委員会会長でいらっしゃる。東雲町にある「東雲」という料亭に“登楼”して懇談会が開かれ、伊東、佐野両先生から未来大学設立の苦労話や未来大学の未来について詳しく拝聴することができた。この大学の設立には山口大学の広中平祐学長も多大な貢献をされたという。「ということは、未来大学は官軍が函館に創った大学ですね」 因みに佐野先生と広中先生はともに長州の御出身である。
 ホテルの部屋の窓から、かつての青函連絡船「摩周丸」のイルミネーションが見える。函館といえば夜景が有名であるが、もう少し高いところに登らないと見えないので諦めて寝ることにした。夜中に隣室から錦君の発する重低音の鼾が聞こえてきたが、無視して眠ることができた。
 朝起きてみると、部屋から函館山と摩周丸が見える。♪ 函館山の頂で 七つの星も呼んでいる・・・ 朝食を済ませて9時前にタクシーで大学へ向かった。錦君が運転手に「午後市内を観光したいけれど、そういうタクシーがある?」と聞くと「私がやりますよ」「じゃあ1時に来て」ということでたちまちにして商談成立。
 大学はなだらかな坂を登った北の町外れにあり、既にかなりの人が集まっていた。受付を済ませたが、何処へ行けという指示がないので勝手に庭に出て建物を見学した。校舎は緩やかな傾斜地に建っていて、銀色の金属とガラスでできている大きな直方体が一個である。「何となくサティアンみたいだね」という声が聞こえてきた。
 式典の開始時間が近付いてきたので式場に入ってみると、来賓席が7人分あってその中に「公立大学協会会長 荻上紘一様」と書かれた席があるが、まだ誰も着席していない。「おかしいな」と思って受付に戻ってみると、赤いバラが1個残っている。聞いてみると私の分だった。大急ぎで学長室に案内されて、函館市長や北海道副知事等来賓の方々と挨拶を交わし、皆で式場へ向かった。式典は設置者である函館圏公立大学広域連合長である函館市長の挨拶で始まり、学長の挨拶、事務局長による開学までの経過報告、文部省高等教育局長代理、北海道副知事、私、佐野先生と祝辞が続き、最後に美馬のゆり教授による大学紹介が壁面への投影を用いて行われた。システム情報学部に複雑系科学科と情報アーキテクチァ学科の1学部2学科構成、入学定員240名の小規模な大学であるが、世界で初めての複雑系科学科と人間中心の情報科学を教育する学科というユニークさが特色である。
 引き続き開学記念モニュメントの除幕式と学内見学が行われた。佐野先生、北大の伊藤先生と一緒に両学科長に詳しく案内して頂いた。伊藤先生は佐野先生と一緒に開学準備委員を務められた方である。建物は鉄とコンクリートとガラスで造られていて、木は一切使われていない。青森の公立大学が青森檜葉をふんだんに使っているのと対照的である。建物の南面は一面のガラス張りであり、函館の街が一望できる。驚いたことには、教室も研究室も全てガラス張りであり、廊下から中が丸見えである。先生方は研究室で居眠りをすることができないから、仕事がはかどるに違いない。建物は5階建てであるが、1階から5階まで吹き抜けになっていてオープンスペースが大きく、実に開放的である。これほどユニークな大学の建物は見たことがない。学生が勉強するための机が十分に配置されていて、全てに情報コンセントがついている。学生は全員がノートパソコンを持っていて、学内で自由に使えるようになっているという。
 12時から祝賀会が函館市長の乾杯で始まり、青森公立大学の加藤学長の締めの言葉で散会となった。函館と青森は双子都市として協力関係にあるという。釧路公立大学の荒又学長もお見えになっていた。

 朝のタクシーが1時前に来て待っていたので、早速市内見学に繰り出すことにした。函館といえば五稜郭が有名であるが、四稜郭というのもあるというので寄ってみることにした。直ぐ近くだといって走り出したがなかなか見つからず、さんざん迷って辿り着いた。「五稜郭の背後を固めるために急造した洋式の台場」と説明されているが、水の無くなった釣り堀程度のものである。すっかり葉桜になった木に残り花が幾つかついていて、非常に遅い花見が出来た。
   散り残る桜ちらほら四稜郭
 次に五稜郭へ行ってみた。四稜郭より遙かに大きく立派であり、随分人が出ている。「四」と「五」の違いは絶大である。「ここは立派だが、四稜郭は物の役に立たないね」といったら、錦君曰く「思慮を欠くですからね」と。傑作である!座布団5枚! 藤と躑躅がきれいに咲き誇っている。藤棚の下を通って中へ入るときに良い香りがした。
   藤棚の甘き香りや五稜郭
ドイツ製とイギリス製の大砲が置いてある。運転手兼ガイドが「信州にも小さな五稜郭があって、今は小学校が建っているそうです」という。長野県人としては黙っているわけにはいかないので「そう、あれは臼田町にあって、今は田口小学校が建っているが、当時の建物が一つだけ残っている。藩主松平乗謨公は日本赤十字社の創立者です」と補足した。
 土方歳三最期の地へ行って多摩出身の英雄に敬意を表した。戒名は「歳進院殿誠山義豊大居士」である。錦君と影本君は祝賀会に出ないで未来大学について勉強していたので「餓」になったという。「錦君は十分蓄えがあるから一食位抜いた方が良いよ」と忠告したが聞く耳を持たずに「龍園」という名前は立派だが頗る小さなラーメン屋に飛び込んだ。
 町の中にある「酒は涙かため息か・・・」の碑と高田屋嘉兵衛の像を見て、石川啄木一族の墓に表敬した。啄木は出身地の岩手よりは函館で評判がいいらしい。
 立待岬に出てみた。はまなすが群生している。♪ 瞼の裏に咲いている 幼なじみのはまなすの花・・・
   はまなすの岬に休む渡り鳥
下北半島と津軽半島が一望でき、反対側には駒ヶ岳が見える。津軽海峡夏景色は実に素晴らしい。
 啄木が
   函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢車の花
と詠んだ青柳町を通り、亀井勝一郎生誕地に立ち寄って、函館山の中腹を巡った。カトリック元町教会、地元で「ガンガン寺」と呼んでいる青い屋根のハリストス正教会、東本願寺別院、・・・、函館は神社仏閣、特に教会が多い。八幡坂の上にある函館西高校からは摩周丸が眼下に見える。文字通り「港の見える丘」である。港には函館ドックの大きなクレーンが2基並んでいる。旧函館公会堂、旧イギリス領事館、赤煉瓦の中華会館、旧ロシア領事館、高龍寺、・・・、等を見て、天下の号外屋翁信濃治助の墓という真っ赤に塗られた石塔に寄り道してから、外人墓地を訪れた。
 山を下りて、太刀川家の住宅を見に行った。1階がギリシャ風、2階が和風の建物で、国の重要文化財に指定されている。新島襄密出国の地に寄ってから、日本最古のコンクリート電柱を見に行った。電柱としては珍しく4角柱であり、1923年に建てられて、今も尚現役であるという。函館には「日本最古の・・・」「日本で2番目の・・・」がたくさんある。
 波止場通りの赤煉瓦倉庫群は通りに面している部分をビアホールや展示室にしている。一軒の展示室を覗いてみたら、懐かしいカメラが一杯並んでいた。港にはイカ釣り船が何艘も停泊していた。電球がたくさんついていて、明かりを灯してイカをおびき寄せて釣るのだという。
 漁火通を湯の川温泉へ向かう途中の大森浜で石川啄木の像に敬意を表した。啄木はここで
   東海の小島の磯の白砂にわれ泣き濡れて蟹とたはむる
を詠んだ。少し寄り道して中原理恵の生家を見て、トラピスチヌ修道院へ向かった。修道院は厳重に塀を巡らし、塀には忍び返しかガラスの破片が植えてある。運転手兼ガイド曰く「ここの修道女の平均年齢は62才だそうです」と。してみると、厳重な塀は外部からの侵入者を防ぐというよりも、修道女が夜な夜な抜け出すのを防ぐための物かも知れない。売店が店仕舞いする5分前に飛び込んで飴とマドレーヌを買った。境内はきれいに掃除されていてゴミ一つ落ちていない。残念ながら、というほどのことはないが、修道女の姿は見えない。帰ろうとして引き返したら、入り口が閉まっている。「しまった、虜になったか」と思ったが、脇に、中からは出られるが、外からは入れないようになっている小さな回転扉があった。「錦君は無理だね」といったが、彼も辛うじて通り抜けることができて、女難を免れた。全くの偶然だったが、函館の森羅万象神社仏閣を知り尽くしている運転手兼ガイドに巡り会えたお陰で、約5時間で主要な名所旧跡を訪ねることができた。3時間半コースの予定を大幅に超過してサービスしてもらった。
 もう一泊して青森公立大学に寄っていくという影本君と別れて、私と錦君は空港へ向かった。帰りの JAL 548 便は幸運なことに、国際線用の高級機材を臨時に転用したというボーイング 747-SUD だった。まだ完全には暗くなっていなかったが、機上から函館の夜景を眺めることができ、しかも、西空の夕焼けが素晴らしくきれいだった。更に、津軽海峡に浮かぶイカ釣り船団の灯がきれいだった。
   烏賊釣りの漁火遠く最終便


ホームページに戻る