朝起きてみると雨が降っている。昨夜ワシントンホテルに泊まった人々は大学が用意したマイクロバスに乗って県立の「しまね海洋館アクアス」を見学に行った。今年開館したばかりのアクアスは大変な人出で、白イルカ、鮫、トビウオ等が人気者だった。
大学へ直行して昨夜と同じ会場で昼食会が開かれた。雨はほぼ上がっていた。引き続き写真撮影をして、開学記念式典が開催される講堂へ移動した。総合政策学部総合政策学科の1学部1学科で入学定員200名という規模からは想像できない位大きなキャンパスである。敷地は23 ha もあり、建物や施設も実にふんだんにある。学生1人当たりの面積は日本一に違いない。この大学の日本語による名称は「島根県立大学」であるが、英語名は何と「The University of Shimane」である。島根大学の吉川学長に「この名前を見ると島根県立大学が島根大学を吸収するのを前提にしているということですね。公立大学協会としては頼もしい限りです」と、本学の宇野学長の心意気を代弁した。日本で最も早くから大陸と交流があったと思われるこの地域に設立された大学が「北東アジア地域研究センター」を併設していることは、最高の特色であり、日本文化のルーツの研究が進展することを期待している。この素晴らしい大学を設置した島根県並びに関係者各位の熱意に敬意を表しThe University of Shimane の発展を願って止まない。式典に続いて浜田市職員による石見神楽「やまたのおろち」が演じられた。「神の国」出雲・石見に相応しい演出である。隣の学生会館に移動して祝賀会が始まった。まだ一年生しかいない学生達が色々な場面に登場して精一杯活躍している姿が清々しかった。
朝起きてみると雨が強く降っている。大急ぎで朝食を済ませて、7時30分発の特急「くにびき4号」2040Dに飛び乗った。錦君はホテルから宅急便で鞄を送ってしまったので手ぶらであり、私は鞄と洋服ケースと紙袋を持っている。どう見ても、中国の大富豪が召使いを従えて日本に旅行に来たという図である。3両編成の1号車には我々2人しか乗っていない。この状態が出雲市まで続いた。昭和46年製の車輌はエンジンの音が実にうるさい。車掌が通ったので「このエンジンは調子が悪いのではないか」と聞いたら「ずっと使っていますから大丈夫です」という答えが返ってきた。安来辺りから米子にかけて地震の被害が目に付いた。屋根に青いビニールシートがかけてある家がかなりあった。米子で軽く満席になった。「伯耆の大山が見える筈だ」と思ってそれらしい見当を見ると、確かに山はあるが「伯耆の大山」というにしては高さも足りないようだし姿も美しくない。本物は雲に隠れているのかも知れないと思って車掌に聞いてみたら「あれが大山です」という。それならばそういうことにしておこう。東へ進むに従って石州瓦の屋根が少なくなってきた。終点の鳥取には定刻11時8分に着いた。大急ぎで砂丘を見に行くつもりだったが、途中止んでいた雨が鳥取に着いたら降っているので、予定を変更して先を急ぐことにして、11時20分発の普通列車532Dに乗った。2両編成である。出雲市からは電化されていたが、鳥取でおしまいである。12時4分に終点浜坂に着いた。もう兵庫県に入っている。私は今までに福井県、鳥取県、高知県、沖縄県以外の都道府県の地面を踏んだことがある。今回の旅行で鳥取県の土を踏む積もりであったけれども、残念ながら列車で通過しただけに終わった。次回の楽しみにしよう。浜坂は何故ここが終点なのか分からないような寂しい駅である。「夢千代日記」で知られる湯村温泉への下車駅ではあるけれど・・・。とはいえ、無人駅が多い山陰本線にあって、この駅には駅員がいてみどりの窓口があり売店もある。弁当を売っていたので買って、12時31分発の普通列車176D城崎行に乗り込んだ。1両編成である。幾ら空腹でも美味しくないことが認識できる弁当を食べ終わる頃、余部に着いた。駅のホームの直ぐ先に鉄橋があるので、運転士に「あれが有名な鉄橋ですか」と聞いたら「あれが余部の鉄橋です」という。鉄橋の下に家があったり国道が通っていたりするのは珍しいけれども、目が眩むような規模ではなかった。次の鎧はNHKの朝の連続テレビ小説「ふたりっ子」の撮影が行われた場所であり、懐かしい景色が見られた。この辺りはトンネルの連続である。定刻13時25分に城崎に着いたが、雨が降っている。列車に乗っている間は止んでいて、降りる頃になると降り出す。どうやら雨男がつきまとっているらしい。
タクシーで円山川沿いにある玄武洞に行ってみたが雨は止まない。傘を持っていなかったので、走って石段を駆け上り大急ぎで柱状節理を見て車に引き返した。錦君は石段の途中で諦めて、遠望を楽しんでいた。近くに青龍洞、白虎洞、朱雀洞があるが、雨が降り続いている上に時間がないので省略した。円山川は溢れるばかりの水量で実にゆっくりと流れている。釣りをしている太公望があちこちにいたが、運転手の説明によればこの辺りまで海水が上ってきているそうである。大急ぎで玄武洞駅に行き13時59分発の438Mに乗って次の豊岡に14時4分に着いた。直ぐにタクシーに乗って市内にある正福寺に行き、大石内蔵助の妻りくの墓に参拝した。戒名は香林院華屋壽栄大姉である。京極家4代当主京極杞陽公の句碑「ここも亦元禄義挙の花の跡」と平岩弓枝の歌碑「華やかにして慎ましく太をやかにして強く凛と咲いた花影の人大石りくこの地に誕生す」がある。有名な離縁状等もあり、ボランティアで説明役を担当している初老の紳士が丁寧に解説してくれた。寺の外には真新しいりく母子の像が立っている。有り難いことに雨が止んでいた。
隣の出石町へ行ってみた。出石は小京都といわれ、時計台「辰鼓楼」周辺の古い町並みがなかなか風情がある。桂小五郎潜居跡にある「よしむら」という出石蕎麦の老舗に入った。宝永3年に国替えで信州上田からこの地に移ってきた仙石氏が連れてきた蕎麦職人が始めたというだけあって素晴らしい味である。2人とも8皿ずつ食べた。30皿食べれば名前が掲示されるらしいが、先程の浜坂の弁当が邪魔をしてとても30皿は無理である。次回の楽しみにしよう。出石高校の前にある初代東大総長加藤弘之博士の生家を表敬訪問して、豊岡駅へ引き返した。豊岡から16時18分発の特急「きのさき10号」5050Mに乗って京都に出る予定だったが、駅に着くと「大雨のため「きのさき10号」は大幅に遅れているので福知山線経由新大阪行の「北近畿12号」に乗れ」という。「北近畿12号」22Mは約8分遅れで豊岡を発車したが、途中少しずつ遅れが増し、尼崎では後から来た「新快速」に抜かれるという特急にとってはこの上ない屈辱を味わう羽目になった。我々は京都から19時7分発の「のぞみ66号」に乗ることになっているが、屈辱的な特急「北近畿12号」が新大阪に着いたのは18時45分だった。「已んぬる哉」と諦めかけて掲示を見たら「のぞみ66号」の新大阪発は18時51分である。「まだ間に合う。急げっ!」と、私は脱兎の如く階段を駆け上がり、錦君は悠々とエスカレーターに乗って、発車のベルを聞きながら飛び乗ることができた。車中で「助六寿司」を食べて暫しの腹ごしらえをした。
今回初めて乗った山陰本線は旅の風情を満喫させてくれた。山陰路には訪れたい所が一杯残っている。早く次の機会を作ろうと思う。