2007.11.17

【誤字等の雑記帳 6】

日本語についての話題を、とりとめもなく書き連ねるコーナー「誤字等の雑記帳」、その6です。

[お湯を沸かす]

お湯を沸かす」という日本語は間違っている。
沸かす」とは、水を加熱して湯にすることを示す言葉である。
沸かした結果が「お湯」になるのであって、沸かす前の状態は「」だ。
既に「お湯」になっているものを、さらに加熱してどうするのか。
従って、ここは「水を沸かす」と表現するのが正しい。

……という説を滔滔と語る人に出会ったことがあります。
みなさん、この説明、どう思いますか?

お湯を沸かす」は、本当に「間違った日本語」なのでしょうか。
いくつかの「類似例」を使って、検証してみます。

ご飯を炊く」という日本語は間違っている。
炊いた結果が「ご飯」になるのであって、炊く前の状態は「」だ。
従って、ここは「米を炊く」と表現するのが正しい。

クッキーを焼く」という日本語は間違っている。
焼いた結果が「クッキー」になるのであって、焼く前の状態は「生地」だ。
従って、ここは「クッキーの生地を焼く」と表現するのが正しい。

家を建てる」という日本語は間違っている。
建てた結果が「」になるのであって、建てる前の状態は「建材」だ。
従って、ここは「家の建材を建てる」と表現するのが正しい。

……どうです、だんだん変なことになっていると思いませんか?
お湯を沸かす」が間違いだと力説する人は、これらの例にどう反応するのでしょうか。

ここで少し「文法」の話。
沸かす」「炊く」などの言葉は、日本語の文法上「動詞」に分類されます。

そして、「動詞」には「自動詞」と「他動詞」の種別があります。
自動詞」は動作の対象がそれ自身に及ぶ言葉であり、「他動詞」は別の対象物に及ぶ言葉です。
一般的に、両者は「目的語」を必要とするかどうかで分類されます。

「公園に鳩が集まる」という文例では、鳩自身が「集まる」という動作をしているため、これは「自動詞」です。
「公園で鳩を集める」という文例では、誰かが鳩を「集める」という動作をしているため、これは「他動詞」です。
集める対象である「鳩を」の部分を「目的語」と呼びます。

沸かす」は、熱を加える対象としての「液体」に作用を及ぼす言葉ですので、「他動詞」に分類されます。
ここで問題となるのは、「目的語」としてふさわしいのが「」なのか「」なのか、という点です。

言葉の「意味」を考えてみましょう。
沸かす」とは、水を加熱して湯にすることを示す言葉。
沸かす」という作用によって、「」が「」に「変化」するわけです。
このように、「変化」を伴う現象を示す動詞の場合、その目的語は二種類考えられます。

変化前の状態、すなわち作用の「対象」か。
変化後の状態、すなわち作用の「結果」か。

目的語として「」を選ぶならそれは「対象」であり、「」なら「結果」ということになります。
日本語として「正しい」のは、どちらでしょうか。

他の例で見てみると、こうなります。

「鉛筆で文字を書く」という文章の場合。
「文字」は書いた結果として出現するものであり、書く前には存在しません。
従って、このケースでの「文字」は、「結果」です。

「消しゴムで文字を消す」という文章の場合。
「文字」は消す前にのみ存在し、消すことによって失われます。
従って、このケースでの「文字」は、「対象」です。

同じような形をした文章であっても、目的語として「結果」をとる場合も、「対象」をとる場合もあるのです。
どちらか片方だけが正解ではなく、両方とも「あり得る」のです。
それぞれを、専門用語で「結果目的語」「対象目的語」と呼びます。

動詞によっては、この両者を使い分けることのできるものもあります。
その説明によく使われるのが、「掘る」という動詞。
穴を掘る」と表現した場合は、目的語である「」は動作の「結果」です。
土を掘る」と表現した場合は、目的語である「」は動作の「対象」です。
いずれも「正しい日本語」です。何の問題もありません。

さて、ではここで冒頭の「お湯を沸かす」に戻ってみましょう。
」とは、沸かした「結果」として入手できるもの。
これが「結果目的語」であると解釈すれば、何も間違ってなどいません。
「間違い」であるという主張は、すなわち「結果目的語」そのものの存在を否定することなのです。

「絵を描く」
「料理を作る」
「茶を淹れる」
「俳句を詠む」
「新聞を刷る」
「計画を立てる」

すべて、結果目的語を含んだ文例です。
お湯を沸かす」が間違いなら、これらの文例もすべて否定しなければなりません。

実は、この「お湯を沸かす」が間違いだという話は、江戸時代の滑稽本「東海道中膝栗毛」の中に登場します。
風呂に入るために湯を沸かすという発言に対して、
「湯を沸かしたら熱くて入れない。水を沸かして湯にしてくれ」
と答える、といった内容です。

言うまでもなく、これは「言葉遊び」「洒落」です。
現代風に表現するなら、漫才の「ボケ」です。
その強引な論理展開を面白がって「笑う」ことが、期待されている反応なのです。
真に受けて「その通りだ!」などと納得してしまっては、ボケ役の立場がなくなってしまいます。

一般的には「常識」だと思われていることでも、実は「間違っている」ということはあるものです。
自らの知識を疑い、「本当はどうなのだろう」と考えることは、とても大切です。
正直、「お湯を沸かす」が間違いだとするその論調自体は、嫌いではありません。

しかし、「常識を疑う」ことと、「別の解答に飛びつく」ことは全然違います。
この点を勘違いすると、思わぬ罠にはまり込むことになりかねません。

「常識」の間違いを見つけた、という自らの思い付きを「過信」する態度。
「常識」を否定してみせる他者の見解を「鵜呑み」にして、納得してしまう態度。
どちらも、「疑う」能力があるとは言えません。

世間で「トンデモさん」と呼ばれる、珍妙な自説を振りかざす人たちは、そのほとんどが前者の特徴を備えています。
そして、跳梁跋扈する詐欺師たちの餌食となり、骨の髄までしゃぶられる人たちは、後者の代表です。

「間違いをみつけた」という、その根拠自体が「間違っている」可能性を考えることができるかどうか。
「自分自身」をも疑いの対象に加えた上で、自らの頭で考え、自らの手で調べることができるかどうか。
そして、安直な結論に飛びつかない「慎重さ」があるかどうか。
それらを満たしてはじめて、「疑う」能力を持っていると言えるのではないでしょうか。

そう、たとえば、このページに書いてあることも「すべて真実」とは限りませんので、ご注意を……

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