5.ジャンヌ・ダルク


  (4)火刑

    8月に結ばれた休戦条約は、講和会議が4月に行われるという事で3月15日
  まで延期された。しかし、ブルゴーニュ候は講和会議にはいるための準備がある
  等の理由をつけて日取りを絶えず送らせ続けていました。しかし、ブルゴーニュ
  候は、すでにシャルル7世と講和を結ぶつもりはなく、すでにシャンパーニュ地
  方へ軍事行動を行っていた。

    この頃フランス各地では、ブルゴーニュ候に対する抵抗運動が各地に広がって
  いました。パリでも民衆たちの大規模な抵抗運動が計画されていたが、連絡役を
  していた者が捕まり計画が漏れ、多くの人たちが捕まりそのうち6名が公開処刑
  され、残りの者はセーヌ側に投げ込まれました。

    コンピエーニュの町はブルゴーニュ候に対して抵抗姿勢の強い町の一つでした。
  ブルゴーニュ候は休戦条約を結ぶときにコンピエーニュへ自分達の味方になれ、
  と使者を送りましたが、これを拒否しました。
    そこでブルゴーニュ候は、これらの町を武力で持って押さえるべく、4月4日
  にジャン・ド・ルクサンブール伯が先発隊を、4月22日にはブルゴーニュ候が
  全軍を率いて出発しました。この時点でもシャルル7世はブルゴーニュ候には講
  和条約を結ぶ意思があるものと思っていました。
    5月6日にはコンピエーニュの北にある要塞が何の抵抗もせずにブルゴーニュ
  軍に降伏しました。そして、次にエーヌ川の渡河地点にあるショワジの要塞を攻
  囲し始めました。このころ、やっとシャルル7世はブルゴーニュ候に講和する気
  が無く、だまされていたことに気付き、ブルゴーニュ候と再び戦うことを決意し
  ました。

    しかし、綿密な計画を立てて行動を起こしたブルゴーニュ候に対し、シャルル
  7世には何の準備もありませんでした。有能な部下は、シャルル7世自身の手で
  遠くへ追いやられたり、失脚させられたりしていたため、シャルル7世が頼れる
  のはジャンヌ・ダルクしかいませんでした。

    ジャンヌ・ダルクが出陣したという情報はあっと言う間に広まり、ブルゴーニュ
  兵やイギリス兵たちの間では大騒ぎになりました。

    5月14日にジャンヌはコンピエーニュの町に到着しました。そして、コンピ
  エーニュの守備隊長の弟が指揮をとるショワジの救援作戦に参加しました。しか
  し、ショワジの要塞はブルゴーニュ軍が運んできた強力な大砲の前になす術が無
  くコンピエーニュに撤退しました。

    5月23日、ジャンヌはコンピエーニュ守備隊長と共同で町の北側のマルニに
  あるブルゴーニュ軍の陣地へ奇襲をかけることにしました。日中はその準備に追
  われ、午後4時頃出陣しました。

    これが、ジャンヌの最後の出陣となりました。

    マルニへの陣地への奇襲は成功するかに見えました。しかし、一度は散り散り
  になった、ブルゴーニュ兵は徐々に立ち直り、コンピエーニュの部隊の攻撃を耐
  え凌ぎました。このマルニの陣地の騒ぎに、前線を視察していたルクサンブール
  伯が気づきました。そして、クレロワと言うところに待機させていた部隊に伝令
  を出しました。クレロワの部隊はすぐにマルニの救援に駆けつけました。また、
  クレロワだけではなく他の場所に待機していた部隊も駆けつけました。

    敵の救援部隊に気づいたコンピエーニュの部隊は、退却を始めました。常に前
  線で戦っていたジャンヌもやむなく後退し、味方の退却を援護するかたちになり
  ました。
    町の入り口にある跳ね橋の辺りでも激戦が繰り広げられていましたが、敵が橋
  を渡って町に入ってくるのを見たコンピエーニュの守備隊長はいそいで跳ね橋を
  上げ、城門をとしてしまいました。そして、ジャンヌとわずかの部下達は、敵の
  包囲の中に取り残されてしまいました。それでも、ジャンヌは戦い続けましたが、
  ついにブルゴーニュ軍に捕らわれることになってしまいました。

    捕虜となったジャンヌは最初ボーリューの城に幽閉されていましたが、ここで
  脱走を試みようとし、失敗しました。そして、その後ボールヴォワールの城へと
  移されました。

    ジャンヌが捕らわれてからボールヴォワールの城へと移される間、彼女の身柄
  を確保しようと熱心に活動していたのはパリ大学の神学者と教会でした。かれら
  はパリの異端審問官の名においてジャンヌの身柄引き渡しを要求しました。しか
  し、ブルゴーニュ候はジャンヌを使って多額の身代金を得ることを考えていたた
  めその要求にはなかなか応じませんでした。
    そこで、元パリ大学の総長だったピエール・コーション司教はヘンリー6世と
  ベッドフォード候のいるカレーに出かけジャンヌを引き取るための身代金をきめ
  る会談を行いました。教会は多額の身代金を出すことが出来ないためイギリスの
  力を借りようとしたのです。身代金は6000リーブルとし、条件次第では1万
  リーブルまで支払うことに決まりました。
    その後、コーション司教はコンピエーニュへと出向き、ブルゴーニュ候と会談
  をおこないました。そして、ジャンヌはイギリスへと渡されることになりました。

    シャルル7世はジャンヌがイギリスへと引き渡されるのを聞いたときブルゴー
  ニュ候に、「ジャンヌをイギリスへと売り渡すのなら、こちらの捕虜に対しても
  同等の扱いをするぞ」と警告しましたが、それ以上のことはしませんでした。
  ジャンヌを引き取るための身代金の用意をするようなことはしなかったのです。

    シャルル7世の警告もむなしく、ジャンヌは9月末にはイギリスへと引き渡さ
  れました。

    そして、ジャンヌ・ダルクはルーアンで教会の異端審問(宗教裁判)にかけら
  れ、異端者(魔女)としてルーアンの広場で火刑に処され、19年の短い生涯を
  閉じました。


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