青森公立大学・宮城大学訪問記

忘月忘日 斬新な発想のもとに開学し順調に発展しつつある公立大学を2校訪問してみることにした。私と桜田女史の乗った ANA 403 便 Boeing 767-300 JA 8674 機は雲の上を滑るように飛んで青森空港に着陸した。空港の食堂で昼食を食べて暫くすると青森公立大学の方が迎えに来て下さり、早速迎えの車に乗って大学へ向かった。稲穂がきれいに出揃った田園地帯を走って20分ほどで森の中にある大学に着いた。50ヘクタールある敷地の2/3は森であり、市内から見ると建物が見えないように設計されている。早速学長室に通され、加藤勝康学長、山崎副学長、工藤事務局長にお会いし、青森公立大学について詳しくお話をお聞きすることができた。今年の青森地方は例年になく暑く30度を超す日が10日以上続いているとのことで、今日も大変な暑さである。幸い学長室には空調が入っているが殆どの部屋は空調無しとのことで「来年は空調を設置しないといけませんね」等と来年度の予算要求に向けた会話が交わされていた。出されたリンゴジュースが美味しかったので3杯お代わりをした。
 青森公立大学は体育の授業が無い珍しい大学である。大学設置基準が大綱化された直後に設置申請をし、設置審議会が“不覚にも”「体育の授業無し」を認めてしまった唯一の大学である。そのような大学があるという話は聞いていたがそれが青森公立大学であるとは先日天城学長会議で加藤学長からお聞きするまで知らなかった。然し、体育の授業はないけれども体育施設はどこにも負けない位立派で、学生達が積極的にサークル活動等に活用しているという。
 本学の教育の特色は「体育の授業が無い」ことだけではない。外国語は英語又はロシア語が必修で、英語の教員は全て native speaker であり、ロシア語を選択している学生はハバロフスクへ2週間研修に行くことができる。
 2学期制の採用、シラバスの完備、1、2年次の基幹科目は全て必修、3学期成績不良が続けば退学、成績優秀者には学長賞、オフィスアワーの設置、・・・、等アメリカ式の教育システムを導入して特色有る教育を実施しているが、何といっても極めつけは学生による授業評価を担当教員のコメント付きで公開していることである。図書館に置かれている学生アンケートを見せてもらったがなかなかに興味深い。
 本学は「青森市に公立大学を」という市民の熱意に支えられて設立され、開学時に市民から20億円の寄附が寄せられ、大学院設置の際にも2億円の寄附があったという。青森市と青森県が10億円ずつ出資して設置した「青森学術文化振興財団」があり、利子を活用して学生をアメリカへ留学させる等教育・研究活動に貢献している。
 大学には門も塀もなく、図書館やレストランは市民に開放し、林は山菜取りの人々で賑わうという、文字通り「開かれた大学」である。林の中には75平米の快適なユニットが10ある国際交流会館があり、アメリカの提携大学からの客員教授等に利用されているという。夏期集中講義に来ているアメリカ人教授が家族で滞在していた。
 768席を備えた講堂は音楽ホールを兼ねていて、市民に開放しているが、舞台後方がガラス張りになっていて林が借景になるという凝った作りである。講堂を初めどの建物も青森産の「檜葉」をふんだんに使っている。本学の建物は、ゆったりしたスペース、最新の設備、「檜葉」を使った内装が特色である。開学して7年目であるが建物が全く汚れていないし、ゴミ一つ落ちていないのには感心させられた。
 慌ただしく見学させて頂き、駅まで送って頂いて、青森発16時15分の盛岡行き臨時特急「はつかり136号」に飛び乗った。「戸」が付く名前の駅を幾つも通って盛岡に着いた。18時36分着の予定であるが5分程遅れたために自動改札機を解放して「お急ぎ下さい」と叫んでいる。大急ぎで18時44分発の「やまびこ28号」に乗り継いで仙台に19時34分に着いた。仙台も暑い。

 朝、野田先生から電話があり「9時10分にお会いしましょう」ということになった。9時頃にロビーに降りてみると、玄関にそれらしい黒塗りのプレジデントが停まっているが野田先生の姿は見当たらないので「違うかな」とキョロキョロしていたら、「少し早く着いたのでお茶を飲んでいました」といって野田先生が現れた。早速浅野知事を表敬訪問すべく県庁に行った。野田先生が「やあ、皆さん、お早うございます」と威勢良く声をかけると、知事室の職員は総立ちで会釈している。約束の9時30分よりは大分早かったが「どうぞ」といわれて知事室に入り、「今日は偉い人をお連れしました。公立大学協会の会長で・・・」と大げさな紹介をされた。見ると机の上に私のホームページのコピーが置かれている。「今は『知事』と呼んでいるが早く解任されて『おい、浅野君、飲みに行こうか』といいたいものです」「いつもこういうことをいわれて大変ですよ」等と数十年来の友人同士のようなやりとりをしている。実に羨ましい限りで、これが宮城大学を生み育てた原動力に違いない。
 泉パークタウンにある大学へ向かった。新しく開発された地域にはいると野田先生は「県が管理しているところは草ぼうぼうだが民間が管理しているところは花を植えてある」といって官民の違いを説明された。大学に入る前に向かいにあるゴルフコースに立ち寄ったら東北大学の阿部総長がプレーの合間にお茶を飲んでおられた。「国立大学の学長は暇そうだね」「ここで野田先生にお会いしたのは初めてですね」・・・。野田先生はこのコースでかなり屡々プレーされるそうで、今回も「荻上さん、ゴルフをおやりでしたら御一緒しましょう」と誘われた。私はかつてアメリカ滞在中には大学に本格的なコースがあったので週に2回位やっていたが日本では全くプレーしたことがない。今やれば「空気」か「巨大な球」を打つことになりそうである。「空気」はともかくとして「巨大な球」はいくら打ってもびくともしないから面白くない。
 宮城大学も「開かれた大学」で門もなければ塀もないが、建物の前に大きな池がある。野田先生は「芝生にすると手数がかかるが、池なら水を張っておけばいいから楽です」と仰る。およそ大学とは思えない芸術的な建物の玄関を入るとこれまた大学とは思えない洒落た階段が続いていて、その上にパイプオルガンが置かれている。「ここで結婚式をやってもらおうと思っています」という。“創収”の一環である。学長室でくつろいだ後学内を見学させて頂いた。直径110mの円形の建物に主要な機能が収められている。野田先生は「建物が円形になったのは全くの偶然で、設計の相談をしているときに私が『この辺りに本館を建てて・・・』といって指をぐるぐる回したのを見て『学長は丸い建物を指示している』と早合点したのです」といって笑っておられた。
 青森公立大学と同様に宮城大学も全く汚れていないしゴミ一つ落ちていない。清掃は業者に委託しているが、学生がキャンパスレインジャーを構成して学内を掃除しているそうである。本学で感心したことの一つは学生が必ず挨拶をすることであり、実に清々しい気分である。
 胸に「みやぎ情報天才異才塾」という札を付けた小学生の一団に出会った。宮城県が主催する事業で小学5年生が2泊3日で宮城大学の学生の指導を受けてホームページ作りの勉強をするのだという。一緒に写真を撮ったり、取材に来ていたテレビ局のカメラに収まったりした。本学は積極的に宮城県と共同の事業を展開している。
 野田先生は多摩大学を設立し、ついで宮城大学を設立した大学作りの名人であるが、「大学の自由」を獲得するために10年後の「独立採算」を目指して民営のレストラン、ホールの貸し出し、シンクタンク「宮城総合研究所」等数々の“創収”を実施しているという。野田先生の「私の大学改革」を拝読してすっかり心酔していたが、実際に大学を拝見して“野田教”の信者になった。野田先生は「現実的成果の裏付けのない概念論を極度に嫌い」大学改革は「総論より各論に重点を置き、やれるところ、やる気のあるところから着手する」という方針で実行されたというが、今まで国公立大学では「不可能」と信じられていた事柄を次々と可能にした手腕は驚嘆すべきものである。野田先生の類い希な能力と熱意が浅野知事の高等教育に対する理解と上手くかみ合った結果であろうが、それにしても凄いものである。

 近くにあるホテルのレストランで昼食を御馳走になり、「この車をご自由にお使い下さい。私の秘書を案内にお付けします」といって学長車を提供して下さった。「厚意謝するに余りあり」お言葉に甘えて有名な歌枕である「末の松山」を見学したいと申し出た。案内役の桜井さんは画家であるが歌枕は御存知ない。桜田女史持参の教科書にも載っていない。多賀城市の市役所に寄って聞いてみたがはっきりしなかった。市役所にあった簡単な案内図を頼りにそれらしい見当に行って見たら小さな看板が見つかった。末松山宝国寺の墓の裏に樹齢450年という巨大な松があり、清原元輔の歌碑
   契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは
が建っている。芭蕉はこの松と墓を見て比翼連理の契りの末も皆墓石と化すのをはかなく思ったという。
 直ぐ近くに二条院讃岐の
   わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし
の歌枕である「沖の石」がある。民家の立ち並ぶ狭い道路の脇に無粋なコンクリートで固められた池があり、その中にある奇怪な巨岩が「沖の石」である。
 ついでに多賀城跡にある「壺の碑」を見に行った。762年に建てられたという石碑は格子作りの小屋に安置されている。『奥の細道』には「苔を穿ちて文字幽かなり」とあるが、字ははっきりと読めるし苔も生えていない。傍に芭蕉の句碑
   あやめ草足に結ばん草鞋の緒
が建っている。芭蕉はここで涙を流したというが、今日は暑いので汗を流しながら靴の紐を結んだ。多賀城は歴史的にも文学的にも由緒ある地であるにも拘わらず余りその価値を認識していないのか、これらの重要な史跡を軽視しているように見えるのは残念である。有名な歌枕を市役所の職員が知らないのはもってのほかである。
 少し足を延ばして奥州一宮鹽竈神社に行ってみた。本殿には左宮と右宮があり、2神並祀である。祭神の説明がないので祢宜に聞いてみたら、左宮は武甕槌神、右宮は経津主神が祀られているという。「鹿島神宮、香取神宮と同じですね」「あちらから分祀したものです」というやりとりを聞いて桜井さんは私がその方面の専門家かと思ったという。脇に「別宮」があり鹽土老翁神が祀られている。説明によれば「武甕槌神と経津主神に本殿を譲って別宮に移った」という。土地の神が中央の神に首座を譲ったという「征服譚」であろう。
 塩釜港が目の前に見える店に入って休憩して、仙台駅まで送ってもらい「やまびこ54号」で帰京した。各大学が直面している大学改革の参考になる点が多い2校を訪問して、得るところの多い2日間であった。


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