6.百年戦争の終結


    ジャンヌ・ダルクが処刑されるとすぐにイギリス軍はノルマンディ地方にある
  ルーヴィエの城に駐屯しているシャルル7世の軍に攻撃を仕掛けました。
    彼らは、ジャンヌには何か魔法のような力が備わっていると思っていたために
  彼女が生きている間は小さい勝利はあっても、フランスに対して決定的な勝利を
  あげることができないと思い込んでいたのです。そのため、ジャンヌ・ダルクが
  処刑されると彼らはすぐにシャルル7世の軍に対し攻撃を仕掛けたのです。

    6月の終りにイギリスは本国からノルマンディーに援軍を送ると、ノルマンディ
  ー地方を治めていたル・バタール・ドルレアンはすぐに援軍を率いてルーヴィエ
  に向かいましたが持ち堪えることができず、10月にルーヴィエはイギリスに降
  伏してしまいました。

    7月には“騎士の華”と称えられていたシャルル7世の重臣アルノー・ギーレム・
  ド・バルバザンが戦死してしまいました。またシャンパーニュ地方では敗戦が続き
  シャルル7世の軍はかつての勢いを失っていき、イギリスはフランスを支配する絶
  好の機会がやってきたことを実感していました。

    しかし、イギリスがフランスを支配するためにはイギリスの威光をフランス人達
  に見せ付け、イギリスには到底かなわない、と思わせなくてはなりませんでした。
  シャルル7世を異端者(ジャンヌ・ダルク)によって王となった者として、その立
  場を弱めることができた今、イギリスがなすべき事はヘンリー6世を正式に教会か
  らフランス国王であると認めさせ、戴冠することでした。

    ヘンリー6世のフランス国王としての戴冠式は1431年ノートルダム寺院で行
  われました。戴冠式は厳かに行われ、その後祝宴が行われましたが、この祝宴に出
  された料理のほとんどの肉が前の週の木曜日に調理されたものだったため、祝宴は
  大変不評でした。また、翌日には騎馬試合が行なわれましたが、その余りのみすぼ
  らしさに「イギリス人が彼らの国王の戴冠式に費やした額よりもパリの一市民が結
  婚式に費やす額の方が遥かに多い」といわれました。こうして、イギリスの威光を
  フランス人に見せ付ける試みは失敗に終わりました。

    翌年1432年には、イギリスがフランス支配への機会を逃したことを印象づけ
  るような出来事が続きました。

    2月3日、リッカルヴィルと言う傭兵が100人の部下を率いてルーアンの城を
  奪取しました。しかし、彼らはルーアンの市民の子供を誤って殺してしまったため
  ルーアンの市民を敵に回してしまいました。結局彼らは、イギリス軍の攻撃を防ぐ
  ことができず、イギリスに降伏し全員処刑されてしまいました。

    2月10日、ル・バタール・ドルレアンによってシャルトルが取り戻されました。
  シャルトルの城を取り戻せたのは、オルレアンの魚屋の奇策によるもので、町の人
  に魚を届けにきたと言う口実で城門まで近づくと、荷馬車で跳ね橋を閉じられない
  ようにしてしまい、その間にレジスタンスが他の城門で警備についているイギリス
  兵を倒してまわりました。そして、荷馬車をおいて閉じられないようにした城門か
  らフランス兵が突入しましたが、抵抗らしい抵抗に会うこともなくシャルトルを押
  さえることが出来ました。この時から、運はフランスへと傾きはじめました。
 
    1345年になると、さらに事態は急変しました。ブルゴーニュ候がベッドフォ
  ード候の摂政に対し好感が持てなくなり、長年敵対していたシャルル7世と接近し
  はじめたのです。そして、1月にアルマニャック派とブルゴーニュ派の使者による
  最初の交渉が始まり、3週間後にはアラスでの再開を約束してその交渉は終わりま
  した。そして8月にはアラスで両派の和解へ向けての会議が開かれ、9月21日に
  ついにアルマニャック派とブルゴーニュ派はアラス条約を結び、フランスを二分し
  て争っていた両派は和解したのでした。
    また、アラス条約が結ばれる数日前にイギリス国王の片腕で、フランス摂政をし
  ていたベッドフォード候がルーアンの城で亡くなっていました。

    1436年になるとフランス軍はパリ奪回のための行動を起こしはじめました。
  フランス軍の攻勢はムーランの奪取に始まり、2月にはポントワーズを奪取する事
  ができました。これによりセーヌ川とマルヌ川の2つの河川をフランス軍に押さえ
  られ、パリは食糧の搬入が出来なくなり、パリはたちまち食糧難に陥りました。
    パリ奪回の指揮をとっていたリッシュモン元帥はパリ内部の協力者の支援を受け
  サン=ジャック門から突入しました。リッシュモン元帥は国王の名においてイギリ
  スに協力した“非フランス人”への特赦を約束しました。これで、パリの全市民を
  味方にすることができました。イギリス軍は近くの要塞に逃げ込みましたが、食糧
  がないため長く籠城することができず、降伏してきました。

    こうして、1436年4月17日にパリはフランスの手に戻ってきました。

    その後両国の間に大きな戦いは無く、1444年にはヘンリー6世とフランス王
  妃の結婚があったため、これを祝して休戦が締結されました。
    しかし、1449年にイギリス側で働いていたフランソワ・ド・シュリエンヌが
  ノルマンディーのフージェール城を奪取したことにより休戦は破棄されることになっ
  てしまいました。シャルル7世はすぐに強力な大砲を配備して新たに編成した軍隊
  を動員し、1449年7月、ノルマンディ地方への攻撃が開始されました。

    フランス軍は奇策を用いてルーアンの南15キロにあるポン=ド=ラルシュの城
  を取り返しました。そして、シャルル7世は8月以降みずから軍の先頭に立ち11
  月にはルーアンへ攻撃を開始しました。イギリス人総督サムシットは人質の引き渡
  しと幾つかの要塞の引き渡しを条件に町を無事に去ることを認められました。サム
  シットはイギリス軍の再結集を試みましたが、すでにイギリス軍はノルマンディで
  は幾つかの小島を形作っているだけでした。フランスは徐々にノルマンディの各地
  を取り返していきました。

    イギリスは大陸での勢力を戻すため援軍を送りました。この援軍はヘンリー6世
  が相当な苦労をし、王冠の宝石を売ってまで集めた援軍でした。新しいイギリス軍
  到着の知らせを聞いたフランス軍はそれを迎え撃とうとしましたが、敗走した上に
  極めて不利な立場に追い込まれてしまいました。そこへ、リッシュモン元帥の援軍
  が到着し、フランスは形勢を逆転することができました。
    そして、1450年4月15日フランス軍はフォルミにでイギリス軍に完勝とも
  呼べる勝利をあげることができました。

    この日、長かったフランスとイギリスの戦いはこの日事実上の終りを向かえまし
  た。



前ページへ 目次へ 歴史の部屋へ トップページへ ご意見、ご感想はこちらまで