島根県立大学訪問記

忘月忘日 島根県立大学の開学記念式典に出席するために浜田へ行くことになった。前日に鳥取県西部で震度6強の地震があり、米子空港が使用不能になる等の被害が報告され、どうなることかと心配になったが、予定通り出かけることにした。初日は夕方の知事招宴に間に合うように行けば良いのだが、山陰地方では萩、出雲、松江以外を訪れたことがないので、折角の機会だから見聞を広めようと思って朝早く出かけた。私と錦君の乗ったエアニッポン ANK 575 便石見空港行きのエアバス 320 JA8392 機は定刻7時30分に羽田を出発した。晴天に恵まれて富士山や琵琶湖を眼下に見ながら順調に飛行し、米子辺りで日本海に出て、海岸に沿って飛行し定刻9時5分に石見空港に着陸した。上空から見ると集落や人家が疎らで、島根県は人口が少ないのがよく分かる。
 津和野へ行くためにタクシーで益田駅に行った。駅に着いてみると「人麻呂と雪舟の町」「柿本人麻呂の歌がある駅」等と書かれている。益田は柿本人麻呂と雪舟の終焉の地である。予習してこなかったのは不覚だった。そういえばここは梅原猛『水底の歌』の舞台だった! 帰りに是非寄ることにしよう。
 予約してあった9時47分発の特急1041D「おき1号」に乗って津和野へ向かった。津和野は盆地と聞いていたが、盆地というよりは谷間の町という感じであり、漠然と想像していたよりずっとこぢんまりとした町である。駅前に客待ちしていた「第一交通」のタクシーに乗り込んだ。ドライバーは伊藤登茂美さんという中年の女性だった。主要な所を回ってもらうことにして走り出した。最初に森鴎外記念館と旧宅を訪問し、堅物だと思っていた鴎外が意外にも女性に大もてだったことを知り、認識を新たにした。記念に文春文庫現代日本文学館「森鴎外」を購入して記念スタンプを押した。スタンプの図柄はカイゼル髭の鴎外の顔だった。次に藩主亀井家の資料館である亀井温故館・知新館を訪れた。知新館には孫文の額「知難行易」が掛けられていた。現実には「知易行難」のような気もするけれど・・・。西周の旧宅に寄ってから、覚皇山永明寺に行って森林太郎の墓に参拝した。駅に戻って茶店でアイスクリームを食べて休んでいたら、陸蒸気C571号機に牽引された列車が入ってきた。早速駅の中に入って、前から、後から、横から、上から“貴婦人”を眺め回した。
 各駅停車541Dで益田に戻ることにしたが、これが何と1両編成である。津和野高校の生徒達でほぼ満員だった。この辺りの家の屋根は殆どが茶色の石州瓦で葺かれていて実に美しい。益田に着いて駅前に出てみると、津和野と同じタクシーが待っているではないか! 先程「これから益田へ行く」といったので先回りして待っていたのかしら。乗り込んでみたらドライバーが年格好、顔付き、体形等余りにもよく似ていたが別人で永見直枝さんという。津和野の話をしたら「知ってます。私と同じように太った人でしょう。伊藤さんですね」という。同じ会社だから顔を合わせることがあるらしい。柿本人麻呂と雪舟の史跡を時間の許す限り回ってもらうことにした。先ず医光寺へ行った。入口に「くわんおんだう このうへにあり」と書かれた石柱が立っている。総門は益田氏の居城七尾城の大手門を移築したものである。雪舟灰塚にある碑により雪舟の戒名が前東福(見崇観/後東光)雪舟等揚大禅師であることが分かった。本堂の裏にある雪舟の造園した庭園は、鶴と亀を主体とした武家様式で、大きな枝垂れ桜と楓がある。近くの萬福寺に寄ってみた。ここにも立派な枯山水の雪舟庭園があり、本堂には万寿3年(1026年)の大津波による流仏等を蔵している。丁寧な説明を聞きながら見学した。柿本人麻呂を祀る柿本神社には人麻呂の辞世の歌といわれる
   鴨山の磐根し枕ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ  (万葉集巻2、223)
の歌碑と大きな人麻呂の座像があり、境内の万葉植物には万葉の歌が添えられている。梅原猛は『水底の歌』において、人麻呂終焉の地とされる「鴨山」は、万寿3年の大地震で水没した益田市の鴨島だと主張している。しかし、古田武彦『人麿の運命』によれば、石見の国の中心は現在の浜田市の中心部であり、浜田城趾がある亀山は1620年の築城以前は鴨山と呼ばれていたという。また、浜田城趾の脇を流れる浜田川はかつては石川と呼ばれていたというから、人麻呂の妻依羅娘子の歌(万葉集巻2、225)に詠まれている「石川」に違いない。柿本人麻呂終焉の地は浜田市亀山であろう。
 駅に戻り、私はおにぎり3個、錦君は鯖鮨を食べて腹ごしらえをして、16時15分発の快速石見ライナー3458Dで浜田へ向かった。「快速」といっても浜田までは各駅停車であった。地震の影響で少々遅れたが、無事に浜田に着き、用意されている宿舎ワシントンホテルにチェックインした。着替えてタクシーで高台にある島根県立大学へ行き、知事招宴の会場に案内された。そこはキャンパスの一番海寄りにある北東アジア地域研究センターの一角にあり、眼下に漁火がきれいに見える。招宴には中嶋外語大学長、谷川長崎シーボルト大学長、中川大妻女子大学理事長、南岩手県立大教授等国内各地からの招待者に、アメリカ、中国、韓国の協定校の代表者も加わって国際交流を看板にしている大学の雰囲気が漲っていた。澄田知事はかつて国鉄の常務理事をしておられたが、その頃の同僚でテニス仲間だった柳田氏が現在私の公用車の運転をして下さっている。誠に奇遇である。というわけで知事とは初対面であったが老朋友のように親しくして頂いた。

 朝起きてみると雨が降っている。昨夜ワシントンホテルに泊まった人々は大学が用意したマイクロバスに乗って県立の「しまね海洋館アクアス」を見学に行った。今年開館したばかりのアクアスは大変な人出で、白イルカ、鮫、トビウオ等が人気者だった。
 大学へ直行して昨夜と同じ会場で昼食会が開かれた。雨はほぼ上がっていた。引き続き写真撮影をして、開学記念式典が開催される講堂へ移動した。総合政策学部総合政策学科の1学部1学科で入学定員200名という規模からは想像できない位大きなキャンパスである。敷地は23 ha もあり、建物や施設も実にふんだんにある。学生1人当たりの面積は日本一に違いない。この大学の日本語による名称は「島根県立大学」であるが、英語名は何と「The University of Shimane」である。島根大学の吉川学長に「この名前を見ると島根県立大学が島根大学を吸収するのを前提にしているということですね。公立大学協会としては頼もしい限りです」と、本学の宇野学長の心意気を代弁した。日本で最も早くから大陸と交流があったと思われるこの地域に設立された大学が「北東アジア地域研究センター」を併設していることは、最高の特色であり、日本文化のルーツの研究が進展することを期待している。この素晴らしい大学を設置した島根県並びに関係者各位の熱意に敬意を表しThe University of Shimane の発展を願って止まない。式典に続いて浜田市職員による石見神楽「やまたのおろち」が演じられた。「神の国」出雲・石見に相応しい演出である。隣の学生会館に移動して祝賀会が始まった。まだ一年生しかいない学生達が色々な場面に登場して精一杯活躍している姿が清々しかった。

 朝起きてみると雨が強く降っている。大急ぎで朝食を済ませて、7時30分発の特急「くにびき4号」2040Dに飛び乗った。錦君はホテルから宅急便で鞄を送ってしまったので手ぶらであり、私は鞄と洋服ケースと紙袋を持っている。どう見ても、中国の大富豪が召使いを従えて日本に旅行に来たという図である。3両編成の1号車には我々2人しか乗っていない。この状態が出雲市まで続いた。昭和46年製の車輌はエンジンの音が実にうるさい。車掌が通ったので「このエンジンは調子が悪いのではないか」と聞いたら「ずっと使っていますから大丈夫です」という答えが返ってきた。安来辺りから米子にかけて地震の被害が目に付いた。屋根に青いビニールシートがかけてある家がかなりあった。米子で軽く満席になった。「伯耆の大山が見える筈だ」と思ってそれらしい見当を見ると、確かに山はあるが「伯耆の大山」というにしては高さも足りないようだし姿も美しくない。本物は雲に隠れているのかも知れないと思って車掌に聞いてみたら「あれが大山です」という。それならばそういうことにしておこう。東へ進むに従って石州瓦の屋根が少なくなってきた。終点の鳥取には定刻11時8分に着いた。大急ぎで砂丘を見に行くつもりだったが、途中止んでいた雨が鳥取に着いたら降っているので、予定を変更して先を急ぐことにして、11時20分発の普通列車532Dに乗った。2両編成である。出雲市からは電化されていたが、鳥取でおしまいである。12時4分に終点浜坂に着いた。もう兵庫県に入っている。私は今までに福井県、鳥取県、高知県、沖縄県以外の都道府県の地面を踏んだことがある。今回の旅行で鳥取県の土を踏む積もりであったけれども、残念ながら列車で通過しただけに終わった。次回の楽しみにしよう。浜坂は何故ここが終点なのか分からないような寂しい駅である。「夢千代日記」で知られる湯村温泉への下車駅ではあるけれど・・・。とはいえ、無人駅が多い山陰本線にあって、この駅には駅員がいてみどりの窓口があり売店もある。弁当を売っていたので買って、12時31分発の普通列車176D城崎行に乗り込んだ。1両編成である。幾ら空腹でも美味しくないことが認識できる弁当を食べ終わる頃、余部に着いた。駅のホームの直ぐ先に鉄橋があるので、運転士に「あれが有名な鉄橋ですか」と聞いたら「あれが余部の鉄橋です」という。鉄橋の下に家があったり国道が通っていたりするのは珍しいけれども、目が眩むような規模ではなかった。次の鎧はNHKの朝の連続テレビ小説「ふたりっ子」の撮影が行われた場所であり、懐かしい景色が見られた。この辺りはトンネルの連続である。定刻13時25分に城崎に着いたが、雨が降っている。列車に乗っている間は止んでいて、降りる頃になると降り出す。どうやら雨男がつきまとっているらしい。
 タクシーで円山川沿いにある玄武洞に行ってみたが雨は止まない。傘を持っていなかったので、走って石段を駆け上り大急ぎで柱状節理を見て車に引き返した。錦君は石段の途中で諦めて、遠望を楽しんでいた。近くに青龍洞、白虎洞、朱雀洞があるが、雨が降り続いている上に時間がないので省略した。円山川は溢れるばかりの水量で実にゆっくりと流れている。釣りをしている太公望があちこちにいたが、運転手の説明によればこの辺りまで海水が上ってきているそうである。大急ぎで玄武洞駅に行き13時59分発の438Mに乗って次の豊岡に14時4分に着いた。直ぐにタクシーに乗って市内にある正福寺に行き、大石内蔵助の妻りくの墓に参拝した。戒名は香林院華屋壽栄大姉である。京極家4代当主京極杞陽公の句碑「ここも亦元禄義挙の花の跡」と平岩弓枝の歌碑「華やかにして慎ましく太をやかにして強く凛と咲いた花影の人大石りくこの地に誕生す」がある。有名な離縁状等もあり、ボランティアで説明役を担当している初老の紳士が丁寧に解説してくれた。寺の外には真新しいりく母子の像が立っている。有り難いことに雨が止んでいた。
 隣の出石町へ行ってみた。出石は小京都といわれ、時計台「辰鼓楼」周辺の古い町並みがなかなか風情がある。桂小五郎潜居跡にある「よしむら」という出石蕎麦の老舗に入った。宝永3年に国替えで信州上田からこの地に移ってきた仙石氏が連れてきた蕎麦職人が始めたというだけあって素晴らしい味である。2人とも8皿ずつ食べた。30皿食べれば名前が掲示されるらしいが、先程の浜坂の弁当が邪魔をしてとても30皿は無理である。次回の楽しみにしよう。出石高校の前にある初代東大総長加藤弘之博士の生家を表敬訪問して、豊岡駅へ引き返した。豊岡から16時18分発の特急「きのさき10号」5050Mに乗って京都に出る予定だったが、駅に着くと「大雨のため「きのさき10号」は大幅に遅れているので福知山線経由新大阪行の「北近畿12号」に乗れ」という。「北近畿12号」22Mは約8分遅れで豊岡を発車したが、途中少しずつ遅れが増し、尼崎では後から来た「新快速」に抜かれるという特急にとってはこの上ない屈辱を味わう羽目になった。我々は京都から19時7分発の「のぞみ66号」に乗ることになっているが、屈辱的な特急「北近畿12号」が新大阪に着いたのは18時45分だった。「已んぬる哉」と諦めかけて掲示を見たら「のぞみ66号」の新大阪発は18時51分である。「まだ間に合う。急げっ!」と、私は脱兎の如く階段を駆け上がり、錦君は悠々とエスカレーターに乗って、発車のベルを聞きながら飛び乗ることができた。車中で「助六寿司」を食べて暫しの腹ごしらえをした。

 今回初めて乗った山陰本線は旅の風情を満喫させてくれた。山陰路には訪れたい所が一杯残っている。早く次の機会を作ろうと思う。


ホームページに戻る