2008.04.12

【誤字等の雑記帳 8】

日本語についての話題を、とりとめもなく書き連ねるコーナー「誤字等の雑記帳」、その8です。

[やぶさかではない]

やぶさかではない」という言葉の意味をご存知でしょうか。

この言葉を常用する政治家の先生方は、とても多いですね。
特に、国のリーダーである歴代の首相がよく口にしているという印象があります。
今の福田首相も、薬害肝炎訴訟の原告団が求めた直接面会に対して、こう答えたそうです。
「お会いしてお話しするのは、やぶさかではない」

しかし、私はこの言葉、はっきり言って「使い損」だと考えています。
使うことによるメリットは一切なく、ただひたすらデメリットのみがある言葉。
特に「政治家」という、言葉を商売道具にしなければならない人たちにとっては致命的な「禁句」とすら考えています。

そう考える理由は、主に三つあります。

まずひとつは、「語感が古い」こと。
「印象」が重要な意味を持つ世界で、「語感」を軽く見ることはできません。
ただでさえ、「年配」な人たちが指導者の地位を独占することに国民は辟易しているのです。
その指導者がこんな古めかしい言葉ばかりを使っていては、もはや「同じ時代に生きている人間」とは思えなくなってしまいます。
国民と「意思疎通」すらできないようなリーダーを、誰が歓迎するでしょうか。

ふたつめの理由は、「言葉の意味が正しく伝わらない」おそれが強いこと。

やぶさかではない」の「やぶさか」とは、ためらうこと、物惜しみすることを示します。
それが「ない」のですから、つまりは「努力を惜しまず、進んで何かを為す」ということです。
きわめて「積極的」な言葉なのです。

「会うのにやぶさかではない」と言ったなら、その意味するところは、こうです。
「ぜひ会いたい。すぐ会いたい。さっそく手配させようじゃないか。」

しかし、聴衆の多くは、そのように受け取ってはくれません。
「ない」という否定の語感から、非常に「消極的」で、煮え切らない印象が生まれてしまうのです。
「会えというなら会わないこともないけど…(無理無理。ここは適当にお茶を濁して…)」

「善処します」などと同じ、実質的には「拒否」の意味合いと受け取られてしまったら。
結果は、聞いている人たちの神経を逆撫でするだけとなります。

本人は自らの積極性をアピールしたくて使った言葉なのに、正反対の意味に取られて相手を怒らせてしまう。
そんな言葉を使う必然性が、どこにあるのでしょうか。

最後の理由は、言葉の意味が「正しく」伝わった場合のリスクです。
前述のように、「正しい意味」は、とても積極的な宣言です。
それが「本音」であり、事実そのように動くのなら、構いません。
しかし、本当にそうでしょうか。

もし、単なるパフォーマンスとして口先だけで聴衆をごまかすために、「建前」を言っていたなら。
やぶさかではない」と宣言しながら、現実として消極的な動きしか見せなかったなら。
それは、言葉の意味を「正しく」受け取った人たちの「期待」を裏切ることとなります。

政治家にとって、民衆に「失望」を与えるのは致命的な失策です。
指導者が「嘘」しか言わないと感じたなら、国民は全力で「拒絶」します。
そうなっては、もはやその政治家が存在する価値は一片たりともありません。
すみやかに政局から引退し、姿を消す以外の道は残されなくなってしまいます。

「古臭い」印象を与え、「誤解」を生むおそれがあり、嘘が「破滅」につながる。
これほどまでに危険度の高い言葉を、なぜ好んで使おうとするのか。
私には、皆目見当がつきません。

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