2005.09.04

【誤字等の談話室 30】

誤字等の館 (ごじらのやかた) に寄せられる読者様のコメントに対して館主が答える「誤字等の談話室」、その第30弾です。

[078]

投稿、回答ともに、今回は少々長文です。

はじめまして。
いつも楽しく拝見させていただいておりますが、「平誤科」の「こんばん
わ」について、僭越ながら、多少意見を述べさせていただきたく投書致しま
した。
やや強い論調で「こんばんわ」の誤りをご指摘いただいておりますが、「こ
んにちは」よりも「こんばんは」の方が「誤字率」がずっと高く、「こんに
ちは」は「は」で、「こんばんわ」は「わ」だと思っている人が多いのは以
下のような経緯によるものです。
 
 現在、「こんにちは」「こんばんは」が正しいのは、ご指摘されていらっ
しゃるとおりです。
しかし、「こんにちは」は昔から「こんにちは」でしたが、「こんばんは」
は「現代語仮名遣い」が内閣告示されてから定着したものであり、それ以前
は「こんばん わ」にも市民権がありました。
80年代前半まで、挨拶言葉は「こんにち は」および「こんばん わ」が主
流であり、全国区かわかりませんが、学校でもこの通りに教えていました。
しかし、中曽根内閣時の昭和61年に「現代語仮名遣い」を公示した際、助
詞を含む言葉については「わ」ではなく「は」を用いる、挨拶言葉について
も「今日は=こんにちは」「今晩は=こんばんは」を使うことを「標準とす
る」ことがはじめて明確に盛り込まれ、社会的に変遷する流れとなりまし
た。
HPを読ませていただく中で「現代語仮名遣い」についてよく勉強していら
っしゃるなと感心致しましたが、この告示の中でもわざわざ「よりどころ」
であって、「この仮名遣いは,科学,技術,芸術その他の各種専門分野や
個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない」「歴史的仮名遣いは尊重
されるべきものであり、否定するところではない」ことを補足しています。
当時の新聞などを見ると、「現代語仮名遣い」の適用については教育機関で
も公立や私立、地域によってかなり温度差がありました。(昭和21年の
「現代かなづかい」の発表時はさらに大論争だったようですが。)よって、
学校で「こんにちは」「こんばんは」と教えるように変わったのは、86年
〜90年頃、と幅があるようです。その曖昧さから、一時的に学校であえて
教えることは避けていたところもあったようで、切り替わった境ははっきり
しません。
「こんばん わ」が正しい、と思っている人が年配者になるほど多いのはこの
ためです。概ね変遷期に小中学生だった1970年代生まれくらいが境にな
っています。
「こんばん わ」が公に使われていた頃は、「こんにち わ」が誤りであるこ
とは、今よりはっきり認識されていた節があります。
しかし、「こんばん は」が標準になってからも、「こんばん わ」を使って
はいけないということではなく、小学校で教える以外には、あまり周知もさ
れなかったため、「こんばん は」「こんばん わ」は併用されるようになり
ました。これを目にした80年代以降に「こんばん は」と習った世代が、発
音から誤って、あるいは見た目のやわらかさからわざと、「こんにち は」に
も「こんにち わ」を使ったりするようになってしまったのではないでしょう
か。
学校で「こんばん は」と教えても、今30代後半以上の親は「こんばん 
わ」を使う人が多いわけで、子供世代はゴチャゴチャになってしまったので
はないかと考えています。
ではなぜ、昔は「こんにちは」は「は」で、「こんばん わ」は「わ」だった
のか。
どうも韻を踏む(発音)上で、自然にそうなったようなのですが(「は」
「わ」の前が「こんばん」の場合、「ん」であるため?)明確な理由が調べ
てもわかりませんでした。
ちなみに「現代語仮名遣い」によると、「十分間」は「じっぷんかん」と読
むのが正しいことになっています。(これも平誤科に載せていただきたいと
ころですが)
これはフジテレビの「トリビアの泉」でも取り上げられたのでご存知の方も
多いと思いますが、だからといって「じゅっぷんかん」に違和感を覚える人
はいないでしょうし、それは間違いだと露骨にこだわる人もいないでしょ
う。むしろ、もう「じゅっぷんかん」で良いのでは?という意見が大半でし
ょうし、実際、次回の「現代語仮名遣い」の見直しでは「じゅっぷんかん」
でもよい、と認められる方向だそうです。
また、富山の方言では「正座」のことを「ちんちん」(鎮々:鎮座[ちん
ざ]のチン)と言いますが、富山の人間に対して「ちんちん」は間違いで、
標準語である「正座」を使いなさい、という話にはならないと思います。こ
のように、日本語の読み方や使い方は、使う人が多くなればそれが標準とし
て見直され、「これが未来永劫絶対だ」ということはありませんし、方言の
ように少数派を弾圧すべきものでもありません。
 私は普通に「こんばん わ」を使ってきた人間ですが、いつの間にか「こん
ばんわ」が間違いになっていることに今年に入ってから気付き、理由を調査
してこの経緯を知りました。それからは「こんばん は」を使うようにしてい
ます。もちろん「こんにち わ」を使ったことはありません。ただし、「こん
ばん は」には未だに抵抗感があります。先日、深夜番組を見ていたら、同年
代の笑福亭鶴瓶もオセロ松嶋尚美との掛け合いの中で、「こんばん は」は気
持ち悪いと言っていました。
国も現代語仮名遣いを標準として使っていきましょう、と言っているだけで
強制しているわけではありませんし、高齢者が「お会いしませう」と歴史的
仮名遣いで手紙を書いたからといって、目くじら立てて直させる人もいない
と思います。
いま何が標準なのか、きちんと理解することは重要ですし、「こんにちは」
「こんばんは」を正しい日本語として使おうというご意見には大賛成です。
ただ、「こんばん わ」で習った世代の人が「こんばん は」を使うかどうか
については、多少大目に見ていただけないでしょうか。
「こんにちは」はともかく、「こんばんわ」まで断定的に悪として糾弾され
ると年寄りとしては肩身が狭い思いです。決して、小学校の「国語の時間」
が嫌いだったり、読書の習慣も持ち合わせていなかった訳ではありません。
むしろ今の若者の何百倍も活字を読んできたつもりです。
以上の経緯を鑑み、多少穏やかに「こんばんは」を広めていただけるとあり
がたいのですが。
差し出がましい内容でお耳に障るかもしれませんが、どうぞよろしくお願い
申し上げます。

ご意見ありがとうございます。
いくつかのサイトに、同様の内容が投稿されているようですね。
もしも同じ方の投稿であるならば、それだけこの件についての思い入れが強いということなのでしょう。

このサイトに合わせた編集もされているようですし、誤字等の館をしっかり読んで頂いている様子も伝わってきます。
ありがたいことだと思っています。

さて、本題に入りましょう。
これまで、この件は私自身もいろいろと調べてきました。
このサイトでアンケートをとったこともあります。
とある「つて」で、現役教師や教育委員会にヒアリングをして頂いたこともあります。
その結果、かなり昔に主張された「発音式仮名遣い」を除き、「こんばんわ」を「正しい」とする根拠には出会えませんでした。
私も「1970年代」以前の生まれですが、はっきり「こんばんは」で教わっています。
(もし「こんにちは」と「こんばんわ」のセットで習っていたら、納得していないでしょう)

学校でも「こんばんわ」で教えていたとのことですが、残念ながら裏付けとなるものが示されていません。
「こんばんわ」の市民権を具体的に示す事例などがどこかにありましたら、ぜひ教えてください。

この投稿に関しては、「こんばんわ」の件以外でもいくつか気になる点がありました。
「反論」というわけではないのですが、私の考えを述べておきたいと思います。

まず、「現代仮名遣い」について。
(内閣告示は、こちらから参照できます → 現代仮名遣い

確かに、「よりどころ」と記載されています。
「強制力」がないために、教育の場で混乱が生じたこともあるのでしょう。
また、告示の内容自体も、例外だらけで問題山積です。

しかし、「正誤」を論じる際、「よりどころ」で何が不足しているのでしょうか。
「よりどころ」とは、すなわち「根拠」です。「判断基準」です。
それで、十分なのではありませんか?

また、前書きには「個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない」の一文が確かにあります。
この部分だけを見て「個人には関係ないんだ」と思い込む人もいるようですが、それは違います。
前提として、内閣告示そのものの冒頭に「一般の社会生活において」と記されていることを見逃してはいけません。
個人にも、無関係ではないのです。

ちなみに、「個々人云々」の断り書きは、「外来語」や「送り仮名」「常用漢字表」など、他の告示にもまったく同じ文面で登場します。
一見、これは内閣の「弱腰」に見えます。
しかし実際には、「変化」に反発する強硬派を懐柔するための「策」あるいは「配慮」だったのではないかと私は思います。
この一文を免罪符のように掲げて「どんな表記をしようと個人の自由だ」と主張しても、滑稽な姿にしかなりません。

「ひとりごと」なら、どのような表記をしようと自由です。
「小説」などの作品も、表記にケチをつけるのは無粋です。
しかし、言葉を「コミュニケーションの道具」として成立させるためには、双方が共通の「ルール」を認識することが必要です。
無論、常に守られなければならないほどの重大なルールではありません。
しかし、「ルールを守ったほうが良い場面」は、確実に存在します。
そのとき、「ルール」が身についているかどうかは大きな違いです。

現代仮名遣いは、その「ルール」のひとつとして扱ってよいのではないでしょうか。

次に、「方言」について。
方言を否定はしません。
まして弾圧など、とんでもないこと。

ただし無論、方言がその地方以外でも通用するなどと思ったら大間違いです。
日本全国を相手に、地域を限定せずに話を進めたいなら、「正座」は「正座」と言うべきです。
標準語とかけ離れた方言には、「使うべきでない場面」が存在する、ということです。
地元の方言と標準語を使い分けている人なら、当然のこととして理解しているはずですね。

標準語の正誤は、方言には適用されません。
反論の余地のないことは、そもそも議論の対象になりません。
「地域差」の影響や「語源」についての話であれば、方言に言及することに価値があるでしょう。
しかし「標準語における正誤」を論じているのならば、そこに方言を持ち込んでも論点のすり替えにしかなりません。

そして、「言葉の変化」について。
言葉が、未来永劫そのまま変わらないなどということは、考えられません。
これまでにも数多の変遷がありましたし、これからも変わっていくでしょう。
「十」の読み方のように、変化の途中にあると見ることのできる事例もあります。
しかし、現時点で変化していないものに対する「変化の可能性」に言及するのは「仮定論」でしかありません。

将来変わるかもしれないから、今のルールを守る必要はない。
こんなことを言い出す人がいたら、それは詭弁です。

過去の変遷の影響について論じているなら、構いません。
しかし、「現時点の正誤」を話題とする場面で「変化の可能性」を持ち出したら、それもまた「論点のすり替え」です。

さらに言えば、誤字は「悪」ではありません。
少なくとも、個人的な「私文」に関しては、修正を迫られるようなものでもありません。
私的な手紙に書かれた文章に対して誤字を指摘したりしたら、相手は気分を害するでしょう。

しかし、「公的」な文章に幼稚な誤字があったら、それは「恥」です。
それが組織の看板を背負っていたら、「信頼問題」にまでつながりかねません。

糾弾しているわけではないのです。
私自身、このサイト上で何度も誤字を訂正しています。
誤字そのものを責めているわけではないことをご理解ください。

「仕事」として文章を書いておきながら、ろくに校正も推敲も行わない人。
勝手な「外国語っぽい」発音で悦に入る人。
自分だけが常に正しいと思い込んでいる人。
そんな人たちに対して「あきれている」というのが、正直なところです。

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